空気の必要
ある日、私は「天才」に尋ねてみた。「どうして君はあのような数々の事をやり遂げたのか?」と。彼は次のように答えた。
「どうしてって…私にはただ同時代の空気、人々の倫理、常識、知ったような顔つきというのが気持ち悪くて仕方なかったのだ。彼らは全ての事にもう答えが出ているという顔つきで説教してきた。彼らは自分達の論理の正当性は、それがどんなペテンでも全ての人間が『自分達』になる事によって達成されると信じていたのだ。私は吐き気がして…ああ、私がどれくらいあの人々の空気を嫌っていたか、あなたには理解出来ないだろう! 私は苦しかったのだ! 呼吸ができなかったのだ! どこへ行っても、誰と話しても、誰も彼もが同じ事を口を揃えて、それもその時に限って人々は世界の真理を奥から引っ張り出してきたとでもいうような表情で…私は気味が悪かった。恐ろしかった。人々が何の誤謬も感じず、己の真理を世界に広めていく事に…。だから、私は私の城を作らねばならなかった。吐き気のする世界の中で、ただ私は一人でありたかった。だが一人になり切る事はできなかった。だから、私は人々と私の間に垣根をめぐらし、城塞を作った! それが…君の言うような『成し遂げた事』にたまたまなったというにすぎない。本当にただそれだけの事で…それ以上の事はない。私はただ空気が欲しかったのだ。心底から呼吸できる新鮮な空気を。人々の澱んだ空気は私に吐き気を催させた。だが、人々はそこから動くものを許しはしなかった…」
天才はそんな風にして自説を語った。私は彼の話を聞いて、感じた事を質問した。
「失礼ですが、あなたには『友人』はいらっしゃらないでしょう?」
「友人? そんなものはいない。そんなものは必要ない」
「ですがーー」
「ですがも何もない。私に友人はいない。必要ないんだ、そんなもの」
「しかし、話を聞いてもらうには『友人』が必要でしょう? そうではないですか? あなたには、友人が必要だ。そうでしょう?」
「くだらない事を言うな。私は高尚なものを追い求めてきた。私には人々は厭わしかった。私はただーー」
「しかし、私は今、あなたの話を聞いているのですよ」
「それが?」
「今、この瞬間、私はあなたの『友人』であると確信しています」
…天才は鼻で笑った。取るに足らぬ、というように。
「君はそれでやり込めたつもりかね? …全く、もう少し賢いと思っていたが」
「ですがね…いや、聞いてくださいよ! 例え、苛立ち紛れにパイをどこかにぶつけるとしても、そこには何かが存在しなきゃならないでしょうが! そうでしょう! 例え、腹を立てて、世界を蹴飛ばすにしても、蹴り飛ばされる世界がなければ足は空を切ってしまうでしょうが! あなたには、世界を呪う為のもう一つの世界が必要なんだ! それが…私。そうじゃないですか!?」
天才はろくに私の話を聞いていなかった。彼はただ冷たく、首を横に振っただけだった。
「君はもう少し賢いと思っていたんだがな…」
そう言うと、天才はドアを開けて出ていった。私はそこに残された。
私は一人部屋に残されて、ふと奇妙な事を考えた。(もしかして、彼は凡人で、私の方が『天才』なのかもしれない。そういう事もあるのかもしれない…) だが、それが夜郎自大な妄想である事ははっきりとしていた。私は首を振って、妄想を振り捨て、彼に引き続いてドアを開けて外に出ていった。いずれにせよ、彼にも私にも何かしらの『空気』が必要なのだ。呼吸をする為の、生きる為の空気が必要なのだった。




