第二章 四節
四節
【閉じ込められた夕景】
蝕まれていく。開放感に、責任を。
奪われていく。本能に、愛情も。
失われていく。徐々に、尊厳を。
食まれていく。力に、友情さえ。
置いていかれる。友に、家族に。
いつだって、自分はどこにもいない。
いな“かった”。
では、今は?
昨日の学校は、驚くほど早く終わったような気がする。と言うよりろくに集中できていない。授業もせいぜい現代文で何か詩をやったな程度だ。それもこれも今日のことをずっと考えていたからである。しかし、正直楽しみにしていたのが申し訳なくなるような事態が起きていた。
隣、というよりも少し後ろを歩くユヴァシャズが、家を出てから数分経ったくらいで、ただでさえ悪い顔色がさらに悪くなっているように見え、足取りも重たそうになっていた。要は、ルンルン気分でパパとデートなんていうそんなちゃちな子どもっぽいものであってはならないというわけだ。急ぎながらも、彼の容体を鑑みてペースを上げたり落としたりしなくてはならない。念の為人気のない道を歩いて、よかった。親切な人に病院へ行こうとか言われたらそれこそ足止めとなってしまう。
「ユヴァシャズさん、」
「大丈夫です。すみません…せっかくの外出だというのに…」
「と、とんでもないです。変なこと気にしないで。前、見えてますか」
「なんとか」
「…もう少しだから…あともうちょっとだから」
急ぎ足で、歩く。荒れていて、足元も砂利や石、枯れ枝だらけで起伏が多い。廃工場ではよくある、錆だらけのもう動かない機械が、中途半端な場所に転がってもいる。人の歩けるような道はあるけれど、あまり整備はされておらず、所々脇に笹が生えていた。擦れでもすれば浅い切り傷ができてしまいかねない。でも空気が澄んでいて、鬱蒼とした木々が密集していることもない、開けた明るい林道だ。幸いまだ昼だからか、自然特有の土と木々のカラッとした香りが鼻をくすぐる。鳥の鳴き声も、時々聞こえる。人間にとってはいくらかスッキリするような、ヒーリング効果のあるような空気だが。悪魔にとってはそれはどうなのだろうか。石を踏み土を踏み、枯れ枝を踏んで、後ろの鉛の足を引きずる音を確認しながら急いでいたが、急いでいたはずだが、聞こえない。
まさか、まさか─
と、振り返って、驚いた。
ユヴァシャズは普通に、立っている。というより、顔色もいい。しゃんとした、家でいるときみたいにきちんと背筋を伸ばして私を見下ろしているユヴァシャズがいた。足音がまるで聞こえないという厄介な癖のようなそれも、元どおりだ。元気になったんだ、よかった─と思いかけたが、何やら気に入らなさそうな、やや怒っているような表情だ。ここ、嫌いなのかな。あまり好きじゃないのかな。やっぱり汚いところだと思っているのだろうか。数多の不安が過ぎる中、彼が重々しく口を開き、低い、威厳や艶のあるいつもの声で言葉を紡いでいく。静かで、木々の葉の間から陽の光が差す、澄んだ空気の中で、それはよく響くような気がした。
「この林道に入ってから、徐々に気分は良くなってきました。瘴気も、家を出てからここまでの道とは比べ物にならないほどだ。」
「うん、…それは…よかった、けれど…」
「つまり。人の負の感情が大いにある。人の悪しき心や悲しみの記憶があるということです。言っている意味、わかりますか。我輩が少なからずも…怒っている意味、わかりますか。確かに貴様は恩人です。ここに連れてきて、我輩を回復させてくれたのも事実です。そこに関しての感謝はもちろん忘れません。これまでも、これから先も。ただ、それとこれとは違います。分別は付いています」
「…おこってるの…?」
「ええ。…ここは、危険な場所なんでしょうね。悪人、邪な遊びに浸った者、…少なからず獣の匂いもする。それに食い殺されて死んだ者、そういう者達の強欲やら怠惰やら色欲、悲しみ、喪失感、絶望、無念が充満している。色々な負の感情で濁った、ありきたりの瘴気だ。美味いとは言いにくい…こんなもののある場所に、こんな、いつ自分が何をされるかもわからないところに、貧弱な女の子供の貴様が、一人で出向いていたのですか…?
無謀…あまりにも、無謀」
「…、ごめんなさい」
「もう少し自分の体を大事にしなさい。2度とこのような場所に一人で来ないこと。約束できますね?」
それは、難しい。他の人と来い、というのは難しい話なのだ。私の目的も目的だし、それに、私は。彼が言った、悪人の類なのだから。心配して怒ってくれるのは、すごく嬉しかった。本当に求めていた、昔の父親や母親のようなそれだった。今までの寂しさが少しでも軽減してもらえたような。突然大人を押し付けられるようになった身としては、ユヴァシャズのそれはちょっと怖いけれど、なんだかホッとする。本当なら約束を守って彼のいう通りそうしたい。彼が親として守ってくれる、良い子のままで暮らしていたい。でも、私は知りたい。忘れてしまった足掻き方を、運命への抗い方を思い出したい。それを知らないと、いつまでも私の人生に光はささない。
「うん 約束します」
「よろしい 破ったら許しませんよ」
ちくり、胸が痛む。嘘をつくのには慣れていたはずなのに、どうしても、この悪魔相手だとそれはなんだかとても非道いことをしているような、悲しい気持ちになってしまう。私が頷いて安心したようにそっと微笑むのを見ると、尚更だった。嘘をついてはいけない相手。つくべきではない相手。つきたくない相手。彼が私に無償の愛を注いでくれようとするのに、応えたいのに。こうやって会えることを知っていたなら、きっとこんな、今苦しむようなことはしなかったのかな、と。思ったけど。それは私の行いを全てそのせいにしているようであると同時に気づく。嗚呼、全く。どこまでも度し難い人生だ。まるで上手くいかない。他の人は、もっとこんな苦しみなく、楽に笑えて生きているんだろうな。
「…ここ、ですか」
悲しい気分から俯きがちになっていた中、ふと声をかけられて顔を上げる。
「はい ここ…きっと良くなるよ」
そう、ここだ。
私と彼が目指した場所。今までの、生命溢れる緑の林道の先にある広い土地。赤から黄色のグラデーションに染まった空が広がっている。私の大好きな、終わりのような夕景。空虚で虚しくて寂しい、何者も絶対に許さず、吸い込んでしまうような赤─、赫、緋。白いはずの雲もたちまちに灼かれ、炭と化してしまうてしまうほどの、赤だ。寂しい寂しい色だ。この世の偽善を許さないような、絶対的な色。
真っ赤に燃え上がる夕日に照らされた、廃れ錆びた廃工場が見える。はらはらと足元をくすぐる、この空間に唯一残る暖かさ。日没の輝きをいっぱいに取り込んだ、ススキの黄金の海。ふわりと、野の香りに混じってささやかに香る、汚れた罅だらけのコンクリート、土っぽさと錆びた鉄の匂い。少しだけひんやりした風が髪を撫ぜては逃げていく。私が命を奪ってきた場所。私が命に触れてきた場所。私が良き人生を歩むための場所。静かで、穏やかで、冷静でいられる。役割を終えた小さな工場の眠るのが見えるここにいつも訪れては、一望を楽しんでため息をついていた。美しくて、寂しくて。景観をあまり崩したくないので、慎重に黄金の海をかき分けて歩んでいくのだ。
見上げれば、ユヴァシャズは言葉を失っている。圧倒されているのだろうか。悪魔の美的感覚にも、やはり何か感じるものがあるのだろうか。人間と同じものを美しいと思ってもらえるのは、嬉しい。
「…見事だ」
「ね」
綺麗だよね、と言おうとした矢先に、はあ、と困ったようなため息をついて前髪をかき上げながら、彼はいう。なんだか、負けたのを悔しがっているような。美しさで負けたとか、そういう感情だろうか。でも彼は思い返してみれば、自分の顔を醜いと言って嫌がっていた気がしないでもない。
「…美代子は、今まで─」
言いかけて、突然彼が何かに気づいたのか、ぐっと肩を掴んで自分の方へ引き寄せた。びっくりした。と同時に、お鼻を彼の胸より下、肋骨付近にぶつけて、けっこう痛い─鼻血が出そうだと思ったが、そんなことはなかった。何も出ていない。(私と同じ柔軟剤を使っているためか、嗅ぎ慣れた匂いもするが、それに混じって個人の匂いともいうべきであろう高貴な匂いがする。)痛いよ、と言って見上げるとごめんなさいと顔も見ずに言われた。その表情は初めて見るものだ。ひどく困惑、焦燥しているかのような。動揺している。初めて会った時、叔父さん相手にあんなに憤って、ものすごい力であの書斎に結構な損害を与えたあのユヴァシャズが。その見つめる先にを辿ると。
何者かが。人ではない者が、立っている。私の夕景を背負って。
待っていたとでも言うかのような佇まいだ。紫がかった銀色をした金属製の鎧が、本人の身を守るように周囲に浮いていて、その者は同じ素材でできた仮面をかぶっている。仮面の覗き穴のように空いている細長い隙間からは、眼光とも言うのだろうか、鋭い黄色の光が覗く。その目は真っ先にユヴァシャズを捉えていた。
「お前は…デビリスなのか?」
明らかに敵意しか感じないその者に、ユヴァシャズは声を掛ける。知り合い、ということは悪魔なのだろうか。水を差さないよう黙っていようとも思ったが、なんだか争いになりそうな。嫌な予感がして、ユヴァシャズの服を引っ張った。
「ね…ねえ、ユヴァシャズさん、見なかったことにして逃げよう…危ない感じがする、体の調子まだよくないんでしょ?」
「逃げたって、ずっと追われ続けるだけです。ビクビク怯えて、不穏なまま生き続けたいんですか、美代子は」
「それはやだけど…」
「我輩なら大丈夫 大丈夫ですよ。それに…まだ敵だと決まったわけじゃあない」
不安がる私の頭をぽんぽん撫でてくる手は、小さい頃盲腸を患い苦しんでいたお父さんが、手術直前に心配で泣き出してしまった私にそうしてくれたようなそれと、全く同じだった。あの時と同じで、ユヴァシャズは、きっと私のところに必ず戻ってこれるという確信があるから、こうやって大丈夫と言い張れるのか。お父さんというのは、そういうものなのだろうか。
彼の足元から、じゅわりと土をも溶かすような音を立てて、あの黒い淀みのような、破れた黒い蜘蛛の巣のようなものが湧き出てくる。同時に、髪の毛が焼けるような、血生臭いあの匂いも。初めて会った時に感じたそれを、今も感じながら、見ていた。その淀みはユヴァシャズの身体を足元から頭のてっぺんまでべったりと覆ったかと思えば、煤のようにパラパラ剥がれ、散っていく。そうしてようやく見えた姿は、初めて出会った時と同じ、赤紫色の、高貴な背広の紳士姿。よく似合っている。私の視線に気付いたユヴァシャズが、ああそうだと、思いついたように背広の上着を脱ぎ、
「わ、」
ばさりと頭からかけてきた。どういうことだ。コート掛けにでもなっていろとということか。なにするの、とやや重たいそれをなんとか手で持ち、抗議する。
「持っていてください。邪魔なんですそれ」
「な…なんだとう…」
さてやるかと言わんばかりに腕を回して私の前に立つユヴァシャズに、なんだか心配して損をしたような気分になった。意外と戦いに対してノリノリに見える。お家にいるときの、あの穏やかで優しい一面からは想像もつかないくらいには、なんだか嬉しそうだ。怒りでもなく、憎しみでもなく純粋に楽しもうとしているのだろうか。怪我をするのに?きっと痛いのに?
「美代子。彼は我が友人です。きっと久しぶりに出会えたものだから、お互い拳で語り合
おうということなのでしょう。大丈夫、お互い命をかけるようなことは無い筈ですから。何といったって彼は…あいつは、確かに我が親友なのです、そうなのです。我輩を手にかけようだなんて、そんなことするはずがない」
違う。ただ無理に自分を奮い立たせているだけだ。だって明らかに声が震えている。いつもの威厳がまるでない、弱々しい声色なのだ。戸惑いと動揺と不安しか感じられない。自分に言い聞かせているだけ。彼がこれほどまでに動揺しているということは、きっとあの悪魔は、本当にユヴァシャズの言うように親友で、裏切るはずなんかないと確信できるような人物だったのだろう。それが、微塵も親しげな雰囲気を見せず、ただただこちらを伺って、少しでも大きな動きを見せようとすればいつだって殺しにかかって来れるような雰囲気でそこに居るから。信じたくても、信じられないんだ。
「そうだと……そうだと言え、言うんだデビリス」
頼む、と彼が言いかけたその時、カッ、と眩しく何かが光ると共に、熱い鉄板に肉を押し付けた時のような音がした。しかし、食欲をそそるようなものとは全く別の、焦げ臭い匂いがする。見れば─自分の隣、やや前方に立つ彼の右肩から下が綺麗に焼き切られているのだ。
それが、彼が親友と呼んだ悪魔の返答だった。
「ゆ…ユヴァシャズさん……腕」
「──。」
ユヴァシャズはそれを受けて、無表情で自分の腕を眺める。唖然としてはいない。悪魔は静かに、憤っている。
「………デビリス…貴様……そうか そうか……ッ!」
かなり頭にきているようだった。義隆叔父さんに向けたそれほどでは無いけれど、ビリビリと空気まで震わせてしまうかのような、身体全体が重くなり、胸の奥が苦しくなってしまう程の、凄まじい怒り。隣に居るだけで、自分に向けてのそれではないのに足が竦んでしまう。それを真っ先に向けられているというのに、当の目の先の悪魔─デビリスは、どこ吹く風という風に翳していた手を下げ、腕を組みなおす。余裕綽々、という言葉がピッタリだ。その姿に、一筋縄で殺せるような相手ではないと本能的に理解した。あの悪魔は危険、脅威、自分に寄り添っているこの悪魔とはまるで違う、と。
そんな存在に、先の無い腕にも構わずユヴァシャズは向かっていく。痛みは、無いのだろうか。初めて会った日の、叔父さんに襲いかかったあの時といい、彼は身体が傍から見ても痛いと思うほどの損傷を負っても、まるで痛がる様子は見せない。痛みさえ超える怒りなのだろうか。悪魔自体が痛みを感じない身体の構造なのだろうか。何にも臆さず、怒りに任せてただ目前の敵に向かって、進んでいく。その道しか知らないと言うかのように。自分に退く道は無いのだと言うかのように。
その姿勢に、私の目は自然と釘付けになっていた。
たった一度の踏み込みからの、二十m以上の跳躍。悪魔という生き物は、人間より上位の生命体だ。人間より、何倍も強い生き物。何倍も優れた生き物。ユヴァシャズは高次生命体だと自称していた。その言葉に恥じず、一瞬に思えるほどのスピードで間合いを詰め、彼は有る方の腕で悪魔・デビリスの胸倉を掴み、軽々と、武装しているはずの身を持ち上げて地に叩き付ける。一度と言わず、もう二度と─再び悪魔の体を持ち上げたその時、それを狙ったかのように。すかさずユヴァシャズの顎に、デビリスの膝が。
「グウ…ッッ!」
痛さというよりも、視界を無理くり変えられたことに対する苛立ちのようなものを含んだ呻き声を上げて、ユヴァシャズは後方に蹌踉めく。それでも、しっかりと足を踏ん張って、立ち向かう姿勢は崩そうとはしない。こちらに引き下がってもこない。先ほど見せたあの動揺も、不安も、戸惑いも、嘘のように。一切の情無く、彼の目はただ目前の“敵”のみを捉えていた。
彼のその心を汲み取っているのかどうかはわからないが。デビリスもまた同じように、友人同士だなんて雰囲気を微塵も感じさせることなく、間髪入れずに攻撃に転じる。己の周囲に浮いていた鎧を、指揮者のように腕をふるい操れば、いつか日本史で習った、武者鎧の鎧袖のような構造をしたそれがバラバラに分離し、ユヴァシャズに向かって、一斉に飛んでいく。
あの重たそうな金属製の鎧が、数個。それを受けて、ユヴァシャズの細身が耐え切れるはずはない。避けなければ確実に致命傷と成り得るだろう。しかし、そんな私の憂慮さえもそうするかのように。
金属が、地に落ちる音─。
「…十年ぶりだよ、これを振うのは…まさかその相手がお前だとは…いや、もうそんな情も持たないこととしよう。貴様なぞ知らん。我輩とその主の平穏を脅かすと言うならば、是も非も無い。ただ、斬る」
デビリスが飛ばした鎧を、ユヴァシャズは切り捨てていた。
片手には、彼の髪の毛と同じく一切の光を返さない黒を持った、逆十字を模った剣を握って。