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Ūberschuss  作者: よしひと
第一章
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第一章 一節

第一章




凄まじい苦痛や倦怠感の中、似たような悲しみを感じて一層だるくなったものの。


“戯れ”のために一世に一度地上に投げていた、契約書を読む声がする。


喚ばれている。誰が?我輩を?




だんだんと軽くなる体、癒えてきた傷、痛みの数々に顔を上げる。この永い苦痛とおさらばすることが出来る。


契約書—肉体の一部。あれはたしか自身の掌の殻だったか。あれに意識を集中させると、触れている人間の記憶やらを覗ける。今度はどのような人間が自分の人形となるのか。一度恩を返すふりをして裏切ってやろうか。女ならば弄び、男ならば今まで通り、戦の駒に、と。考えかけた矢先。






『お母さん、どうしてちゃんとみてくれないの』






幼い頃の記憶が一気に蘇り、自分が考えていた悪行を愚かしく思うほどに、哀情を覚えた。そんなこと。そんなことは出来ない。幼い自分と同じ悲しみを、今も抱え続けているような者になど。徐々に解放されつつあるのに寒気がし、不快でたまらない。






あの感覚は、あの諦めは、あの虚無感は。


そう長く、味わっているべきものではない。






昔の自分とそっくりな表情をしたこの少女が、不憫でならない。悪意はない。ただただ、哀れで、どうしようもない。強いて言うならば庇護欲と言うのであろうものが、渦巻いてしまうのだ。




昏い、あらゆる希望を捨てた終わりのような夕刻を閉じ込めた瞳に、見とれてしまった。






一節

【敵、天上にあり。友、地獄に在り。】


『諦め』は全てを奪う。

抜け殻で生きていくことの、なんと無意味で、なんと虚無であることよ。

ただ、虚無を怖れよ。

諦観し、虚へ落ちたものの愚かさ。無念。

神とも同等の怨敵はそれであると知れ。


お前にはそれが訪れぬようにと、切に。切に思うよ。






 日頃お世話になっている叔父さんのお家。神父という役職についている叔父さんの家は、教会のすぐ隣にある、この市ではよく見かける洋風な様式だ。その一室に、色々な本がぎっしり詰まっている、叔父さんの書斎がある。そこが好き。よく遊びに来ては、叔父さんに教えて教えてとせがんでいた、聖書の数々。今日も、と。慣れたように本を探している。

 窓の外から、同年代くらいの女子の笑い声が聞こえた。そうだ。普通の子なら、そうしているのが当たり前だ。学校帰りに友達と笑いあいながら、どこか寄り道にでもしに行く。私にはそんな友人などいない。いじめられているだとか、そういうものではない。たまたま皆が熱心なだけなのだ。たまたま勉強に専念しなくてはならないクラスで、たまたま私が、それを妨げかねない存在だっただけだ。


1年前になるだろうか。家族でドライブをしにいった帰りに、大きな事故に巻き込まれた。右脚がシートに挟まって、膝から下がどうしようもなくて、切断した。お父さんもお母さんも褒めてくれた、徒競走ではいつも一番の、速くて自慢な脚だったのに、私だけ。お父さんお母さんは命にかかわるほどの怪我では無かったのに、私だけ。やっと傷が癒えて、義足で登校した日に浴びた好奇の目は少しだけ不愉快だったものの、それでも仲が良かった友達はいたのに。私の事や事故にあった時のショックからか、はたまたご近所さんの好奇の目に限界となったのか。情緒不安定気味になった母親の都合で、引っ越しも伴って転校することになった。そこが、ここだ。見事なまでの進学高校で。私の様な要介護対象は足を引っ張る、というわけだ。誰も見向きもしてくれない。誰も関わろうともしない。 

 

ここにいるのに誰もいると思っちゃいない、そんな風だった。そんなだから友達はいない。私がすることは、こうして学校をちょこちょこ休んでは叔父さんのお家に遊びに来たり、都市部にある大学のキャンパス内の公園で、お散歩することくらい。両親は、海外に“出張中”だから。家に帰っても誰も居ない。誰も、誰も私のことは知らない。学校はどうだったとか、課題を先に終わらせろだとか、そう言ってくる人も誰もいない。一人で起きて一人で朝食を作って、一人で学校へ行き…思い返せばいつも、一人だ。それもまあしょうがないとは思う。だってお父さんもお母さんも忙しいのだから。美代子はもう大人なんだからと、事故に遭う前の家族はよく笑っていたと思う。大人だから一人にされても仕方ない。


「うん?」


 ふと、憂鬱な感情を払い除けるように、ある一冊に目が留まる。変な紙が挟まったような聖書だった。全部英語で珍しく感じた聖書をぱらぱらめくる。挟まった紙は、なんだか異様で。人肌の様な暖かさを持つ気持ち悪いそれに、恐怖に交じり好奇心のようなものを覚えてしまう。微かに強張る手で紙のようなものを広げれば、それもまた英語で書かれていた―が。聖書の内容とは比べようもないくらい、簡易な英語。


 “契約” “彼の名は『過度』” “願いは?”


 最後の一文まで読み終わって、気付く。これは多分、読んではいけないものだった。

契約?願い?…叔父さんが言っていたことを思い出す。“悪魔”の存在を。聖徒の信ずる神に。全ての父に仇なす、諸悪の権化の存在を。


 床を引っ掻くような音が聞こえる。熱を出した時の様な寒気がして、頬を気味の悪い、ぬるい風が撫でてくる。部屋を出ようとして出口の方へ向くが、そこの足場には黒い淀み(淀みと表現するのが妥当な、血だまりとも形容しがたい、池の底というべきか、どろりとした、コールタールのような、悪寒を感じさせる泥だまりである。)が広がっていた。


血生臭い。鉄の匂い。淀みから這い出てきたのは、大きな手、長い腕。纏っているのは貴族の様な高級感のある、フリルがあしらわれたブラウスに、袖口の広い、赤紫に近い色をした背広だ。床に両手を這わせて、ずるうりと。いつかの生物の授業のビデオで見た、蜘蛛の脱皮の倍速再生を彷彿とさせる。不気味で、気持ち悪くて、見ているだけで窮屈さや息苦しさを感じたあの不快感が蘇る。鼓膜を引き裂く金切り声のような、この世のありとあらゆる不快音を混ぜ合わせた、身震いするような気味の悪い音を発しながら、その存在はとうとう外へ這い出て、二本の足で、立ち上がってしまった。黒い淀みが蜘蛛の巣の様に全身にへばりついているのを払いながら。光を一切反射しない真っ黒な髪の毛に、前髪は七三分けのようで。深い隈が刻まれた不気味な目。血の気のあまり無い白い肌、黒目よりも白目の面積のほうが大きな、鋭い目。見下ろしてくるそれの全長は、2mか、それ以上だろうか。腰のあたりから真っ黒な翼を4枚生やして。普通の人間、外国人だとしてもなかなかにいない身の丈や、恐ろしい凶相は、言うなれば、それではない者がそれのフリをしているだけのようなアンバランスさがあった。


 人間を真似ているだけの、人間でないもの。そんな、歪な形の存在が、人間を模って、硬直している私に向かって、恭しくお辞儀をしてみせる。発した言葉もまさに模造品のように、狡猾で残虐な人間が、弱者にほんのちょっぴりの安心を与えさせるような、騙すような丁寧な口調で。低く艶のある、荘厳な声は、確かに奪う側の者として相応しいものだ。




「はじめまして。我輩は、ユヴァシャズという悪魔です。よろしくお願いしますよ」




 腰が抜けそう、とはこの事を言うのだろうか。今にも崩れ落ちそうなのを必死になって耐える。恐ろしい。私は取り返しのつかないことをしたのだ。叔父さんは、神父だ。叔父さんを呼ぼう。きっとこいつをどうにかしてくれる、こいつを、どうにかしないと。言葉を交わしたらいけないんだっけか、なにを、どうすれば。

 混乱した頭が堂々巡りを始める。まるで水から出された魚みたいに、口がぱくぱくと動くだけ。とうとう諦めの早い悪い癖が出てきて、ここで死ぬのか、どうせなら来世はもっと自由で優しい親がいたらいいなだなんて考え始めたのを、そんなちょっとした理想すら考えさせる余地も寄越さず、悪魔が私に言葉をなげかけてきた。



「…ここは…どこだ 答えなさい。今は何年で、ここは何処か」


「…え」


「今は、西暦、何年ですか。この国の名は。」


 低い声が問う。再三言わせるなとでもいうかのような、苛立った声色に意識が途切れそうなほどに恐怖した。してはいけないも何も無い。本能に、恐怖に従い、震える唇で答える。


「に、2017、で…日本、です」


「!なんと」


 目を見開いて、悪魔は驚いていた。というよりも、少しばかりか悲し気な顔をしていた。その、妙に人間らしいような仕草に、少しだけ恐怖が和らぐのを感じる。嗚呼人の皮を被ってるだけではないのか、と。しかしこいつが危険な存在であることには変わらない。こいつははっきりと、自分を悪魔といった。こいつが出てくるおぞましいあの光景もはっきりと見た。話している場合じゃない。叔父さんを呼ばなきゃいけない。の、に。


「…ふむ」


 どうして、こんなにじろじろ見てくるんだろう。寒気や冷や汗が止まらない。こいつの後ろにドアがあるせいで、逃げ出せもしない。もしかしたら、やっぱり私はここで死ぬのかもしれない。すっかり淀みが無くなった足元が見える。もう手遅れだ。物理的に押し込んで戻すなんて思いつきも、もう通用しない。悪魔が、こちらに歩みを進める。近付かないでほしい。まだどういう影響があるだとかも分からないのに。というか、何をするつもりなのだろう。不可解な行動に、ますます恐怖を覚える。


「お名前を、伺ってはおりません」


「なま、え」


「そう。我輩が名乗ったのだから。貴様も名乗るというのが、礼儀でしょう。日本人はそういうのを重んじるのでは?」

 

「…え…」


「ああ別に、お互いの名前を知ったから死ぬだとか新たな呪いが生まれるだとかは御座いませんので、気兼ねなく。触ったら溶けるだの寿命が縮むだの不幸が起こるだとかも無いです。そんな魔法も…あるかもしれませんが、我輩は知りません。興味も無い。久方ぶりに他者に会ったのだから、会話したくて堪らないんですよ。」


 まさか驚きすぎて自分の名前を忘れた、とかではありませんね?と笑い交じりに問うてくる。温厚な性格…なのだろうか。敵意だとかを(さっきはイラつかれたけど)あまり感じられない。交渉次第で帰ってくれるのかもしれない。機嫌を損ねない様にしなくては、ならない。隙をついて叔父さんを呼びに行けばいい。人間の命や今後の将来に影響を与えたり、といった有害な行為に興味は無いと言うのだから、少なくとも自分に被害が無さそうなのは理解した。性格は偽っている可能性は無きにしも非ずだから、まだ、安心は出来ないけれど。さっきのように苛立たせて嫌な態度を取られたりするのはあまり嬉しくないから、応える事にする。


「…美代子」


「美代子、ですか。良い名だ」


「…あ、ありがとうございます」


「年齢は」


「え…あ…十七、です」


「十七?十七…ああ、そうか…成程。ということは、学徒の…学生の身分と。我輩はそんな子供に…いやはや。」


 す、と大きな手が伸びてくる。白い手袋に包まれた長い指。こちらに差し伸べられた手。地獄にでも連れて行くというのだろうか。取るべきか否か迷ったが、先ほどの苛立った声を思い出して、咄嗟にその手を取ってしまった。自分のよりも大きい手に、握られる。もしかしてばきばきに折られて粉砕されたり、雑巾のように絞られてしまうのでは、だなんて物騒なことが頭を過った。もう骨を折ったりだとか、切断したりは沢山なのに。何が起こるかわからないそれに目を閉じて怯えているが、一向にそういった気配はない。

恐る恐る目を開けば、悪魔は―ユヴァシャズ、は。とてもそうだなんて思えない、心の底から安心しきった表情をして、私に、言う。大きな手は、私の小さな片手をそっと包み込む。


「自由を奪われた身の、なんと窮屈だったことか」


「へ」


「貴様が、あれを読んでいなければ…きっと、あの苦しみは永く永く続いていたのでしょうね。己の生きた年月に満たないような子供が、よもや人間が、何も知らなかったとしても。助けてくれたのは事実ですし、感謝以外に、職業ながら言葉が見つからない。ありがとう」


 ありがとう、という言葉。拍子抜けという言葉以外の、何物でもない。不安というものを払拭する術を知っているだけなのかもしれないけれど、どうしても私には、この悪魔が可哀想に見えてならなくて。叔父さんを呼ぶことさえ忘れて、私はただこの悪魔に同情していた。悪魔が。人間を見下し、人間の苦を悦び、悪へと誘う存在が、ここまで言うのだから。きっと余程辛かったのだろうな、と。聖徒として教育を受けた身でありながら、彼という悪魔の受けた苦痛を、酷いもののように感じてしまっていたのだ。

 

「…お礼にもならないかもしれませんが、ひとつ願いを叶えましょう。代償も求めません。我が身、捨てても捨てきれぬ程の恩故。こちらから求めるものなど何もない」


 “願い”


 一気に現実に引き戻される感覚。そうだ。何と言えどもこの者は、悪魔だ。平気で人を騙し、利己の為に犠牲も厭わない存在だと、叔父さんは言っていた。


 頼ってはいけない、信じてはいけないと分かっていながら。それでもなお、どうしても叶えたい願いはある。とにかく渇望していたもの。誰からも認識されていない現状とは真逆の。『皆に認識されたい。皆となかよくなりたい。』という、たった一つの願望だった。脚はもう、いい。無いことでむしろ、もっと労わられるなら。もっと優しくしてもらえるかもしれないなら。そんな悪い考えだってある。


本当に、代償も無く。叶えてくれるのだとしたら?


ずっとずっと持ち続けていた願いが、のどの、すぐそこまで来ている。

それを出させようとしないのは、叔父さんの教え。神への裏切りに対する背徳感。


唇を固く結んだ私を見て、不思議そうな顔をする悪魔。


「…どうしました?」


「…本当に、代償は無いの」


「確かに我輩は悪魔です。しかし列記とした男ですので、二言はありません」


「…」


「願いを。美代子」



短く息を吸い込んで、応えようとする。目は合わせられなかった。自分の本心から目を背けるというのは、こんなにつらかっただろうか。お母さんに物をねだって、「必要ないでしょ」と言われた時と同じ。同じのはずなのに。諦め続けることでみんな喜んでいた。ホッとしていた。だからこれでいいと。


「……私は…信徒だか」


 全て言い終わる前に、底知れない、殺意に似たようなもので遮られた。悪魔の手が私の口を、覆っている。鼻から下を掴むように。「その先を言ったら殺す」と言わんばかりに。怒りを抑え込むような、歪な笑みを浮かべて、ユヴァシャズは言う。先より聞いていたはずの声は、地の底から這いずるような、人を引きずり込もうとするような闇を持って。


「いけません。いけませんよ?神は貴様に何をしてくれた?何かしてくれるなら、その足もそんなザマじゃなかったはずでしょう 違いますか?」


「…!」


「神がそんなに万能で、全てを救うなら…貴様がそんな表情をすることも無い。今一度問いますが。神は貴様に、一体何をしてくれた?ねえ…美代子。教えてくださいよ。何の嘘偽りも無く」



 この悪魔の言う通りだ。

確かに、信じ続けていた。いつか報われると、これは一時の試練だと、そう思い込んで。だから諦めることも苦じゃなかった。それでも報われることはなかった。お母さんにいくら怒鳴られて、いくら周りに退けられて、耐え続けても。


結局、この心は満たされないままだったじゃないか。



「…なにも 何もしてくれなかった」

 


 この空っぽが続くなら、いっそのこと、もう。

堕ちてしまった方が楽じゃないのかと、思ってしまった。何もしてくれない神と、今私にどんな願いも叶えようと言ったこの悪魔を、天秤にかけてしまったのだ。



「私…もっと皆に…皆に、向き合ってほしかった」



 私の“願い”を聞いて、悪魔は一瞬だけ。本当に一瞬だけ、何か物悲し気な顔をして、応えた。いつの間にか頬を伝っていた涙を、そっと拭って。



「御意のままに。…美代子」



 何故だか、この恐ろしい悪魔を、信じていいと思っている私がいる。人ではないのに、優しさというものなど持ち合わせていないはずなのに、確かにその表情には、憐れみという情があったのだ。救済を施す人のそれを、確かに持っていたのだ。


 

 






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