[18]古(カコ)の過(あやま)ち、未来の夢 〈S〉
「首長……?」
「スウルム……」
メティアとイシュケルの声が重なった。そう呟いた二人と遠くの影を何度も見返して、困惑を隠せずいたのはアンと……そして息子であるパニであった。
「と、うさん……なの?」
「あの方が……叔父さま」
アンを包み込むメティアの腕に力が込められる。アンはその誘導に身を委ねて、ようやく岸辺に上がった。
「我が息子……パニ。大きくなったな……立派になった」
皆の集まる砂地に近寄った影は、見つけた自分の半身に想いを込めた言葉を掛けた。しかしパニを感慨に浸らせる余裕もなく、その隣で険しさを醸し出すイシュケルの足元に跪いた。
「イシュケルさま……これまでのご無礼、お許しくださいとは申しません。ただ貴方のご息女を無断で連れ去りましたこと、深く深く……お詫び申し上げます」
「……」
イシュケルは無言のまま、眼下に身を縮めたスウルムに視線を落とした。その両拳はきつく握られ怒りを露わにしていたが、それを振るうつもりはないように思われた。
「……娘が元気でいるのならばもういい。しかし理由は聞かせてもらおう」
「はい、しかと」
そうして身を起こしたスウルムがまるで「黒い影」だと思われたのは、アンと同じく黒い髪と全身を黒い外套に覆われていた所為であった。その姿こそが……アンを初めて此処へ導いたあの影そのものであることを思い出させた。
スウルムは次にアンに姿勢を向け、彼女の名を呼ぶ。あの三歳当時、不思議とアンの心を震わせた声音が、記憶を鮮明に甦らせた。
「アンシェルヌ……美しき姪御よ、我が姉に生き写しだな」
「お母さまに……?」
だがその身は頭から足先まで、メティアと共に全身ずぶ濡れであった。スウルムは二人に着替えるよう進言をし、支度が整うまでの間、これまでの経緯を聞かせてもらいたいと男たちに願い出た。
都合の良いことに、侍従に扮した兵士二人は自分たちの兵服を鞄に収めていた。まずは彼らを本来の姿に戻して侍従の衣服を拝借する。さすがにサイズは合わないが、メティアもアンも取り急ぎ身なりを落ち着かせることが出来た。
しかし泉の水は冷ややかでありながら、身を浸していた間も岸に上がってからも、特に寒さは感じなかったのだ。お陰で髪は濡れたままでも震えることなくいられるのは……これもレインの力であったのかも知れない。
「さて……何処から話したら良いものか……」
レインの家臣やイシュケルから事件の全容を聞かされたスウルムは、顔色をやや蒼白にして口火を切った。おそらくはレインが陥れられてしまった結末に、深い呵責を感じているようだった。
「遥か遠き古のことだが……このリムナトとナフィルは元々一つの国であったのだ。今のリムナトと同様温暖な気候と豊かな水に潤され、人々は幸せに暮らしていた」
「リムナトと……ナフィルが?」
代表して問い直したアンの驚きに、スウルムはただ無言で頷いた。
「その頃まだ人は神に近い存在だった。王はこの地で神と対話をし、神に教えを乞い、従い、時に神より力を与えられ、神官として神事を行なった」
泉を湛えるこの地下洞窟は、神と王が同じ時を過ごす場所であった──本来なら信じがたい話であるが、これまでアンが体験した数々の奇蹟を思い返せば、それも納得出来ない事象ではなかった。
「だがその秘密を知った幾ばくかの民が欲を掻き、この地を占拠して王になろうと押し寄せた……神は怒り、国の南フランベルジェの火山を噴火させ、この地上に膨大な岩石を降らせて国を二つに分断した。それがリムナトとナフィルの二国に分かれた始まりだ。その時同じくリムナト西部も甚大な災害を被ったが、こちらは対照的に高き峰が抉り取られる結果となった。そしてこの洞窟は……泉の中央に鉄格子が巡らされ、東西どちらの入り口からも泉の向こうへ通ることは叶わなくなってしまったそうだ」
この騒動がネビアの話した『神の怒り』であろう。文献は残存せず、王家の一部に口伝されると言っていたから、それが何処からか洩れ伝わってしまったのかも知れない。
しかし──今。
レインが身を沈めた途端、数本でも鉄格子が外され道が開かれたのは──神の怒りが解かれた、ということであろうか?
「神は民をも分かつように、各々が持つ『彩』まで変えた。リムナト側の宮殿に住まう王族は金髪に青い瞳、ナフィル側に滞在していた残りの王族は黒髪に緑の瞳とね。リムナトとナフィルの境界に高い岩山が聳えてしまったため、ナフィルは湖の恩恵に預かれず、まもなく砂の大地と化した。リムナト側にはかろうじて湖の一部が残ったが、水量が激減して干上がるのは時間の問題と思われた……そこで王は神の怒りを鎮めようと、湖に王女を生贄として捧げたが……神はとうに怒りなど治めていらしたのだよ。神は……生贄の王女に力を授けた。リムナトとナフィルを救う力を」
「え……?」
神は既に人々を許していた──では何故これまで鉄格子は、リムナトとナフィルを阻んできたのか?
「力を手にした王女はリムナトの西、峰が削れて出来た深い谷に引き籠った。それが我々風の民の半数が住む「風の渓谷」だ。王女はこの時の被害で住む地を失った民を受け入れ、風の渓谷に小さな村を作った。その地で毎朝ナフィルの山から昇る朝陽に祈りを捧げ、毎夕渓谷の向こうに沈む夕陽へ願った。その信心に応えた神は、風の渓谷を通り抜ける西風に雨を降らせる力を注ぎ、リムナト側に残された湖に再び豊富な水を満たした。それをナフィルにも分け与えた、というのが……「風を継承する者」たちに代々伝えられている両国の起源譚だ」
「風を継承する者?」
誰からともなく発せられた疑問によって、スウルムの翠の瞳が同じ色のアンの瞳へ向けられた。
「風の力を継承した者は、次代を受け継ぐ者を自身で選ぶのだよ……彼らは二つに分かたれてしまったリムナトとナフィルの王家からその者たちを選んできた。そうして「私たち」はアンシェルヌ、君を次代に選んだのだ……それから、レインをね」
「あたしと……レインを?」
風を継承する者──選ばれしレインとアン──選んだのはスウルムと……クレネであろうか?
「「私たち」も同じように選ばれた。先代の「風を継承する者」たちによって。幼き頃、見知らぬ人物に連れられて、「私たち」はこの洞窟を訪れた。泉の水をグラスに注がれ、「私たち」はそれを飲み干した」
「泉の……水」
アンは遠い過去を思い出した。アンもスウルムに連れられてこの地に誘われ、すぐにグラスを渡されたのだ。この泉の水が注がれたグラスを。
「この泉には神の力が宿っている。それから神に力を与えられし、「風を継承する者」たちの祖国への想いも。だがその力は王家の血筋にのみ受け継がれるのだよ。泉の水を飲んだ王家の者だけが、この地への門を開くことが出来、この地へ赴いた折には時をも止める……」
確かに泉の水を飲んだアンは、既にその帰り道から自力で外界への扉を開くことが出来た。翌日フォルテを伴ってレインと再会した際、「おいしいから」とフォルテにも水を勧めたが、彼女が飲んでも何の力も得られなかったのは、きっと王家の一族ではなかったからだ。
レインが教えてくれた呪文も同様であろう。「自分の罪に抗え」という単なる言葉が、アンの口から恐ろしい力を放ったことも、おそらく泉の力が影響しているに違いない。
そしてアンがこの地に留まり外界の時を止めていたにも関わらず、こうしてスウルムが此処まで辿り着けたことも──まさしく彼が「風を継承する者」だという証拠であった。
「風の渓谷に捧げられる祈祷によって、リムナトとナフィルは生かされている……もしもこの事実が他国へ知られてしまったら……両国は存亡の危機に陥るであろう。我らには秘密を守る義務があった。その為に継承者は幼少からこの地へ赴くのだよ。長きに渡って神の力を泉から得た者は、渓谷に向かう頃には国民の記憶すらも操る力を持つことが出来る。だが私は姉を救いたいが為に、一つの過ちを犯した……それが……今回の顛末だ。イシュケルさま、アンシェルヌよ……誠に申し訳ないことを致しました……」
「スウルム……」
言葉は徐々に涙に震え、スウルムはイシュケルとその隣に坐すアンに向けて、砂地に額ずき謝罪をした。
姉──アンの母を救うため──ネビアもそれがスウルムの悪事の発端であったと語ったが、弟であるスウルムは一体何を起こしてしまったのか──?
「姉は生まれつき身体が弱かった……だがリムナト側に妥当な子供が現れなかったこともあり、他に「風を継承する者」を選ぶ余地がなかったのだ。継承者の始まりが王女であったこともあり、選ばれるのは必ず女児と決まっている……男児が至れるのは飽くまでもその補佐としての立場までだ。病弱な姉を助けるため、私も彼女と共に何度もこの地を訪れた。やがて時が経ち、継承の日が近付いて、そんな或る日に出逢ったのです……リムナト王家の血筋を引く、貴方の娘……クレネと。私たちはすぐに惹かれ合い、やがてお互いの距離が近付いて、彼女が王家の遠縁であることを知りました。その時、姉の未来に希望を見出さずにいられなかったのは……正直否めません。継承前日の夕まで悩み続けましたが、とうとう彼女に真実を告白しました。クレネは姉の代わりに私と共に、風の渓谷で継承者として暮らすことを誓ってくれた……そうして私たちはその宵急いで旅立ったのです」
「だったら……生贄ではないではないか。ならばせめてわたしにだけでも、事情を話してくれていたら……」
イシュケルの戸惑う声に、スウルムは頭を垂れて悔しそうに唇を噛んだ。
「先程申しましたように、幼き頃からこの地を訪れていれば、民の記憶を操る力を得られていたのです。貴方の中のクレネの記憶も失礼ながら操作するつもりでした。ですがクレネにはその力を育くむ時間がなかった……補佐役である私の力だけでは、私たちの記憶を完全には消しきれず、クレネはやむなく貴方に置き手紙を残しました。されど貴方にそれを受け取った様子が見られないのですから……おそらく貴方を利用したヒュードル候によって処分されてしまったのでしょう」
「何ということを……」
イシュケルは主の余りの非情さに、言葉半ばにして口を閉ざした。
「渓谷の場所が探られないよう、両王家には一切の文献は残されておりません。しかしかつて王女が生贄として捧げられたくだりが、僅かな伝説として独り歩きしてしまっている。それらを野放しにしてしまった私の浅はかさが……貴方を長年苦しませる要因になってしまった……そして、レインまでもが……──」
スウルムとイシュケルの切ない眼差しがアンの胸に突き刺さる。何処から歴史の針路は曲げられてしまったのだろうか? どの分かれ道を間違ってしまったというのか? いや、誰も何も間違ってなどいなかったのかも知れないし、初めから全て間違っていたのかも知れない……アンには分からなくなっていた。何処で何を選んでいたら、レインはこんなことにならずに済んだのだろう?
「姫さま……レインさまをあのような目に遭わせてしまったのはわたくしです。どうかこのイシュケルを、断罪に処してくださいませ」
「……」
スウルムと同じく額を砂に押し当てたイシュケルの背を見て、アンはひとたび唇を真一文字に引き結んだ。レインは──このような終焉を与えられたレインは── 一瞬でも彼を憎んだだろうか? 恨んだだろうか?
肩越しに首を反らし、泉の真中へ振り向いてみる。風もないのにゆっくりと揺らぐ水面は、まるで小さな魚たちが遊んでいるかのようにキラキラと輝いていた。あの下に眠るレインが悔恨を胸に抱いて横たわっているとは、アンには到底思えなかった。レインは──全てを受け入れた上であの場所を選んだのだ。
「いいえ……貴方に罪はありません」
顔を戻し、依然低頭するイシュケルの肩に触れる。
「姫さま!」
「貴方はご息女の無事を確かめたかっただけ……例えレインを眠らせたのだとしても、貴方はその後も彼に危害を与えることはなかったでしょう。彼を死に至らしめたのはネビアです。貴方は……彼らと共に投獄され、レインによって救われた……それだけです」
少し離れて話を聴く兵士たちを一瞥して、アンは再びイシュケルに相対した。
「いや、しかし……!」
「レインは「これまで通り、これからも姫君を頼みます」と言ったでしょ? あたしからもお願いするわ」
「ひ、め……」
触れた肩の手に力を込めて微笑む。アンは心から願っていた。レインの考えは間違っていないと感じたからだ。彼の意向を尊重したかった。
レインはイシュケルを信じていた。
屋根裏部屋のアンを訪ねた折、イシュケルが黒幕の一人であることに気付いても、アンにそれを知らせなかったのはそういうことだ。彼はイシュケルがそうせざるを得ない理由を知り、アンに気付かれる前に解決したかった。だからこそレインはアンと兵たちの落ち合う場所を変えることなく、また二手に分けた帰国のルートも変更しなかったに違いない。きっとレインは夜までに全てを治め、イシュケルも共にナフィルへ帰したかったのだとアンは思った。
レインはイシュケルを苦しみから解き放ちたかった。
彼はイシュケルに対して、負の感情など生み出すことはなかったのだ。
アンはイシュケルの肩から手を放して、スウルムに向き直り背筋を正した。
「叔父さま、どうかお教えくださいませ。「風を継承する者」にレインとあたしを選んだ訳を」
◆次回の更新は四月十二日の予定です。




