[13]混濁の過去
「パ、ニ……パニぃっ!!」
みんなの声が、あの柔らかくあどけない少年の名を呼び続けた。
けれど応えてくれるのは辺りに木霊する自分たちのやまびこだけだ。一同は四つん這いになって崖下を覗き込んだが、闇に溶け込んだ谷底からは一筋の光も見出せない。やがて叫び声は涙声に変わっていった。フォルテはその体勢のまま、自分の両手に顔を覆いかぶせ、幼子のようにわんわんと泣き崩れた。
「ちくしょう……パニの奴、オレより先に逝くなんて!」
その隣で気だるげに立ち上がったリーフは、拳をきつく握り締めて悔しさを吐き出した。
全てが一瞬のことのように感じられた。トンネルを抜けた途端、突然ナイフを突きつけられ、突如戦いが始まって終わり、そしてターゲットとされたパニの命が奪われた──。
アン王女でないことが既に知られていたのは理解出来るとしても。何故に身代わりであるパニが狙われなければならなかったのか?
敵はパニを「風の子」と呼んだ──敵は風の民を殺したかったのか? いや、ならばリーフも狙われていただろう。では風の首長の子供を殺したかったのか? 敵は──敵とはそもそもヒュードル侯なのか?
「たった十三歳で、人生を終えるだなんて……うぅ、今からでも代われるものなら……わたくしめが!」
フォルテはそう呟くと同時に顔を上げ、本当に身代わりにでもなろうとでも思ったのか、地面の切れ目に身を乗り出した。周りの男どもはギョッとして、今度こそは助けねばとフォルテに咄嗟に手を伸ばしたが、
「そんな身代わりになんてなったら、ホントに化けて出ちゃいますよー」
涙でぼやけたフォルテの目の前、ヌッと下から何かが現れて、苦笑混じりの声でそう告げた。
「……お、お、お化けっ!?」
「ちゃんと生きてますって~!」
徐々に鮮明となる輪郭は……その声そのままの表情をした──パニであった!
「パ、パ、パ、パニっ!! 生きていたのね!?」
フォルテに向けられていた数々の手が、慌ててパニの両腕に移る。後ろへ身を引いたフォルテの前に、パニの全身が引き上げられた。もちろんちゃんと足もある。
「ひゃあ~危なかったよ! 真下に岩が突き出していて、ボクを掴んだ奴がそこに打ちつけられたんだ。その反動で手が放されてさ、ボクはその岩に必死でしがみついたってわけ」
「奴は死んだのか!?」
「あの速度で岩にぶつかったんだから、怪我していなくても即死だと思う。それに結局勢い余ってまた谷底へ落ちちゃったんだ……その岩からここまで登ってくるのも、ボクでも結構大変だったね」
パニは両足を投げ出して、ふぁ~と一つ大きく息を吐き出した。が、まだ厚みのない少年の胸に、再び泣き出したフォルテが抱きついた。
「……心配掛けてごめんなさい、フォルテさん」
「いいえっ! いいえ……」
胸に押し当てた耳が、パニの鼓動をハッキリと確認する。服の上からでも伝わるぬくもりが、生きていることを証明する。そしてフォルテの愛情に応えるように、パニはその髪を優しく撫でてやった。
「よっしゃ~! これで正式に全員無事ってことでOKだな! んじゃあ今度こそオレは王宮へ行くから。パニは……」
「……ボクも行きたい! どうして王女さまでなくボクが狙われたのか、誰がボクを狙ったのか……知りたいんだ。ごめんなさい、フォルテさん。ボク……」
「謝らないで、パニ。わたくしたちはもう大丈夫よ。どうか……姫さまのことを宜しくお願いします」
「……はい!」
差し出されたリーフの手に手を取り、パニは勢い良く立ち上がった。釣られるように目の前に立ったフォルテと瞳を合わせ、真摯な表情で約束を交わす。
──王宮に戻れば、敵の正体も襲われた理由もきっと分かる。そしてアンさまも──この手で必ず守ってみせる!
リーフとパニは一行に手を振って、坑道へ向かって駆け出した。
二人の雄姿を見守るフォルテたちの面には、信頼を表す微笑みが刻まれていた──。
◆ ◆ ◆
「レっ……レイン!? レインっっ!!」
メティアの叫びが地下道に反響した。
「あ……あっ……レ、イン……」
呆然としたアンの唇から、やっとのことで愛しき人の名が零れ落ちた。
その声と同時にメティアは牢の入口へ突っ走る。前面を覆う錆びた鉄格子の下部、同じく格子状の扉は幸い開いている。腰を屈めて中へ滑り込み、焦り慌てながらも何とか縄をほどいたが、レインはまるで荷を降ろされたようにメティアの懐に落ちてきた。
「レインっ──」
「どうぞ姫さまはそのままで。レインさまはあの女が介抱するでしょう」
「……イ、シュケル……?」
四つん這いでレインに向けていた視線を、目の前まで寄ったイシュケルの面へおもむろに上げる。その視界の端には先程突きつけられた剣の尖端がぼんやりと映り込んだ。
「アンっ、大丈夫か!? お前、一体何をーっ!?」
レインを抱えてしゃがみ込んだメティアが、二人の様子に気付いて牢内から噛みついた。
「女よ、安心するがいい。わたしは姫さまに危害を加えるつもりはない。もちろんこのまま姫さまがわたしの言う通り大人しくいてくれたら、だが。それよりレインさまの手当てをしたらどうだ? まだかろうじて息はあるだろう?」
「オ、マエぇぇぇっ!!」
メティアの左手が勢い良く格子を握り締め、怒りを込めた指先がハラハラと錆びの欠片を引き剥がした。しかしアンは切ない眼差しを送り、無言で首を横に振る。
「自分は大丈夫」だと言うように。「それよりもレインを」と伝えるように。
その意を汲み取ったメティアは悔しさに歯ぎしりしながら、レインを優しく床に寝かせた。まずは頭頂部、側頭部、後頭部を、ゆっくりと指の腹で確かめていく。顔の表面から首筋、両肩両腕まで全て外傷は見当たらない。そして胸からみぞおちへ。すると今まで息をしているのかも分からなかったレインが突然喘いだ。
「レイン!」
アンとメティアの声が同時に響く。二人の想いはレインの意識を覚醒させた。数回瞼を震わせたのち、レインはようやくその眼に色彩を映し出した。
「うっ……此、処は……」
「レイン! 無事か!? どこが痛む?」
徐々に鮮明と化す風景の中心、焦点とされたのは深い「赤」だった。メティアの色。赤い巻き毛、赤い唇、更に赤い爪先が心配そうに近付いてくる。
「メティ──? ぼ、くは……だ、いじょうぶ、だ……それより、ア、ンは……!?」
起き上がろうとして再び痛みに声を荒げる。掌が押さえたのは先程苦しみを示したみぞおち近くだ。どうやら肋骨を数本折られているようだった。
「レイン! あたしは無事よ! ごめんなさい……こんな目に遭わせてしまって……」
右横からの遠い謝罪に、レインの首が咄嗟に反らされた。見えた人物の様子に瞳が最大限見開かれる。床に這いつくばる王女と、その身に剣を向ける家臣。余りの衝撃に痛みも忘れたのか、弾かれたように身を起こし、レインは鉄格子に両手を絡めた。
「アン──!!」
「さすが幼き頃から姫さまを大切にしていらしたレインさまでございますね、といったところでしょうか」
剣のターゲットはそのままにして、イシュケルは身体をレインへと向けた。
「やはり……君、だったのか。二度目に店主へ……報告書を届けたのも、君なのだろう? 残り五人の兵士たちには、目隠しと猿轡で気付かれぬようにして……自分も牢獄に囚われているものと、思い、込ませ……五人の偽者と共に、僕にも近付いた」
途切れ途切れ息を吐き出しながら真相を解き明かしたレインに、イシュケルはただ無言で頷いた。六人の兵士たちの顔も声も、うろ覚えである店主であれば欺くこともたやすいが、レインにすら嘘を信じ込ませることが出来たのはそういうことだ。肯定したイシュケルの顔つきには何ものも示されていなかったが、レインとアンには不敵な笑みが隠されているように思えた。
「レインさまがこちらへお戻りになられる直前、わたくしも五人の元へ戻ったのです。下僕に手首を縛らせましたが、危うく目隠しと猿轡を忘れるところでした」
「どうして……イシュケル! 一体何の目的があるというの? あたしたちをずっと見守ってきてくれた貴方が、どうしてレインにこんな酷い仕打ちをするの!?」
アンは頭上のイシュケルを問い詰めながら上半身を立ち上げた。だがすぐにその動きは剣先に止められ、それは再び王女の首筋を捉え直した。それでも彼女の強い瞳は決して変わらない。
「神に誓って……レインさまに暴力を振るったのも、十字架に張りつけたのもわたくしではございません」
「では、誰が! どうしてレインを!!」
「わたくしは少々レインさまに眠っていただく「処置」をさせていただいたまででございます。それから「主」の元へ報告に参りましたが……行き違いになった間に、「主」の家来たちが与えた処罰であるのかも知れませぬな。……姫さま、貴女さまがこうなられましたのは、貴女さまがわたくしを裏切った人物の血を受け継ぐ者であられるからです。そしてレインさまはその者の手助けをしていらしたゆえ」
「う、らぎり……?」
アンの問いとイシュケルの答えが連なる間に、メティアの肩を借りてレインが牢から脱出した。一見したら特に傷などは見当たらないが、その身は力なく息も絶え絶えとしている。アンまであと数歩という先でとうとう膝を突き、二人は同じ体勢のままお互いを案じて見詰め合った。
「既に二十年余、わたくしはナフィルにこの身を捧げてまいりました。ですが……元はリムナトの兵士──と言われましたなら、貴女さまは信じられますか、姫さま?」
「リムナトの……? イシュケルが、なの?」
「はい」
即答した家臣の顔を今一度仰ぎ見る。アンには分からなかった。この騒動は周囲三国を支配下へ置こうとするヒュードル候の企てだったのではなかったのか? 元リムナト兵であったナフィル近衛隊長を裏切った人物と、その者に協力してきたという我が婚約者、そしてその者の血を引く自分……? これら全ては断片ですらここまで目に見えることはなかった。それは誰かが嘘をついていたからなのか? それとも誰かが秘密を隠し通してきた?
相対していたイシュケルはゆっくりと振り返り、その横顔はレインの見上げる視線と繋がった。
「レインさま。わたくしは……クレネの父親でございます。と言えば、お分かりになられますね?」
「ク、レネ……さま」
その説明に、レインの震える身体は縫い留められたかの如く静止した。それも数秒、ハッとした面持ちでこめかみに右手を添える。手繰り寄せられた古い記憶は、レインに真実を導いたようだった。
「ちがっ、イシュケル! 誤解だ……クレネさまは──!!」
その時、鋭い銃声が全ての刻を一瞬にして止めた──。
◆次回の更新は三月二十七日の予定です。




