ある少女たちの話
2019/06/11
誤字脱字と一部表現を修正しました。誤字脱字報告ありがとうございました。
最初の部分をちょっと追加しました。
世界の境界は曖昧で。
私の体と魂は今は別れていると彼らは言った。
少し休んで。
あとはあたしに任せて。
友人と呼ぶことを許されなかった彼女の声が聞こえた。
あなたが頑張ったのはあたしは知っている。
だから、ゆっくりね。
長い黒髪の背を見ているしか出来なかった。
貴族のご令嬢というものは、家のオプションである。
いきなり何を言い出すかと思うでしょう。事実です。実は厳密に言えば貴族でもない。法の上で貴族とされるのは当主と次期後継者のみで、妻や後継者以外は貴族として扱われない。
これがどういう結果を生むかというと。
「大変申しわけございませんでした」
家族の不始末には当主が出てくるのである。責を負うのも当主。張本人は当主から罰を受けるかたちとなる。間違ってもこのような場には同席はしない。
元日本人としては人権ってなんだっけ? みたいな気分になる。
この世界の常識としてはたかが娘一人に嫌がらせをしたくらいで、普通は当主は出てこないし、謝罪の書面と慰謝料ぐらいがせいぜいだろう。殺人未遂のようなものであれ、たかが娘である。彼らにとってただの高価な備品とどれほど差があるのか謎だ。次期当主ともなれば青ざめて謝罪に訪れるだろうが。
今、あちこちの家の当主から謝罪を受けているのはじいさまの手腕である。
この結果の見えた制裁というものも。ああ、この家も詰むのだろうか。あたしは遠くに思いを馳せる。
レティシア・シュウレイ男爵令嬢改め、レティシア・ウィンルイ侯爵令嬢は今や王宮の噂の的だ。今一番の注目人物。まあ、あたしのことだけど。
理由?
そんなものはジェイス・ハーディ次期伯爵を振った女としてに決まっている。結婚適齢期の女性に大人気。ついでに奥様方にもそつなく好感度が高い。
幼い頃に決まった婚約者が居なければひどい争奪戦が行われ、婚約者が決まるまではあらゆる男性が婚約者を得ることが出来なかったのではないかと言われる男だ。
政略結婚ばかりの貴族の世界で、だ。
元婚約者たる彼は恐ろしいまでのハーレム体質とでも言えばいいのか。外装が美形で、そこそこの有能さとマメさ、優しさを振りまけば地位もあってお嬢様ホイホイである。中身はと言えば、レティシアをひたすらに出来ない子扱いしたり、他のご令嬢にいじめられましたと申告しても疑ったりするような人である。
その上、俺以外君を貰ってくれる人なんていないでしょ、と本気で言う。レティシアは、何を言っても聞いてくれない婚約者には従順に振る舞っていたからそう見えたのかも知れない。
まあ、あたしとしても仮とは言え婚約者を正式な婚約式で振った女に今後縁談が来るとは思っていなかった。別に困りはしないのだけど。本気で結婚が必要になれば、してくれる男はいる。恋も愛もなくても家族にはなり得る。相手がそれで満足してくれるかは不明としか言いようがないけれど。
しかし、実際のところは、バカみたいな量の婚約希望が殺到している。貴族の後継者以降の男子やらどこぞの将軍、果ては名だたる傭兵など。全部、軍人や荒事に慣れた連中なのが笑えるところだけど。
つまりは、レティシアは軍人にはめっぽうモテたということだ。それというのも実家がある剣術流派の元締めであるからだ。二人姉妹の妹であり外に嫁げる方の娘なので、それはそれはモテるだろう。強力な縁戚関係が結べることは難くないし、もしかしたら流派でのそれなりの地位にたてるかもしれない。
価値がある娘。しかし、仮とはいえ婚約者がいれば、近づくわけにもいかない。結果、憧れからアイドル化していたようだ。そのアイドルが婚約破棄である。盛り上がるよね。
レティシア、早く婚約破棄すれば良かったよ。と本気で思う。
もっとも貴族的には婚約者を振った女など価値はマイナスである。
ところで、先ほどから自分のことなのに人ごとのように、レティシア、と言っているにはわけがある。あたしは元々この体の持ち主、レティシアではない。
神(仮)の指示により、他人の肉体乗っ取り中だからだ。レティシアは婚約者が原因で死に至る。そして、その死によって世界が良くない方に向かうという世界の焦点が合ってしまった少女だった。
外部からの色々では改善が見込めないため最終手段として魂の交換という肉体の乗っ取りを行ったのが二ヶ月前だ。
あの時を思い出せば目が遠くなる。
レティシアでないことが速攻ばれた。
姉の婚約者が特殊系神官で魔眼持ちでした。なにその厨二っぽい設定。その魔眼は魂系の情報を見れるらしい。
そんな魔眼持ちが見ればレティシアとは別の魂が入っているのがばれないほうがおかしい。最初からそうなるの知ってたけど、即日とは思わなかった。
あたしが気を失っている間に家族会議が行われ、目を覚ましたときにはベッドにぐるぐる巻きにされていた。
なにこの状態と目が点になるのも束の間、質問という名の尋問が始まりましたとさ。
お、おかしい、先に例の神官に神託を降していたと聞いていたのにっ! と思ったけれど、頑張って答える以外、出来なかった。
魂が完全定着していないのに浄化するとか脅されるってあたしはアンデッドだっただろうか。
気力と体力をごりごり削られ、最終的には自由にしてもらえたが、他家に養子に出されたのは微妙な気持ちになる。
レティシアに似たレティシアではないものが側にいるのが落ち着かないと言われれば否と言い難い。
そして、引取先が母方の実家だった。
正確に言えば、この隣にいる渋いじいさまの管理下に入ったということだ。
じいさまにはレティシアではないと知られているのである意味取り繕う必要はない。だから優しくしてくれる理由もない。居候するなら働けとばかりにこき使われる日々デス。なぜだ。
拒否できないのは隣で鷹揚に肯く渋い老人がひたすらに恐いからだ。
この人恐いよ。
きっちりレティシアを害した人に罰を与えていくつもりだよ。そりゃあ、あたしも罰くらいあっても良いと思う。けれど、なにか、こう、えげつない。
それもこれも貴族専用の法律の影響でもめ事が起きても直接他家の人間を処罰できないことになっているからなんだけど。
じいさまが行ったことはまず、書面と状況証拠を送りつけること。もちろんそれだけでは当主が謝罪にくることはまずない。精々、書面での謝罪くらいだ。娘に罰を受けさせる気は毛頭ない。
じいさまはさっさと次の段階に進んだ。
さて、宮廷には有名なおしゃべりなマダムがいる。彼女に言えば翌日には皆知っていると言われるくらいの口の軽さと言えばお分かりだろうか。
次にじいさまがしたことと言えば謝罪を拒んだ家の娘がしたことを彼女に話すことだった。家の孫がひどい目にあいましてね。とかなんとか言いながら。
大変面白い醜聞は恐ろしい勢いで広まり、その家の者が宮廷に来ようものならば嘲笑あるいは無視される羽目になる。恥知らずとして指を指される大変居心地の悪い思いをしたようだ。
すぐにじいさまに泣き付いたけれど、じいさまは笑って追い返した。たかが娘一人の出来事になにをうろたえているのですか、と。
そんな事を5人もすれば、じいさまのところへ謝罪の列が出来るというわけだ。ただ、その謝罪もかたちばかりのものでしかない。
たとえば、最初に謝罪を述べたどこかの子爵様のように。
しかし、それでも娘を罰するとはしていない。頭を下げたのだから良いのだろうという態度で臨み、じいさまにばっさりとやられるのである。合掌。
「それで、どのようにするのです?」
他家のことに介入するのはマナー違反だが、じいさまに今更言っても仕方ない。
某子爵家当主は首をかしげた。何を言われているのか本気でわかってない顔だ。貴族としての外面があまり上手くない人なんだろうとは思う。某侯爵家の下についてなんとかやってきたというところだろうか。
娘にも追従するように言い含めていたのだろう。嫌われたら大変困ったことになるのだから。
「謝罪をお求めでは?」
「罰を求めます」
じいさまははっきり要求する。謝罪など生ぬるい。話はおまえの娘を修道院にでも放り込んでからだ、くらいの気持ちをありありと感じています。はい。
まあ、少なくとも数ヶ月ほど自宅で謹慎くらいはしてもらわないと罰ともいえないでしょうね、なんて言ってたくらい。
それでもまあ、穏便に済まそうとしていると思うよ。
「跡目をつぐわけでもない娘への意地悪程度で謝罪以上のことをお求めとは。耄碌されたものですな」
……いや、ホント、やめた方が良いよ? その先は地獄だよ?
と思うだけにしておく。
口を挟んでも良いけれど、今までの経験によると無視されるか白い目で見られて嗤われてしまうだろう。
疲労感が増えるだけだ。
「では、ご息女が孫と同じような目にあっても同じようにいわれますかな」
「当然です」
ああ、言質とられた。
某子爵家当主の娘にレティシアと同じ目にあわせても謝罪以上のことはしない。それこそ死ぬような目にあっても。
「なるほど、わかりました。では水に流すことにしましょう」
じいさまはにこやかに笑っているんだけど、影響下にある家の全てに指令を出すんですよね。
恐すぎる。
「そうですか」
ほっとしたような顔をして帰っていた子爵に内容を知っているのかと問いただしたい。いや、全然わかってないのだろう。
レティシアは元婚約者がやたらとモテるハーレム男だったので、必然的に嫌がらせされる対象とされていた。
七年もの間、ずっと。
そして、婚約を解消しなければ死ぬまで。
それは、可愛らしい嫌味から彼女の死を積極的に願うものも含まれる。
つまり、彼女はこの先の7年間いつ背後から突き落とされるかわからず、社交界ではつまはじきにされる未来がプレゼントされるのである。陰口と嘲笑ももれなくセットだよ。
ご愁傷様で。
あたしは名前もぜんっぜん記憶にない令嬢に心の中で手を合わせた。いや、本当にレティシアは覚えていなかった。記録を残していたので全て判明しているが、一々覚えていられるような人の数ではなかったのだ。
「お疲れ様です」
少々疲れたような様子のじいさまに声をかけておく。
労って好感度を上げて、今後の待遇改善を求めたい。
本気で。
暇さえあればびしばしと教育される日々はそれなりに辛いのです。なぜってさすが異世界。常識が違う。日本的感覚では納得がいかないことも度々あり、その都度、ため息をつかれたりするのが地味にきつい。
意味はわかるけど感情的に納得しがたいというか肌に合わないというか。
こちとら前世は一般市民の女子高生でして。神の領域で何千と年月だけは経過していても経験は足りていない。
妙な達観だけはしている気はするけど。
「あなたも。今日は自由にして良いでしょう。館の者を振り回すのもほどほどに」
目頭を揉みながらいわれた。
彼はやっぱりあたしをレティとは呼ばない。仮に名をつけても良いと言ったのに誰もそうしようとはしなかった。
体が同じならば余計、差が目立って気持ち悪いのだろう。
「ありがとうございます。閣下」
そう言って部屋を辞す。
あたしはどこか他人行儀に振る舞う。レティシアの身内には特に。さっさと割り切って貰うために。
ひどいと言うなかれ。
彼女が死ぬまで結局放置するのは彼らだ。同情する気持ちは実のところあまりない。その死後、制裁しようが、もう遅い。
あたしが来たのはそういう未来を避けるためでしかない。
逆に言えば、どうしようと彼らにレティシアは救えなかったのだ。
あたしが、尋問で答えたのはこういうことだ。
そして、じいさまのところにポイ捨てされたとも言える。
人間らしいなぁと思ったけれど感慨はなかった。結局、あたしはレティシアではない。家族を大事に思い、傷つけたくないと願った彼女とは違う。
自分を殺してまで守りたいと願う気概はない。
だって。
本当にレティシアのことなんて、誰も見てなかったんだから。
例外は従兄殿と元婚約者、かろうじてじいさまという事態に頭が痛い。
彼女には親しい友人もいない。
彼女には幼なじみもいない。
彼女には乳母や乳兄弟はいるが姉と同じだった。
彼女には親しい使用人すらいない。
外に出ると最初から決まっていた彼女にはいなかった。取り上げたつもりはないだろうが、姉がレティと親しかった子に興味を持てばすぐにその子は去る。乳兄弟も姉の補佐として育てられていた。
使用人がレティシアに付きっきりなど男爵家ではなかった。
誰でもそれなりに付き合うが、それっきり。
貴族のご令嬢などは友人になれるはずもない。
婚約者がいる令嬢に男友達などあり得ない。
親族として従兄弟はいるが、次期当主たる姉のそばにいるのが普通だった。
例外の従兄殿は現在、この侯爵家に常駐している。彼は父方の従兄なので、この家の血縁ではないがそれなりに実力者なのでじいさまが特別許している。
地元の仕事はどうしたと言えば、あっさり辞めたと言いやがったのです。
その上、もっと早くこうしていれば良かったとさらりと言ってのけましたとさ。
……なんだろうなぁ。この無駄な行動力。曖昧な愛情は、恋愛方面に振り切れてませんか。とはさすがに問えなかった。
あたしはレティシアではないと言ってもその体に戻る可能性があるのならば、体を守る意義があると。
恋は盲目である。
レティシアが彼を頼らなかったのはこう言うコトを見越してなんだろうなぁと。彼の幸せを願うならば、関わらない方が良い。
だって、その手を取ってしまいそうになる。
後悔することを知って尚、一緒に逃げて、生きてみたくなってしまう。
それが出来ればレティシアは未来を暗くしていく道を選ばなかっただろうか。
……いやいや、たぶん、どっちもろくでもない。
本気で、逃げるならば、彼女は誰にも見せてない顔を表に出さないわけにはいかなかった。
希代の魔女たるレティシア。
世界の理さえ騙すペテン師。
生まれながらのセンスとして魔法を改造した天才。
彼女の記した魔法が世界に広まり、積もり積もった歪みは神さえ殺す。
レティシアの世界を壊す手腕は大変なものだ。小さなものでも世界は軋む。
彼女の記録魔法も通常はあれほどの効力は持たない。神の視点で記録を覗くなど簡単にできることではないのに、彼女は息をするようにしていた。
そして、それが異常であることも把握していたため、死後まで表沙汰にはならなかった。
あの映像を見た彼らは指摘しなかったが、明らかにおかしい動画が含まれていた。彼女自体がうつり込むなど通常あり得ない。
この世界で広まっているのは術者視点からの記録でしかないはずなのに。
彼女はありとあらゆる思いつきを日記として残し、それらはきちんと保管されず離散する。足りない手記を後の人々が思い思いのやり方で実践し、世界は確実に壊れていく。
レティシアの日記を廃棄すれば事は収まる、と言いたいところだが。その日記を取りに行くことすら出来ない現状はいかんともしがたい。
領地にあるのだ。それは。
そして、レティシアではないことを知られていればその日記を手に入れられる可能性は極めて低い。
他人に日記を渡すだろうか。
普通は否である。
某神の手落ちではなかろうかと問い詰めたい。
人でないならば、万能でありたまえと冷酷に言ってやりたい。
やる気あんのかーっと怒鳴ってやりたい。
そんなやるせない気持ちがどんよりとやってくる。分かってはいたのだけど。
でも、やるせない。
ぐだぐだ考えているうちに宛がわれた部屋にたどり着く。今のところ、わたし個人の侍女もメイドも付いていない。誰もいない部屋はきっちり清掃されていた。
従兄殿と顔を合わせなかったところをみると今日は訓練でもしているのだろうか。侯爵家の私兵の教官として現在仮就業中である。表だっては侯爵様の護衛となっているが。
慰労と称して厨房から差し入れでも入れにいってみるのもいいか。
なんだか一人でいるとろくなことを考えそうにないんだ。
一人で居るのは久しぶりで、前はイヤでも神(仮)がいたし、レティシアと夢で会ったりもした。
どちらもいない隙間が埋まらない。
厨房に顔を出せば夕食の仕込前の休憩中で大変恐縮させてしまった。侍女とかメイドさんとかに頼めば良かった。
こんなうっかりはレティシアならしない。ただ、私はこの世界の常識を教育されていないのでしてしまう。
……レティの評判が落ちるとちょっと落ち込む。
気を取り直して軽食をバスケットに詰めて貰い訓練場へ向かう。
裏庭というには大きな場所の一角にそこはあった。
土台が石造りで上部は木造の建物だ。開け放たれた窓と扉から声が聞こえてくる。そのざわめきがぴたりと止まり疑問に思いつつひっそりと扉から覗いたつもりだったんだけど。
「おぅふ」
一斉にこっちを見てびびる。
まあ、それなりに武芸やってれば気配に敏感になるよね。こちとら素人だし。ちょっと固まったあたしを見て従兄殿は眉間にしわを寄せてやってくる。
「用があれば呼んで欲しい」
……それはこっちくんなってことかね? 従兄殿。
「よろしければ、差し入れをと思いまして。休憩も必要ですよ?」
全スルーして笑顔でバスケットを差し出す。今日は十人もいない。これくらいあればちょっと休めるだろう。
本気出せばひとり分にも満たないだろうけど、もてる限界がある。
なぜか無言で見つめ合うことになった。
「……わかった。ありがとう」
「どういたしまして」
邪魔をする気はなかったのでそれだけで立ち去ったのだけど。
軽い気持ちで行ったそれは鬼教官の効果もあって天使のように見えたそうで、ダメもとで申し込まれた婚約の話が増えた。
……皆、バカか。
レティシアよ、君は、アイドル並に愛されている。
本当に、マジで、内乱を起こせる潜在戦力がある。
ああ、こりゃ、死んだらヤバイと思わせる何かだ。
一歩間違うと狂信的なんかに化けそうな雰囲気さえする。
え、もしかして、レティシアが泣けなくて、弱音も吐けないのってコレのせいもあるの? と疑うレベル。
ある種、愛されすぎて辛い。
ああ、そう言えば、従兄殿がイヤな顔で同じくらいの年代の奴らは大体、姉妹のどちらかが初恋なのだと言ってたっけ。山のような婚約の話をみながら。
自分が弱いときに励ましてくれた、というありきたりな話が多い、らしい。それで実力者になるのだから中々効果が高い。
故に、元婚約者の人気は最低。レティシアの死後は私兵を雇うのも苦労するくらいに。戦力が充実していたのは、彼女のおかげである。忠誠を捧げた相手がいなくなれば、その原因に優しくするわけもない。
それでも殺さないのは優しさじゃない。
傷を忘れないため。
誰もが、失って、気がつく。
手をさしのべる機会があったこと。
それらを見ない振りをしたこと。
ためらったこと。
そして、彼女が誰も頼らなかったこと。
呪詛をもって死した時も。
事故に巻き込まれた時も。
ただ、黙って死んだ時も。
正気を失ったときも。
誰の名も呼ばない。
ただ、彼女は孤独だった。
あたしはそれをみていたに過ぎない。何が起こるか知っていながら、その夢で暗示的な事を告げることはしたが、結局、頼られはしなかった。
ただ、一つだけ。
友達になって欲しいと。
願われたことは、特別であったと思ってもいいかもしれない。
友達にはなれないけれど、側にいると告げたときの顔は幸せそうで。
あたしがレティシアを幸せにするんだからっ!と意気込んだものだ。
結果、ここにあたしがいるわけだけど。
無念である。
束の間の休暇を彼女が楽しんでくれていると嬉しい。この介入は正史にはされない可能性が高かった。
今後の対策のために頑張るしかない。
レティシア、がんばるからねっ!
ふんすっと気合いを入れていたのが見とがめられて、後ほどじいさまに小言を食らうことになるとはそのときのあたしは思ってなかった。
「ん?」
イルクは誰か来ると何となくきがついていたが、彼女だとは思っていなかった。
おずおずと扉の影から姿を見せる。
なにかの小動物のようだった。
レティシアと似て非なる彼女は未だに名前が未定だ。愛称で呼ぶことも抵抗があるが、新しく名付けるわけにもいかない。
便宜上、従妹殿などと言っているが違和感を覚える。
「教官、姫様ですよね」
「そうだな」
気がつけば誰も彼もが彼女に注目していた。
彼女本人はよもや自分が姫などと呼ばれているとは思っていない。ましてやかなり本気の忠誠を捧げられているとも。
他家に嫁ぐとずいぶん前からわかっていた。
好意を見せることは彼女の傷になると静観していたことが悪かったのだと目が覚める思いだった。
などと言っていた者の多いこと。
それは憧れから手の届く人になったと気がついたことにほかならない。
レティシアの中に今いる者はそれにも気がついているようだった。レティもてもてなどと言っているところが微妙な気持ちになったが。
「よろしければ、差し入れをと思いまして。休憩も必要ですよ?」
用件を聞けば、そんな事に来たと。
イルクは頭が痛い。
何の打算もなく見上げてくる彼女はレティシアそのもののようだ。その魂が違うと言われても戻ってきていないかと期待している。
あり得ないと知っていてもなお。
「……わかった。ありがとう」
その返答に満足したようにバスケットを渡し、手を振って去る。
「休憩だ」
せっかくの差し入れなのだから、無駄にすることもないだろう。