07
デール・セネットは、愚かな男だった。
王立研究所の冴えない下っ端研究者だった彼は資産家のタナー氏に見いだされ、彼から資金援助をしてもらうことになった。だがデールはもっさりとした冴えない男で、性格にも難がありまくりだった。
十九歳の秋にタナー氏の被支援者になった彼は、二十歳の春にタナー家の一人娘であるユーフェミアと会うことになった。
だが研究以外に全く興味のない彼は、わざわざ高等学校の寄宿舎から実家に帰ってきてくれたユーフェミアに対しても、『僕はあなたに関心も興味もない』などと言い、非常に冷たい態度を取った。
強気なユーフェミアは当然怒り、「もう二度とあなたになんか会いたくない!」と怒鳴って学校に帰ってしまった。タナー氏は娘とお気に入り研究者の初対面が散々だったことに頭を悩ませていたが、別にあんな小娘のご機嫌取りなんてする必要がないと思ったデールは特に気にせず、研究に没頭することにした。
だがその年の初夏に、タナー氏が肺炎をこじらせて病床についた。なかなか回復の兆しはなく悪化するばかりで、娘のユーフェミアも学校を休んで看病していた。
しかし特効薬も見つからないままタナー氏は衰弱していき、とうとうあと三日も保たないと診断されてしまった。ユーフェミアは父にすがってずっと泣いており、さしものデールもユーフェミアのことを思いそっとしておいた。
だがタナー氏はデールを呼び、こう言った。
『私はもう、長くない。私の財産はすべてユフィのものになるが、あの子はまだ子どもだ。賢く強い子だが、欲深い者に狙われかねない。どうか君が、あの子を守ってくれないか』
タナー氏が望んだのは、娘とデールの婚約だった。
二人が結婚すれば、タナー氏の死後、遺産は娘夫婦のものになる。ユーフェミアは十八歳になるまで結婚できないので、それまでの約半年間は法律に則りユーフェミアの婚約者であるデールが管理し――守ることができる。
デールは、即答できなかった。ユーフェミアと結婚するのが嫌というのではなくて、自分みたいなもっさりとした社会不適合者が資産家の令嬢を娶るなんてとんでもないことだったからだ。
だが話を聞いたユーフェミアは涙で濡れた目でデールをにらみつつも、うなずいた。
『それが、お父様の願いなら』と言って。
デールとユーフェミアは、ユーフェミアが十八歳になった日に結婚するという約束をした。そして婚約宣誓書を役所に提出した翌日、タナー氏は安らかな顔で亡くなった。苦しみながら死んだのではないというのが、不幸中の幸いだったのかもしれない。
その後、ユーフェミアは高等学校を二年時で中退した。父の死により他の被支援者に資金援助をすることができなくなってしまったが、皆はユーフェミアの境遇に同情し、「自分たちはこれから頑張っていけるから、大丈夫」と言って、支援金の一部をユーフェミアに返した。
年が明け、ユーフェミアが十八歳になった日に二人は結婚した。
だがその日から、デールは屋敷に帰らなくなった。
デールは何かに取り憑かれたかのように、研究に没頭した。彼が尊敬していたタナー氏の命を奪った病の解明にいそしみ、その特効薬を探した。
自分には、これくらいしかできない。これくらいしか、能がないと思っていたから。
幸い、ユーフェミアのもとには潤沢な資金がある。彼女は自分でも商才がないと言っているので、父親のような商売はできないようだが……それでも、父親の遺産で十分暮らしていける。そしてデールの研究が大成すれば、ユーフェミアに還元することができる。
人間として足りないところがたくさんある変人研究者は、そのような形でしか妻に報いられないと思っていた。こんなもっさりとした自分が近くにいればユーフェミアは不快だろうから、なるべく屋敷に戻らずひたすら研究に打ち込んだ。
ユーフェミアはデールと話をしたがっていたが、自分では彼女を怒らせるか悲しませるかしかないと思っていたデールは、妻を避けた。何度か寝室に妻が来たことがあったが、あれこれ言い訳をして追い返した。
デールが二十代後半くらいの頃に一度、しびれを切らしたらしいユーフェミアが可愛らしい寝間着姿でベッドに入ってきたことがある。そして、「私もいつまでも、若くないから」と懇願するように言われた。
ユーフェミアは、デールに近づこうとしてくれている。冷え切った心を温めようとしてくれている。
それなのに……デールは彼女を拒絶した。
『僕はあなたと、そういうことをするつもりはない』
『あなたは若くて美しいから、もっと他の男と一緒になるべきだったんだ』
『今からでも遅くないから、恋人を作ればいい』
『もし僕の知らない間にあなたに子どもができたとしても、責めたりしない。ちゃんと僕の子として認知する』
後で思えば、とんでもない暴言で、ユーフェミアに対する侮辱だったと分かる。
当然ユーフェミアは怒り、デールをぼこぼこに殴り倒してから泣きながら寝室を出て行った。それ以降、妻が誘ってくることは一度もなかった。
これでいい。
これならユーフェミアは、デールなんかよりずっといい男を恋人にできる。
そしていざとなれば、彼女の方から離婚を申し出てくれればいい。もし離婚だと言われても、デールは素直に命令に従う。
もし彼女を守ってくれる男性が現れたのならその時点で、デールが亡きタナー氏から託された願い――「ユーフェミアを守ること」は果たされるのだから。
デールは、あちこちの国を回った。何年も、国に帰らなかった。
そうしてついに、かつてタナー氏を死に至らしめた肺炎に効く多肉植物を得て、嬉々として国に帰ったのだが……そこで彼を待っていたのは、ユーフェミアの全身が発疹まみれになっており、病院に入院しているという事実だった。
デールは、世話係の中年メイドに思いっきり顔を叩かれた。
『旦那様が不在の間、奥様がどのようなお気持ちでいらしたか、分かるのですか!?』
『奥様はただの一度も浮気をなさらず、ひたすら旦那様のお帰りを待ってらっしゃいました!』
『いつ旦那様が帰ってきてもいいように、毎日旦那様の食事をお作りになっていた奥様のお気持ち……あなたに想像できるのですか!?』
メイドにぼこぼこにやられてから、デールは病院に向かった。ユーフェミアは全身に包帯を巻いていたが、それ越しでも分かるほどひどい発疹と出血があった。まだかろうじて、息はあった。
看護師に促され、デールは命の灯火が消えようとする妻の手を握った。
『ユーフェミア……すまない。僕は、あなたを悲しませてばかりだった』
『僕を許さなくていい。うんと恨んでくれ。僕もすぐに、後を追うから』
そこまで言った瞬間、ぐったりしていたユーフェミアのまぶたが開き、包帯の隙間から見える唇が『お馬鹿』とささやいた。
『……後を追ったら、絶対に許さない』
『ユーフェミア――』
『ねえ、最期なんだし、もっと楽しい話をしましょうよ。……私ずっと、あなたとおしゃべりがしたかったのよ』
ユーフェミアが、かすれた声で言う。ちらっと看護師を見ると、うなずかれた。もう長く保たないからユーフェミアの願いを叶えてやってくれ、という意味だった。
デールはユーフェミアの望むように、たくさん話をした。自分は口下手だと思っていたのに、妻に請われると話したいことがどんどん溢れてきた。
ユーフェミアは時には「素敵ね」と笑い、時には「馬鹿じゃないの」とあきれ、時には「何それ!」と怒った。
話しながら……デールは、涙が止まらなかった。
ユーフェミアはずっと、こういう時間を求めていたのだ。
それなのに、「自分はいない方がいい」と勝手な判断をしてユーフェミアを拒絶したのは、自分だ。対話やふれあいを求めてくれるユーフェミアを突き放したのは、自分だ。
ごめん、と泣きながら何度も言うデールを、ユーフェミアはあきれたように見てきた。
『泣いても、謝っても、過去には戻れないのよね』
『すまない……本当に、すまない、ユーフェミア……!』
『もう、だから泣かないってば。でも……そうねぇ。じゃあ、約束して』
そう言ってユーフェミアは――笑った。
包帯越しでもはっきり分かるほど、彼女の笑顔は美しかった。
『もし人生をやり直せるなら、今度こそ私と向き合って』
『ユーフェミア……?』
『ねえ、約束して……。人生をやり直したり、生まれ変わったりできるなら……すぐに、私を探し出して。それで、今回、あなたが後悔していることを……すべて、やりきって』
『僕が、後悔していること……』
デールは目を瞬かせ――そして、しっかりとうなずいてユーフェミアの手を取った。
『分かった、約束する。もう僕は君を死なせないし、君を悲しませたりしない。ちゃんと、すぐに迎えに行くから……!』
『……ふふ、ありがとう。約束、だからね……』
ユーフェミアは微笑み――小さなあくびをしてから、目を閉ざした。
デールはずっと、妻の手を握っていた。やがてその手から力が完全に抜け、体が冷たく硬くなり、様子を見に来た看護師が真っ青な顔で、『もう奥様は亡くなっています!』と言われてもなお、握り続けていた。
ユーフェミアの死後、デールは目標を立てた。
それは、タナー氏を死なせた病の特効薬を探し出したのに続き、妻が罹ったあの病を治す薬を探すことだ。
デールは、あの病はきっと植物性の毒が原因だろうと予想を立てていた。植物なら、自分の領域だ。何が何でも薬を探し出すと決めた彼は、妻から譲り受けた遺産を使って世界中を旅した。
そうして……五十歳近くになってやっと、異国の湿地帯に生える植物が毒の原因であり、その植物と同じ場所に生息する別の植物が薬になることを突き止めた。
すでにあの病は多くの者の命を奪っている。すぐにデールは国に帰り、植物の汁の効果について発表した。
たかが植物の汁で治るのか……と半信半疑だったが、そのとき罹っていた患者は皆、デールの持ち込んだ植物の汁により快癒した。
皆は、デールのことを救世主と呼びあがめた。是非とも主席研究者に、是非とも隣国王族のお抱え研究者に……というすべての誘いを、彼は断った。
そして王立研究所研究者の仕事も辞し、残った財産はすべて国に寄付してからひっそりと隠遁生活を送ることにした。
たとえどれほどの栄光を授かろうと、死んだ者は戻ってこない。
デールは自分が苦しめ傷つけてきた妻に償いをしながら過ごし……やがてひっそりと息を引き取った。
そうして一度目の生涯を静かに終えたデールだが、気がつくと彼は十九歳の春に戻っていた。
これは何かの奇跡か、夢か……と思ったが、現実だった。タナー氏は健在で……しかも二週間後には、ユーフェミアと挨拶することになっていた。
デールは、一度目の人生で妻と交わした約束を守らなければならない。
ユーフェミアを迎えに行き、たくさん話をする。
そしてすでに頭の中にある知識を存分に活用し、タナー氏を死の運命から助け出す。
そして……たとえユーフェミアがまたしてもあの病に冒されても、必ず救ってみせる。
そうすると、ユーフェミアと自分が結ばれる未来がなくなるだろうが……それでいい。それがいい。
たとえ一度目の記憶があったとしても、自分ではユーフェミアを幸せにすることはできない。せめて今回はユーフェミアを守り、彼女が幸せな結婚ができるように支えるだけだ。
そんな願いを胸に――デールは二度目の人生を歩み始めたのだった。




