3. マリアは涙を見せたらしい。
私がレオンになってから半年ほど経っただろうか。体力の限界まで剣の稽古をしつつ、ベッドに倒れこむ日々が続いた。それにしてもレオンの体力はすごいものだ。そして筋肉痛がその日のうちにきて、すっと引いていくのも心地よい。前世で運動部に入ったことはなかったけれど、運動も良いなと自然に感じられた。
今日も日課のランニングを終えて屋敷に戻ると、玄関ロビーにマリアの姿があった。夜まで仕事のはずなのに、と不思議に思っていたが、いつもしっかりしているマリアにしては珍しく少し動揺しているようだ。何かがあったらしい。
「あら、レオン。おかえりなさい」
「母様こそおかえりなさい。どうかしたのですか?」
「いえ、ちょっとね。荷物を取りに帰ってきたのよ。私たち今日は遅くなりそうだから、先に寝ててちょうだいね」
マリアは、ほんの少しだけいつもより早口だった。何かがあったと察することはできるが、それだけだ。そもそもレオンはまだ10歳の子供だった。子供にはあまりしたくない話なのだろう。聞き分けの良い子供でいることにして、余計な心配をかけないようにすることしかできない。
「わかりました」
「いい子にしててね。アマリリスはどこに?」
廊下の先からドタバタと、この場の空気におよそ相応しくない音がする。
「母様の声がする!母様に呼ばれた!」
アマリリスが走ってきた音だった。まだまだ無邪気なこの少女はお転婆盛りだが、どうやら耳は非常に良いらしい。
マリアは少しため息をついている。
「アマリリス、廊下は静かに歩きなさい。立派な淑女になれないわよ」
「私は淑女にならないからいいの!」
「全く……まあ今はいいわ。アマリリス、今日は帰りが遅くなるからいい子にしててね。レオンの言うことをよく聞くのよ」
「はーい!」
マリアはアマリリスの頭を少し撫でてから、外へ出て行った。心なしか急ぎ足だった後ろ姿を、私は静かに見つめることしかできなかった。
深夜にふと目が覚めた。どうやらダンとマリアが帰ってきたらしい。音を立てないように起き出して、そっとドアを開ける。2階の廊下には誰もいないようだ。階段の方へ静かに近づいていくと、ダンの声が漏れ聞こえてきた。
「しかしハミル家の当主が亡くなるとは、未だに信じられない。それに奥方までとは……」
私は思わず足を止めた。ハミル家とは、3侯爵家のうちの1つだ。たしか、当主は法務局の局長だったはずだ。
「そうね、昨日お城で会ったときは、仕事に復帰できたと喜んでいたのに……」
止まった足はじゅうたんに縫い付けられてしまったかのようだ。マリアの涙声など、レオンの記憶を通してでも、初めて聞いた。
「マリアと奥方は再従姉妹か」
「ええ、歳も近かったから。学園時代はよくお喋りしたものよ。最近はお互いに忙しくて、ゆっくり話す時間もなかったわ」
ポン、と、ワインのコルクが抜けた。トクトクとグラスにワインが注がれる。いつもは背景となる音たちが、今ばかりは空虚に響いている。
「ハミル家の当主夫妻に」
「ええ。メイと旦那様に」
グラスが合わさる音がして、次に聞こえたのは母のため息だった。そこからしばらく、ワインに喉を鳴らす音以外は何も聞こえない。世界に生き物がいなくなったかのようだった。
長い静寂の後、口を開いたのはダンだった。
「侯爵位はどうするんだ?ハミル家は、女の子が1人だろう」
「いいえ、半年前に男の子が産まれているの。とりあえずはエミリアちゃんが保持して、その子が10歳になったら移すそうよ。大叔父様が後見だから、周りも簡単には手出しできないとは思うけれど……」
現実的な話に、マリアは少しだけ気を持ち上げたようだ。気を張らなければいけないことは、たしかに気分を紛らわせてくれる。
この国は、圧倒的に男性社会だ。10歳以上の男子にのみ爵位が認められている。幼すぎると病気で亡くなる可能性が高かった頃の名残りで、年齢が定められている。しかし戦時中、「次代がまだ幼いのに当主が戦死してしまい、爵位が召し上げられそうになった」事件があった。国のために戦ったのに報われないのは不合理だとして、次代が認められるまでの期間限定で、女性が爵位を保持する制度が生まれた。
「大叔父様がいたとしても、エミリアちゃんは狙われるでしょうね……」
爵位を保持した女性は、次代を指名できる。王宮での職位の多くは爵位と比例するため、子供に兄弟がいる場合などは頭の良い方を選ぶのだ。また、子供が王宮で勤められる見込みのないときは、親類を指名したこともあるらしい。制度上、10歳以上の男子ならば、この指名は誰でも良いのだ。
「先代ハミル侯爵ならば何とかしてくれるんじゃないか。一線を退いたとは言っても、やり手の爺さんだからな。法務局も大丈夫だろう」
「ええ、そちらは大丈夫なはずよ。ただ、大叔父様は法務局に少しの間かかりきりになるでしょうし、大叔母様は腰を悪くしていらっしゃるし……私もたまには顔を出すことにするわね。そうだ、エミリアちゃんとレオンは同じ歳ね。気分転換になるかもしれないから、子供たちを一度連れていこうかしら」
マリアの声のトーンが戻るにつれて、私の周りの空気も緩んできたようだ。情報は十分に得られたし、気づかれないうちに部屋に戻ろう。私は静かに息を吐きながら廊下をあとにした。
レオンが戻った後、階下にはまだ静かな声が響いている。
「ねえ……あんな場所で事故なんて、やっぱり信じられないわよ。あんなに道幅もあるのに崖から馬車が落ちるなんて、普通じゃないわ」