ヒールの流儀
突然だが、ヒール(悪者)の流儀の話をしようと思う。自分は、よく、一元的なものの見方は……とか、多面的な見方が……とか、さんざっぱら、偉そうにハナタカに申し上げているが、この生意気な小童の上っ面を殴り飛ばしたいと思われたそこのあなた、すまない。
今回は、ヒール(悪役)とベビーフェイス(正統派)に落とし込む二元論的な考え方からなる立ち位置の話。この言葉は、よくプロレスで使われるかな……。ヒール(悪役)レスラーで思い浮かべる方といえば、アブドーラ・ザ・ブッチャー。かな。
二元論的なものの考え方は、よく批判にも挙げられることもあるけれど、私は、そこまでそのように二元論的に立ち位置を分けることを批判的に思ったりはしていないのだと思う。
……その理由として、解りやすく、はっきりとしていて、よりそれぞれの立ち位置の視点が浮き上がり易いからだ。時には必要な分け方だとすら思えている。
……ただ、私は、ヒール的立ち位置に居座ることも過去から多くて……、(何故なのでしょうね……あ、そこの目の前のあなた、ふんふんってそんなに納得したように頷いてしまってまぁ)
そういった時に、本当に気をつけていることが一つだけあります。
それは、”『駄目なものは駄目であり、一度離れると決めた場合は、離れる』という姿勢を明確にすること”
です。否定をしたのに、のこのこまた舞い戻ってきて、イソップ寓話のコウモリのように、やっぱり私が良くなかったの。どうか、赦して。嫌わないで。
という行為は、視点をぼかすし、何より、人を馬鹿にしているから、やってはいけないと、そう決めています。
つまり、それだけの覚悟を持って、私は、否定をしています。
それが、私が考え、最も大事だと思っているヒール(悪者)の流儀です。
二元論的立ち位置には、それぞれ、その立ち位置が持っている視点があり、そこから広がるコロナが形成され、そこから新しい視点が更に育っていくものでしょう。皆が仲良しでは、そのような視点は育ちません。だから、分けることは私は必要なことでもあると考えています。自己正当化をしている気持ちはありませんが、もしかしたらそのように見えてしまう事柄なのかもしれない。その辺りは自分でもはっきり解りませんが、私は思います。
それぞれの立ち位置にいくと決めたら、その時点で行ってはならない主張もやってはならない行為もあるのでしょう。
それは、当然のこととして、私は、そう考えています。