01
父から「とある将来有望な研究者の援助をすることにした!」という知らせが来たのは、ユーフェミア十六歳の秋のことだった。
ユーフェミアの実家は裕福な商家で、父はあちこちの若手芸術家や研究者などに出資して活動を援助している。ユーフェミアからすると「なんでそんな人に……」と言いたくなるような人選ばかりだが、なかなかどうして父は先見の明があったようだ。
父からの金銭的支援を受けた若者たちの多くは才能を伸ばし、無限の可能性の広がる世界へと羽ばたいていった。そして、「若い頃に世話になったから」ということで、支援した金額以上の金を返してくれる。中には、恩を仇で返してとんずらした者もいるが。
ユーフェミアにとっては子どもの頃から、実家の屋敷に家族でも使用人でもない大人がいるのは当たり前のことだった。彼らは皆父の支援を受けており、ユーフェミアのことも「お嬢様」と慕ってくれた。
慕われるのは、悪くない。遊び相手になってくれたし、勉強を教えてくれたりもした。男性だったら「金持ちのお嬢様」であるユーフェミアのボディーガードになってくれたし、女性だと姉のようにかわいがり一緒に買い物に行ってくれたりもした。皆例に漏れず、変人だったが。
とはいえ、実の娘であるユーフェミアより彼らの方が父に愛されていると思うと、面白くなかった。
だからユーフェミアは十五歳で初等女子学校を卒業した後、全寮制の高等学校に進学した。実家からの距離は馬車で三十分ほどではあるが、将来有望なお兄さんお姉さんたちがよく訪れる実家にいるのは嫌になる年頃だったため、悲しそうな顔の父親を説得した。
この国もかつてはひどい貴賤格差があるのが当たり前だったそうだが、今は平民でも官僚になれるし、逆に落ちぶれた元貴族が平民に混じって細々と生活していたりする。国を治める国王は、優秀な者であれば身分を問わず採用し、いくら高貴な血を引いていても役に立たないのであればあっさり左遷する方針のようだ。
ユーフェミアは、「本人の才能は微妙だが、商才のある父を持つ資産家の娘」という立場だと思っていた。だが実家を離れて生活すると、自分は突き抜けた特技はないものの勉学の成績は優秀だし、皆からの信頼を集めやすい人間なのだと評価してもらえた。
(もう、このまま悠々自適生活を送れたらいいや。十八歳で学校を卒業したら先生の推薦を受けて、仕事をしよう。それもできるなら、お父様とは全く関係ない職種がいいわね)
そんなことを考えていたユーフェミアのもとに、父から届いた手紙。それを開いたユーフェミアは、中身を見てげんなりしてしまった。
(また新しい被支援者を見つけたのはもう、好きにすればいいけれど……よりによって、研究者!? ハズレが出やすい職種なのに……)
ユーフェミアが嫌な気分になるのは……これまでに父の支援を受けながらも、「やっぱ何も生み出せませんでしたー。あ、お金は返しませんからね!」と逃げた者たちが皆、研究者だったからだ。
もちろん研究者の中にも、それなりの成果を出して還元してくれた者もいる。だが他の職種と比べて研究者は、やたら逃げやすい。彼らの仕事が成果の現れにくいものだとは理解しているが……せめてこれまでにかけた金の半分でも返せばいいのに、とユーフェミアは憤っていた。
それなのに、父はまた懲りずに研究者を支援するという。未成年の子どもに過ぎないユーフェミアに文句を言う権利はないが、ますます家に帰りたくなくなってきた。
(でもお父様のことだからどうせ、「一度くらいは顔を見せてあげなさい」って言うのよね。……できるかぎり、のらりくらり逃げてやろうかしら)
幼少期に母を亡くしたユーフェミアを男手一つで育ててくれたことには感謝しているしその商才にも敬服するが、口説く相手はもう少し精査してほしいというのが娘としての願いだった。
ユーフェミアは楽しい高等学校生活を送っていたが、十七歳の春にとうとう「研究者の彼に会いに来てくれ」と父からの手紙で懇願された。
「えっ、本当に会いに行くの?」
「仕方ないわ。どうせもうすぐお父様の誕生日だし、クラブ活動を理由に新年にも帰らなかったのだから、いい加減顔を見せないといけないわ」
ルームメイトにそう言うと、彼女は「それはそうだけど……」と渋い顔になった。
「その研究者って……あれでしょ? 植物学研究のエリートだけどとんでもない変人っていう」
「ええ。デール・セネット――私も最初その名前を聞いたときは、とうとうお父様の先見の明も曇ったかと思ったわ」
現在父がご贔屓にしている研究者の名前は、デール・セネット。
セネット家は三百年ほど前までは王妃を輩出したこともある公爵家だったが、貴族制度が衰退することで栄光を失った。今ではセネットの家名を持つ者も稀で、むしろデールが王立研究所の研究者として城で働くようになってから、「まだセネット家の血筋の者が存在していたのか」と言われたくらいだという。
そんなデール・セネットは王立研究所で働けるくらい頭脳は優秀なのだが、その方向性がどこかおかしいそうだ。
植物学を専攻する研究者だからか、草ぼうぼうの場所に一日中立ち尽くしていたり、食虫植物の研究のためといって消化液まみれの捕虫袋の中に顔を突っ込んだり、地質の研究のためといって土の中に埋まったりといった奇行が確認されている。
最初、父からデール・セネットの名を聞いたとき、ユーフェミアは好奇心ゆえその名前を調べて――挙げられた数々の奇行歴を目にして、頭を抱えてしまった。なぜ父はこんな目に見えるような地雷物件に投資をしようと決めたのだろうか。
ユーフェミアの言葉に、ルームメイトは難しい顔のまま考えるようなまなざしになった。
「……整えればつややかだろう赤髪をぼさぼさに振り乱して城内を練り歩く変人で、分厚い眼鏡を装着しているため目の形がはっきりしていない。不潔……とまではいかないけれど全体的にもっさりしていて、同僚の研究者でさえ近寄りがたいと思っている、とのことね」
「あはは、詳しいのね」
「ユフィが散々愚痴るんだから、私も気になって調べてみたもの」
「アンジーのお父様は、城で働かれているものね」
ユーフェミアは苦笑して、バッグを肩から提げた。今回の実家帰りは一泊だけにする予定だし衣類はあちらにあるので、持っていく荷物は最低限の身だしなみ品と財布くらいだ。
「じゃ、明日の一時間目には間に合うように帰るわ。今晩と翌朝の監督だけ、よろしくね」
「気にしないでよ。いつも私がユフィに頼ってるもんね」
アンジーはそう言って、朗らかに笑った。
ユーフェミアとアンジーはどちらも二年の監督生で、同級生たちの生活指導や寄宿舎棟の見回りなどをしていた。いつもは二人で仕事をするのだが、今晩から明日の朝にかけてはアンジーに任せることになる。
(アンジーへのお土産に、お菓子でも持って帰ろうかな。きっとお父様がいつものように、戸棚の奥に高級菓子を溜め込んでいるから――あら?)
寄宿舎を出たところで、ユーフェミアは裏門の近くに人だかりができていることに気づいた。ざっと見たところ、今年の新入生である一年生の女子生徒たちのようだ。
(何かしら……?)
今はもう授業は終わっているので、学校の敷地内を下級生がうろうろしていても注意する必要はない。だが、もし悪巧みをしているのならば話は別だ。
こほん、と咳払いをして、ユーフェミアは彼女らが集まる広葉樹のもとに向かった。皆は木の下に団子状態になり、何やら興奮したような声を上げていた。
「ごきげんよう。……皆、このような場所で何をしているのですか?」
ユーフェミアが声をかけると、一年生たちはさっとこちらを見た。そして、ユーフェミアの制服の胸元を飾るバッジが二年監督生を表すと分かったようで、すぐに真面目な顔になった。
「ごきげんよう。……あちらの方に素敵な方がいらっしゃるので、つい皆で見ておりました」
「そうですか。……しかし、相手のお方はあなたたちが陰から見ていることに、気まずさを感じるかもしれません。その点を、よくお考えなさいね」
ユーフェミアが優しく注意すると、一年生たちは「かしこまりました」「ご忠告に感謝します」と言って、その場を離れ――少し離れたところからまた、じっと門の方を見やった。上級生の注意を受けたとはいえ、気になるものは気になるのだろう。
(……といっても、あっちにうちの馬車以外に誰かいるのかしら……?)
一年生たちから門の方に視線をやったユーフェミアは――ゆっくり、瞬きをした。
門の前には、見慣れた実家の馬車が停まっている。御者台には父が雇っている中年の御者がおり、ユーフェミアを見ると帽子を外してお辞儀をした。
彼がいるのは、なんらおかしなことではない。問題は――
(……なんか、知らない美形がいる。その美形が、うちの馬車の前にいる……)
おそらく先ほどから一年生たちが熱いまなざしを注いでいただろう、若い男。
髪は夕日を浴びて淡く輝く銅色で、前髪を上げて後ろ髪を後頭部で一つに括っているため顔立ちがよく見えた。男らしいラインを描く眉の下にはきりりとした双眸があり、引き結んだ唇からはどこか緊張しているかのような感情が伝わってくるようだ。
着ているのは、ぱりっとした黒のジャケットとスラックスに、しゃれたブラウス。いわゆる従僕のお仕着せというやつで、彼自身背が高くて顔立ちが整っていることもあり、非常に様になっていた。
(まさかあの人、うちの使用人……? お父様、従僕はいらないって言っていたのに雇ったのかしら)
従僕は、見目麗しい若い男が採用される。だが投資は好きだが無駄遣いは嫌う父は「うちに従僕は必要ない」と言って、雇わなかった。なお、父は基本的にケチだが使用人への金払いは惜しまないし気っ風もとてもいいので、メイドや御者の他、町の者たちからはとても慕われていた。
そんなことを考えながら従僕らしき青年のもとに、足を進める。相手の男もユーフェミアに気づいたようで、顔を上げ――なぜか、その目元が少し潤んだように見えた。
「私はタナー家のユーフェミアです。あなたはうちの従僕かしら?」
ユーフェミアが声をかけると、青年は何度か深呼吸したようだ。そして――ふわりと微笑み、きれいなお辞儀をした。
「……お会いできて光栄です、ユーフェミアお嬢様。わたくしは本日、お嬢様のお迎えに上がりましたが――従僕ではありません」
「……では、どちら様?」
「デール・セネットと申します。……お嬢様にご挨拶できる日を、心よりお待ちしておりました」
青年はそう言って、とても嬉しそうに微笑んだ。美青年の笑顔を真正面から向けられると、ユーフェミアもつい照れてしまっただろう。……いつもなら。
(……え? デール……ええっ?)
「あ、あなたが植物研究者の、デール・セネット?」
「おっしゃるとおりです。旦那様から支援を受けながら植物研究をしております。はじめまして、どうぞよろしくお願いします、お嬢様」
変人研究者として有名なデール・セネットはそう言って、きれいに微笑んだ。