第一章 二節
二節
【親愛なる父も、母も】
言葉だけの贖罪にも意味はなく。
心だけの贖罪にも意味はない。
身を呈した贖罪にも。
失ったものも、過ちも。戻ることはないのだ。
つまるところ、贖罪など何の意味も持たない。
気晴らしにこそ価値がある。
憂いを晴らすためとその者を手ずから八つ裂きにした方が、快くなるだろう?
そうでないのなら、天にでも何処へでもいくがいい。
「美代子。その者から、離れなさい」
聞いたこともないような冷たい声に、ユヴァシャズが振り返る。
書斎のドアを後ろ手に閉めながら悪魔を睨む、叔父さんがいた。先ほどの私の願いを聞いていたのかという不安がよぎる。私の頰からそっと手を離した悪魔の顔は見えない、が。嫌な気分がする。心臓を圧迫されるような強烈な不安。空気が重たく、息苦しい。しっかりと叔父さんに向き合ったユヴァシャズが、怒りを露わにした恐ろしい声で、叔父さんの名を呼ぶ。忌々しい、と吐き捨てた瞬間に大きな羽根が持ち上がり、鋭利な先が叔父さんの首元目掛け、向かう。
(叔父さんのお葬式になれば、お父さんやお母さんたちは帰ってくるのだろうか。私の話は…あの母のことだ。それどころじゃなくなって、また帰るだろう。”出張先”に。)
「義隆ァ〜〜〜〜〜ッ!このクソッタレが!恥を知れ!」
”何か”にぶつかったようにして跳ね、ボロボロになった羽根をちぎり捨てて、悪魔は叔父さんに向かって手を伸ばした。叔父さんは咄嗟に首元のロザリオを手に翳す。悪魔は十字架を嫌がる、から。あの悪魔はきっと退くのだろうと。
私も、きっと、叔父さんも、そう思っていた。
「…!美代子、その本を、こっちに」
「え」
予想を大きく外れ、ユヴァシャズは十字架を恐れることもなく、叔父さんの首のロザリオを引きちぎる。そのまま指の付け根から裂けていく手のひらなど気にもせず、もう片方の手で叔父さんの胸倉をひっつかみ、床に叩きつけた。ミシミシと音を立てて床に押し付けられる叔父さんが苦しそうに呼吸をする。それを、じわじわと嬲り殺すように徐々に力を込めていくユヴァシャズに、悪寒が止まらない。邪魔をしたら私が殺されるのかも知れない。だけど、親のかわりを務めてくれた叔父さんを失いたくはない。かふ、と酸素を求めるような、掠れた声を聞いた。
「や やめて…ほしい その人、私の…叔父、なんです」
「…何?」
先ほどの表情とは正反対な、殺意と激しい怒りに満ちた、ぎらついた目がこちらを向く。邪魔しようものなら何者も薙ぎ倒すと言わぬばかりの表情に、思わず息が止まりそうになったが、怯えていては、叔父さんが死ぬ。やめて、と今度は強く訴える。さっき話してみて、あの悪魔は話を理解できないということがないのはわかった。少なくとも自分の話を(母より、は)聞いてくれると。そして、彼は私に恩があると言ったから。多少のお願いは。
「お願い」
「ご両親に代わる人間だと」
「いうこと…きく、から。叔父さんを殺さないで」
「いや別に…こちらこそ恩があるので。そうは要求しませんが。この男の話は知らないのですね?」
ぱっと手を離し、ユヴァシャズがこちらに、カツカツと靴音を響かせて来る。そしてつらつらと、流暢に言葉を紡いだ。どこからそのように言葉が出るのかと思うくらいの語彙の多さに、饒舌さ、滑舌の良さに混乱しかける。噎せている叔父さんが目に入り、ほっとした。まだ生きている。
「我輩、この男に封印されたのです。十年前にね。その手法と言ったら、それはそれはまあ吐き気がするくらいに下衆で邪道で聖職者の恥とも思えるほどだ。一度寝惚けて便器に頭突っ込んで洗顔でもしたんじゃないかと思うくらいの性根の悪さで…おっと、いけませんね。私情が絡むとこうも話が愚痴らしく軽忽になる。まあ、まあ。そこはご愛嬌として。お聞きくださいね?分からないことがあれば聞いて頂ければよろしい。
まず、悪魔というのは貴様ら人間が思っているほど人に仇なすわけではなく。むしろ天使や神などの天上の者よりも、何億倍も人の心を理解している上位生物。故に、我輩一人の男に喚び出され、乞われたわけです。
『私はこの街で一番非力で、一番惨めな男だ。このまま一生情けないと笑われて生きるのは嫌だ』
…とね。
我輩も男ですので。同情し、応えようと思いました。確かに男性として産まれ、確固たる男性意志を持ったからには、女々しく生きるなど人でいうまさに『生き地獄』。実際はそこまで息苦しくはない世界なんですが…どうも先駆者は伝え方を誤った…否、感性が違うのか。失礼、話が逸れました。
我輩はそんな過哀想な男のため、様々な魔法やら呪いやらをかけてやり、結果彼はその街一の権力者。ですが我輩も、性質故そんなものではまだ応援したりないと思い、どうせなら国一番にならないかと話を持ちかけたのですが。そこで、彼は『もう満足した』と言い…何をしたと思います?」
叔父さんへ私が抱いていた想像とは、全く違う情報だった。
反論すらしない叔父さんに、疑念しか浮かばない。悪魔は嘘つきだからって、叔父さんは言っていた。それに叔父さんは、教会附属の児童養護施設で、いつも子供らに囲まれていて。いつも優しくて、愛情があって。悪を憎み善を尊ぶような、まさに聖徒の鑑だった。言うなれば英雄だった。そんな像が、段々と風化する。次いで紡がれる悪魔の言葉に、粉々に砕かれる。
「我輩の、契約書を。身体の一部を。そうされればどれほどの苦痛を伴うか。不死身故に、死ぬよりも辛い思いをすることを知っていながら。天遺物とも言われる聖書で挟み、封印した。
裏切った!
ええ、わかっておりますッッ!分かっていますとも、手を貸す方が悪いと!でもね、そこにいる名役者といったら、同情するなという方がおかしい!
我輩は!ただただ!1人の男を尊重したいだけだった!ただ、願いを叶えてやろうと思っただけだった…
…お前にしたように。分かるでしょう?我輩はね、貴様ら人間が思っている悪魔とは違うのです。これまでだって。
願いを叶えれば叶えるだけ、人間は魅力的になっていく。そしてそれに嫉妬し、羨望し、周囲が騒ぐ。勝手に暴動は起き、暴動が紛争を呼び、戦争になる。…我輩の意図を、いつも大きく外れて。だと言うのに、くだらない神の信仰で頭がやられた聖徒共は、それすら悪魔のせいだと我輩に濡れ衣を着せるのです。
…美代子。我輩はね、過哀想な悪魔なんですよ……」
何とも悲痛な表情を浮かべながら、乞うように。縋るように私の肩を掴むユヴァシャズの後ろで、ふらりと聖職者が立つ。決死とも言うべきか、今まで見たこともないような叔父さんの姿だった。すらりとした腕を伸ばして、その手に握る白銀の十字を、罪無き者(少なくとも、私は彼のことをそう思ってしまった。彼の哀願とも言えよう仕草は、言うなれば、それこそ悪魔でないと無碍にはできないほどに非力だったからだ。)に振り翳す。祈るように組まれた手の間から覗く聖十字が、悪魔の背へと今にも突き立てられようとする瞬間が、スローモーションのようにさえ見え、咄嗟にユヴァシャズにそれを告げようとした。無意識にそうしてしまった。悪魔に味方するというのは、神への叛逆も同然と知っていながら。
「2度も同じ手にかかると思うなよ、この下郎ッ」
「ッう…!」
聞きたくもないような、硬いものが折れるような音を立てて、叔父さんの手の付け根から先が、正常ではない方向へと曲がる。ユヴァシャズが咄嗟に振り返ると同時に、手の甲で思い切り彼の手を打ったからである。聖十字は鈍い音を立て、壁にぶつかり床に落ちてしまった。顔を見ずとも、悪魔が憤っていることぐらいはわかった。私が何も言わなければ、叔父さんがユヴァシャズに殺されてしまうことは明確だ。殺してやると冷たく言い捨てて、彼の無慈悲な手が、叔父さんの顔を掴み、持ち上げた。きっと痛いのだろう、苦しいのだろう。ジタバタと、かの英雄がもがく。死を恐れるようにさえ見えたその姿はもはやただの人間で、卑劣さを罰される無残でちっぽけな男。仕方がないことだ。本当に卑怯者であるならば。本当にユヴァシャズの言っていることが嘘ではなく、戯言ではないのなら。殺されても仕方ないことをしたのは叔父さんだ。
「まっ……て。殺さないで」
「はァ…?美代子。我輩の言ったことを忘れたわけではありませんね。我輩のこの心の傷みを理解できないと?このゲスが我々の会話に水を差したのを、貴様は見ていないと?寛容の極みだ、呆れるほどの。こんな輩の肩を持つ理由が我輩には理解できません。納得できるように話していただかないと。我輩は此奴を殺すと心に決めているのです、たとえ主となった貴様の願いと言えど、2度も卑劣な手を使われては赦せるものも赦せません。親の代わりだから殺すなと、必要だというのならば、我輩がそれを務めて差し上げましょう。だから…どうかこの男を始末する許可を」
「…こ…殺すのはまだ早いんじゃないかなって」
「…何?」
「…今すぐにでも殺したいくらい、どうしても赦せないくらい憎いんだったら、いっそ殺さずに、……あなたがされたように、死ぬより辛い目に遭わせてやったりとか…しないの?生きてくのが辛いくらいの…」
「…ふむ…」
何を言ってるんだ、とでも言いたげな、真っ青な顔をしている叔父さんに見つめられているのはわかっていた。それでも、唯一親の代わりとして頼らせてくれた叔父さんを、あの時死にたくないと思いもがいていたのであろう叔父さんを、少しでも生かしておける方法はこれしか思い付かなくて。その『死ぬより辛い目』というのをどう和らげさせようかが今後の私の課題にもなるが、悪魔を思いとどまらせるにはそれしかない。叔父さんはもう、この悪魔には勝てないかもしれないのだ。過去の彼の手法を、この悪魔は知っていて、それを見越しての行動が、今までの一連の動作に全て現れている。
「自分が何を言っているか理解できて…言っているようですね」
「うん」
「フフフ…フフハハハッ よろしい! 結構。大いに結構。ではそうさせていただきましょう。」
満足げに何か悪事でも思いついたように笑い、叔父さんの顔から、パッと手を離す。ユヴァシャズの横を過ぎ、床に崩れ落ちた叔父さんに急いで寄り、背中をさすりながら首を抑える叔父さんにごめんなさいと小さく呟くと、苦しいのを紛らわすように、いつもを取り繕って微笑んでくれた。
「私なら、大丈夫。美代子、その本を」
「こ…これ?」
「そう。その紙も、くれますか」
うん、と言いかけて、手が止まる。この人肌の暖かさを持つ紙を、叔父さんに渡せば。悪魔は再び封印されるのだろう。けれど—
『自由を奪われた身の、なんと窮屈だったことか』
『くだらない神の信仰で頭がやられた聖徒共は、それすら悪魔のせいだと我輩に濡れ衣を着せるのです。』
『我輩はね、過哀想な悪魔なんですよ……』
なにを感じているのかわからない無表情で、契約書を見つめるユヴァシャズを見る。
対して、先ほど死にかけていた叔父さんは普段通りの表情で。悪魔を懲らしめるのに慣れているかのような、動揺すらなく私にどうしました?だなんて首を傾げている。
死ねないから、ずっと苦しいままだと、聞いた。哀れな人の願いを叶えてやろうとも思ったと、聞いた。そんなのを、一方的に悪魔だからと決めつけてこらしめるのは、嫌だった。確かに酷いことを喜んでするような生き物かもしれない。人の不幸で育つ生き物なのかもしれない。でもそんなのは人間と大差ない。人間はむしろこうやって、自分の罪悪感や正義感に蓋をして、悪を見て見ぬ振りさえするし、自分の悪を隠しながら行う卑怯者だっている。他人を悪に仕立て上げて逃げる者もいる。善悪の中間を設けて逃げている人だっている。というより、そんなのが大半だろう。それが、どうして生来の悪を裁いていいのだろう。みんな同じなのに。
鬼を退治した桃太郎だって、命を奪ったのだから悪で違いないのに、その功績で隠している。その奇跡で罪を隠している。それに気づく人はいない。
みんな、誰もが悪なのでは?誰を懲らしめる権利もないのでは?
「美代子」
「!」
低く、艶のあるユヴァシャズの声が私を小さく呼ぶ。震える手で紙を握る私を見下ろしている。
「それを、渡さないでくれと言ったら。貴様はそうしてくれるのですか」
そんなことはないだろうと思っているような、諦めきった微笑だった。