人はなぜ笑うのかを科学的観点から考察する
人は、何のために笑うのだろうか。
自分が幸せだということを周りに伝えるためだろうか。
でもだとしたら、なぜ周りにそれを伝える必要があるのだろう。
何かおもしろおかしいことがあれば、人は笑う。
これでもかというほど腹をよじらせて笑うこともある。
腹の底から笑えば、腹筋が痛くなるし、涙も出るし、息ができなくなる。
笑う、ということは非常に体力を消耗する。
そこまでして人は、なぜ笑うのだろう。
人にそこまでさせる、面白い、とは何なのだろうか。
芸人の漫才を見て、人は笑う。
友達の話を聞いて、人は笑う。
友達が大袈裟に転んだとき、人は嗤う。
芸人がドッキリに引っかかったとき、人は嗤う。
面白いから。
確かに面白い。
でも私たちは、それがなぜ面白いのか、分からない。
なぜ自分がわらっているのか、疑問に思うことさえもない。
それは、「わらう」という動作が、まだ物心もつかない幼い頃に自然に身に付いた動作だからであろう。
赤ん坊の頃から息をするように笑ってきたから、その行為に疑問を抱くこともないのである。
息をすることに疑問を抱く人がいるだろうか。答えは否。
あるとしたら相当病んでるのだと思う。人生お疲れ様。
話が逸れたが、笑うという行為は生存に必要なものであるのだと思う。
だからこそ幼い頃からやってきたし、それに疑問を抱くこともない。
突然だが、赤ん坊を抱いたことがあるだろうか。
私はつい最近、いとこの赤ん坊を抱いた。
母親の腕から離れ、私の腕に渡った赤ん坊は、慣れない心地からしばらく身をよじったあと、私の顔をじいっと見つめるのである。
そして次の瞬間、笑ったのだ。
口角を上げ、私に笑いかけてきたのだ。
そのときはただその可愛さに目を奪われていたが、いとこの家を出たあと、私は疑問に思ったのである。
赤ん坊は、なぜ笑ったのだろう。
赤ん坊には、生存に必要な最低限の本能しか備わっていない。
お腹が空けば泣く。
母親がいなくなれば泣く。
オムツが汚れれば不快さに泣く。
それらは全て、生き残るための行為である。
腹が減れば餓死するし、母親がいなくなれば何もできない赤ん坊は死んでしまうし、オムツが汚れた状態が続けば肌がかぶれてしまう。もちろん衛生的にもよろしくない。
ではやはり、笑うという行為も生きるために必要な行為なのだろう。
いつか聞いたことがある。赤ん坊は、母親に育児放棄されないために、可愛い見た目をしているのだと。
母親は、育児により多くの体力を奪われる。お腹に赤ん坊がいると分かってから、その子が生まれ、ある程度成長するまで、とても長い間、母親には多くの負担がかかることとなる。
だからか悲しいことに、世の中には育児放棄、虐待、といった行為に走ってしまう親もいる。
人間以外の動物の中でも、育児放棄は存在する。
それだけ、育児というものは大変なのだ。
でも赤ん坊が可愛いければ、母親から捨てられるリスクが減るというのだ。
確かにどんな動物でも、赤ん坊は可愛い。目が大きく、体はちっちゃい。
そういうのを保護欲がそそられる見た目というのだろう。
その点、赤ん坊は笑えば可愛さが倍増する。
だから母親から捨てられるリスクも減る。
笑えば可愛いくなる、というのはなんとかいうか、仲間意識が芽生えるからではないだろうか。
笑う、という動作ができるのは人間だけである。
他の動物は笑うことができない。表情筋が、人間ほど発達していないのだ。
ときどき動画サイトなどで、笑う犬、なんてものを見たりもするが、それは人間の笑顔とは少し違う。
つまり笑う、という動作は人間である証拠なのだ。
だから笑った人に対して人間は親近感を得る。
またミラーリング、という効果も相まって好意を抱く。
ミラーリングとは、人は自分と同じ考えや行動をする人に対して無意識に好意を抱くという効果である。
やはり人間というのは古代から集団行動をして生き残ってきた種族であるから、似ている、という要素は私たちが思っている以上に重要な要素なのだろう。
だから赤ん坊は、母親の笑顔を真似て笑う。
母親は、自分と同じように笑っている我が子を愛おしく思う。
そして育児放棄のリスクがいくらか減る。
笑う、という行為は、赤ん坊にとって非常に大切な行為なのである。
三つ子の魂百まで、とはよく言うが、幼少の頃に生存本能として植え付けられたせいか、「わらう」という行為は成長してからも続く。
もう既に中学生である私だが、怖い人と話すときに口角が上がってしまうというという癖がある。
その癖が出るのは、たとえば学校。怒らせたら怖いと噂の不良少女に話しかけるときや、提出物を忘れたことを先生に伝えるとき。
笑ってはいけないとは思いながらも、どうしても口角が上がってしまうのだ。
怖いから。
きっとそれは、「わらう」という行為が生存本能のひとつだからであろう。
幼い頃から、笑うことで自分を守ってきたから。
成長してからも、人の心の中には、幼い頃の自分が住み着いているのだ。
面白くて「笑う」のも、生存本能からなのかもしれない。
人は集団の中で、周りと同じ感情を抱くということに安心感を抱く生き物である。
これは集団行動によって生き残ってきた人間ならではの感情だ。
笑う、というのは面白いという感情を表現するための行為なので、同じテレビを見て、みんなで笑う、というのはきっと集団意識を無意識に高めているのだと思う。
では、嗤う、のはなぜだろうか。
雪の日、ある人がすってんころりんしたら嗤う人がいる。
何がおかしいのだろう。
自分が転んでしまったとき、私は笑ってしまう。
それは安心感から来ている気がする。
転んでしまったけれど無事だった、ということに対する安堵である。
そして無意識の内に、自分の無事を周りに伝えようとしているのだ。
周りも、無事な私を見て、安堵の笑みをこぼす。
きっとこれこそが、転んでしまったときに出る笑いの本来あるべき姿なのだ。
自分の無事、仲間の無事を周りに伝えること、それが転んだときの笑いの意味だ。
転んだときに限らず、何かちょっとした危険から無事に身を守れたときに、笑顔はその証拠となる。
その笑顔を見れば、周りの仲間も安心して、そのちょっとした危険に身をさらすことができる。
つまりこういうことだ。
……太古の時代。
おお? リーダーが崖を登ってくぞ。うおっ、足を滑らせた。大丈夫か? あ、笑った。てことは大丈夫か。
よっしゃ、俺らもついてくぞ。リーダーに続け!
古代から人はそうして危険を乗り越えてきたのだろう。
現生人類は危険を乗り越えることで発達していった。
火を使ったり、様々な大陸に移ったり。
やはりチャレンジなくして成功なし、ということなのだろう。
笑うことがあってこそ今の人類という訳だ。
でもその「笑い」が、それをおもしろおかしく思う「嗤い」に変わってしまったのは、いつからだろう。
いつからかは分からないが、無事を知らせる「笑い」を、楽しみを表す「笑い」と勘違いした人が、集団意識のために始めたのだと思う。
あ、人が転んだ。おや? 転んだ人も周りの人も笑ってるぞ。みんな面白いから、楽しいから笑っているんだな。僕も人間だからみんなと同じように笑おう。わはははは。
おまわりさんこっちです。コイツが嗤いの起源です。
まあ簡単に言えばそういうことだ。
こういうのから、人の失敗=面白い、という風潮が生まれてしまい、それが大人から子どもへと、受け継がれてしまったのだらう。
それにしても、自分の失敗を嗤われるのには中々辛いものがある。
まあとにかく。笑う、ということは人間として大切な行為であって、赤ん坊の頃から周りを見て身に付けた行為なのだ。
ここでまた新たに、疑問が生じる。
赤ん坊が笑う、という行為が周りを真似て生じる行為だとしたら、盲目の人は笑えないのだろうか。
実はそんなことはないのである。
私の記憶が確かであれば、テレビで見たとき、目の見えない少女は笑っていた。
目が見えないのだったら、母親や、周りの人の笑顔も当然見えない。ではその子の、笑う、という行為はどうやって身に付けたものなのだろうか。
母親の顔を触って身に付けたのだろうか。
目の見えない人にとって、触るという行為はとても大切なものだ。
母親の顔をペタペタ触っている内に、笑っているということに気付いたのかもしれない。
そしてそれを真似たのかも分からない。
真偽はわからずじまいだが、もしその少女が、本能のおもむくままに笑っていたのだとしたら、そこには人間の神秘が垣間見える。
人間に、遺伝子レベルで笑うという行為が植え付けられている証拠となるからだ。
確かに先に述べたように、人間は他の動物と比べ表情筋の発達が著しい。
人間の筋肉のつくりは遺伝子によって決まっているから、やはり人間というものは、わらうことを宿命づけられている種族なのかもしれない。
人間で初めて笑った人は、どんな気持ちで笑ったのだろう。
滅んだ種、ネアンデルタール人は、笑っていたのだろうか。
そんなことを考えていると、私の心はいまだ解明されていない人間のロマンに、心踊るのである。
個人的な意見です。
読んでくださりありがとうございます。