[5]巡り出した星 〈M〉
「フォルテ!?」
立ちはだかっていた後ろ姿が揺らめいて、一瞬の内に崩れ落ちた。アンは咄嗟に両腕を伸ばし、何とかギリギリ倒れる前にその身を受け止めることが出来た。
「メーが大変なご無礼を! ボ、ボクが介抱しますので!」
パニは振り向くと同時に駆け戻り、アンに抱えられたフォルテを引き取った。お陰で開かれた視界の先に、ヒヤヒヤと状況を見守るパン屋の店主と、そして──「メー」と呼ばれた副首長がくっきりと映り込む。
「あらあら、失神したいのはお姫サマの方でしょうに? 侍女が倒れちゃうなんてとんだ笑い話ね!?」
「メー!」
パニから諫められても、唇を閉じるつもりはないらしい。メーは「面白そうだ」という目つきでツカツカと歩み寄り、アンもその瞳と相対するために、屈めていた身体をゆっくりと起こした。
燃えるような赤毛のウェーブと、小麦色の肌に濃いめの化粧が妖艶な美女だ。レインやパニと同じくリムナトの外套を纏っているが、肩に掛けられているので全身が見て取れる。腕組みの上の胸元は露出度が高く、同性でも目のやり場に困りそうなボリュームを見せつける。ヒールの高い編み上げブーツの所為か、鼻先まで近付いたメーは、アンには見上げる必要があった。
「副首長さんですね? ナフィル国王代理アンシェルヌ=レーゲン=ナフィルと申します。この度は──」
「お姫サマのお耳は飾り物なのぉ? あたいはレインに頼まれただけだから。自己紹介もお礼もどうぞお気になさらず! で? お姫サマとあたいの愛しい愛しいレインさま~は、一体ドコへ行っちゃったワケ!?」
メーはこめかみに手を翳し、レインを探すようにキョロキョロと首を振る。薄暗くとも明らかに見通しの利く狭い屋根裏部屋だ。彼が既に居ないことは、到着したばかりのメーでもとっくに気付いている。重ねるように「お姫サマがこんな所で良く耐えてるわね」と店主にあからさまな嫌味を投げ、王女の手前怒りを抑え込んだその顔をケラケラと笑ってみせた。
アンはその様子を見て、店主に暇を与えた。手狭な空間に残されたのは、緊張の面持ちで床から見上げるパニと、その腕に抱えられたまま気を失っているフォルテ、何事かと駆けつけた侍従二人には下がってもらったので、あとは至近で向かい合うメーとアンの二人だけだ。
「レインは内密に王宮へ戻りました。今頃は政府の同志たちと、ヒュードル侯の動勢を探っている筈です。此処にはもう戻ることはないでしょう」
「あらん」
淡々と質問に答え、感情を見せないアンに、メーは露骨に不機嫌そうな顔色を見せた。
「どうしてこうも王族のお方々ってのは、常に冷静沈着を装うのかしらね? お姫サマがそんな調子だから、レインも退屈したんじゃないのぉ? あたいを抱く時のレインは、いつもの粛々とした王子サマには見えないほど情熱的だったわよ。まぁどうせお姫サマとは、「夜のお楽しみは婚姻の後に~」なんてお約束なんだろうけどね! あーヤダヤダ」
「メー、もうやめてよ!」
「うっさい! 声変わりもしてないガキが、大人のケンカに口ツッコむなっての! どうせあっちの毛もまだ生えてないんだろ!?」
せっかくパニが止めに入ったものの、メーの勢いは留まる様子もない。挙句の果てには口撃の対象を一人増やしてしまう始末だ。
「メーの意地悪! そ、それくらいはボクだって……」
「へぇ~?」
「ふ、ふふ」
「……へ?」
押され気味のパニと形勢有利なメーの間を、唐突に流れてきたのは小さな笑い声だった。二人はいざこざも忘れて気の抜けた声を上げてしまった。見れば口元を片手で隠し、もう片方でお腹を押さえたアンが、必死に笑いを堪えている。
「姫さま……?」
やっと目を覚ましたフォルテも、パニの膝の上で首を傾げた。ついにはクスクスと笑い出してしまった姫を見詰めて、三人は唖然と沈黙した。
「ご、ごめんなさい! 二人の掛け合いがとっても微笑ましくて……あたしにも姉弟がいたら、こんな風に喧嘩が出来るのかしらって……」
「内容がちっとも微笑ましくないんですけどー」
呆れたようにアンを横目に捉えたメーは、それでもようやく燃え盛る炎を治めてくれたようだった。
腕を組み直して一番近い椅子にドッカリと腰掛け、腰巻からむき出しになった太ももを色っぽく絡めてみせる。
「あんた、ちっとも堪えないのね。あたいがレインとイチャイチャしてるって自慢してるのに」
「信じていますから」
笑いを噛み殺したアンもまた、両指を胸の下で絡めて落ち着いた笑みを宿す。
パニは緊張の面持ちで二人の対局を見守り、対してようやくこの状況を把握したフォルテは、「姫さまに「あんた」とは!」と、今にもがなり立てようという寸前だった。だが、動じる気配もないアンの安穏さに、心の声を音声にすることは出来なかった。
「信じてるって? 何を?」
「レインをです」
そう断言したアンの面差しには、レインに対して一切疑いの色は有り得なかった。
揺るぎのない凛とした言動に、背もたれにしなだれたメーの眉尻がピクンと上がる。
「んじゃあ~あたいがウソついてるとでも言うのかい!?」
「メーさんにはそうせざるを得ない理由がおありなのでしょう? もしその原因がレインやあたしにあるのでしたら、心からお詫び申し上げます」
「はぁ~……」
ここまで大きな爆弾を投げつけられても、怒りも嫉妬も涙も見せなかったアンに、メーはとうとう溜息ともつかない空気を吐き出した。
「だから言ったのに……メーの負けだよ。お詫び申し上げるのはメーの方だよ!」
「メーさんがお詫びを、ですか?」
パニはフォルテをもう一脚の椅子に座らせ、悪びれもしないメーを一喝した。が、メーはアンの疑問に真っ赤な唇を歪ませて、プイっとそっぽを向いてしまう。
「アンさまの仰る通り、メーがレインさまの愛人だなんて、まるっきりの大嘘だからでございます」
「ああ!? コラッ!! あんだけ黙ってろって言ったのに!!」
倍の勢いで返ってきたメーの形相は、眉尻どころか目くじらまで立てられていた。反面アンの表情には、驚きと一緒に柔らかみが戻されたようだ。どんなに信じていると宣誓したところで、誰かの口から真相が聞かされねば、真の心の平穏など訪れないのが人というものである。
「黙って……? ではどうしてそのような嘘を?」
「メーはヤキモチを焼いたんです。レインさまがアンさまのため、ボクたちに協力を求めにきたことで。レインさまがどれほどアンさまを大切にされていらっしゃるのか、以前から知っていた筈なのに……」
「はんっ! レインのためなら何だってしてあげるけどね! どうしてあたいがレインの恋人のために、リムナトくんだりまで来なくちゃいけないのさ!?」
「メー!」
「あぁ~うっさい!」
パニは肩を怒らせながら、腰掛けたままのメーに迫った。真上から説教を垂れるパニと、煙たそうに耳を塞いで目を瞑るメーは、まるで上下逆転した姉弟のようだ。その光景を再び微笑ましく見詰めて、アンは先刻のメーのように深い息を零した。
「ありがとう、パニ。でももうこれ以上は気にしないで。やっぱり謝らなければいけないのは、あたしの方みたい」
「アンさま?」
静々とメーの元に寄り、憤然と見上げるメーに視線を落とす。やんわりとした面持ちのまま、目の前の彼女に深く頭を下げた。
「アンさま!!」
「姫さま!?」
パニとフォルテの大声が響いても、アンはその姿勢を戻さなかった。そのままどれくらい音のない時間が流れたことだろう? やがて諦めるように腕組みを解いたメーは、右手を伸ばしてアンの頤をクイっと持ち上げた。
「……メーさん?」
腰を曲げたまま顔だけを前方に向けるのは、なかなか苦しいものがある。アンは震え出しそうな身体に力を込めて、何とかメーの名前を呼んだ。
呼ばれたメーの方はと言えば、口元をヘの字に曲げたまま無言でアンを凝視していた。そんな静寂が瞬く間に弾ける。メーはプッと吹き出して、両方の口角を一気に上げた。
「あんた、結構イイ度胸してるじゃないか。さすが一国を預かるお姫サマだ。……オーケー、許す! 「あたいのレイン」をあんたにあげるよ」
「メーさん……」
初めて見せる悪意のない微笑みに、アンも屈託のない笑顔を返した。支えていた指が放されたので、ふぅと一息を吐き上半身を上げる。同時にメーも椅子から立ち上がった。再びアンは、彼女の妖しい瞳をやや見上げる格好となった。
「……だけど一つ、その「メーさん」ってのはやめてくれない? 何だか間が抜けててヤダわ。あたいの本名はメティアよ。メティアって呼んで。「さん」も要らない」
「メティア……素敵なお名前ね」
「でしょ? あたいも気に入ってんだ」
アンが察するに、語源は他国の言語で「流星」を意味するメテオ、またはミーティアだ。決められた軌道を巡るだけの惑星とは違い、風の民として自由気ままに放浪するメティアには相応しい名と思われた。
「では、メティア。あたしもアンと呼んでください。同じく「さん」は要りません」
「オーケー! でもその敬語もやめてよね」
「はい。……あ、いえ……では「オー……ケー」」
はにかみながら「オーケー」と告げたアンに、メティアは楽しそうに目配せをした。それから寝台に並んで談笑を始めた二人を、ポカンとしたまま傍観するこちらの「二人」は──
「あ、あのぉ、フォルテさん? 一体何がアンさまとメーを突然仲良くさせたのですか……?」
「さ、さぁ~?」
先程までメティアの腰掛けていた椅子に座り、パニはフォルテと共にテーブルに頬杖を突いた。同時に顔を見合わせて、訳も分からず目を丸くする。
アンは感じたのだ──心から。メティアが心からレインを愛してくれていることに。心からレインを案じていることに。
だからメティアは遠くリムナトまで駆けつけてくれた──レインの願いを叶えるため。
と同時にメティアは確かめたかったのだ。ナフィルの姫が、愛するレインに相応な女性であるのかを。そうして彼女はアンを試した。その結果は──きっとメティアのお眼鏡に叶ったのだろう。アンは彼女の想いに気付くことが出来たのだから。王女の深い一礼には、メティアへの謝辞と感謝の気持ちがあった。レインを譲ることが出来ない詫びと、レインを愛してくれたことへの謝意。自分がメティアの立場であったなら、こうも潔く愛する人の恋人と対峙出来ただろうか? アンは自分の瞳を貫いたメティアの芯の強さに敬畏を表した。
「何してんのさ、パニ! 早くアンの衣装に着替えな。アンもコレ、あんたがフランベルジェを抜けるための変装だよ。フォルテ、アンに着せてやんな!」
「は、はいぃ~」
放心した二人へ活を入れる言葉を放って、メティアはニッカリ笑ってみせた。慌てて集まってきた二人にそれぞれの衣服を手渡したが、パニは少々戸惑った様子を見せた。
「メー、でも夜までまだまだ時間があるよ?」
確かに時刻は正午前だ。出発の夜半までには半日余りもある。しかしメティアの面にはやにわに険しさが翳り、アンもその表情の意図するところを想定した。
「レインは王宮に戻ったんだろ? そんな敵だらけの中へ幾ら内密にったって、見つからない保証なんてありゃしない。レインが帰国したと勘付かれれば、これ以上あんたらを野放しにしておくワケもないだろうし……ココを見つけられた場合の備えをしておかない手はないって。そうでなくともリムナトに入国するのさえ、なかなか厄介だったんだ。場合によっては早目にココから離れる必要も出る」
「え?」
パニは意外そうな反応を示した。レインとパニが密やかに越境した頃には、まだ「厄介」ではなかったのだろう。
「あたいがフランベルジェから山越えした時には、もう厳しい検問が始まってたんだ。それでも入国はまだスムーズな方だよ。だけど出国はかなり難しい。まるで山賊にでも身ぐるみ剥がされたみたいな行列が出来てたっけ──まぁあたいは傍から覗いただけで、抜け道から不法入国しちゃったけどね~! ──となればだ? 北境のルーポワもきっとおんなじ状況だろうし、ナフィルの国境に到っては、もう出国禁止令なんかも出ちゃってたりするかもよ!?」
「……」
アンはメティアの見解を噛み砕きながら、無言で中空の一点を見詰めていた。こうなる可能性は示唆出来た筈であるのに、何故レインは自分たちの出国まで王宮に戻ることを遅らせなかったのか? あと一晩待てなかった理由があるというならば── 一体それは?
「てなワケで、ともかく支度を整えようじゃないか。アン~、レイン好みの一張羅、見つけてきたからさ! 早くあたいにもお披露目してよん」
「え? ──っと、あの……レイン好み、って……?」
隣のメティアへ振り返る前に、アンの背筋には不穏な予感がほとばしっていた──!
◆次回の更新は三月三日の予定です。