[2]濁り出した水 〈R〉
「これ」は幻ではなかろうか? いや、どうせなら「これ」だけが現実であってくれればと、つい願わずにはいられなかった。他の全ては幻であってくれたなら……自国の兵たちが同盟国で反乱を起こしたという噂も、そのために此処に匿われていることも……全てが夢か嘘であってくれたら、どんなに救われるかと思っていた。
「ごめん……久し振りに泣かせてしまったね」
背後の影に道をあけるように、フォルテがそっと退いた。その長身が全貌を顕わにして、「これ」が幻などではないことに気付かされた。しかしそれは他の全てもが現実であることも知らしめる。声の主の装いが普段とはまったく違ったからだ。きっと人目を避けるための変装に違いなかった。
「良かった……ご無事で」
歩み寄る彼を見上げる。アンシェルヌの口元は微笑みを湛えても、それ以上言葉にはならなかった。状況によってはもう二度と会えぬのではないかと案じていたからだ。
「君こそ、アン」
親しみのこもった「アン」と呼ばれるのは、ルーポワに向けて国を出て以来だ。こそばゆい嬉しさに思わず瞳を細める。
やがて目の前まで辿り着いた長い腕が、彼女の細い身体を包み込んだ。庶民に扮した生成りの外套が頬に心地良い。が、サンディブロンドの毛先が掛かる肩先には、細かな水玉が散らばっていた。ああ、この雨がこの人を連れてきてくれたのだと、アンシェルヌは──否、アンは天に深く感謝した。
「ちゃんと食べていたの? 少し痩せてしまったみたいだ」
「フォルテがいつも傍に居るのだもの。食欲がないなんて言ったら、すぐパンを口に突っ込まれるわ」
柔らかく抱擁する肩越しに、笑いながら頬を膨らませるフォルテが映る。けれどその顔は一瞬くしゃくしゃっと泣き顔になって、娘を見守るような母親の面差しを見せた。深く一礼をした後、フォルテは静かに退室した。
「ありがとう、レイン。あたしを見つけてくれて……」
二人きりにされた空間が、全てのためらいを押しやってくれた。震える腕はゆっくりと広い背を抱いたが、刹那力を取り戻したかのようにギュッと彼を抱き締めた。
「昨夜君たちの使いが僕を見つけてくれたんだ。夜半には此処まで辿り着いていたけれど、暗い時分に訪れて、この部屋に明かりを灯してしまうのは不自然だと思ってね……起き出した民衆に紛れて合流出来るまで、近くの空き家で待つことにした」
僅かに自由にされて、ふと視線がかち合った。いつものように優しく温かな微笑み。レインという名の通り、雨のように降り注ぐ長い睫毛の下に、リムナトの湖水を思わせる透き通った碧い瞳が揺れる。その吸い込まれそうな眼差しが急に近付いてきて、アンは思わず目を瞑った。瞑ったと同時に零れた涙が、柔らかな唇に堰き止められた。
「レイ……ん」
「こんなことをしている場合ではないのは分かってる。でも、せめて今だけは──」
それからどれくらいの時が経ったのだろう。もう一度アンの腕から力が抜けてしまうまで、二人の唇は同じ温度を分かち合った──。
「……アンがルーポワへ発つ前に話したね。僕はフランベルジェへ銃器の商談に出掛けていたんだ。帰国したのは一昨日の夕刻で……事件のことは国境の検問所で知らされた」
それからしばらくして、階下で待機していたフォルテと侍従二人が呼び戻された。アンと並んで寝台に腰掛けたレインは、簡素な丸椅子に座った三人とアンへ、これまでの経緯を説明した。
レイン=プロアイエ=リムナト。リムナト前王の長子に当たるが、継承順位は第三位となる。アンとの出逢いは二人がずっと幼い頃だ。それから思春期を経て恋人となり、正式な婚約者となったのは三ヶ月ほど前のことだった。
リムナトの南に位置するフランベルジェは、西に活発な火山帯を持つため「炎の国」と呼ばれている。硬質な鉱物が採掘されるので、それらを加工した金属製品が交易の要とされる。
アンは隣に座するレインの横顔を見上げて、彼の言葉にふと疑問を持った。帰国が一昨日であったのなら、丸一日彼はどうしていたのだろう? 先刻の話によれば、今朝まで空き家に潜伏していたというのだから、一旦王宮に戻ったとは考えにくかった。
「その事件のことだけど、先にお互いの情報をすり合わせておきたい。君たちはこの三日間にどんなことを知ったの?」
レインの視線は一度アンの許へ戻ったものの、すぐに侍従とフォルテに向けられた。
それに応じるように、侍従の一人が口を開く。
「城下に潜伏しております兵士たちより、毎朝書面にて報告は届いております。受け取りは此処の店主が朝市に出掛けた折に。その日一番のパンを焼き上げてから店主は出ていきますので、今朝の分は未だ届いておりません。昨朝までの情報では、反乱分子は既に鎮圧され、城内は平常に戻っているとのことでした。ですが……今後のナフィルに対して、いかなる制裁を下すべきかと……政府内で話し合いが持たれているとのことです」
侍従は後半絞り出すように、言葉と共に口惜しさを吐き出した。レインの足元に跪き、懐にしまっていた二通の書状を恭しく広げてみせた。
順に手に取って目を通したレインだが、昨朝の二通目を受け取った際、その表情が一瞬引き締められた──気がした。彼の得ている情報とは何かが違ったということか?
「ですが、レインさま? 店主がお客様やらご近所から聞き出した噂話では、「こんな事件ハナから出まかせに決まってる!」って言うじゃあありませんかっ。わたくしめには良く分かりませんが、店主が申しますには「政府のお偉方」の仕業なんだとか!? 誠心誠意務めて参りました我が兵士たちを犯人に仕立てるなんて、わたくしめにはもう、そのお偉方とやらを信じることなど出来ません!!」
「フォルテ……想像で人を悪く言うものじゃないわ」
割り込みながら徐々に興奮するフォルテを諫めて、アンはレインに詫びを込めた笑みを向けた。レインはこちらの味方ではあるが、彼もまたリムナト王家の、ましてや政府の一員なのである。
けれどフォルテの悪態はレインの何かを変えたようだ。先程とは違って表情を緩めた其処には、明らかな意思が見える。
「いや……フォルテの言う通りだよ。残念ながら政府上層の画策である可能性は高い。実は一昨日の帰国時から、僕も同行していた従者たちに探らせているのだけど、得た情報もほぼ一緒であるし、僕の見解もその噂話と同じなんだ」
「……それ、では──」
──ナフィルの傭兵は、無実である。ということ?
言葉を途切れさせたまま答えを求めるアンに、レインは正対して「おそらくは」と首肯した。
心の底から湧き上がった深い安堵が、長い吐息と共にアンの唇から滑り落ちてゆく。
「レインさま……でしたら、何故ナフィルはこのようなことに──」
それも束の間、フォルテが続けた質問に、今度は心の奥底から嫌な予感も顔を覗かせた。
これまで両国の関係は良好そのものだったのだ。政府に何か思惑があるにせよ、これほどのリスクを冒してまで、不実な印象操作の行われる理由は見つからなかった。実際このような不穏なデマが流されても、店主をはじめとするリムナト国民にナフィルへの疑惑は根付かなかった。つまり政府の目的が、民衆の洗脳や、それによってナフィルの信頼を失墜させることであったとすれば、今回の虚言は完全な失策であったと言える。そのような結果に終わった理由は、それだけナフィルの傭兵が同盟国家に忠実であり、その精神がレインたち政府の一部メンバーによって、常につまびらかにされてきたお陰であった。
しかし浮かび上がった嫌な予感に、アンは考えを改めざるを得なかった。この「タイミング」だ。自分すらこんな直近に居ながら性急に対処出来なかったのは、この「タイミング」だったからなのだ。それこそがこの事件の要因であったというのなら──。
一息を吐き、一息を吸い込んだ、虚空の数秒。脳内に組み上がった政府の事情に、それでもアンは表情を変えぬよう努めた。されど彼女が寄り添うレインの眼差しは、それに気付いてしまったようだ。
「……アンは思い到ったみたいだね。君のルーポワと、僕のフランベルジェへの来訪が重なったのは、きっと偶然じゃない。どちらも相手国から要求された期日を、こちらが受け入れて結実した日程だった。けれどどちらからの打診にも、おそらくリムナト政府からの圧力が加わっている」
レインが国外に出払い、アンが国内を通過していた「あの一日」。その十数時間を作り出すことが、政府の狙いであったとしたのなら。彼らの計画は完璧に成功したことになる。そしてこの「タイミング」は、あの一日を逃せば永遠に訪れる筈のない一日だったのだ。
「僕たちは今回の外遊を最後に、婚礼の儀の準備に取り掛かる手筈だった。この事件はその妨害のために引き起こされたのだと思う……残念ながら政府内には、僕たちの結婚を良しとしない者が……少なくない、というのが現状なんだ」
「……」
苦々しく言葉を継いだレインの推考は、三人の返答を押し黙らせた。同時にアンの中にある嫌な予感が、明確に確実に確固たる形を持って、彼女の心に重く圧し掛かった。
レインの父──リムナト前王が急死したのが今から約二年前。この国を中心とした周辺諸国は、同一の法の下に統治されている。各国の長が逝去された場合、それから二年──つまり三回忌が行われるその日まで国民は喪に服し、新王が選ばれることはない。その二年がまもなく過ぎようとしていた。やがて年功序列を優先とした世襲制に基づき、前王の弟ヒュードル侯が即位されるのであろう。そして戴冠式の後、レインとアンもささやかながら婚儀をおこない、晴れて伴侶となる予定だった。
──だからこそ。アンはこの騒動の収束のため、単身王宮に乗り込み嫌疑を晴らすことをためらったのだ。レインの居ない政府で反対勢力に囲まれてしまったら、取りつく島もないに違いない。その上「事」を大きくするような失態を演じれば、レインとの結婚どころか、ナフィルの今後にも影響を及ぼしかねない。この「タイミング」だからこそ、せめてレインの帰国まで、アンはその身を隠して沈黙を貫くしか道がなかった。
「あの……お恥ずかしながら、レインさま。どうしてレインさまと姫さまのご結婚が、こちらの政府では反対されているのか理解しかねます。これまでわたくしめはリムナトの方々にも歓迎されていると思っていたのですが……」
突如示されたこの国の実情に、フォルテと侍従二人は戸惑っていた。
「うん……フォルテの言う通り、「これまで」僕たちの婚約は両国民から祝福されてきた。でもリムナトの政府にとって、それはあくまでも「表向き」、前王に対し敬意を表していると見せかけるための偽りだったんだ。三回忌が目の前まで迫って、ついに彼らも腹の内を見せてきたのだと思う。……僕の父が保守派であったのは知っているね? 父は侵略で国土を広げるのではなく、周囲の国々と平和的な交流を続けることで国家の安寧を築いてきた。だけどもうすぐ新王となる叔父ヒュードルの一派は、表面上保守派を装いながら、ここ最近急速に革新派の動きを見せている。僕が知ったのはフランベルジェに発つ当日だったのだけど……即位後は強硬な対外政策を決議させ、同盟国を支配下に置こうという方針らしい。となれば僕がナフィルの姫と懇意であることは、今後の体制に反する行為となる……それよりは遠方の大国にでも婿に行かせて、新たな後ろ盾を作らせたい……というのが、正直上層部の本音なんだ」
「そっ、んな……!」
フォルテは叫んでしまった口元を、慌てて両手で押さえつけた。隣の侍従たちも相当な困惑ようだ。が、それも仕方あるまい。ナフィル国内にそのような噂は一度とて聞こえてこなかったのだから。ましてや当のリムナトに身を潜めていても、政府に対する愚痴はなきにしもあらず、具体的に対周辺諸国・対レインに関する方針転換など耳にすることすら皆無だった。
「どうして今まで、どなたも何も仰ってくださらなかったのです!?」
「……すまない、フォルテ。四日前から箝口令が敷かれたらしくてね。もちろん国民の殆どは知らないのだけど、新政権発足後の方策について、誰も口外出来ないことになっているんだ。当然対象国の一つであるナフィルに洩らしたとなれば、死を意味するほどの厳罰に処されてしまう。皆、君たちに言いたくとも言えない状況にある」
レインの憂いを湛えた瞳は、フォルテの炎を掻き消した。その焦点は申し訳なさそうに俯いて、彼女に二の句を継がせなかった。
しばしフォルテは放心したが、アンの許へ戻りゆくレインの視線の先をふと見上げる。
「あっ……あの、姫さま……もしや姫さまはそのことにお気付きであったのですか……!?」
穏やかな表情で見詰め合うレインとアンの横顔に、フォルテはハッと声を上げた。最も衝撃を受けている筈の王女の面に、絶望の翳りなど一切浮かんでいなかったからだ。
「ごめんね、フォルテ……具体的には何も聞いていないし、知りもしなかったけれど……三回忌の儀を待たずに、レインがあたしとの婚約を押し進めた時から、何かしら問題の起こりそうな予感はあったの。でも貴女に話したら、きっと心配させてしまうと思って」
「姫さま……」
フォルテの鼻のてっぺんが、泣くのを我慢するように赤く染まる。泣きたいのは姫本人であろうと思えば、益々赤みが増してしまう。アンは困ったように笑みを零し、「ほら! だからナイショにしたのに~」と、おどけて口を尖らせてみせた。フォルテの目前に腰を落とし、「わたくしめがその水晶の如きお涙を拭って差し上げます」と彼女の真似をして、絹のハンカチーフで優しく頬を拭いてやった。
「これで今朝のおあいこよ?」
「ひ、ひ、ひ、姫さま~!!」
折角目尻が渇いたというのに、洪水のように涙が溢れ出してしまった。両手で顔全体を覆い、おいおいとむせび泣く侍女の身体を、姫は柔らかく包み込んだ。
か細くも気丈なアンの背を見下ろしたレインは、
「フォルテ、全てはリムナトの問題であるのに、君たちを巻き込んで本当に申し訳ないと思っている。でも僕はアンを諦めた訳じゃない。必ず叔父を説得して、リムナトもナフィルも他の二国も、もちろん姫も……今まで通り守ってみせる。そのために昨日の一日、僕は「風」を探しに時を費やしたのだから」
「──風?」
意味の見えぬまま振り向いたアンの疑問の瞳に、自信で満たされたレインの瞳が反射した──。
◆次回の更新は二月二十三日の予定です。