[1]降り出した雨 〈A〉
あたしだけが、知っている──。
砂と岩に囲われた我が祖国では、唯一あたしだけが知る音だ。
世界で一番清らかで儚げな韻律。
心奥に染み透るその流麗な響きは、民を生かす源となる。
そう……水の──反響。
寄せては返す白い岸辺に、震える指先を浸す。
絶えることのない水の流れは、あたしを優しく包み込んだ。
ひんやりとしているのに、不思議と感じる温かな想い。
きっと貴方の愛情が注がれているから、なのね。
水面に映る自分の面に、貴方の笑顔が重なった。
だからあたしは枯れたりなどしない。
たとえこの水が、いつの日か尽きようとも──。
【以前、目次背景が設定出来ていた時に使用していた画像です】
──……さま? 姫さま!?
「ん……」
「姫さまっ! お、お目覚めになられましたか?」
遠く微かに聞こえた声が、グンと距離を縮めて鮮明になった。
僅かに開かれた瞼から、見える景色も次第に輪郭を纏う。
「あ……フォルテ?」
自分の声がその名に辿り着いた時、自然と唇に笑みが宿った。相変わらずの心配そうな表情。ついクツクツと喉の奥で笑ってしまう。
「まぁ~姫さまったら! すすり泣くようなお声が聞こえましたから、慌てて参上致しましたのに……それともわたくしめを驚かせるおつもりだったのですか!?」
『姫さま』の目前に迫っていたフォルテの鼻先は、急に止められて横に離れた。十二も年上なれど、少女のように頬を張って憤慨する姿は可愛らしい。──などと口にすれば、またふくれっ面となるであろうが。
「フォルテの耳はどうかしちゃったの? あたしは泣いた覚えなどなくてよ?」
更にからかいの言葉を掛けて、彼女は寝台から身を起こす。けれど隣で腕を組むフォルテを見上げようとして気が付いた。目尻からひとしずく涙が流れている。慌てて逸らした視界に入る、些末な煉瓦積みの壁面。そうだ……このひんやりとした感覚に触れた指先が、あんな夢を見せたのだ。あの地下洞が湛える命の水を。
「このフォルテに隠しごとなど、通せるとでもお思いでございますか!? さぁさ姫さま、お顔をお見せくださいませ。わたくしめがその水晶の如きお涙を拭って差し上げます」
「クリスタルだなんて……」
フォルテの譬えは昔から大仰だ。苦々しく笑っていると、涙の伝った頬が柔らかい布地で包まれた。
「フォルテ、あたしを甘やかし過ぎよ」
含み笑いで咎めながらも、せっせと働く手に身を委ねる。
フォルテの母親は姫の乳母であった。物心つく頃には、既にフォルテも見よう見まねで彼女の世話を手伝っていた。それから約二十年、心配性は玉に瑕だが、今でもかけがえのない第一等侍女である。
「もう……何度目の朝になるのかしら? フォルテ」
寝台から立ち上がり、一筋の光を注ぐ小さな窓に目を向ける。画鋲で留められた厚手の布地は、いかにも急ごしらえといった様相だ。
「……三度目、でございます。姫さま……」
「……」
窓辺に寄せる歩みが、その答えと共に止まった。まるで「近付いてはなりませぬ」と諌められた気がしたからだ。「少しでも『中』の気配を悟られてしまえば、命の保証はございませぬよ」──そう諭されたかのように。
「もう……四日目、ということね」
朝日の弱さから、外は薄曇りと思われた。幽かな彩りを真っ直ぐ見詰めて、姫は小さく溜息をついた。
彼女たちが身を「隠して」いるのは、自国の城内などではない。小さなパン屋の暗い屋根裏部屋だ。それも一山を挟んだ隣国リムナトの。そして友好な関係を築き上げてきた筈のこの国は、四日前より敵国と化していた。
姫──アンシェルヌ=レーゲン=ナフィル。親しみと慈しみを持って、国民より「アン王女」と称されているナフィル国第一王女である。透き通るような白い肌に、エメラルドの如き深緑の瞳、実直な性格を象徴するかのような長く艶のある黒髪が美しい姫君だ。昨今では病床の父王に代わって、周辺諸国との外交も担っている。残念ながら母である王妃は産褥熱によって他界し、近親に国を統べるに足る男子もいない。全てはまだ二十歳を二年ほど越えたばかりのアンシェルヌに集約せざるを得なかった──なのに。
──まさか国を離れた隙に、こんなことが起こるなんて。
姫は遠くを見通すことも出来ぬ窓から視線を外し、寝台の長手に腰を下ろした。
「姫さま、小麦の焼ける良い匂いがしてまいりましたわ! まもなく今朝一番のパンが焼き上がるのかと。戴いて参りますので、しばしお待ちください」
フォルテは嘆息を洩らした姫を元気づけるように、いつになく声を張った。
「あ……では店主にこれを」
戸口へ向かう背に一言、フォルテを引き止めるアンシェルヌ。
腰元に括った小さな革袋から、五枚の金貨を取り出してみせる。
「そ、それは幾らなんでも多すぎます、姫さま!」
傍へ戻ったフォルテは、その高額な謝礼に目を見開いてしまった。
「四人分もの食事と寝所を提供いただいている上に、彼ら自身の国から匿っていただいているのよ? 見つかったら反逆罪……死刑すら免れないでしょうに」
「ですが……」
既に四日分に見合う対価は支払っている。フォルテはそう言いたそうだった。
「そろそろリムナトの探索もこの店に及ぶでしょう。その前にどうにかナフィルへ戻らないと」
此度は王宮へ立ち寄る予定もなかったため、リムナトの経由にはほぼお忍びの形をとっていた。されど彼女たちの入国が中枢に伝わっているのは明らかだ。なのに出国した形跡がないとなれば、潜伏先は国内の何処か、ということになる。やがて近衛兵による家探しが開始されるのは必至だった。いや、もはや水面下では行われているのやも知れぬ。そしてその探索者は兵士だけでなく、この地の全国民にまで波及しているかも知れなかった。
「承知致しました。でしたら姫さまは、この金貨で買えるだけのパンをお召し上がりになりますよう! 宜しいですね!?」
「え?」
金貨五枚分のパンだなんて、何十人でも食べきれないほどの数となるに違いない。日光に晒されることのない狭い部屋に丸三日。気力も食欲も失いかけている若き姫君を、励ましたい一心で放ったフォルテの戯れだった。
「……分かったわよ、フォルテ。たーんと貰っていらっしゃい!」
その溢れる愛情に、アンシェルヌも語気の強さと笑顔で応えた。フォルテは満足げに一礼をし、弾かれたように扉を開く。廊下でウトウトと舟を漕いでいた侍従の二人は、驚きを隠せぬままあたふたと立ち上がった。居眠りを主に目撃されてしまったのだから、バツが悪そうなのは仕方あるまい。
「貴方たちはまだ休んでいてちょうだい。フォルテが大量のパンを運ぶまではね」
おどけたついでに投げた絶品ウィンクは、彼らに安堵を与えたようだ。微笑みを湛えた敬礼に見送られて、姫は再び室内に閉じ込められた。
──さて……このまま状況が変わらないとすれば、今夜にも動かないといけないわね。
独りにされた空間で、アンシェルヌはこれまでに起きたことを反芻した。そしてこの「水の都」と呼ばれし天より祝福を受けた地リムナトと、我が国ナフィルとの繋がりを。
天より祝福を受けた──リムナトが何故そう称されるかは、屋外へ出れば直ちに察しのつく事実だ。北から吹きすさぶ寒波も南から襲いくる熱波も、この国を守るようにグルリと囲う高い峰が寄せつけることはない。西の山脈を抉るように落ち窪んだ谷からは、温かな風と共に慈雨が降り注ぎ、沢山の作物を稔らせている。国の東には広大な湖が広がり、美しい森と其処に棲む動物たちを健やかに育んでいる。
対してアンシェルヌの母国ナフィルは──。
東から吹く乾燥した風は、国土に砂をばら撒くだけだ。西に位置するリムナトを通過した空気も、既に水気を残していない。リムナトと違って北と南に防風壁となる山はなく、冬には極寒に、夏には酷暑に耐え忍ばねばならない。そんな不毛な土地で唯一金目になりそうな物は、領土の大半を埋め尽くす岩の大地しかなかった。
そのため古よりナフィルの男たちは岩山を掘削した。時には地下をも掘り起こし、切り出し、磨き、硬い岩盤を精錬された資源に変えた。ナフィルの石材は色柄も多彩で、美しく頑丈だ。それらを売ること、その過程によって鍛え上げられた男たちの労働力こそが、ナフィルにとって貴重な国益を生む源となった。
隣国リムナトは穏やかな気候と肥沃な地ゆえに、他国からの侵攻も頻発している。そのためナフィルは強固な石巌と国民の人力を提供する代わりに、リムナトから安全で安定した水の供給を得てきたのだ。
つまりリムナトの鉄壁な城塞とそれを守る傭兵の殆どは、ナフィルによって賄われ、一方リムナト東部の湖より地下パイプからもたらされる清らかな水によって、ナフィルの民は生かされている。生かされているのも同然、であった筈だというのに──
──我が民がそんなことをするなんて……違う、あたしは絶対に信じない。
アンシェルヌは両手で顔を覆い、瞳を閉じた。
「事件」が起きたのは四日前のことだった。アンシェルヌの一行はリムナトの北、一山向こうの小国ルーポワに、木材輸入に対する輸送費軽減の交渉に出掛けていた。ルーポワは「森の都」と呼ばれ、対して「砂の都」と呼ばれる荒野の如きナフィルには欠かせぬ建材や燃材も多い。リムナトにも同種の木材はあるが、ルーポワの北から吹く冷たい風が、組織を堅強に引き締めてくれるのだろう。砂塵に耐えうる材質の良さには昔から定評があった。但しリムナトを跨いでの交易には費用がかさむため、以前から輸送に関する減額修正への要求は続けられていた。父王の代としては、既に三度目の訪問となる。が、これこそまさしく三度目の正直であった。ようやく良い感触を得た一団が、意気揚々と帰国の途に着こうという矢先、その事件は起きたのだった。
『ナフィルの傭兵数名が、リムナトの王宮で謀反を働いた』
ルーポワから山を越え、リムナトの中心街まで辿り着いていたアンシェルヌたちに、思いがけず届いた一報。懇意にしているこのパン屋に立ち寄っていなければ、彼女の耳には入らなかっただろう。聴いたからには早急に王宮に出向き、国王代理として騒動の釈明と謝罪をすべきだった。しかしこの時は「タイミング」が悪すぎたのだ。もしも店主の申し出がなければ、今頃は捕縛され、詰問され、糾弾され……それからどうなっていたことか、アンシェルヌにさえ想像もつかない。
この旅に同行していたのはフォルテと廊下の侍従二人の他に、更に近衛兵が六名。全員を匿うには屋根裏部屋は狭く、また彼らからも「事件の全容を確かめるため、城下に潜伏したい」と切望されて別行動となった。つまり誰もがそれを謀反とは思っていない。もちろんフォルテもアンシェルヌ自身も。何故ならリムナトを敵に回せば、ナフィルは息絶えるしかないからだ。全ての生物に必要不可欠な「命の水」。リムナトに供給を止められてしまえば、ナフィルの民に生きる道はない。だとしたら、何を持ってしても、ナフィルの傭兵たちがリムナトに楯突くことなど有り得なかった。
── 一刻も早く事の真相を探り、何とか誤解を解かねばならない。
そう思えばこそ、こんな王城の目と鼻の先に隠れている場合ではないのであるが、アンシェルヌには直ちに動けない唯一の事情があった──それが「タイミング」だ。
──でも、もうリミットは近付いている……この場所が知れて店主が罰せられてしまう前に、どうにか此処を離れなければ──
顔を覆う冷たい掌に、温かな吐息が触れる。その時階下より勢い良く駆け上がる足音が響いた。奏でるリズムからフォルテのものだと察せられたが、あれほど「物音には気を付けるように!」と、侍従たちに口うるさく注意していた本人のものとは思えぬ慌てようだ。もしやリムナトの誰かに居場所がバレてしまったのだろうか?
アンシェルヌは寝台から立ち上がり、祈るように胸元で両手の指を絡めた。その手が深奥の振動を知る。血液を集め、送り出すその臓は、いつにも増して激しく拳を揺らした。
「ひ、ひ、ひ、姫さまっ!!」
扉は鼓動に負けぬ速度で開かれた。フォルテの大声が心臓の響きを掻き消した。
「……あ……あぁ……」
艶やかな唇から言葉にならない声が、葉を重ねたような濃い翠の瞳から涙が、泉の如く溢れ出した。
フォルテに続いて現れたその御姿に、アンシェルヌの心音は平穏を取り戻していた。
──……間に合って、くれた……──
「遅くなって、本当にごめん……アン」
この時彼女は気付いただろうか? 窓の外では優しい雨が降り出していたことに──。
◆挿絵のアンの髪を覆っているのは、ルネサンス時代の貴族女性に流行した「クレスパイン」というメッシュ状の装飾です。
この度はこのような辺境の地までお越しくださり、誠にありがとうございます。
今作は五年半前の退会後に手掛けた中世ヨーロッパ風ファンタジーです。
記憶が定かではありませんが、2018年の秋には完筆していた模様です。
また後ほど再掲載する予定ですが、以前連載しておりました『砂の城─インド未来幻想─』に近い、少し硬めの三人称で語らせていただきました。
挿絵イラストも自分ではなく、五年前のツイッター滞在時にお世話になりましたaz様に依頼させていただき、イメージピッタリの雰囲気ある登場人物を描いていただいております。
az様、この度は誠にありがとうございました。
全二十話・十万字弱、更新は一~三日置きとなります。
*どうぞ最後までお付き合いくださいませ*
朧 月夜 拝
◆次回の更新は二月二十日の予定です。