31 濡れパセリ1
今年の梅雨は例年より一週間入りが早いそうだ。
俺は降り続く雨の中、節々が痛む体を引きずりながら帰路についていた。
幸いなことに部室の改装は梅雨入り前に完了した。
というか、天気図の不穏さに気付いた花音の指示の下、終わらさせられたと言った方がいいだろう。
さて、今日の夕飯当番なにを作ろう。
ここんとこモヤシづくしだったし、今日は久々に生姜焼きでも食べたいな。
付け合わせはやっぱキャベツの千切りだよな。
こんな平和な放課後も悪くない。
上機嫌で歩く俺の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……もし。もし。そこの人」
なんだろうこのデジャブ感。
一層強くなる雨の中、声の出所は脇の路地のようだ。
半ば諦めつつ、俺は路地に入り込む。
「もし。そこの人、助けてはくれないか」
降りしきる雨の中、視線を上げると小さな靴と白い足。
傘を後ろに傾けるとブロック塀の上、藍撫葉世里が雨に濡れそぼって立っている。
「……懲りずになにやってんだあんた。びしょ濡れじゃないか」
「猫を(以下略)怖いので助けてくれ」
呆れるよりもそのブレなさに感心する。
一瞬放っておこうかとも思ったが、流石にこの雨の中で放置するほど鬼にはなり切れない。
「とりあえず、ダイブは無しな。ゆっくりしゃがめるか? 俺の手に捕まって」
傘とカバンを地面に置くと、藍撫葉世里の乗る塀に歩み寄る。
彼女はおっかなびっくり膝を曲げながら、伸ばした俺の手を掴む。
「そのままゆっくりしゃがんで。俺が抱き留めて下ろすから、悪いが体に手を回すぞ。いったん、君の左手を放してくれ」
くちん。
藍撫葉世里はここでくしゃみを一つ。
というか今のくしゃみの音なのか。
「あ、鼻水が。ハンカチ……」
彼女はポケットを探るとハンカチを取り出して――
「うわ、なに両手離してんだ!」
俺に向かって落ちてきた。
◇
「葉世里ちゃーん。着替えここに置いとくからねー。ほい、悠斗も着替えなさい」
桃子さんが俺にバスタオルと着替えを投げてよこす。
「悠斗の制服はとりあえず玄関に掛けといて。後でアイロンかけておくから。濡れた服はこの籠に入れておいてね」
「ありがと、桃子さん」
落ちてきた藍撫葉世里を受け止めきれず、結局俺まで全身ずぶ濡れになったのだ。
ただ歩いていただけなのに何でこんな目に。
しかし桃子さんがいてくれて助かった。
俺は玄関で着替えると、ようやく入室を許された。
洗濯機の回る音の向こう側、浴室から水の音が聞こえてくる。
藍撫葉世里は一足先に桃子さんに回収されてシャワーを浴びているのだ。
……なんというかこう、自宅で同級生の女の子がシャワーを浴びているってシチュって『くる』ものがあるな。
顔見知り程度の間柄というのも、却って興奮――えっと、趣き深いものだ。
「しかしやるねー、悠斗。女の子連れ込んだのこれで3人目だよ」
「それって花音も入ってるのかよ」
落ち着かなげな俺の様子を見抜いたのか。桃子さんは葉世里の制服にタオルをあてながら、悪そうな笑顔を浮かべる。
「洗濯機止まったら、コインランドリーで乾燥機かけてくるから。葉世里ちゃんのことお願いね」
「え。うちの洗濯乾燥機じゃん。わざわざ外に行かなくても」
「それが壊れちゃって。いやー、梅雨なのに困ったよね」
壊れてないよね。タイマーで今朝、普通に乾いてたぞ。
「……ひょっとして桃子さん。俺を彼女と二人切りにしようとしてんじゃないよな」
「あんたも年頃だしね。1時間ほど家を空けるから安心して」
余計なことは止めてくれ。しかも1時間って長いか短いか良く分からんし。
「いい? 一見短めに思える時間設定には幾つか意味があってね。一つ目は、あんまり早く終わった時の気まずさを――」
よーし、止めろ。家族にそういう解説はマジ止めろ。
「あのな。彼女は単なる顔見知りで、そんなんじゃないから」
「そういうシチュの方が来るものがあるんじゃない。時折見かけて気になっていた美少年が、雨の中で傘も差さずに立っていたのを連れてきて……。あ、うん、これいける」
「いけるって何がだよ」
「ちょっとネーム切ってくる!」
桃子さんは興奮気味に目を輝かせると自室に駆け込んだ。
「あ、ちょっと! この後どうすんだよ!」
取り残された俺はあたふたと制服と脱衣所の扉の間を視線を往復させる。
ガチャリ。心の準備もそこそこに脱衣所の扉が開く音がした――――