第二章 三節
三節
【罪人の哲学】
花の匂いがする。
気に入らない。
気に入らない。
「美代子ちゃんおはよう!なんだか久しぶりだね」
「兎崎さん、おはよう」
朝。登校途中、以前からたくさんお世話になっている兎崎さんのお花屋さんに立ち寄った。ここ数日は朝ごはんをのんびり食べすぎていつもより家を出るのが遅かったからか、なかなか寄れなかったのだ。(今日はユヴァシャズに言われる前に急いで食べた。正直惜しい気持ちはするが、仕方がない。)
ぺこんと会釈すると、眩しい笑顔を向けられた。今日も、素敵だ。流石女性の常連客を無尽蔵に増やし続けるだけのことはある。
「ここのところ凄い急いでる風だったし、全然来てくれないから、心配したよ。僕のこと嫌いになったんじゃないかって」
「それはないよ、朝ごはんのんびり食べてたら遅刻しちゃいそうになっただけ」
「成程ね。…寂しくない?一人で」
「うん。」
「…、…そっか。なら良いんだ。」
何か言いかけて、口を噤む。きっと、この人は無尽蔵の優しさを持った、人間賛歌の体現者みたいな人間だから。また、私のそばに居てくれようとしたんだろう。気持ちは有難いし嬉しい。許されるなら一緒にいたいけれど、血も繋がっていない異性、しかも私はまだ学生ともなれば、彼が周りから変な目で見られるのも無理は無い。誰よりも優しくて、何より護ってくれようとした人だから、そんなふうな迷惑はかけたくなくて。構わないと言う彼に、依然として断りを入れていたのが今までの話だ。それに加え、今は、訳あって家族が一人増えている。兎崎さん程打ち解けてはいないけど、それなりに楽しい。2人が会ったら仲良く出来そうなんじゃないかな、と考えて、思い留まる。
なんて紹介すれば良いんだろう。
親戚ですだなんて言っても、今までそんな話した事ない。急に保護者が現れましたなんて言ったところで、怪しまれるのは明確だ。そう考えると、また隠し事をしないとならないのかと憂鬱になった。今日帰ったら相談をしてみよう。
「あれ。今日は着けてないのかい、聖十字」
「ああ…えっと、鞄」
「駄目だよ。御守りでもあるなら、きちんと付けておかないと。何かあったら危ないだろ?」
「は、はい…そっか、兎崎さんも信徒だっけ」
「そうだよ?何、忘れたの?」
「じゃあ兎崎さんも着けなよ、異教徒だぞ」
「僕は金属アレルギーなんですッ いいから、ほら!つけなさい」
少しは自分の体を大切にしなきゃ、と言う兎崎さんに、初耳だよそれと呟くと聞こえてないふりをされた。
家では十字を見たユヴァシャズがとてつもなく恨めしげな顔をしているのを見て以来、着けていないのだ。家を出ても、今頃自分のために頑張ってくれている彼に対する罪悪感を感じて、つけようと思えなかった。でも、怪しまれたり違和感を与えるのは面倒の源だ。渋々ではあるものの、何も悟られないように十字を首から下げる。すると、パチンと静電気が走った。痛くは無いけれど、特段乾燥していない日だというのに、珍しい。数日つけてなかっただけだというのに。
「わ」
「どうしたの?」
「静電気」
「ふふ。ほったらかされて、神も怒っちゃったんじゃないかな」
「神ってそんな子供っぽいの?」
「まさか、ジョークだよ。僕は天上の者ではないし」
「兎崎さんて、結構可愛い冗談言うよね」
「そうかい…?なんだか………複雑な気分だよ…」
引きつった笑顔の兎崎さんの向こう側にあった時計が目に入る。ちょうど良い時間になっていた。そろそろ行かなきゃと言いかけるたびに話を振ってくるところに、ささやかな仕返しを感じる。兎崎さんがたまにこういう、ちょっと性格が悪いところを見せるようになったのにも、結構時間はかかった気がする。最初は、少し気味が悪いと感じるほどに優しかったから。人間が大好きだと言って、人間のいいところをかき集めて過ごしているようなその姿勢は、最早人間らしささえ感じられなかったものだが。
私がたまたま、ポッキリと折れて弱音を吐いたある日に、彼も打ち明けて以来だ。
『…俺も 正直に言うと…すごく疲れる。仕事が終わったら、ソファに雪崩込むくらいには。無難で在るっていうのはさ、とっても難しいんだ。』
ぽつり、ぽつりと。息を潜めていないと聞こえない程のか弱い呟きだった。お花を、少しでも傷むのを防ごうというものなのか、柔らかそうな紙で包んでいる手は優しくて、でもその背中は小さく見えてしまう。どんな表情かさえも、容易に想像出来てしまった。そうして、兎崎さんもどんなに優しくてもやはり人間だと知り、安心した。猫を被って人を騙すような人ではないと。だから素直になれたし、気も許せた。弱音じみた本音を互いに聞いた事で、こうやって仲良しになれたのだ。
「ご、ごめんねって」
「ああ…もうこんな時間か。いやあ、美代子ちゃんと話すと楽しくてね?」
「わざとだ…」
「フフ…ごめんよ?今度お食事連れていくからさ。ほら、気をつけて」
いってらっしゃい、と優しく微笑む。何だかんだ意地悪をしても結局優しいのには変わらない。そういう、人間的な、意地悪な所ももっと他の人に見せれば良いのに。女性からは人気だけど一向に誰とも付き合えないその理由は、やはりそういうところを見抜かれているからなのだろう。きっと、だから独身なのだ。去り際に今度お食事連れていく、だなんて言ってくれたのに対しては、正直楽しみな部分もあったりするけど。
先程までの会話を思い出して一人嬉しくなっていて、ふとあることに気づき足が止まる。兎崎さんは金属アレルギーだから聖十字を身につけられないと言っていたけど、木製のもある。それをつければ良い。
「あ…あいつ…ッッ」
なんだかいいようにやられた気がする。聖十字は結構重くて、信徒の人々でも正直首からぶら下げるのは渋々、と言ったほどだ。神の重みだとかなんだとか、信徒よりもちょっと上の、聖職に就いている聖徒の人々は言うけど。自分の体に負担をかけてまでそれも信じ、全てを受け入れようとは思えない。というより、私は最近なんとなく神に対して嫌な気持ちを抱くようになっている。ユヴァシャズの神嫌いがうつったとでもいうのだろうか。なんだかぼんやりとした疑問が取れないまま、再び学校へと歩き始める。義足のせいでちょっと急いで歩くだけでもすぐ疲れてしまうから、なるべく余裕をもって出てきたというのにこれではあまり変わらない。いつか仕返しをしてやろう、絶対にだ。私が感じるこの疲れの少なくとも数倍の疲れを感じさせてやりたいものだ。きっとふくれっ面でずんずん歩いている今の私は、他の人から見れば随分と不細工に見えることだろう。そう考えるとすごく恥ずかしいと、思う。少しでもいい人生にしたいというささやかな願望はあるので、なるべく恥ずかしい思いは無いようにしたいのに。兎崎さんは恥あっての人生だからどんどん恥をかくべきだなんて過去に言っていたけれど。私には、そんな勇気はまだ無いのである。
ずんずんというべきか、すたすたというべきか。私の気持ち的には疾風招来(だった気がする。ことわざは正直苦手だ)の勢いで早歩きをしていたけど、今日も今日とて狂ったように悦び喚いている生徒たちが作ってくれた道を淡々と急ぎ歩いて、教室に着いた時間はなんと朝礼ギリギリだった。左足が凄まじく筋肉痛である。今日はゆったりお風呂に浸かりながらマッサージでもしておこう。
でも。きっと、おそらく遅刻しても怒られないのだ。私を神でも見るかのような眼差しで見ている人たちだから。私の過ちさえ彼らには見えない。私を咎めるものもない。だからいくら殺しを働こうがいくら他人の財布を盗もうがいくら貢がせようがきっと自由だ。でもそれは、私にはどうにも馬鹿らしくてできない。そういうのは後先を考えていない頭の悪い人がやるようなことだという思いがあった。罪を犯せば罰が下されるのは必然で、この世の理のようなものだ。なら、それを少しでも長引かせるために工夫するのが罪人としての人生の過ごし方である。
私は間違いは犯さない。罪人なら罪人なりに、幸せになる方法を模索せねば。