第一章 三節
三節
【虚実を虚実足らしめるための真実】
嘘をつくためには、真実を言うことも必要だ。
全てが虚実で構成された嘘はあり得ない。
そのお手本を今からお見せしよう。
暖かい春の日差しが、カーテンの隙間から差し込む。いかにも、小さな命が喜んでしまいそうな。そんな暖かさを持つ光が、掛け布団の上に新しく模様を作っていて、綺麗に感じる。待ち望んでもいない、新しいことを期待してもいない。当たり前のようにやってくるそんな朝は、視点を変えてしまえばこうも柔らかく、包容力のあるものに生まれ変わるのだと気づいた。寝ぼけ眼を少しでも開けていられるようにしようと、明るんで色付いた白いカーテンを開ける。眩しい陽の光で、少しだけ、ぼんやりした頭が冴えた気がした。ベッド脇のサイドテーブルの上にあるクリームを手に取り、膝から先が無い右脚に塗って、傍に置いてあった義足をはめる。
今日も、学校だ。
外観はやや西洋かぶれな、二階建ての一般民家が私の家だった。多宗教が争いなく共存し合う国の北部、その中でも最も聖教が盛んなのが、私の住んでいるこの市街だ。叔父さんが大悪魔を封印した名高い聖職者であることもあって、うちは少しだけ近所でも有名だった。だから両親が出張で、私一人が居残ることを知ったご近所さんは、何かしら気遣って声をかけたり、お家に女の子一人だと知っているものだから、よく気をつけるようにとお節介をしてくれていた。それで、ちょっとした変化ですぐ色々な人が心配して、叔父さんに連絡を寄越してくれては叔父さんが駆けつけたりなんて、いつものことだ。だから一人暮らしにも慣れることができたし、まだ怖くて走れないけれど、義足も当たり前のようにはなってきた。階段も、やや時間がかかるけど、上り下りはできる。自室からリビングへいつものようにあくびしながら降りていると、食欲を煽る匂いがする。
「…おはよう…ございます」
「おはようございます美代子。今朝ゴミ出しに行ったら、近隣の方にこの兄をお褒めいただきました。美代子ちゃんもこんなに優しいお兄さんがいて幸せ者ねえ、と。フフフフ…兄冥利に尽きるものです。我輩とても嬉しい。」
家族が、増えたんだった。あろうことか兄として。それでも隣のおばさんやおじいさんまでもが、まるで元からいたかのように振る舞い、勝手に安心までしている。魔法、なのだろう。その兄(と呼ぶほかは、今はない。)が、機嫌良さげに台所に立って、朝食を作ってくれていた。当たり前のように家で暮らしている悪魔。大男。昨日、私のせいで解放されてしまったユヴァシャズは、地上で過ごすのを見逃される代わりに叔父さんの教会で神父として働く事になった。悪魔にとって教会は、居るだけならまだしも近寄るだけで大分身体がきつい場所だそうだ。彼の身体の一部分である契約書は、私が所持していることにもなっている。彼が地獄へ逃げ出さない為にも。しかし、彼は何故かこう言ったのだ。契約主である私を聖徒でなくしたかったのか、叔父さんに抵抗したかったのか。定かでは無いけれど。
『住居は、この子と同じ場所にする』
『ふざけるなよ…!自分の立場を理解しろ。貴様のような悪魔に大事な姪を任せられるものか!』
『ほう?では貴様がこの子の面倒を見てやっているのか?毎日?一つ屋根の下で?毎朝起きて会話を交わし、朝食を作り、学校へ行くのを見送って、帰りは夕食を作りながら出迎えてやり、暖かいスープやパンの一つや二つ用意して、他愛無い会話でテーブルを彩った後、風呂に入れてやり、ゆっくりと居間で寛ぎながら互いの営みを労り、有意義な時間を過ごしては、寝る時間におやすみと言って一日を終えるという、一般的で普遍的な平凡な家庭を、この子に味わわせてやれているのか?なア、神父様…どうなんだ?出来ているのか?普通の家庭に?出来ているとしたら…何故、この子はこんなに飢えている?貴様叔父だろう?血縁者で、保護者だろう?聖徒になるとネグレクトは善行になるのか、ええ?』
『それは…私には、仕事がある。擁護施設の子供らの面倒を見てやらねばならないし…美代子も大人だ』
『何が大人だこのポンコツめ!自分の半分も生きていないような子供にそれを押し付けるか、たわけが!己を恥じろ。大して役にも立てん薄情者が叔父で保護者とは我が恩人、我が主が気がかりでならない。任せられんとはこちらの台詞、見るに堪えんのだ。…美代子、よろしいか。他に誰か居た方が良いでしょう?』
きっとあの時、私は。ユヴァシャズの言う普通の家庭に、魅せられてしまったのかもしれない。うん、と頷いた私は、叔父さんの方を見れなかった。叔父さんは、教会附属の養護施設でも働いているから仕方ないと思ってはいたし、自分は大人なんだから一人で家の事くらいこなせなければならないと、寂しいのを我慢してもいたから。
嬉しかったんだ。
朝起きて、おはようと言って、一緒にいただきますをして、いってらっしゃいを言ってくれて、おかえりと出迎えてくれて、会話があって、おやすみを言ってくれると、保証してくれたのが。まだ私を子供みたいに、守ってくれる人がいるというのが。
『今日より、我輩は…そうですね。美代子の兄として振る舞いますので。何卒、気を張らぬよう。変に企みも謀りもしないと約束します。我が恩人、我が主に誓って…我輩は大恩故、貴様の命の定まる所まで、尽くしましょう。これは悪魔である前に、一人の紳士としての誓いですので。信じて頂きたい…否、信じていただければ。それ程嬉しい事はありません。』
悪魔の言葉だと分かっていても、言葉だけだと知っていても、期待してしまった。
それに、嘘じゃなかった。あの後、きちんと彼は一緒に夕飯を食べてくれたし、家事等についても、沢山聴いてくれた。おやすみと言ってくれた。寝首をかくこともしなかった。ただ私を懐柔する為だけにそうしていたとしても、見せかけの優しさでも良いと思う程、乾いた土地に降る土砂降りの雨のように満たされていたのは事実だ。
今だって、自分の失敗を偽造したりもせず、申し訳なさそうに「加減が出来なくて」と言って割れた皿を見せてきてくれる。言葉通り粉々になっていたけど、そんな事もあると思……
粉々になっている。
「な…何これ」
「皿です。 」
「皿」
「気合いを入れて朝食を作ろうとしたら…すみません。性質故仕方無くて」
「せいしつ」
「嗚呼…失敬、説明を忘れていました。簡潔に申し上げますと、我々悪魔には各々に必ず一つ、性質というのがありまして…。我輩のは『過度』。他には『脆弱』や『猜疑』など、色々な…まあ、特徴…のようなものがあるのです。我輩の場合、何でもやり過ぎになる、というと分かりやすいですか?」
「えっと…それは力にも影響するの?」
「きちんと制御すればどうにかなります。別にこう、触れたらすぐ殺したり怪我をさせたりは意図しない限りは無い筈です。皿については我輩も解放されたばかりで加減を忘れていたというものであって、我輩という悪魔が有害生物だとか、対人類兵器、終焉を齎らす者であるというわけではありません。くれぐれもお忘れなく」
困ったように笑ってみせるユヴァシャズに、悪魔も大変なんだなあと思った。もっと自在にあらゆる魔法をつかって、人の悲しむ姿や苦しむ姿を見て嗤っていたり、堕落させて喜んでいるような、そういうイメージしかなかったものの。人間と同じくして悩んだり、困ったりするものなのかと、少なくともこの目の前の悪魔を見てそんな親近感を抱いていた。叔父さんがよく言うように、悪魔とはそうやって親しみやすさを感じさせて取り入る者なのだと念頭においてはいるものの、どうもそうとは思いきれない自分もいて、複雑な気分だ。今度は割りませんからと言ってキッチンに戻る際、入り口上の壁に思い切り額を強打している姿には、さすがに唖然としてしまった。身長が高過ぎるせいだろうか。
「だ、大丈夫…ですか」
「狭いです…どうにかなりませんか…」
「どうしてもそれくらいの身長じゃ無いといけないの?その…人としての姿は…」
「……元々、人に擬態するのが下手にも過ぎる程で。やっと一般に好かれるような美男子になれても、身長をこれ以下にいじると目がなくなったり口が消えたりして。あっ、元の身長はもっとありますのでご安心を。とにかく、今のこの姿が精一杯なんです」
「そ…そうなんだ」
「嫌ですか?嫌ですよね。美男子といっても過去の話で、今じゃ酷い顔ですし。これも全てあのクソ下郎に封印されたせいなんですよ。あの聖域のせいで!まともな式が組めなくなった!畜生!なんだこの顔は!」
「お、落ち着いて!おたまが折れちゃう」
呪っても呪いきれんと言わんばかりの恨めしげな表情に圧倒されながら、これ以上器具や皿を台無しにされても困るので必死に宥めると、ため息をつきながら朝食作りに戻る。というか、きちんと作れているのだろうか。魔法を使える悪魔とはいえ、男性であるし。先ほど言っていた性質もあってか、心配でならない。まさか変なものを入れてたりしないだろうかと様子を伺っていると、視線に気づいたのだろう。鋭いあの目がこちらを向き、咄嗟に逸らしてしまった。やはりあの目は怖い。三白眼、といったか。凶相の一種だとも聞いたことがあるけれど、まさにそれだ。目の周りの深いくまも相まって、本当に冷徹で狡猾な、近寄りがたい怖い人に見えてしまう。加えて、悪魔という先入観からか、自分の油断を今か今かと待ち構えているかのような。物腰は柔らかいし、自分の保護者として頑張ろうとしてくれているのに、どうしてもその眼差しだけは怖くて。まともに目を合わせたことは、まだなかった。
「怯えるのも仕方ありません」
低く艶のあるその声が、言葉をかけてくる。まるで夜が怖いと泣く子を慰め、あやすかのような柔らかい口調だ。少しだけ笑みを携えたような、優しくて暖かかった父のように、敵意も悪意もない風なそれが、棘の無い言葉を選んで、私を解する。
「人間にとって、悪魔というのは未知の存在です。ならば天使もそうではありましょうが、あれらは伝説上、人間にいつも何かを施してきた。それは幸福であれ勝利であれ、人々にとって光足り得るものだ。ですが我々は違う。施すもそれは一時の幸福であり、一時の勝利。後に続かぬ、脆く錆びた朽ちかけの鉄の剣のようなものです。いくら栄光を授かったとしても、その直後に必ず終わりがくる。不幸と絶望が訪れ、希望は暗に奪われる。そうして悲しみに暮れる人々を、我々はいつも…そうだ、嗤っていた。嗤って、嗤って、嗤って。とにかく可笑しくて。とにかく愛らしくて。堕落の運命が定まって尚、それを覆そうと、一矢報わんと抗い続けているのが。それを見ることでしか、我々悪魔は己の価値を得られなかった。人の負の感情を糧としなければ、生きていけなかった。
…いくら人間に同情して、いくら人間を愛していたとしても。
だから、仕方がないのです。悪魔が忌み嫌われるのも、必要とされないのも。そうやって悪を貫き続けることしか、我々は許されないのだから。生み出された時点で…そう決まってしまうのだから。」
物憂げにそう言う。まるで自分はそうはしたくないかのように。いや、きっとしたくないのだろう。それでもそうしなければ生きていけないから、仕方なく人を貶めてきたかのような言い方だった。彼は叔父さんにされた仕打ちを私に声高々に、恨みや怒り、憎しみたっぷりに打ち明けたとき、確かに言っていた。自分の思惑を外れて人々は勝手に争ってしまうと。この穏やかな物腰も、私に対する思いやりも全て本物で、本当に彼は人畜無害な、非業の悪魔なのだろうか。未だ分からない。ただ、彼が人間を愛しく思うなら、悪魔として生まれた彼は確かに、可哀想に思えてしまう。
「辛気臭い雰囲気にしてすみません。忘れてください、こんな悪魔のくだらない嘆きなど。」
朝食が出来ましたよ。と食卓に皿を置く。随分と手慣れた風な献立だ。コーンポタージュに、トースト2枚。チーズとトマトのサラダの下には、ハムが敷かれてる。小皿の脇にある小鉢にはバジルドレッシング。洋風の豪華な朝食。今まで、朝は1人でパン1つ食べられればまだ良い方だったからか、朝から食卓が彩られているというのは新鮮な感じがした。
「これ、…貴方が?」
「他に誰がいると?」
「すごく…美味しそう、です。あの、いつから起きてたんですか?」
「4時頃からはもう、既に。昨夜好きにしていいと言われたので、一通り何があるか等調べさせて貰いました。…大した料理ではありませんよ。地獄に住んでいた頃、暇を持て余してよく使用人にちょっかいをかけては手伝わされていたもので…まあ、真似てみただけです。到底及びはしませんよ、専門としている者にはね。ただ、さっさと食わないと冷めます。料理なので」
遠回しに早く食べましょうと言われているようで、慌てて食卓につく。いただきます、と言う声が重なる。彼も、そうしたのだろう。いただきますは悪魔もするんだと思いながらパンをかじった。ちょっとだけ焦げていたけど、それもまた美味しくて。上品に食べる姿を見ていると、美味しくないですかと言われたので、慌てて首を横に振ってサラダもよそって食べる。弾力のある白いモッツァレラチーズとみずみずしいトマトは、一緒に食べると二つの食感と味わいが重なるが、決して不調和ではない。柔らかく、ほぐれやすく、しかし弾力があり味が控えめなチーズを、トマト特有の鼻を通る匂いが、柔らかい皮、その内の独特な滑りと種の感触を以て補う。バジルドレッシングは着けずに食べてみたが、それだけでもう朝のぼんやりとした頭をはっきりとさせる。ドレッシングをつけて食べてみたら、一体どうなってしまうのだろうという抑えきれない期待を必死に落ち着かせながら、ハムをレタスに挟めて口に運ぶ。うん、柔らかい。柔らかくて、あっさりとした、ほのかな肉の生臭さ。加工品であるため匂いは最低限に留められているものの、やはりこの味は朝に最適なエネルギーを秘めているようで、好きだ。レタスの水分過多な部分が、味を余計にさせないよう工夫されている気がする。一通りサラダを何もつけずに楽しんだので、いよいよユヴァシャズが用意してくれたバジルドレッシングへと手を伸ばす。注ぎ口のついた、サラダにかけやすい形の小鉢だ。中を覗き込むと、ふわりとオリーブオイルの香りが鼻腔を通り、脳に直接訴えかけてきているようだった。油分多くも、きつくない、上品な香り。小鉢を傾け、白い小皿に盛られているサラダへと垂らす。多すぎないように、素材の味を活かせるように。バジルドレッシングをかけられたモッツァレラチーズとトマトは、リビングの大窓から差し込む朝日に照らされて、キラキラと光っているように見えた。オイルによりより一層みずみずしさが強調されている。我こそはと言わぬばかりの輝かしい赤。そっと慎ましく、だが地味とは言わせない白。この国ではおめでたいとも言える二色の組み合わせを我慢できずに、箸でつまみ上げ口に運んだ。なんということだろう、なんという爽やかな風だろう!野菜とチーズを優しく抱擁するバジルドレッシングは、私の口いっぱいに広がり、その匂いは体を駆け巡る。外国の静かな田舎町、晴天の下のレストラン街を彷彿とさせる、そんな明るく朗らかな味が、代わり映えの無い孤独の食卓の記憶を消し飛ばしてしまった。
「だ ダメだこれは…美味しすぎる…」
「そ…そうですか?美味しそうに食べていただいて、何よりです」
「ありがとう、ユヴァシャズさん。きっと最高のコックさんになれます」
「そんなに?」
「そんなに。」
そこまで言われると照れてしまいますね、と恥ずかしそうに目を伏せるユヴァシャズは、きっとこういう美味しい料理、いやもしかするとこれよりも美味しいものを毎日食べていたのだろう。夢中になって食べながら彼の上品な食事を眺める。あの書斎で初めて目にした時、伯爵みたいな装いをしていた。ああいう格好でそのお行儀の良さは絵になるな、と見つめていると、コーンポタージュをこくりと一口飲んで、聞いてくる。
「ところで美代子。学校は何時までに到着すれば良いのですか」
「8時25分まで、です」
「通学時間は?」
「1時間…あっ」
「そう。我輩ではなく、時計を見ることをお勧めします」
ちょっとだけ意地悪をされた気分になって、慌てて朝ごはんを食べ終えた。こんなに美味しいものを用意してくれたのだ。明日はもう少し早く起きて自分が、と。そんな風に思う。朝ごはんを作り合う相手がいるのがこんなに楽しくて暖かいことだったなんて、考えたことすらなかった。