14 濡葉弥美 来襲2
俺は食卓に突っ伏して熟睡する桃子さんに毛布を掛けると、壁の時計に目をやった。
「結構遅くなったな。弥美の家はどのへん?」
「ここから電車で三十分くらいです。電車の時間があるから、急いで食器を片付けますね」
「割と遠いんだ。片付けは俺がするし、駅まで送るから支度して」
「駅まで近いから、玄関までで大丈夫ですよ。悠斗さんは桃子さんの面倒を見てあげてくださいな」
時間を気にしながらカバンを肩にかける弥美。
「なんか悪いね。今日はありがとう。夕飯、美味しかったよ」
「こちらこそありがとうございました。急だったのに、おうちの方に紹介までしてもらって」
……あれ、そんな話だったっけ。
困惑する俺に、弥美は静かに身を寄せてくる。
「え。ちょっと、どうしたの?」
弥美は首筋に顔を寄せ、スンスンと臭いを嗅いだ。
「……悠斗さん、放課後女の人と会いました?」
「へ? 女の人?」
「香水かなにかの匂いがします。あと他にも甘い香りが」
「あー、部活見学に行ったからかな。部室にお香が焚いてあったのと、紅茶をごちそうになったんだ」
「そうなんですね。何部ですか?」
何部? えーとなんだっけ。目隠しした変可愛い先輩しか覚えていない。
あと伸びる猫。
思い出せずに悩む俺を何故か無表情に見つめていた弥美は、パッと表情を切り替えて明るく微笑んだ。
「いえ、言いにくければ大丈夫です。じゃあ、明日のお弁当も楽しみにしていてくださいね」
もう明日の昼の話か。今、夕飯作ってもらったばかりじゃないっけ。
「弁当の話だけど。今日会ったばかりでそこまでしてもらう訳には」
「……歯ブラシ」
急に低い声でぼそりと呟く弥美。
「歯ブラシ?」
「洗面台に歯ブラシが三本ありました。桃子さんと二人暮らしじゃないんですか」
「ああ。花音が勝手に置いてる奴か。あいつ、たまにうちでご飯食べるから」
「花音さん、ここに頻繁に出入りしているんですね」
……あれ、なんか雰囲気がおかしいぞ。
さっきまでの友好的な態度とは打って変わって濡葉弥美の目は据わり、上目遣いに俺を睨みつけている。
「つ、つまり花音は幼稚園からの幼馴染で、お互い一人っ子だから兄弟みたいなものというか」
何で俺、こんなに怯えているのか。背中がびっしょり汗で濡れているのが分かる。
「……話は戻りますけど。花音さんの作るお弁当は食べられるのに私の弁当が食べられないとか。そんなことは」
「も、もちろんそんなことは。無理はしないで、君の弁当のついででいいから」
「……」
続く沈黙。
緊張感に意識が遠のき始めた頃、弥美はようやく蕩けるような笑顔に戻った。
「はい。それじゃあ私、行きますね。悠斗さん、また明日学校で」
去り際、チラリとスマホを見た弥美の顔が青ざめる。
「どうかしたの?」
「す、すいません、すぐに電話を掛けないと……」
俺に聞かれたくないのか。電話をかける場所を探して辺りを見回す弥美。
「急ぎなら洗面所とか使って」
「はい」
弥美は洗面所に駆け込むと深刻そうな声で話し始めた。
……なんだろう。何か大事な用事でもあったんだろうか。
皿を片付けていると、弥美の声が大きくリビングまで響いてくる。
『ご、ごめんなさい、着信に気が付かなかったんです……』
扉越しにも分かる弥美の声は、不安に震えている。
……何があったんだろう。気になるが盗み聞きのようで気が引ける。
『ちょっとお友達と話をしてただけで。……はい。……はい。ごめんなさい。すぐに戻ります、お母さん』
……お母さん?
とても自分の母親と話す時の口調とは思えない。
扉が開き、顔を更に青ざめさせた弥美が現れる。
「大丈夫?」
「え、ええ、はい。ごめんなさい、私、急いで帰ります」
弥美は挨拶も早々、慌てて靴を履くと飛び出していった。
途端に静まり返る室内。
……今日知り会ったばかりの濡葉弥美が家に来て、夕飯まで作ってくれた。
まるで夢かなにかのようだ。
俺は放心しながらリビングに戻ると、テーブルの上の生徒手帳を手に取る。
そういえばカバンの内ポケットに入れておいたのに、一体何故落としたのか。
まあ、そのおかげで弥美が俺の家に来てくれんたんだけど。
何気に手帳をパラパラめくっていると俺はあることに気付いた。
生徒手帳に住所欄なんて無いってことに。