56 うぬぼれぐらい許してほしい
すすり泣く弥美をタクシーで送り出してから、俺はぶらぶらと川沿いを歩いていた。
ふとスマホを見ると、見慣れぬ番号からの不在着信。
疑うのに疲れた俺は、なんとはなしにかけ直す。
『もしもーし』
聞こえてきたのは幼さの残る女の子の声。
……なんか聞き覚えがある声だ。
「もしもし、さっきかけてきました?」
『笹川ユート! あんたお姉ちゃんに何かしたでしょ!』
うわ、藻瑚ちゃんの声だ。なんか面倒な子の番号だった。
『猫の恨み忘れたとは――』
『ちょっと藻瑚! 代わりなさいって!』
スマホの向こう側で何やらもみ合う声。
勝敗がついたらしい。息を切らせながら羽衣先輩の声。
『あの、ユート。ごめんね、私の落としちゃったから。藻瑚のスマホからかけたの』
「羽衣先輩! 大丈夫でしたか? 怪我は? ひどいことされなかった?」
思わず矢継ぎ早に尋ねる俺に、先輩はスマホ越しにくすくす笑う。
『うん、大丈夫。なんか百合園さんのところの社員さんが迎えに来てくれて、家まで送ってくれたし』
「それと、スマホなんだけど」
『それが、聞いて!』
途端にヒートアップする羽衣先輩。
ええもう、聞きましょう。
『濡葉さんのお友達って人、酷いの。GPSの感度が良くなるんだよって勝手に窓の外に出して、落としちゃって。車止めてくれないし』
「お、おう……。そうですか。大変でしたね」
危機感の無さがなんか気になるが、とにかく元気そうでよかった。
胸のつかえを下ろそうとした刹那、羽衣先輩がポツリと呟く。
『……でも、ちょっと怖かったかな』
「あ……」
これだ。俺の悪い所だ。
こんな目にあって、怖くなかったはずはない。
羽衣先輩は大丈夫だった、平気だってことにして俺自身が罪悪感から逃げようとしただけだ。
「ごめん、羽衣先輩。俺のせいで、怖い目に合わせちゃって」
『ううん、ありがと。ユートの声聞いてたら、元気でた』
「今度、みんなで約束のカラオケ行きましょう」
『うん、行こう』
しばらく続く沈黙。
心地の良い沈黙ってあるんなら。今のこれのことなんだろう。
スマホ越し、僅かに伝わる羽衣先輩の息遣い。
『……もう少し、お話してても大丈夫?』
「ええ、俺ももう少し――」
『おねーちゃん、ユートなんかと話してると耳が腐るから! スマホ返してよ!』
早くも藻瑚ちゃんが復活した。
第二ラウンドの開始だ。
『ちょっともう藻瑚! あー、ユート! それじゃまた学校でね!』
「あ、はい。それじゃまた学校で」
通話の切れたスマホを耳にあてたまま、俺はくすりと笑ってしまう。
なんか、羽衣先輩には藻瑚ちゃんがいてくれて良かったな。
……そういえば藻瑚ちゃんの言ってた猫の恨みって何なんだろう。
まあ、考えても分かんないし、今度羽衣先輩に聞いてみよう。
俺はスマホのチェックを終えるとそのままポケットに突っ込んだ。
LINEのメッセを見る限り、朔太郎と葉世里は元気そうだし放っておいてもいいだろう。
遊歩道ももう終わりだ。
川に向かって向き直る。
俺はズボンからお守りを取り出した。
刺繍の模様が汗でしっとり湿っている。
肘を曲げ伸ばしすると鋭い痛みが走り、思わずうめいた。
俺は苦笑しながらお守りを左手に持ち替えて、思い切り振りかぶる。
一瞬迷ったけど、川に向かって放り投げた。
骨の一本や二本、折れるものなら折ってみろ。
……出来れば捻挫くらいで済ませて欲しいが。
風に負けながらフラフラと川面に吸い込まれるお守りの姿に、俺の肩から重荷がすとんと落ちたような、そんな気がした。
◇
俺は痛みの増していく身体を引きずりながら、ようやく家にたどり着いた。
「ただいま……」
言いながら今日は桃子さんがいないことを思い出す。
大阪の即売会に前日入りで、帰りは確か月曜日の午後だ。
靴を脱ごうとしゃがもうとすると、足に力が入らずその場にへたり込んでしまう。
……今日は流石に大変な一日だった。
震える指で靴紐をほどいてると、玄関の花音の靴に気付く。
壁伝いに歩いてリビングに入ると、エプロン姿の花音が夕飯の支度中。
おにぎりが花音の手の中でポンポンと踊っている。
「来てたのか」
「お帰り。お風呂沸いてるから、ご飯の前に入ってきて」
「へえ、おにぎりか。具は何あるの?」
「シャケとおかか。味噌汁もあるよ。悠斗、カボチャが入ったの好きだったでしょ」
そういえば。
元々食の細い俺は昔から、疲れたり元気がないと途端に食欲が無くなる。
そんな時、花音は何も言わずにおにぎりと味噌汁を作ってくれてたっけ。
俺は何だか懐かしくなってテーブルに近付いた。
テーブルに手を付こうとした途端、足から力が抜けて俺はその場に倒れ込んだ。
「危ないっ!」
握りかけのおにぎりを投げ捨て、花音が俺を抱きとめる。
俺の頭を抱えたまま、しりもちをつく花音。
……俺の目の前にあるのは、エプロンの花柄。正確には花音のお腹だ。
図らずも、太腿に頭を預けながら花音に抱き着く体勢になっている。
花音は俺の背中に手を回し、あやすようにポンポンと叩く。
「悠斗、身体中ご飯粒だらけだよ」
「誰のせいだよ」
二人でひとしきり笑うと、俺は目を瞑った。
「少し、このままでいいかな」
見えないけど花音が優しく微笑んでくれているのを感じる。
聞く前から花音の答えは分かっている。
……なんて、そんな自惚れぐらい許して欲しい。
「いいよ」
そう言うと、花音は俺の頭を慈しむように撫でてくれた。ご飯粒まみれの手で。