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Ūberschuss  作者: よしひと
第二章
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第二章 一節

二章


彼女に、自分よりも先に彼女の空洞を知った存在がいる。

ただでさえ不安定なあの子を支えようとするのは、やはり本能故か。

悪意か、善意かは知る由もない。


だが、その役割は自分が務めるのだと躍起になってしまう。

自分だけが分かってやれるのだからと優越感を感じてしまう。

自分だけが彼女を守ってやれるのだという独占欲を生じてしまう。


どうしても、あの昏い夕景を美しく輝かせたい。

何よりも自分が。

彼女が自分を呼んだ以上、最早自分のものだ。

彼女の瞳を覗き込んだのも、自分だけだ。


だから、自分がやらねば。


他の者になど、させてたまるものか。




一節

【蟲】


家に出た虫に、怯える美代子を見た。

何ということも無い。ただのわらじ虫というものだ。人間ではない生物は我が真体の属を薄らと感じ取る事が出来る。案の定動きを止め、無礼を詫びるように命を投げ捨てようとする彼を、玄関から出て逃がす。二度とこの家に入らないようにと念を押した。


彼にそう伝えた事を告げれば、美代子はほっとしていたが。


少しだけ、傷付いてしまった。彼女は虫が嫌いなのかと。

自分もそう嫌われてしまったらと思うと、自然と力の篭る手に気付いた。

彼女の夕景が美しく煌めく時を見ることができなくなってしまうのは、避けたい。

 





 ただいま、と言って家に帰ると、おかえりと返ってきた。それだけで心が弾むというのに、続けて今日はどうでしたかだなんて言ってくるものだから、満たされているような、嬉しくてくすぐったいような気分になる。というよりも、ちゃんと居てくれたのに安心した。私の願いを叶えたら地獄に帰る、という訳では無いのだろうか。タイミング良く丁度先ほど帰宅したかの様だ。黒い上着を脱いでコート掛けにそれを掛けていた。


「居てくれてよかった」

 

「それはどういう?」


「私の願いを叶えたら、すぐ地獄に帰るのかなって…思って、たんです」


 そう正直に伝えると、彼は少しぽかんとした、呆気にとられたような表情をして固まってしまう。変なことを言ってしまったか、或いはそうすれば良かったと気付かせてしまったかと不安になる。だって彼がやっていることは、所謂ボランティアみたいなものだ。悪魔という高次の存在でありながら、こんな小娘に付き従い、家族として振る舞い働き、家事をこなすだなんて。人間好きを拗らせて、人間として生きていたいという精神なのだろうか。よくわからない。


「美代子は恩人です」


「え」


「恩人をずっと助け、庇護するのはこちら側の礼儀だ。ですから、貴様の身も心も我輩はきちんと支えていきますよ。貴様が人生を終えるまで。言ったでしょう?我が身捨てても捨てきれぬ恩故だと。」


「…ご家族は、心配していないんですか」


彼にとって、家族にトラウマやら嫌な過去やらが無いことを願って問う。しかし、彼は何の躊躇いもなく、笑い混じりに言った。


「大丈夫ですよ。我輩など居なくとも、優秀な執事が今頃我輩の不在を補っているはずですから」


「執事…ひょっとして、お金持ち?」


「ええ、まあそんなところです。そんなことより、もっと他に話すべき事があるのでは?如何でした?今日の学校は。」


 確信を得ているかのような言い方に、もしかして私が今日学校でどのような待遇を全校生徒から受けたのかを知っているのか、という疑問が生まれる。魔法とやらを駆使して見られていたのだとすれば、一体どこから、どこまでだろう。私がいちいち目立っては周りが喜んでいて、それに困惑するのを見られていた…くらいならまだいいが、その後の、先程の行いが見られていたとしたら。


「見てた?」


「ハハハ 何をおっしゃる。クソみたいな重労働を強いられていましたよ。転移魔法で逃げ出そうにも有事の時以外に使えば聖十字で突かれますからね。サボりでもすればぐだぐだ小言言われますし。なんなんですかもう。今すぐにでも滅ぼしたいくらい労働環境がふざけています。労働者のモチベーションを下げてどうする。」


「因みに何してサボろうとしてたの」


「目障りだったので、いたるところにある聖十字を逆にしていました」


それは教会なのだから小言の一つや二つ言われても仕方ないだろう、と思うが口には出さない。というより、ちゃんと元に戻したのだろうか。本来、聖十字とは神の御姿を象った形と為されている。それを無理矢理逆にして放置するなんて、信徒からすれば神を逆さ吊りにして放置しているようなものだ。ましてやそんな冒涜的な代物を聖徒の目に入るところに置いておけば、そんな目に遭うに決まっている。子供の頃、ちょっとしたいたずら心から壁に掛けてある聖十字を逆にし、普段温厚な叔父を怒らせた経験があった。大の大人でも顔を真っ赤にして怒るような禁忌なのだ。

 悪魔にとって十字架とは、人間でいう蚊だとかゴキブリの類なのだろうなと、一人納得していると、妙に不機嫌そうな表情のユヴァシャズに見下ろされていた。そういえばさっきから彼の質問を2度ほど無視してしまっていた気がする。今日の学校については一言も話していない。


「…質問に質問で返すのが聖教のマナーなのですか?ン?」


「あっ…ごめんなさい。学校…そうだ、学校…ええと。今日の学校、凄い変でした。」


「変?変…とは?すみません美代子。変という一つの言葉だけでは大まかなことは察せても、何がどのように変なのかまでは憶測の域に過ぎなくなり誠実な対応をしかねます。できれば詳しく、お願いしたいのですが。」



なんだか言いにくい。



 原因は彼だとわかっているから、尚更だろうか。口元に手をやりながら何やら思い悩んでいるので、さらに物を言いにくくなった。多分ちょっとした恩返しか、善意で施してくれた事だ。それが性質のせいで効果が過剰になって、ああなったのだろう。とはいえ、先日やついさっきの体験もあってか、会話のキャッチボールがなかなか成立しないことを彼がとてつもなく嫌がるのは知ってしまったので、早急に、慎重に言葉を選ぶ。


「えっと…やけにちやほやされて。何をするにも、皆が喜んでて。なんというか──狂って、いるみたいな。そんな印象を、受けました。」


「え?…ああ……すみません」


「…魔法?」


 ばつが悪そうな表情で頷く。きっと、私の予想通りの。今朝と同じようなミスだ。“性質”のせいで、思うようにいかなかったのだろう。はあと物憂げに溜息をついているのを見ると、 自分が何かしてしまったかのような気持ちになってしまった。大丈夫だよ、と声をかけようとしたのよりも早く、ユヴァシャズが流暢に言葉を並べる。


「御明察の通り。…実は、朝食を作る際に少々手を加えさせていただきました。魔法ではなく…まあ貴様ら人間にとっては魔法なのですが。魔法よりも一際下級のものを、呪いと言います。魔法だと、その…我輩の場合、美代子を巡った戦争を起こしてしまうので、通常の悪魔なら効力はそう強くないはずの呪いで代用しました。座標指定型、学校でのみ発動する『対象への周囲からの印象が好意的なものになる』というだけの呪い。それだけです。それでも…それでも、だったのですね。」


「…うん 私、神…」


「ンンン」


 神を嫌う悪魔の前だ。そのワードは禁句であるらしい。易々と口にするのは控えないとこの先いつか衝突してしまうのもそう遠くない出来事のように思えてしまい、咄嗟に言い換える。


「…私、悪い宗教団体の信仰対象みたいなかんじだった」


「怖かったでしょう。申し訳ありません」


「大丈夫です、気にしないで。仕組みもわかったから」


「…あの。美代子は…」 


「?」


 それは不思議そうな、今までに見たことのない何かを見るような目だ。何か、おかしいことでも言ったのだろうか。私は諦めが良すぎる簡単な子だというのは自負しているけれど、そこまで訝しまれたりなどという、人に不信感や不安を募らせてしまいがちな欠落を持っているわけではないと思う。彼はそんな私に対し、何か思うところがあるのだろうか。悪魔だから、むしろそういった、模範的に生きていますとでも言いたげな態度が気に食わないというのだろうか。


「怖くなかったのですか」


「怖い…確かに怖かった。でも、ちょっとだけだから…」


「そうではなく。危機を感じたりはしないのですか」


「危機?確かに、うん。まあ、感じたかな…でもちょっとだけだし、その…なんというか、面白くて。初めての体験だったからかなあ。今まで本当に、腫れ物以上に、空気みたいな扱いだったから」


「…成程。」


 何をどう納得したかまでは汲み取れないけれど、少なくとも憐憫のようなものを悪魔という存在である彼が抱くとは、私としてはそちらの方が珍しいと思う。聖書やら聖教の伝承やらで聞いた悪魔はもっと残酷で冷酷無比なものだ。地獄にいた頃もこうだったのだとしたら、他の悪魔達から変な目で見られたりしていたのだろうか。だから私に同情できるというのか。そう考えると、なんだか会うべくして巡り会えたかのような気がしないでもない。運命などというものをロマンチックだなあ程度にしか思っていないし、今もその程度の認識だけれど、出会えたのが彼であったことに対しては、あまり悪い気はしなくなっていた。正直あの日の夜、自分のやってしまったことをひどく後悔した。どうして自分はあの聖書を即座に閉じなかったのだろう、どうして好奇心に身を任せてしまったのだろうと、自責の念に押しつぶされ、得体の知れない悪魔に寝首を取られようがそれはそれでいいかも知れない、それが今までの自分への罰なのかもと、自棄にさえなっていたのに。今はその存在に、命を奪われるどころか、こうして。帰ってきて、居てくれてよかっただなんて言葉が出るほどには。たとえ一時の幸福、安寧だったとしても、こんなに心地よく感じるだなんて、あの夜一人頭を抱えて、布団を被っていたような私では、想像もつかなかったことだ。


「楽しんでいただけたのはとても嬉しいことですが。このままは流石に嫌ですよね」


「…そう、だね。贅沢なこと言うようだけど」


「いえいえとんでもない。こればかりは我輩のミスですから。何とかして、調整しなくては…」


「ご飯におまじないするの?」

 

「…フフ そうですね、おまじないをするんです」


 くすりと、まるで子供の無邪気な問いかけみたいになってしまったそれに、ユヴァシャズは優しく微笑んでみせた。今朝は自分が夕食を、と考えてはいたが、呪いをかけるというのなら、邪魔をしないほうがいいのだろうか。対面式のキッチンから見える、紺のエプロンを主婦同然に付けようとしているが上手くできていない姿に笑いそうになった。そんな私の心情を察したのか、戸惑う私にたった一言「宿題は」と言葉を寄越すものだから、口をつぐむ。さながら母親のようではないか。今度おふざけでママといったらどんな反応をするのだろう。今からするんだもん、と言って鞄を持って二階へ上がり、急いで自分の部屋に入った。


そして扉を背にして、一人を認識したその時。


無意識にいじけたような声色になっていたのに、少し前の─片足が無くなる前の、まだ普通だった、当たり前だった頃のお母さんやお父さんに対するような“甘え”を自覚した。私は、まだどこかで諦めていなかったのだろうか。いや、それはない。だってどう期待すればいいのかわからないのだ。あの優しかった両親は、実質そうではなかった。あの両親は、きっと私をもう人とみなしていないはずだ。だから、あんな風に豹変したのだ。お父さんは一線を引いてきた。お母さんは私を見てくれなくなった。私に生を強要しておいて、生きていれば幸せなんだと言っておいて。その後の苦しみなんか知れていた。その苦しみを甘んじて受け入れて、すごすごと弱々しく生きるのが幸せだと言うのだろうか。だったら─




『違うよ』


『美代子ちゃん。違うよ、それは違うんだ。』


『それで生き延びたのを後悔していると言うのなら、約束しよう。僕が─』




 私の心に触れてきた彼の言葉を想起する。生粋のお人好しで、人間賛歌の代名詞のような人だった。諦めで満ちたどんより曇り空みたいな生き方を、少しでも変えようと思わせてくれた人。


生きていれば色々な人に出会える、色々なことを体験できる。何も今決められることはない。だからもうちょっとだけ頑張ろう、もうちょっとだけ見てみよう。


 今にも不安で吐き出しそうなのを抑えるように、何も見ないように顔を覆った手を、そっと取ってくれたあの人。その無尽蔵な優しさで塗り固められた言葉を、私はひどく重たく感じてしまったのだ。自分を傷つけないでいろんな人のいろんなところを見て学ぶやり方なんて、もう“これ”しか思いつかないというのに。


「…宿題、しなきゃ」


 自分の罪を誤魔化すように生活に戻る。机に向かっても、こみ上げてくるものは何もない。結局変われないのだろう。さっき自覚した甘えも、直に廃れる。今こんなに尽くしてくれるあの悪魔も、きっと何かきっかけがあれば簡単に変わる。きっと、そうだ。そう思わないと、心が荒れ狂ってしまうのだ。いつも静かな湖畔のような心でいたい。無駄な感情の起伏はストレスを生む。いつも穏やかで、寛容でいなさいと、叔父さんは言っていた。期待もしない。一時の幸福に身を任せない。良きものを手本にしながら生きればきっと幸せになれる。

紙上につらつらと文字を並べていく。今まで解いてきた問題の解答を思い出し、時に自分の意見(とはいっても、ありふれた定型句の羅列ではあるが)を、知識をありのまま連ねていく。何の音もしない部屋の中、シャーペンの芯が紙の上を滑ってみたり、叩いてみたりする音だけが響く。これを終わらせたら、いつも通り風呂場の掃除をして、夕飯を食べて、お風呂に入ろう。唯一何も考えず緊張を解ける場所だ。お風呂無くして私の心に安寧はない。


 無心で宿題を片付けた。無駄なことを考える暇すら生まないような、機械的な行為みたいに。あまり一人でいるとそうしかねないものだからと、自室から出る。息すらつかず、一切の油断無く─自分の家なのに、まるであの廃墟にいるかのよう。張り詰めた空気の中で、人と向かい、その最期に臨む。気の緩まない、間違いの許されないようなあの空気や、計算と実験を重ねて作り上げる、人を死に至らしめる仕掛けの数々。その時のような、ぴんと張った糸のような意識のまま。


「ユヴァシャズさん、何か手伝う事とか無いかな」


ただ、無難に良い子を演じるのみだった。


「ええ、ならば…流しにあるものを洗って頂けると、助かります。」


 割りかねないので、と困った様に笑う。近所の人みたいに、私も洗脳されてたら楽だったのだろうか、なんて考えが浮かんでしまった。わかったと頷いて大人しく食器に手を伸ばそうとしたその時、視界の片隅に何かが映る。人間というものは、何よりも苦手とし避けようとする存在に対しては、いかにそれがのんびりとした動きをする生き物であろうとも、すぐにそれを捉えてしまう特性でもあるのだろう。そして、防衛本能の一つとして脊髄反射的に人はいずれかの行動を取るものだ。逃げるか、立ち向かうか─


「あああああ!」


「何事ですか」


 私は前者を取るタイプだったらしい。なんとも情けない弱々しい生物である人間としても、きっと底辺に属するような体たらくだ。無意識に後ろに引き下がって(引き下がるというよりは、むしろ飛び退くようなそれであったと思う)しまい、ユヴァシャズに思い切り激突する羽目となったが、細身の外見にそぐわず、よろめきもせずしっかりと受け止めてくれたので、尻餅をつくようなことも下敷きにして圧死させてしまうようなことも無かった。大きな手がそっと肩に添えられている。特段慌てる様子もなく冷静に何か居たのですかと聞いてきたので、半分震える声と指でそっとキッチンの隅を示す。


「わ、わらじむし…」


「…虫か。」


 呆れたような短い沈黙を以って、ユヴァシャズはふうと息をついて私の頭をぽんぽんと軽く撫でた後、ワラジ虫を素手で持って玄関まで歩いて行った。小さな命までは奪う気はないのだろうか。意外な慈悲深さに感動しながらも、まだいないか、居てなるものかと目は探してしまう。宿題を終えてせっかく浮かれた気持ちを整えたというのに、台無しだ。汗でびっしょり濡れた手をおそるおそる流しに近付いて、洗う。一番苦手なものを見た直後はしばらく過敏になってしまう。


「虫、苦手なんですね」


「ヒイッ!」


「そこまで驚かなくても…」


 戻ってきたであろう彼にさえこうなる始末で、恥ずかしいを通り越して最早消えたくなってしまった。


「にがてで…足がいっぱいあるのが特に…」


「…そうですか。彼とその眷属には、2度とこの家に入らぬようにと念を押しておきましたから。もうこのようなことはないでしょう。」


「ほんと?!あ、ありがとうございます!」


「いえ…ワラジ虫、でしたか?その種類に限るので…別種の虫が出てきたときはまたこういった対処が必要だとは思いますが」


「うそ…」


「本当です。まあ、そこは仕方ないので…」


 ちょっとだけ悲しそうに言う表情に、一体何に対する悲しみなのか気になってしまう。ユヴァシャズは、虫が好きなのだろうか。それとも、別種の虫にはまた改めて対処しなくてはならないということに対してか。苦手で、と言ったときにすうと細められたあの目は、なんだったのだろう。私は、彼を傷つけてしまったのだろうか。何も無かったかのように夕飯の準備をするユヴァシャズに、上手く言葉をかけられなかった。


 それからも、共同作業は続く。何気ない話を挟みながら皿を用意したり、ちょっとした盛り付けをしてみたり。彼の料理する風景は未だに間近で見ることは無いけれど、一品一品、不器用ながらもしっかりと綺麗に皿に乗せていたり、水切りに使ってすぐ洗ったのであろう包丁があったりするのを見て、ユヴァシャズが自分の手で作ってくれているのは確かであった。


「指、切ったりしてないですか」


「ああ。数回ありますが、すぐに治るんですよ。魔法や、少なくとも人間以外の手で作られた武器だとかで無い限りは、我々悪魔は治療にそう時間はかかりません」


「…でも、怪我しちゃってるんだよね ごめんなさい、本当は慣れてる私がやればそうはならないのに」


「気にしないでくださいよ。必要だからしていることなんです。貴様に呪いを…いや、おまじないをかけるには、こちらが一番確実で手っ取り早い。そんなどうでもいいこと気にしなくてよろしい。それに裏を返せば、ある意味侮辱です。自分より上位の生命体を侮っていることと同等ですよ?」


「そうなんだ…」


「分かったらほら…これを食卓に。もう食べられますから。急いだ急いだ、我輩も空腹なんです」


 余計な気遣いなどさせないというかのように急かされ、慌てて食卓に最後の一品を置いて、椅子に座る。今晩は少しおしゃれな気がする。イタリア料理、というものか。彼の名前や見た目的に、洋の文化を好んで生きていたのはわかるけれど、本当にこの悪魔の作る料理は見栄えが良く、どれもお高いレストランやホテルのバイキングで出てきそうなクオリティだ。今夜は4種のパスタのビュッフェ、とでもいった風だ。最適量のオリーブオイルが麺に絡み、輪切りの鷹の爪やブロッコリー、小さく切られたウィンナーが細やかに彩っている、ほのかなニンニクの香りが香ばしいペペロンチーノに、輪を描くようにトマトクリームソースの上に並べられた、六つの蒸し海老とムール貝の海鮮パスタ。上品で落ち着いた醤油と胡椒の匂いが香るキノコとベーコンの和風パスタ。その傍らには中くらいの皿に盛りつけられたサーモンのカルパッチョ。嫌にならない、ちょっとした酢の匂いに食欲を煽られた。そういえば、昨夜は彼も解放されたばかりだったのと、私も十分には落ち着けていなかったために、手頃な冷食で済ませてしまった。思い返すと彼はそれを食べて、たった一言『美味い』としか言わなかった気がする。お金持ちだったようだし、舌が肥えていて当然と考えれば、あれはあまり言葉の通りには思えなかった彼が、彼なりに気を遣った一言だったのかもしれない。だからこそ、今朝食べた朝食も、今晩の夕食も、この気合いの入れ具合なのだろうか。宿題で少し頭を使ったからか軽く飢えを感じていた身体が、ようやっとありつけた食事に対し、まるで砂漠の長旅の果てに辿り着いたオアシスでも見たかのような感動を感じていた。口内を唾液がいっぱいに満たしていく。そんな逸る気持ちが災いし、手も合わさずフォークを手に取ってしまい、少しだけ恥ずかしくなる。


「い、いただきます」


「いただきます」


誤魔化すように慌てて手を合わせる私を、彼はただただ、父のように穏やかに笑った。






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