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水嶺のフィラメント  作者: 朧 月夜
◇ 第二章 ◇ 
8/20

[8]謎めいた泉

 水を掻く音だけが辺りに響いている。身近な光はメティアが小屋からくすねてきた小さなオイルランプのみだ。

 二人は岸辺に着けてあった小舟に揺られていた。両手でパドルを操っているメティアのため、店主が差し入れてくれたパンを食べさせてやるのは、アンのお役目である。


「ん~! 腹いっぱいっ、あたいはもう十分だから。アン、もっと食べとけって」

「あら、メティアったら意外に小食なのね?」


 そう言いながら、アンはメティアの口にもう一切れを突っ込んだ。パンの所為なのか憤慨したからなのか、メティアの頬がプゥッと膨らみ、アンは思わず笑いを噴き出す。思い出されたのは、怒った時のフォルテの顔だ。戻った兵たちから状況を聞かされたフォルテは、一体どのような表情をするのだろう? 目の前のメティアのように頬を膨らませるだけなら良いのだが……。


「「腹が減っては(いくさ)が出来ぬ」って言ったのはアンじゃないかっ、王宮に着いたら食ってる暇なんてなくなるんだ。今の内に腹ごしらえしときなって」

「ええ……ありがとう」


 メティアの心配に感謝の笑顔を向けつつ、アンは自分のためにパンをちぎった。


「なぁ……この川って王宮に続いてるんだよな? 段々街明かりから離れちまってる気がするんだけど……」


 メティアの背後──下ってきた方角には、家々の照明や街灯が遠く(かす)んでいるが、アンの背後──黒々とした流れの先は、何も見通せない闇であった。川幅も徐々に広がり、華やかな王宮が近付いているとは思えぬ雰囲気だ。


「王宮は水車小屋よりも川上よ。あたしたちが向かっているのは東部の湖畔。其処に秘密の入口があるの。随分前にレインに教えてもらったきりだから、今もあるとは限らないけれど……」


 堅強に守られた王宮を正面突破出来るなど、アンもハナから考えてはいない。唯一レインとアンだけが知るあの入口に、運命を賭けることしか思いつけなかった。


「秘密の入口って、王宮へのか?」

「そう……それは二手に分かれていて、片方は王宮へ、もう一方はナフィルの国境へ向いているの。その境界であたしはレインと出逢った」

「わぉ! 随分とロマンチックな話じゃないか」


 珍しくメティアが食いついたこともあり、アンは微かにはにかみながら、レインとの出逢いを切り出した──。







 それはアンが三歳の誕生日を迎え、レインはまもなく五歳という頃であったと思われる。


 アンは宮殿の広大な庭園で、まだ十代半ばのフォルテと遊んでいた。暖かな陽射しが園内に降り注ぎ、周期的に地面に撒き散らされる水は、陽光に照らされてキラキラと輝いていた。時折小さな虹も現れて、幼いアンは興奮気味に駆け回った。お陰で喉がカラカラに渇いてしまい、「此処を離れないでくださいね」とフォルテにたしなめられて、飲み物を持ってきてもらうまで大人しく待っていた──そんな数分のことだった。


 芝生にちょこんと座り込んだアンを、大きな大きな影が覆ったのだ。驚いたアンはその(ぬし)を見上げたが、今でも顔は思い出せない。強い日光の所為で、影はとても濃い暗がりだった。けれど不思議と恐怖は感じなかった。見えない何か、惹きつける何かを、子供心にアンは感じたのだった。


『おいで、アンシェルヌ。君にステキな友達を紹介しよう』


 顔を上げたまま固まっていたアンに、腰を屈めた影はそう言って手を差し伸べた。その時呼ばれた自分の名に、どうしてあれほど心震わされたのか? そして「友達」という魅力的な言葉に、アンは自然と小さな手を差し出していた。柔らかく握り締めた大きな掌は、父王のような厚みと温かみがあった。


「その人に連れられて、あたしは宮殿の西の端、もう使われていない古い階段を降りて、深い深い地下室へ行ったの。その人が西側の石壁に触れた途端、壁面が生き物みたいにクルリと回転して、その先には長い地下道が続いていた。くぐり抜けると今度は洞窟が広がっていて、本当に驚いたものだったわ」


 アンは懐かしそうに語ったが、まだ三歳と少しばかりの記憶なのだ。そんな遥か遠い昔でありながら今でも鮮明な詳細と、あわや誘拐事件ともなりそうな驚愕の事実に、メティアはついぞ声もなく眼を見開いてしまった。


 城の西部に隠された不思議な空間は、岩に囲われていながらほんのり明るかった。右手半分は澄んだ水を湛えていて、左半分には真っ白で細かな砂が敷き詰められている。しかし見通せる奥までのちょうど中間に、まるで牢獄のような鉄格子が天井まで貫かれていた。それは端から端までずっと巡らされていて、見れば水の底までも深く刺し込まれているようだった。


『アンシェルヌ、喉が渇いたのだろう? この泉の水は美味しいよ』


 そうして影は岸辺に寄り、胸元から取り出した綺麗なグラスに水を(すく)い入れた。繊細なカッティングの美しさと、甘みすら感じるほどの透明な液体に、アンはどれほど感動したか知れない。もう一度飲みたいと思って岸に駆けてゆき、おかわりを飲み干して笑顔で振り返った時、けれどその影はあたかも闇に溶けてしまったかのようにすっかり消え去っていた。


「突然独りにされてしまったあたしは、怖くてもう動くことすら出来なかった……グラスを握り締めたまま、濡れてしまうことも構わずにしゃがんで泣き出してしまったの。しばらく大声で泣いていたのだと思うわ。そうしたら洞窟に反響するあたしの声を聞いて、格子のずっと向こうから応えてくれる声がした」

「もしかして、それが?」


 静かに聞き入っていたメティアの瞳が再び見開かれ、


「そう……その人の言った「お友達」……それが、レイン、だった」

「……わぉ」


 益々大きな(まなこ)となった。


『泣かないで、キミ。迷子になっちゃったの?』


 格子まで走り寄ったレインは、優しい声で問い掛けた。途端アンは泣くのをやめ、涙で曇った両目を上げたが、レインの姿がハッキリと見えたことは今でも良く(おぼ)えている。

 サラサラと流れる淡い金色の髪、泉と同じ碧い瞳。どちらもナフィルの民にはない色彩だが、フォルテの母が読み聞かせてくれる絵本の天使に良く似ていた。水面(みなも)の吸い込んだ光に照らされたレインを、アンは天使さまなのだと思い込んだ。


『てんちしゃま、あたち、おうちにかえりたいの。あたちのおうちは、どっちでしゅか?』


 涙で震える声で何とか問い返すアン。三歳の子供には大き過ぎるグラスを抱き締めたまま、アンはどうにか立ち上がった。


『ボクは天使なんかじゃないよ。ボクの名前はレイン。キミは?』


 その時のレインは少し驚いて、少し嬉しそうに微笑んだ。天使に間違われたことが心地良かったのかも知れない。そんなレインが天使でないことに、アンはアンで驚きながら、恥ずかしそうに自分の名を告げた。


『ア、アンチェルヌ=レーゲン=ナフィルでしゅ』

『アンシェルヌ……ステキな名前だね』


 幼いアンはサ行の発音がまだ上手く出来なかった。それにいち早く気付いたレインは、アンの正式な名をちゃんと分かってくれた。


『あ、ありがと……レ、イン』


 名前を褒められたことが、よっぽど嬉しかったのだろう。アンはすっかり泣きやんで、吸い寄せられるようにレインの元へ歩み寄った。五歳に近いレインは、もちろんアンより背が高い。格子越しに腕を伸ばして、見上げるアンの頬を(ぬぐ)ってやった。その頬が赤く上気していたのは泣いた所為なのか、とある感情がアンの中に芽生えたからなのかは分からない。


『キレイなコップだね。キミがココまで持ってきたの?』


 レインもさすがにそのグラスの大きさには違和感を(いだ)いていた。


『んんん。これは、えっと~』


 あの影は一体誰であったのか? そもそも人であったのか? 色は暗くとも、もしやあの人こそが天使ではなかったのか? こんな素敵な出逢いをくれたのだから……アンは沢山のことを考えすぎて、何も説明が出来なかった。


『気にしなくていいよ。良かったらそれ、ちょっと貸してくれる?』

『あ、うん。はい、どうじょ』


 両手で差し出されたグラスを受け取ったレインは、側面を確認するようにゆっくりとグラスを回転させた。すると泉の照り返しが反射して、アンの後ろのずっと向こう、やってきた地下道を明るく照らし出したのだ。


『キミが来たのはあの道だと思うよ。ボクは一緒に行けないけれど、一人でも帰れるかい? キミが見えなくなるまで、このコップで光を当てていてあげるから』


 その言葉を聞いてアンは光の先をジッと見詰めた。更に振り返ってレインの顔をジッと見詰める。レインの笑顔はアンに勇気を与えたようだ。ややあって大きく頷く。レインも満足したように頷いて、再びニッコリと笑ってみせた。


『それじゃあね、キミ……じゃなくて、アンシェルヌ。みんなからは何て呼ばれているの?』

『アンだよ! みんな、あたちをアンって呼ぶの』

『それじゃあ、ボクもアンって呼んでいい?』

『うん、いいよ! えっと~レイン。……えっと、えっとぉ~』


 「アン」とは父王からも呼ばれる気に入った愛称だが、レインからの呼び掛けにはもっと違うニュアンスが感じられた。こそばゆいような、それでいて心弾ませるような……とにかく幸せな予感が溢れてくる。

 快諾したアンには続けて訊きたいことがあったが、何も伝えられずにモジモジとしてしまう。それでもレインは自分なりに()(はか)って、それを自分からの質問に変えてくれた。


『アンのお昼寝の時間は何時?』

『え?』


 唐突な問い掛けに驚いてしまったが、


『……い、いちじ』


 ランチを食べたら、おネムのお時間だ。


『それじゃあ明日お昼寝の時間、もし眠くなかったらガンバってまたココに来て。侍女が一緒に来たいと言ったら連れてきてもいいよ。だけど必ず一人だけね。一番仲のいい侍女の名前は何ていうの?』

『んっとね、フォルテだよ!』


 実際この時のフォルテはまだ侍女見習いであったが、此処に連れてきたいと思える人物は、フォルテ以外の誰でもなかった。


『じゃあね、アン。フォルテと一緒にまた明日!』

『うん! レイン、あちたね!! えと……あり、がと……』


 恥じらいながら俯いて、小声でお礼を呟くアン。光に導かれて地下道へ辿り着くまでの間に、何度も何度も後ろを振り返った。その先には──片手にはグラスを、もう片方の手は名残惜しそうに振り続けるレインがずっと立っていた──。







「戻ったあたしはフォルテと一緒に、フォルテの母親からこっぴどく叱られたのだと思うわ。でもフォルテ自身はあたしを怒ることなどしなかった……彼女はあたしのことが心配で心配で、もう呼吸すら止まってしまいそうだったから。帰ってきたあたしにフォルテは涙を溢れさせて、「これでやっと息が吸える!」って叫んでから強く抱き締めてくれたの。あたしを母のように真剣に叱ってくれるのがフォルテの母親で、母親みたいに愛情を込めて抱き締めてくれたのは……後にも先にもあの時のフォルテだけだったと思うわ」


 アンは感慨深く瞼を閉じて、想い出の中の「あの時」に身を置いた。「姫さまに抱きつくなんて」とフォルテの母は娘を叱ったが、離れることを嫌がるほど心配してくれたことは、幼心(おさなごころ)にも痛切に理解出来たものだ。


「……レイン以外は、だろ?」


 が、ポツリと一言、メティアの(ささや)きが、一瞬の内に現実へと引き戻す。


「……そう、ね」


 僅かに開いた視界が、掌に残された数欠けのパンを捉えて、アンはためらいがちに食事を再開した。間違ったことを言えば、レインもしっかり訂正してくれた。寂しい時には格子越しに、何も言わず抱き締めてくれた。けれどそれは母親としてではない。小さな頃からレインはれっきとした愛しい異性としての対象だった。


「しかしまぁ、それにしても……フフッ!」


 水面を掻き混ぜる音が途切れ、辺りが無音に戻された一瞬。突然声を発したかと思いきや、メティアはいきなり喉の奥で笑い出してしまった。

 驚いたアンは目の前の彼女を怪訝(けげん)そうに凝視したが、


「クククゥ……ッ、幾ら三歳だったとはいえ、「あたちのおうちは、どっちでしゅか?」って~~~カワイすぎるってぇの、アン! プププッ!!」


 パドルを小脇に抱え、ついでに両手でお腹も抱えたメティアは、思い出し笑いに身悶(もだ)えていた。


「え? あっ、いえ、そんなに笑わなくても……あたしだって小さい頃は!!」

「わっ! おい、アンっ? ちょっと待っ──船の上で立ち上がるなって!! わぁっ!?」


 そうして星屑降り注ぐこの川下りは、二人にとって「最も」楽しい時間となった──。




◆次回の更新は三月十二日の予定です。

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