【5話】花見川家に出たゴキブリを退治するだけの話
「ででで、でましたあ!」
6月の第三土曜日のことだった。
一学期の期末試験を目前に控え、一日中家で勉強を進めたり進めなかったりして、そろそろ晩飯にしようかと考え始めた頃。
あと少しで時計の針が19時を指すというくらいで、不意にさくらから電話がかかってきた。
「なにが」
スマホをスピーカー設定にしたので、彼女のけたたましい騒ぎ声が静寂に満ちた僕の部屋にキンキン響き渡る。
「ゴキブリですよゴキブリ。しかも結構でかいんですよこれが」
「そうか、大変だな。じゃあおつかれ」
「待て待て待て待て!ちょっと待って!」
ハウリングを起こすほどの声量で、スマホからさくらの声が響く。
「うるさ……親に言って駆除して貰えよ」
「パパもママも二人でお泊りデートに行ったでござる」
「仲良しか……」
「というわけで、今この家には可愛い可愛いさくらちゃんしかいません」
花見川さくらは一人っ子だ。そして家族三人での一軒家暮らし。つまり、今彼女の家にはウザいやつが一人いるだけということ。
「さあ問題です。この話を聞いた先輩が取るべき行動はなんでしょう?」
「話を最初から最後まで黙って聞いて、大変だねって同調してあげる」
「いや、女の子の扱いとしては100点ですけど。この場合においては0点です」
「じゃあ、落第ってことだな。電話切るわ」
「いや、補習があります。切らないでください」
しょうもないやり取りを繰り返す。
僕は教科書を閉じて、机の端に積んだ。まあ、今日は一日そこそこ集中して勉強できたと思う。
じわりと肩に残った疲労感を、大きく伸びをしてほぐす。
「いいから早く来てくださいよ。なんとかしてくださいよ先輩」
「でも終電があるしな……」
「いやいやいや。家、隣だから。ちょっとカーテン開けて見てくださいよ」
言われるがまま、締め切られたカーテンを開けた。窓の向こう──3mもないくらいの距離に隣の家があって。窓のところに、今にも泣きだしそうな顔のさくらが立っているのが見えた。
「このまま私が、黒くて大きいモノに全身を好き放題されてもいいって言うんですね先輩は」
「いや言い方」
「とにかく、助けて~」
「はあ……しゃーないな」
と、いうわけで。
僕とゴキブリの仁義なき戦いが、幕を開けたのである。
〇
「そのへんにいると思います」
「いや、範囲広すぎるだろ」
決戦の場は、花見川家の1階リビング。
もう6月だというのに炬燵が出しっぱなしになっていて、炬燵を囲うようにL字のソファーが置かれ、部屋の角の部分に液晶テレビがある。
リビングの後ろにはキッチンがあり、ダイニングテーブルが置かれている。けれど、あまり人の家の中をじろじろ見まわすものではないだろう。
僕は敵が潜むリビング部分を注視する。この家に上がるのは初めてではない。中学に上がるまでは、たびたび遊びに来たものだ。どことなく懐かしい気持ちになる。
「……てか、散らかしすぎだろ」
「あとで片付けますよちゃんと」
炬燵の上には、お菓子やらなにやらの空き箱や袋といったゴミが散乱している。たぶんこいつ、今日一日中ここにいたんだろうな。
「見かけたのは炬燵の周りです。床をさささっと動いてました」
言われて見ても、ゴキブリの姿は見当たらない。恐る恐るソファーの脚のあたりを確認してもいなかった。恐らく、炬燵の布団の中に隠れているんだろう。
「じゃあ、よろしくおねしゃす」
「おい、ちょっと待て」
しれっと離脱しようとするさくらを呼び止める。
「いや、だってこっち飛んできたりしたら怖いじゃないですか」
「大丈夫だ。ゴキブリは滑空しかできないから、壁にいるときじゃないと空を飛ぶことはできない」
「ぐう……正論で論破された」
軽口もほどほどに、ゴキブリが潜んでいるであろう炬燵の周りを確かめる。
けれど、その黒光りする影を視認することはできない。
「……たぶん、中だな。炬燵の」
「ひええ」
「布団を剥がしたら飛び出してくるかもしれん」
「ひいい」
ふざけているのか本気なのかわからない悲鳴をあげるさくらを他所に、僕は自宅から持参した殺虫剤を右手に構える。
言ってしまえば、僕だって虫は得意じゃない。ゴキブリなんて以ての外だ。世の中には素手でゴキブリを捕まえる人間がいるらしいが、彼らはたぶん前世が原住民か何かなんだと思う。
そんな僕がわざわざ出向いてきたのは、他でもないさくらの頼みだからであって。
なんだかんだ、彼女に頼られると断れない。彼女は僕のことを、頼りになるお兄ちゃん的存在だと思っているのだろうから。
彼女にとって理想の僕でありたいと思うのは、ただのカッコつけか。はたまた、別の何かなのか。
「ほら、もう一本持ってきたからお前も持て。そっち逃げていったら頼むぞ」
「ええ……やだなあ普通に」
もう一本の殺虫剤を、さくらの手に握らせる。口答えする彼女を無視して、炬燵に向き直る。
一度大きく深呼吸して。意を決し、布団にそっと、手をかけた。
「いくぞ!」
掛け声と共に持ち上げる。刹那、黒光りするヤツが、炬燵の中から飛び出した。
凄まじいスピードで床を駆け抜けて、ソファーの方へ向かっていく。
「うわああああああ」
改めて見るとマジキモい。半狂乱になりながら、殺虫剤をヤツに向かって吹きかける。
クリティカルヒットしていないのか、ヤツは速度を緩めない。むしろ元気に床を駆け巡る。
僕は負けじと殺虫剤を撒き散らす。逃げ場を失ったヤツは右往左往、部屋の隅のテレビ台の方へ移動していく。
「逃がすか!」
このままだとヤツはテレビ台の下に逃げ込んでしまう。そうすると色々面倒くさい。そのまま行方を晦ます可能性だってある。ここで決着をつけなければ。
一気に距離を詰め、至近距離で殺虫剤を噴射。弱り始めて足を止めたヤツの真上から、これでもかと言わんばかりに浴びせ続ける。
「フハハハハハ!これが人の強さ!!!」
「えっ、こわ……先輩どうしたんですかこわ。むしろキモい」
ヤツに対する恐怖と不快感で頭のネジがぶっ飛んだ僕を、さくらは冷たい目で見る。構うものか、この戦に勝てば本望!勝者こそ正義!
「いや……やりすぎでは。もう死んでませんかそいつ」
さくらに言われて、はっと我に返る。見れば、ヤツは僕の足元でひっくり返って動かなくなっていた。殺虫剤を浴びに浴びた死骸が、やけにテラテラしていてなおキモい。
「ふう……我の勝ちだな」
「我?」
──そうして、僕とゴキブリの死闘は幕を下ろしたのである。
〇
死骸を片付けるまでがゴキブリ退治だ。
むしろ、死骸を片付ける方がメインなような気もする。
死んだと見せかけて、急に動き出す可能性だってあるのだ。
僕はもう一度殺虫剤を吹きかけ、確かに死んでいることを確かめてから、新聞紙をうまいこと使って死骸をトイレに流した。
「はあ……ありがとうございました、ほんとに」
「くるしゅうない」
「まだ頭のネジ飛んだままなんですか?」
床を水拭きして、炬燵の上のゴミを片付け。ようやく一息ついた僕らは、ダイニングテーブルに向かい合ってお茶を飲んでいた。
「お前、晩飯は?」
「ママが作り置きしていったので、それを食べます」
「そうか」
淹れたての紅茶をフーフー冷ましながら、さくらは僕を見上げる。
「先輩、虫大丈夫なんでしたっけ」
「無理だぞ無理。超無理。ほんとに無理」
「そんなに言わなくても……まあ、それなのにわざわざ来てくれたんですね」
「まあ、一応彼女の頼みだしな」
言ってからなんだか恥ずかしくなって、僕は紅茶を啜った。
さくらはぽかんとした表情で、「やっぱりまだ頭のネジ飛んだままですね」と、楽しそうに笑う。
「ねえ先輩。水着と浴衣どっちがいいですか?」
「なにその二択」
「夏休みの話ですよ。海か花火大会、どっち行きますか?勿論両方でもいいですけど、先輩受験生だし」
「いや、どっちも行かんけど。受験生だし」
えー、とさくらは口を尖らせる。
「あ、じゃあ次の期末試験で私が全教科平均超えたらどっちか行きましょうよ」
「むしろいつも平均超えてないの?やばくない?」
「伸びしろがあるって言ってください。じゃ、それで決まりで」
なんて。
他愛もない話をしている時だった。
ダイニングテーブルの隣にあるキッチンの方から、何かがガサゴソガサゴソと。
カサカサカサカサ──蠢くような音がして。
僕らは口を噤んで、顔を見合わせた。
「じゃあ、僕そろそろ帰るから。都子待ってるし」
「いやいや、もうちょっとゆっくりしていけばいいじゃないですかぁ。ね?」
立ち上がろうとする僕の手を、凄まじい力で押さえつける。
「まあ、ゴキブリって1匹見かけたら100匹はいるって言うしな」
嫌味たっぷりに言ってやると、さくらはにっこりと微笑みを浮かべて。
「泊まっていってくださいよ。あ、終電なくなっちゃいましたね」
「いや、家隣だから終電とか関係ないし」
そうして、夜は更けていく。
──僕とゴキブリの戦いが再び幕を開けたのは、また別のお話。
お読みいただきありがとうございます。
私事につき、明日は更新をお休みさせていただこうと思います。
次回からは新キャラも出して、少しずつお話を進めていこうと思っています。
お付き合いいただければ幸いです。