太陽の御子と雨雲の心
「この上なく偉大にして強大なる主人よ、太陽の御子よ、貴方のみが主人であり、すべての世界が貴方のお言葉に従わんことを!」
壇上に王トゥパク・ユパンキが姿を現すと同時に、広場に並ぶ数千もの人々がこの言葉を一斉に唱和した。
金銀の箔が煌めく白の長衣に、色鮮やかな三彩織りのケープを羽織り、頭上に極楽鳥の赤い羽根で作られた羽冠を頂いたトゥパク・ユパンキは、先端に太陽のように輝く大きな黄玉を嵌め込み、柄に絡み付く人面の蛇が彫金された銀色の杖を掲げて、鷹揚にこの声に応えた。
それに応じて、悲鳴にも似た大声で同じ唱和が繰り返される。その中を、槍と盾を携えた護衛兵に囲まれたトゥパク・ユパンキが、壇上から階段をゆっくりと下りていく。そのむかう先には広場の中央に置かれた輿があった。
トゥパク・ユパンキと護衛兵の一団に続いて、絢爛豪華な女性たちの列が進む。聖妃オクリョを先頭とした、トゥパク・ユパンキの妃妾の列である。その最後尾にファラの姿があった。
(王様とはすごいものなのね……)
しずしずと進む列はまだ壇上にあり、ファラの位置から先頭の一団にいるトゥパク・ユパンキの後ろ姿が見下ろせた。輝く杖を掲げ、人という人がかしずく光景の中を悠然と進む彼の背中は、しかしファラには夜の灯篭の影に見た男の背中と同じに見えた。
(誰もが彼を見ているけれど、誰も彼の顔は見ていない……)
王であるトゥパク・ユパンキと目を合わせるなど、不遜であるからだろう。彼を称える唱和の中で、誰もが彼の姿を目の端に置きながら、誰一人として彼を直視するものはいなかった。
そういうものなのだろう。だからファラには彼の背中が変わらず見えた。
トゥパク・ユパンキは広場の中央に着くと、黄金に輝く輿へと乗り込んだ。この豪華な輿を屈強な男たちが十数人がかりで担ぐと、輿に乗るトゥパク・ユパンキは唱和の声とともに、広場の出口である朱金の瓦屋根を三層にも重ねた壮麗な門へと進んでいく。
「この上なく偉大にして強大なる主人よ、太陽の御子よ、貴方のみが主人であり、すべての世界が貴方のお言葉に従わんことを!」
この壮麗な門を三つ抜けた先に王を乗せた輿が達すると、一際に巨大な王を讃える唱和の声が巻き起こった。あまりの声の大きさにファラの身体がびくりと竦む。列はその声を意に介することなく進み、怪訝に思うファラが門の外へと至ったとき、その光景が眼前に広がった。
「この上なく偉大にして強大なる主人よ、太陽の御子よ、貴方のみが主人であり、すべての世界が貴方のお言葉に従わんことを!」
人の海がそこにあった。門の外、広大な広場には、王が通る一段高く盛られた中央の道を除くすべてに、老若男女を問わない人の群れが黒くうねる海のように満ち溢れていた。集まっている人々の年齢や性別、着ている服のばらつきから、彼らが役人や兵隊などではない一般の群衆であると知れた。中には病気なのか、人に身体を支えられながら、縋るように手を合わせている者もいた。
この大群衆は熱のこもった声で王を讃える言葉を繰り返し唱え続け、渦を巻く波のように辺りの空気を震わせている。
(……王というのも大変そうなものね)
ファラはそこに期待を見た。群衆の王に対する期待。自分よりも遥かに偉大であろう存在から、恩恵と施しを望む人々の期待。
(彼もただの一人の男に過ぎないのに……)
外から来た人間の持つ距離が、この群衆の熱の正体を冷静に想像させてファラを苦笑させた。
やがてファラたち妃妾の列も門のある台上から下りた頃、トゥパク・ユパンキの乗る輿が後ろをむき、正面の飾り布が開かれた。トゥパク・ユパンキの姿が現れる。その目が一瞬、ファラを見た。彼女はその視線を動じることなくまっすぐに受ける。その反応にトゥパク・ユパンキの目が笑ったようにファラには見えた。
(なにがおもしろいというのかしら……)
しかしそれを確かめる間もなく彼の視線は外れ、門の方へと上っていった。
そこで王の輿に近侍した男たちが、手にした鉦を大きく打ち鳴らした。すると今まで続いていた唱和の声が消え、別の唱和が大声で唱えられた。
「どこまでも慈悲深く無垢なる子供よ、雨雲の心よ、貴方こそが慈しみであり、すべての世界が貴方の心で満たされんことを!」
その声に、王に付き従っていた人々の列が一斉に後ろをむいた。ファラも慌てて後ろをむく。そして彼女は、そこにその少年の姿を見た。
「ムガマ・オ・トウリ!」
トゥパク・ユパンキの大音声が広場に響き渡る。その声をどこか遠くに聞きながら、ファラは放心してその少年を見つめた。
トゥパク・ユパンキと同じように、金銀の箔で飾られた藍染めの長衣を身にまとった少年。頬から首筋にかけて赤い蔓草の刺青が彫られた少年。そこに、あの夜に一目だけ見た微笑みがあった。
深い、深い湖の底へと誘うような静穏な微笑み。
いつの間にか唱和の声は消え、凛とした静けさの中にトゥパク・ユパンキの声が響き渡る。
「我、太陽の御子たる身を持て、汝、ムガマ・オ・トウリに告ぐ! 太陽の神殿より雨雲の祭りの神託を待て!」
トゥパク・ユパンキのその言葉に、少年はゆっくりとうなずき、静かな挙措で右手を左胸に添えた。
「喜びの日を、謹んでお待ち致します」
清らかな水のように澄んだ声が、ファラの耳に触れる。
鼓膜に沁みゆくその声が、自分の胸の一番の奥底の、氷のように閉ざされたあの場所に、雪解けの春の雨のようにあたたかく流れてくる。
(――どうして?)
繰り返される自問とともに、そのあたたかさは熱を帯びて胸から喉へと込み上げてくる。それが溢れ出ないように必死に堪えながら、ファラは少年の鳶色の瞳に映る、どこまでも穏やかな微笑みを見つめ続けた。
周囲の人の列が再び動き出しても、侍女が袖を引くまで、ファラはそこから動けなかった。