[17]天使の恋、決断の時
「何を……言っているの……?」
しばらくの間アンはもちろんのこと全員が言葉を失ったが、沈黙した空間は震えるアンの声によって再び音を取り戻した。
「僕は……もう君を守ってあげられない。だけど、この泉に、身を沈めれば……」
「守ってなんて! いいの……あたしのことなんて……だからお願いっ、この泉は傷を癒してくれるのでしょ? あたしはどうしたらいいの? 何をしたらいいの? 教えて……貴方の怪我が治るなら、あたしはっ──」
「アン……」
アンの必死な問いかけは、レインの眼差しと交差した途端に継げなくなった。いつも以上に優しい瞳。レインはその視線を外さぬまま、もう一度メティアに話しかけた。
「メティア、君は気付いてるんだろ? 僕の身体に触れたのだから。折れた肋骨が、内臓を傷つけてしまった……幸い肺には刺さらなかったから、呼吸も会話も出来ているけれど……骨は今でも刺さったままだ。……アン、泉の力で、傷はいつか癒えると思うよ。でも刺さった骨は……戻らない。骨の刺さった部分は、治らない……だからこのまま死を待つのなら、僕は最善の道を選びたいんだ……」
「あっ……」
アンは真正面のメティアを見上げた。同じくアンに目を向けるメティアの表情は頑なだった。それはレインの告げた状態が、真実であることを意味していた。
「この泉には沢山の力が宿っている……生きている内にこの身を浸せば、僕はきっとこの場所で、君をずっと見守ってあげられる」
「どうして……なの? どうしてこんなあたしなんかにっ……!」
アンは二人からの視線に耐えきれず、グッと瞼を閉じて涙を落とした。握られたレインの手を両手で強く握り返したが、レインはそれに応えられる余力も残してはいなかった。
「君は『こんな』じゃないよ。もちろん『なんか』でもない……アンは初めて此処で逢ったあの時から……ずっと僕の……天使、だった」
「え……?」
途端アンは泣くのをやめ、涙で曇った両目を上げたが、ぼやけた視界の中でもレインの姿だけはハッキリと見えた。
「君が僕を天使だと思い込んだように、あの時僕も君を天使と間違えたんだ。迷子になった小さな天使が、助けを求めて泣いているのだと思った」
「でも、あたしの髪は……」
「絵画の天使はみな金髪だけど、誰がそう決めたというの? 黒髪でも僕には君が天使に見えたんだ……君の艶のある髪が、僕はずっと大好きだったよ……」
レインは心もとない腕をどうにか持ち上げて、アンの長い髪に指を滑らせた。途中で脱力した腕を受け止めたアンは、濡れたその手を自分の頬にそっと当てた。
「あの時僕は、とっても嬉しかったんだ……君が僕に、助けを求めて、くれたことが。だから僕は、これからずっと、君を守っていこうと決めた……」
「ごめんなさい……あたしはいつも守られてばかりで……貴方を助けてあげられたことなんて……」
レインの掌がアンの頬を風のように撫でる。アンはその心地良い感触に視線を落とし、微笑みながら首を振るレインを見つけた。
「違うよ……僕は君を、助けてきたばかりじゃない。僕もずっと、君に助けられてきたんだ」
「あた、しに……?」
アンもレインと同じように、彼の頬を掌で撫ぜた。血の気が引いて透き通りそうな冷やかな皮膚。濡れても温かみを持つアンの指先に、レインは今一度生気を取り戻したようだった。
「王家の子供はいずこも孤独だ……従兄のネビアは僕に対して、少しの関心も示したことはなかった。周りは父に仕える大人の従者ばかり……そんな独りぼっちの寂しい僕に、君の存在は生きる喜びを与えてくれた。何の夢も希望も持てなかった自分に、神様が遣わせてくれた天使に違いないと思ったんだよ……」
「レイン……」
──レインもあたしと同じ想いで生きてきただなんて──。
遊び相手が侍女のフォルテ以外にいなかった幼き日々、アンにとってもレインはまさしく空から舞い降りてきた天使だった。この存在にどれだけ救われてきたか知れない。彼がいるだけで彼女は明日を生きる活力を得られた。共に楽しい日々を過ごし、共に笑い合い、いつしか共に国を統べる夢を見て──レインがいたからこそアンは淋しい夜に耐え、次の朝もまたその次の朝までも、待ち遠しく感じられたものだった──。
溢れる愛おしさに、患部に触れぬよう柔らかく抱き締める。レインへの想いに熱を帯びた頬を寄せて、アンは唇を噛み締め嗚咽を堪えた。
「さぁ、時間だ……僕をどうか、この泉に流して……。此処からずっと君を見守るよ。だけど一つだけお願いがある……君は君の道を、進んでほしい。僕のことは、いつか忘れて……」
「んんっ、んんん!」
そのお願いにアンは咄嗟に頭を振った。まるでイヤイヤでもする子供のように、なりふり構わず拒絶する。ずっと心を埋め尽くしてきた恋人を忘れるなど、一体誰がどうして出来よう? レインを忘れて生きていくなど……それはアンには死んだも同然に思えた。
「今は出来なくていい……理解もしなくていい……ただ心の片隅に刻んでいて。そして僕がこの水嶺の灯火となって、いつか君と君たちの国を……守れる時をどうか祈って」
「水……嶺……?」
疑問を零したアンの唇が、うなじに回されたレインの手によって引き寄せられた。冷たい口づけを捧げたレインは、少し離れて見守るイシュケルに目をやった。
「イシュケル、これまで通り、これからも姫君を頼みます」
「レイン、さま……」
哀しげな瞳に込められた意図。それを察したイシュケルは、一度深く拝跪をして決意の面持ちで腰を上げる。
「──イシュケル!?」
アンはイシュケルの手によって、レインの元から抱え上げられた。降ろしてくれと抵抗を始めたアンを一瞥したのち、レインは自分の家臣たちを呼び寄せた。
「彼女に僕の、死に顔など見せないでくれるね……?」
「レイン! レインっ!! 待って……きっと、助かる方法が……!」
アンの必死な叫びに、既に人垣に囲われたレインはどのような面を見せただろうか?
「いやっ、お願い! レイン──っ!!!」
葬送の棺の如く、すすり泣く男たちに担ぎ上げられたレインの身体は、ほどなくして泉の底へと消えた──。
──ありがとう、アン……ずっとずっと、愛してる……──
◆
◆
◆
「待って……待ってぇ!!」
水底から湧き上がる空気の粒が、光を纏って波間を輝かせる。それは次第に数を減らし、ついには無となり、凪いだ寂莫に戻った頃。イシュケルも王女を抑える腕を緩めたため、アンは地面に降り立ち慌てて泉に駆け寄った。
「おねがっ……待って、レイン!!」
「アンっ!!」
激しく飛沫を上げながら泉の中心に突進するアンを追って、メティアもまた胸まで水に浸かった。潜り込もうとするアンをギリギリ捕まえ、後ろから無理矢理羽交い締めにするが、アンにはレインの元へと続く最短の道しか見えていなかった。
「お願い、放して!! レイン! レイン!!」
「ダメだって! これがレインの最後の望みなんだ……みっともない姿なんて、きっとアンには見せたくなかったんだよ……」
「あっ……あ……」
メティアのこれほど悲しい声色を聞かされてしまっては、アンもその衝動を鎮めざるを得なかった。仕方なく反発することは諦めたが、背後のメティアへと振り返ることは出来なかった。鉄格子の並ぶ一番深い中央を見詰め、ただひたすらに涙を零す。
「あっ……あ……」
激しく泣き崩れるなどしなかったのは、王女としての品位が邪魔したのだろうか。それともメティアが語ったように、アンもレインと同じくみっともない姿を恋人に見せたくなかったからかも知れない。
「あっ……あ……」
後ろから優しく抱き締めるメティアの腕の中で、繰り返される呟きと吐息。ぽろぽろと落ち続ける大粒の涙が、水面に想いの跡を刻みながら泉の水に溶けて交わる。
それはレインが巻き上げた水泡の如く、光を吸い込み流れていった。涙は次の涙の道標となってあたかも川のように連なりながら、レインの沈んだ泉の真中へ一直線に向かっていった。
光る涙の先端が、とうとうレインの元へと辿り着いて──
「アン……何だ、この音は!?」
静かな洞窟に地響きのような地鳴りのような、轟音と震動が湧き上がってくる!
「見て、メティア。中心の鉄格子が!」
天井まで突き刺さる長く細い鉄柱が打ち震え、真ん中の十本程が一本ずつ交互に、こちら側とあちら側へゆっくり倒れていくのを一同は見た。
「どういうことなの……?」
横倒しになった格子の上部が、両側の岸辺に音も立てず着地する。泉の中央では下部同士が吸いつくように結合し、見事に人一人が通れる幅の橋と化した。
「レインが……起こした奇跡、なの……?」
アンの涙の川は、レインの眠る橋の下をクルクルと回って、今では光の渦を描いている。それもやがてパチパチと跳ねるように消え去ったが、岸辺に立ち尽くした男たちも、泉に身を浸したままのメティアとアンも、稀有な現象の起きたその場所から目を離せぬまま立ち尽くしていた。
そんな唖然として固まる刻を動かしたのは、背後から聞こえた見知らぬ男の声であった。
「一足、遅かったのか……?」
全員が振り向いた王宮へ続く地下道の手前、遠くで揺らぐ黒い影に、アンとイシュケルの時間だけが何十年もの月日を遡っていった──。
◆次回の更新は四月九日の予定です。




