【0話】忘れかけている幼い頃の話
「あのねー、今日隣の席の男の子に好きって言われたのー」
幼い頃の記憶。場面でしか思い出すことのできない、すっかり遠くへ行ってしまった記憶。
小学校からの帰り道。二年生になったばかりの僕と、一年生になったばかりの彼女──花見川さくら。
僕たちは、人気のない道を並んで歩いている。
「ふうん」
僕が、さして興味もなさそうに相槌を打つ。それを気にする様子もなく、「それでねー」と、さくらは話を続ける。
「私もだよー、って言ったら、付き合う?って。よくわかんなかったから、やだって答えた」
「かわいそうに」
「付き合う、ってなんなの?」
さくらの無垢な瞳が僕を捉える。幼い僕は答えに困る。僕だって、よくわからない。
ただ、たまたま見ていたテレビで愛とか恋とか、付き合うとか結婚するとか、そういう話をやっていたのを見ただけ。
その時、お母さんが僕に言ったこと。僕はそれを、そのままさくらに伝えた。
「好きな人同士はお付き合いして、それで結婚するものなんだって。僕たちが生まれたのも、お父さんとお母さんが好き同士で、付き合って、結婚して、子供を作ったからなんだって」
「子供ってどうやったらできるの?」
「いや、それは知らない」
お母さんはそこまで教えてくれなかった。あとでまた聞いてみよう。
「じゃあ──京ちゃんと私も、付き合って結婚するの?」
京ちゃん、というのは僕だ。僕は「なんで?」と答える。
「私、京ちゃんのこと好きだもん」
「隣の席の男の子のことが好きなんじゃなかったっけ?」
「その子より京ちゃんのが好き」
「一度に何人も好きな人を作るのは、浮気とか不倫って言うらしい」
「それ、逮捕される?」
「わからん」
「じゃあ私が好きなのは京ちゃんだけー」
「どうも」
よくわからないけど、とりあえず礼を言った。
「京ちゃんは、私のこと好き?」
楽し気な鼻歌を歌いながら、さくらが僕に問いかける。
その問いに対して──僕が何と答えたのか。都合のいいことに、そこから先の記憶は曖昧で。深い靄がかかったように、思い出そうとしても思い出すことはできなかった。