第二章 二節
二節
【醜悪】
かつては美丈夫だと称えられていたのが、今ではこのザマだ。
美しいのだからと無駄に気負うことも無いものの、やはり毎朝鏡の前に立つ度に憂慮してしまう。
今は自分が彼女の唯一の支えであれるから良いが。他に現れたら、と思うと。
その人物が自分よりも見てくれが優れていれば、自分など簡単に切り捨てられてしまうのでは無いかと。
彼女という人間を知らないが故に、そう思うのだ。
やはり絶対的な信頼を掴むには彼女を知ることも必要だろう。
この醜さを覆えるのは、おそらく愛でしか無い。
自分が、最も、欲しかったもの。
二節
【醜悪】
かつては美丈夫だと称えられていたのが、今ではこのザマだ。
美しいのだからと無駄に気負うことも無いものの、やはり毎朝鏡の前に立つ度に憂慮してしまう。
今は自分が彼女の唯一の支えであれるから良いが。他に現れたら、と思うと。
その人物が自分よりも見てくれが優れていれば、自分など簡単に切り捨てられてしまうのでは無いかと。
彼女という人間を知らないが故に、そう思うのだ。
やはり絶対的な信頼を掴むには彼女を知ることも必要だろう。
この醜さを覆えるのは、おそらく愛でしか無い。
自分が、最も、欲しかったもの。
「最初はどれにしますか」
ぱちん、とスパゲティトングを鳴らす彼に、ああ私もそれやっちゃうな、と少し嬉しく感じながら、これとペペロンチーノを差す。本当は自分でやるべきなのだが、言い出すとお互いに譲らない結果となってしまったので、お言葉に甘えることにしたのだ。器用に少量ずつ、トングで挟んで取り皿の真ん中にパスタを置くものだから、お洒落でモダンな一品になった。料理だけでなく、盛り付け方も上手い。執事がいて、お金持ちということだから当主か、おぼっちゃんなのだろうが、それにしてもこういった、当主がやるようなことよりもどちらかといえば執事がやるようなことの方をここまでできるのは、不思議でならない。小さな山のように盛り付けられた麺の頂上や麓に、そっとニンニクやウィンナー、キャベツが添えられている。熟練の料理人のような芸当にさえ思える。
「盛り付けも上手…使用人さんから教わったんですか」
「ええ。手伝わされて以来、楽しいと感じてしまって」
「主夫ってやつになれるよ」
「それは難しい。雄は稼ぎ手です」
「古風だ…」
「我が家系の伝統みたいなものなんです。強きは弱きを守るもの、とね。だから、家系の男児はいつだって技を磨き力を付けることを大切にしています。」
「とっふぇもふよいの?ひゅごい」
「口に物が入ったまま喋るんじゃない、お行儀が悪いですよ」
「んぐっ…ごめんなさい、人がいるのがすごく新鮮で、楽しくて、つい」
慌てて飲み込んでしまったが、味も本当に美味しい。味は決して薄くないのに、全くくどくないのだ。お母さんの味とは全く違うけれど、同じくらいの暖かさを塩分から感じることができる。懐かしさがあるが、新しいそれに、私はすっかり心も胃袋も奪われてしまっていた。生きるとはこういうことなのだろうかと考えかけたが、正直そういう小難しいことはどうでもいい。いまは眼前に広がるこの暖かい、夢見たような家庭とは遠いけど、それに似ている幸せなこの空間を堪能していたかった。
口直しに水を飲めば、次食べたくなったのは、先ほどから鼻をくすぐっていた、ほのかな酢の匂いの元。サーモンのカルパッチョだ。刻み玉ねぎと酢のソースに浮かぶピンクが艶やかで美しく見える。魚は苦手な方だったのに、こんなに食べたいと思うとは。私の視線に気づいた彼が、取り皿を要求する。甘えてばっかりだなと思いながらも、してもらうがままだ。ユヴァシャズの無骨な白い指が盛り付け用のスプーンを手に取り、サーモンをすくい上げてお皿によそっていく。ちゃぷん、とでもいう音がしそうな。おてんばな人魚が美しい海から今こそと姿を表すように。そんな元気いっぱいなサーモンのピンク色のそばに、柔らかい緑のフレッシュハーブ、静かな情熱を秘めたトマトが佇んでいる。仲良しな三姉妹みたいだ。ただの一般家庭にある陳腐な照明で照らされているはずのそれは、ちょっと盛り付けが違うだけで、高級レストランの暖かくて明るいシャンデリアの光に照らされているかのような煌めきを放っていた。
お皿をもらい受けた瞬間、さながら穏やかな波ともいえる、優しいオリーブオイルの香りが鼻を通って脳を包み込む。なんて─なんて心地よい感覚。薄緑がかった水色の、広大な海を眺めているかのような実に落ち着いて感情になった。見ているだけでは飽き足らず、思わず水着さえ脱ぎ捨てて海に飛び込む気持ちで、一切れ、サーモンを頬張る。
「──ッ…!」
こんなことがあって良いのだろうか。一歩間違えれば人生観が180度変わってしまいそうな、味がした。程よい酸っぱさ。程よい青臭さ。刻み玉ねぎが口の中で狂ったように悦び踊る。その間を縫うように艶めかしく揺蕩うのが、今まで私があれほど見向きもしなかった、魚だというのか。サーモン特有の味の濃さ、生臭さなど、今まで食べたものが悪夢と思えるほどに感じられない。オリーブと酢のソースが、それをカバーしているのだろう。柔らかい、歯ごたえを感じた刹那。とろけるような口どけに切なささえ覚える。そして残る、冷たさ。おとぎ話の人魚姫だ。届きそうで届かない、叶わぬ恋に溶けていくだなんて、なんとも素敵でロマンチックな味だ。
「お魚ってこんな美味しかったんだ…」
「苦手だったんですか?偉いですね、ちゃんと自ら進んで食べて」
「うん。好きになったよ、ありがとう」
それは、なにより。と微笑む彼は、まさしく一級料理人であった。
やはり、自分の料理を好きと言ってもらえるのは嬉しいのだろうか。彼の顔色が悪いのは変わりないけど、心なしか、機嫌が良さそうに見えるし、たくさんおしゃべりをした。多々私が口に物を入れたまま喋りそうになってしまい、注意をされてしまうことはあったけど。私がいちいち美味しそうに食べるものだからと、ユヴァシャズは見ていて飽きないと言ってくれた。意外と、食に関しては顔に出てしまうらしい。ほんの少しだけほっぺがあったかくなるのを、食べてる時料理を見てしまうせいだということにして、料理を味わい続けた。
20時になりそうな頃に夕食を終え、食器洗いをしようとすれば、風呂洗いするように言われたので、渋々浴室へ向かう。なかなか私をキッチンに近寄らせたがらないのは、キッチンは主婦の庭という言葉に因んでなのだろうか。ユヴァシャズはお父さん気分なのかお母さん気分なのかはっきりしない。ただの甘やかしなのかもしれないけれど。こんな釈然としないことがあっても、正直そこまで気にもならないのは、一人ではないという安心感に依存しているからだろう。少なくとも今は、いてくれるだけで嬉しいというのが本心だ。帰るべき場所に、おかえりとおはようがあるだけで、十分だ。
浴室の前、洗濯機の隣の棚から洗剤を取り出し、シャワーヘッドを手に取って浴室にお湯をまいた。水が浴室の床や浴槽に十分に行き渡ったのを見て、今度は洗剤を浴槽や洗い場の床に向けて満遍なく吹きかける。足のこともあるし、あまり立ったりしゃがむことをしなくてもいいタイプの洗剤。ちょっと待ってから流すだけでいい。正直それだけだと不安にも感じるけれど、手軽さという誘惑には勝てなかった。
「磨かないのですか」
「うわあ!」
突然声をかけられ、飛び上がる。いつからいたのだろう。ああすみません、驚かせてしまいましたねと苦笑するユヴァシャズに、一瞬乱れた呼吸を整えながら大丈夫と返した。毎度毎度、音もなく後ろにいるものだから。本人も無意識のように見えるし、悪魔とはそう言う生き物なのだろう。足音がしない特性でもあるというのかもしれない。それを踏まえると、少し危険に感じる。
「よく考えてみればその足で風呂場の掃除は、少し心配で。早めに終わらせて、交代しようと思ったんですよ」
「そ、そっか…大丈夫です、流して終わりなやつだから…」
「ほう」
地獄にはそういった便利なものはないのだろうか。不思議そうに泡まみれの風呂場を見つめるユヴァシャズに何が気になるの、と問えば、少し考えるような素振りをして、口を開く。私にはそれが、何か言葉を選んでいる風に見えた。傷つけまいとしているのではなく、どうすれば自分たちよりも下の存在が容易に理解できるかを考えているような。それでも、その言葉以外に見つからなかったのだろう。やや困惑気味な声色で応える。
「人間は小さな怠惰のために勤勉で在り、努力を惜しまない。それを、とても可笑しく…愛らしく感じるのです。堕ちてしまえば楽だというのに。我々悪魔に、魔法の知識について乞うてしまえば努力という苦は要らないというのに。高潔に価値を見出し、高潔を尊び、高潔であろうとする。そうして生まれるのが人間にしては高度な科学技術の数々ですね」
「…そういうの、嫌い?」
「いえ、まさか。ただ─」
愛しそうに人を語っていた彼が、ふと私の目を見る。憐れむような目だった。
まさか。まさか、彼は気づいている?私の、このあまりにも空っぽな悲しみに?私の積み重ねてきた罪の数々、歩んでいる道の穢さに?私を、彼はどう見ているのだろう。失望だろうか。同類として、同じ悪としてまだ足りぬと測っているのか?その双眸からは何も受け取れない。何も推測できない。未知への恐怖が、不安が、突然私を襲う。
「美代子は、走れますか。」
─。
どういうことだろう。それはもう諦めたことだ。もう、今まで通りに、両親に褒められ続けていたあの時のように走ることなんかできない。生きていればいいだなんて無責任な言葉に無理矢理納得させられて以来何度も夢に見た、浜辺を好きなだけ走り回り、草原の風を感じる自由なんて、もう私には許されないのだ。出来ない、という言葉が浮かぶ。違う。できないんじゃない、しないんだ。諦めているから。上手く走れないことを知っているから。それで悲しむのを知っているから。ストレスの少ない、静かな湖の心であるためには、そうすることが最適解だから。
「走れないんです まだ慣れてないから」
「そうですか…では、一緒に頑張りましょうね」
「え」
想像していた棘のある言葉ではなく、彼は“一緒に”頑張ろうと言った。根性論を叩きつけてくるでもなく、先ほど恐怖を感じていたのが馬鹿馬鹿しくなるほどの優しい言葉。一緒に?走るのを?彼も、出来ないと言うのだろうか。なんだか恥ずかしそうな、言いたくなさそうな苦しい表情をして、ユヴァシャズは言葉を紡ぐ。
「実は…悪魔としての力の大半を削がれてしまって。行動一つ一つが怠いと言いますか。簡潔にいうと、瘴気が…酸素が足りないみたいなものです。」
「瘴気」
「悪魔という生き物は、瘴気という、地獄の酸素みたいなものを取り込んで魔力を生成することで、その…元気が出ます。いま我輩はそれが20%くらいしかないので、とにかくだるくて仕方がない」
「死んじゃうの?」
「死にはしませんがこのままいくと寝たきりです」
「何それ聞いてない。ど、どうすれば?どこにその、そういうのはあるんですか?」
「そうですね…瘴気とは、人間たちの負の感情から成るものです。一番手軽に食えるのは死の直前に生まれるであろう無念やら苦しみ、悲壮が溢れる…自殺の名所とかでしょうか。」
心当たりしかない。
明日学校へ行けば、もう休みだ。何も知らないふりをして、私は彼に提案をした。今日のクラスメイトたちのように、都市伝説や噂話に翻弄されているフリをして、閃いたように。無垢であるように。
「学校で噂になってる、怖いところがあるの そことか、どう…ですか?土曜日に」
「怖いところ?」
「うん、心霊スポットというか、なんか…よく人がいなくなったり、事故で亡くなったりしてきた場所みたい」
「それが本当ならば、好都合です。好都合というのもなんだか語弊がある気がしますが」
彼を私の勉強の場に招き入れること。自分の悪事がバレてしまうというリスクがあるし、正直不安だ。出来ることならしたくはない。でも。それでもユヴァシャズが、今まで平然としていながら、気の遠くなるような怠さを抱えて、早く起きて豪勢な朝食を振舞ってくれたり、私の好奇心からなったちょっとした偶然を大恩といって、苦しいのを我慢して働いてくれたのだと思うと。だるいのをひた隠しにしながら、私の為に、今晩もあんな風に振舞っていたのだと思うと。たとえ悪魔といえど、家族として側に居てくれる人が、これ以上苦しむのは避けたかった。
それにしても、少し考え方を変えてみると、今まで進んで自分の好きな場所に誰かを招くことはなかったから、少し新鮮な気分だ。気に入って貰えると嬉しいかもしれない。静かで寂れた、下校時間の限られた時間に見える夕景が、とても綺麗に見える場所だ。それを眺めて、彼は何を言うのだろうか。知りたくてたまらない。悪魔も人間と同じ美的感覚を持っているというのなら、もしかしたら。期待が胸の内を占めていくのを感じている。仮に気に入ってもらえなくても、元気になると思えば結果オーライというやつだ。
「明後日まで、ちょっとだけ…我慢してください。私、案内するから」
「…美代子は、もしかしてそういう、カルト的なものが好きなんですか?」
しまった。喜びや期待が表に出ていたのだろうか。不思議そうに聞いてくる。別にそういった、幽霊だとか黒魔術だとかには全く興味は無い。自分のお気に入りの場所に誰かを招き入れるのだと言う楽しみについはしゃいでしまったようだ。変に勘付かれて、いままでの“勉強”がバレたらまずい。彼を信用していないと言うわけでもないが、こういった情報の共有は絶対にしてはならないと、本能的に感じている。万が一。万が一のことがある。
「別にそういう訳じゃない…です。景色が綺麗ってことでも有名で、そこから行ってみて、好きになって。たまに見たくなるの。夕焼けがとても綺麗なんです」
嘘はついていない。
ただ、なんとなく嫌になった。これからもこうして、“家族”に対して自分の本心を隠し続けなければならないのか。家族なんだから気軽でいたい、いっそ打ち明けてしまいたいという葛藤さえある。私がどんな理由であれ平気で人を殺し続けていることを知ったら、ユヴァシャズは失望するのだろうか。私に激怒するのだろうか。彼が私に背を向けるというのならば、その時はその時であり、ちょっと、小指の先程度の落胆はすると思う。嫌われようが避けられようがまあ仕方ないとそこまで引きずらず気にして来なかった質だけど、一時でも家族として優しい時間を過ごせた相手だから。
しかし。
思い返せば彼が現れて以来、私の“湖“にはよく波が立つ。私のような人間は、常に『湖の心』でいなくてはならないのに。そうでなくては、人生の喜びを知らないまま、本当に何もかも台無しのまま終わってしまう。相手がどんなに仲が良かろうが、大切な存在であろうが、理由はどうであっても、気を弛めてはならない。
小さいときから、叔父さんに、悪魔について聞いておいて良かったと安堵した。
万が一─。万が一彼に知れてしまったら。その時は─
(私が、彼を始末するのだ。)