2 クラトスの秘密と抱える思い
書庫の雰囲気は好きだ。静謐さと秘密にあふれているようで、隠れ家みたいな雰囲気があるんだよね。
中を覗きこむと、やっぱりクラトスがいた! 空中で座椅子にもたれるような体勢をとり、熱心に本を読んでる。
私が声をかける前に、
「エリン」
こっちを向いて、ふわっとほほ笑んだ。
おお、すぐ気付かれた……。
「もう朝ですよ、博士~」
「うん、日差しが眩しい」
「徹夜は体によくないよ? ほどほどにね」
「でも、君も昨日は、遅くまで起きてただろ」
「え?」
「夜中、治療室を覗いたから。君が起きてるのに、僕だけ寝るわけにはいかない」
う、うわー……!
そっか、私のため……?
嬉しいけど、同時に申し訳ないよ!
「えっと、ありがとう。あ、でも、私は途中で寝ちゃったんだよね」
「そう。……あの子の様子は?」
「りんくんなら、元気になったよ。もう大丈夫」
脚を組んだ姿勢のまま、クラトスがふわりと降りてくる。
そして、安心したようにほほ笑んだ。
「――よかった」
やっぱり、心配してたんだね。りんくんが生意気な態度だったとはいえ、クラトスは幻獣には優しいもん。
そこで私は「あれ?」と思った。クラトスの右手は、あごに添えられている。でも、左手はローブに隠れたままだ。
え? 何かデジャブ……。
前にもこういうこと、あったよね? 忘れもしない、あの時はローブの中から腫れ上がった痛々しい指が出てきて、びっくりしたんだ。
「クラトス、左手」
「…………」
あ、ちょっと! 何で目を逸らして、上昇して逃げようとするの!?
私は咄嗟に手を伸ばして、クラトスをつかまえた。
えいや! と引っ張ると、そこが明らかになって……。
息を呑んだ。
こんなことになっているなんて、思わなかった……。
りんくんに噛まれたところ。左手首のあたりだ。
牙が食いこんだのだろう、裂傷が深い。
その傷を見て、私の胸が痛んだ。
どうしてもっと早く気付かなかったんだろう……! りんくんの見た目が幼いから、噛まれた痕も大したものじゃないと思いこんでいた。でも、私は何度も見ていた。
【マギアレープス】は狐、肉食獣だ。その牙は鋭い。
「こんな……、ごめんね……。痛かったよね……。私、すぐに治してあげるべきだったのに……」
「あの子の治療を先にしてほしかった。それだけだよ」
うん、クラトスならそう言うよね。それはわかってる。
でも……この傷、夜の間もずっと痛かったよね。その痛みが自分にも降りかかってきたかのように、私は苦しくなった。
心から、祈りを捧げる。
――早くよくなりますように。
「《ペタルーダ様の祝福を》」
優しい光が、クラトスの手首に降り注いだ。
同時に、彼の記憶が流れこんでくる。
◆ ◇ ◆
『では、己の行いを悔いてると……?』
それは天からの問いかけだった。
目の前に浮かぶのは、眩いほどの光。
人前では姿すら見せてくれない、高位の存在だ。
それは神からの問いかけ、そして、審判でもあった。
――僕が犯してしまった、大きな過ち。世界のあり方を根本から変えてしまった発明。
魔法がこの世に生まれたことで、幻獣をとり巻く環境は変わった。
この身を投げることで償えるのなら、いくらでもそうしよう。だけど、僕が死んだところで、世界は何も変わらない。
それなら……自分の血と肉が、すべて砕け散ろうとも。
僕は幻獣を助けるためだけに生きる。
その決意を胸に宿すと、目の前の光がいっそう強くなった。
『そなたの決意、空神たる我が受けとった。ここに、誓約と共に我が力を与えよう』
「誓うよ……。僕はこの身のすべてをかけて、幻獣を助ける。それが僕のできる唯一の贖罪だから」
『――いいだろう。その意志に応えてみせよ。そなたには、加護とこのクリスタルを授ける』
光の中から、クリスタルが生み出された。
まるで……神の化身であるかのように、燦然とした輝きをまといながら。
◆ ◇ ◆
そこで光景は途切れる。
今の記憶……!? クラトスが話していた相手って、まさか……?
「あのクリスタル、神様から預かったものだったの!?」
「……うん」
クラトスは理解力が高いので、私がどんな記憶を見たのか、すぐに察したようだ。こくりと頷いた。
私は今見た光景をじっくりと咀嚼する。
短い記憶だったけど、重要な情報が見えたよ。これでまた一歩、クラトスのことを知れたね。
「クラトスが空を飛べるのは、加護があるからだって……。その加護も、今の神様からもらったんだね。七神の1柱……空を司る……」
「空神アエスト」
「それじゃあ誓約は、アエスト様と交わしたんだね。秘密を他の人に話しちゃだめってこと?」
「うん」
「そっか……いろいろとわかってきちゃったよ」
クラトスが怪我をすると、私の胸も痛むし、本当に心苦しいんだけど……。
それでも、クラトスのことを知ることができるのは嬉しい。
……それに、クラトスの秘密をこうして知ることができるのって、私だけなんだよね。
もっと、もっと、私はあなたのことを知りたいよ……。
そうだ、加護だけじゃなくて、クラトスはアエスト様から他にももらっていた。展望台に浮かぶクリスタルだ。
「あのクリスタルが、神様のものだってことは……」
ずっと不思議だった。あのクリスタルは、全国の幻獣がらみの事件をお知らせしてくれる。
でも、その情報を集めているのは誰なの? ってことなんだけど。
元が神様の物なら、推理は簡単だよ。
もちろん、情報源は神様! そして、神様の下には世界中からいろんな声が届くよね。
あ、そういえば!
私がライムどりちゃんに祈ってあげた時、あの子はこんなことを考えていた。
『かみさま……たすけて……』って。
そうか、その『声』がクリスタルに届くんだ!
「わかった! 誰かが神様に祈ると、その声があのクリスタルに集まるんだ。それで、シルクはそれを読み上げてくれてるんでしょ?」
「正解だよ。幻獣関連の祈りに限られるけどね」
「そうなんだ……。うーん、それだと、ディルベルの声がクリスタルに届かなかったのも、納得……。いかにも、神頼みなんてしそうにないしね」
「うん。だから、あそこに集まる声は、いつも『主観』なんだ」
なるほど。いろいろとわかって、すっきりしたよ。
私は、へへっと笑いながら言った。
「そんなすごいものを託されるなんて。クラトスは神様から信用されてるってこと? それってすごいね」
「……そういうんじゃないよ」
クラトスの瞳には暗い影が落ちた。
「……むしろ、その逆かな……」
「クラトス……」
さっき見た記憶を思い出して、私は胸が痛んだ。
彼の心からは、後悔が痛いほどに流れこんできたから……。
いくら魔法技術を作った張本人とはいえ、そこまで自分を追いこまなくてもいいと思うのに。でも、私はきっとクラトスじゃないから、楽観的なことが言えるんだよね。
この苦しみは、クラトス本人にしかわからないものなのだろう。きっと、この先もずっと、私とはわかち合えないものなんだって考えると、すごく悲しくなった。
何もかける言葉が見つからない。すると、クラトスが頭を振って、話題を変えた。
「ところで、君、あの子を治療したんだろ? 記憶が見えた?」
「あ、うん……あのね」
そうだ、昨日のこと、クラトスには相談しておかないと。
私は燐太郎の記憶のことを説明した。妖狐の村が襲われたこと、その事件に幻獣ハンターのヒョウガが関わっていること。
ヒョウガの名が出ると、クラトスの表情が険しいものに変わる。
「人間にしては、奇妙な点が多いね。ミュリエルとディルベルの攻撃が通じない。そして、空を飛ぶことができる……」
「クラトスと同じように、ヒョウガも神様の加護を持っているということ?」
「その可能性は……低い気もするけど。七神の本来の姿を思い出して」
「あ、そっか……! ペタルーダ様の正体は、蝶々の幻獣だったね。七神はみんな、幻獣の神様なんだ」
ってことは、幻獣をいじめるような悪い人に、力を貸すわけがない。
クラトスが考えこむようにしながら、ぽつりと呟く。
「……あるいは、その男は『人間』ではないのかも」
「え……そんなこと……」
それこそ、論理が破綻してるよ!
だって、幻獣が幻獣ハンターになるなんて……そんなこと、ありえる?
「……今の段階では、推測の域を出ない。とにかく話を聞く限り、その男はとても危険だ。今後、もし接触することがあれば、エリンは真っ先に逃げて」
私は言葉に詰まった。
それでまた1人……クラトスだけが、傷つくの?
私には、クラトスの本当のつらさも、後悔も、理解することはできないかもしれない。
それでも、クラトスが傷ついたら私は嫌だ。その気持ちだけは確かなんだ。
「うん……。あのね、クラトスの邪魔になるのなら、もちろん、身を隠すけどね? 私、これでもけっこうお買い得な聖女だよ? だって、クラトスが危ない目にあった時、怪我を治してあげられるんだから」
こういう時、へらへらと笑うことしかできない自分が嫌になる。
こんな笑顔で、クラトスの思いつめた心を解きほぐすことは、無理なんだってわかってる。
私はそっと手を伸ばして、クラトスの左手首に触れた。深く傷ついていた箇所、今では痕も残らず、綺麗になっている。
「いつもみんなを守ってくれてありがとう。でも、私もクラトスが傷つくところを見たくないよ……」
「…………僕は……」
クラトスが何かを言いかけた、その時。
「エリン、遅いぞー!」
ああ、燐太郎が迎えに来ちゃった……!
そして、人に見られたら、今の光景は何だか恥ずかしい! 私はパッとクラトスから離れて、距離をとった。えへへ、と照れ笑いする。
すると、クラトスが私の顔を見て、やんわりとほほ笑んだ。