40 百合園花音は手を伸ばした 1
初めて見たマンションの屋上は意外と広くて綺麗だ。
花音の髪を梅雨の湿った風が揺らしている。
「弥美は?」
「弥美ちゃんはロビーに置いてきた」
花音は堅い表情のまま、俺に歩み寄ってくる。
しかし弥美がいないのは幸いだ。彼女がいると話がこんがらがる。
「いやあ、さっきは助かったよ。どうなることかと――」
ドン。俺の頬をかすめて壁にドライバーを突き立てる花音。
「ひっ!」
「ねえ、私に色々と説明が必要だと思わない?」
「は、はい、それはもう」
えーと、なにから説明すればいいんだろう。
少し間違えれば今度は俺の顔に穴が開くぞ。
「最近ウロチョロしてるあの小娘は何なのよ。嫁とかって、私聞いてないんだけど」
「えーと。彼女はこないだの大雨の日、ずぶ濡れになってたからうちに連れてきただけなんだ。あ、もちろん、桃子さんが面倒見たんだぜ」
「で、なんで全裸で押し倒す仲になってんのよ」
うん、そこは俺も知りたい。
「それが、桃子さんが嫁においでと言ったらどうも真に受けちゃったみたいで」
「はあっ?! そんなんで嫁なら、私なんかとっくに嫁でしょ!」
花音、自分で何言ってるのか分かってるのか。
しかし俺自身、葉世里の行動をまともに説明できる気がしない。
これはもう全部話してみるしかないぞ。
「花音。信じがたいかもしれないが、これからお前に本当のことを話そう」
「何よ改まって」
俺は全てを話した。
不思議な占い師から買ったお守りのこと、羽衣先輩や藍撫葉世里との出会いについて。
話終えた俺は大きく息をつくと、花音の様子を伺った。
不気味なほど黙って聞いていた花音は神妙そうな顔で頷いた。
「つまり不思議なお守りの力で、ほとんど面識の無い小娘があんたの家に押しかけてきて風呂にまで乱入してきたと。なるほど」
花音は今度はにっこり微笑むと、俺に背を向けて物陰で何かゴソゴソし始めた。
「で、偶然が重なって全裸で押し倒したって訳か。なるほどなるほど」
うん、そういうことなんだ。分かってくれて嬉しいぞ。
ホッとしたのも束の間。
戻ってきた花音は肩に消火器を担いでいる。
……えーと、それどうすんだ。
「よーし、歯を食いしばれ」
「へっ? いや、ちょちょ、ちょっと待って!」
食いしばるどころか歯が全部無くなる勢いだ。
花音は問答無用で消火器を振り回す。
俺がギリギリのところでしゃがんでかわすと、壁にぶち当たった消火器は火花を散らしながら跳ね返る。
うわ、やばい。これガチの奴だ。顔から血の気が引く。
衝撃でよろけた花音はフラフラと2,3歩後ずさり、消火器ごと後ろに倒れた。
そして、一面が白い煙に包まれた。
――――
――――――
――当然の結果というかなんというか。
立ち込めた白い煙が収まると、粉まみれになった花音が悄然と立っている。
「花音、大丈夫か?」
「……もうやだ」
花音の目から大粒の涙がぽろりと落ちる。
「もうやだーっ!」
堰を切ったように泣き出す花音。
「いや、あの、ごめん、花音」
何を謝ってるのか分からんが、なんかもう謝る他ない。
花音はひとしきり泣き終えるとひっくひっくとしゃくりあげながら俺を睨みつけ、
「……シャワー浴びる」
そんなことを言い出した。
「でもいま桃子さんいないんだけど」
「あの小娘に貸して、私に貸せないっての?」
「あ、いや、そういう訳では」
確かにまあ、粉まみれのまま放っておく訳にはいかない。
「じゃあ、俺んちに戻ろうぜ」
「……うん。悠斗んち行く」
花音はしおらし気に俺の服の裾を掴む。
え、ちょっと可愛いんだけど。どうした花音。
粉が付くから服に触らないで欲しいけど。
◇
「桃子さんの服、ここに置いておくから。ちゃんと着るんだぞ」
「……うん、ありがと」
シャワーの音と洗濯機の回る音。
浴室の摺りガラス越しに揺れる影に思わず目が奪われる。
顔見知り程度の子がシャワーを浴びるシチュが熱いとか思っていたが、それは嘘だ。
家族同然の幼馴染が何かしおらし気にシャワーを浴びている方が余程心をかき乱す。
……いかんいかん。相手は俺を信用してくれているのだ。
俺は雑念を断ち切るように頭を振った。
「制服は粉を落とせるだけ落としたから。留蔵さんにコンプレッサーで残りの粉を飛ばしてもらってくれ。それじゃ、ゆっくり温まって」
「悠斗、ちょっと待って」
早口で言って立ち去ろうとした俺を呼び止める花音。
俺は緊張しながら花音の言葉を待つ。
「覚えてる? 最後に一緒にお風呂に入った時のこと――――」