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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第一章
9/515

異界のこと

牛酪…バター

 学舎は特別な場所だった。


 王都にあり、正式名称は王立総合学習舎。長いし、略して学舎と呼ばれている。

 国の運営する機関で、この国最高水準の教育を受けられる場所なのだけど、一定の成績と学費、生活費が支払えたら入学できたので、貴族外の身分の者も多く在籍していた。

 一応八歳から十八歳が基本的な在学期間なのだけど、例外も多々認められていて、例えば俺のような、家庭の事情で入学する者もそれなりにいたようだ。


 俺は、六歳からここに来た。

 同学年で入学した者たちより二歳若いわけだから、一番小さく華奢で、初めは女の子だと誤解されかけたようだ。まぁ、母親似だったしね……。


 順調に進学できれば十年で卒業だが、一度も留年せず卒業できる者はそう多くないし、学年が上がるにつれ難しくなるから、中退者も多かったけれど、その分卒業者は就職や婚姻に有利になるという面もあったし、成績が極めて優秀なら、王家に見初められ引き抜かれることもあり、立身出世の場としても機能していた。


 商人の子や、役人の子……貴族以外が結構当たり前にいるその環境が、俺は好きだった。

 身分差を理由に、無体を強いられることも、引き下がる必要もなかったのだ。学ぶ場だから対等。そんな価値観が受け入れられた特別な場所。

 あそこは、俺にとって夢の園。

 ハインとも、あそこで出会った。

 友人宅からの帰り道。小雨の降る日に。

 今でこそ並の従者より相当優秀なハインだが、当時は垢で汚れ、傷だらけで路地に転がった小さな孤児だった。

 俺より三つ年上であったのに、俺と変わらないくらい、小柄な子供だったのだ……。

 

 ふと意識が覚醒した。

 気付けばうたた寝していたようで、長椅子に崩れ、せっかく開いた教科書も胸の上。

 懐かしくも心苦しい、甘い夢……。もう取り戻せないと分かっている、俺の宝。

 

 身を起こすと、壁に立てかけてあった衝立と、床に置いてある籠が目についた。

 あっ、これもすっかり忘れてる……。

 どうしようと考え、これ以上放っておくのもどうかと思ったし、洗濯物の入った籠を持って調理場に向かうことにして、俺は籠に足を向けた。

 時間は程々潰れたろう。


「あー、ごめん二人とも。サヤの服はどうする?

 これ、このままにしとくと良くないよな?」


 食堂から、調理場を覗き込み、声をかけると、サヤが慌ててやって来た。

 大丈夫、見てない見てない。俺の上着が一番上だし。


「昼食が終わってから、洗いますよ。

 湯を沸かしておりますから、それですすぎます。

 外に干すのは控えた方が良いですね。

 サヤの部屋に、後で物干しを持って行きますから、空き部屋の窓辺に干しましょう」


 包丁を握り、馬鈴薯の皮をむぎながらそう言うハイン。

 これは忘れてたのではなく、効率を考えた結果の選択だった感じかな。

 サヤは「はい」と返事して、有難うございますと、俺からカゴを受け取って、ついでのように石鹸はお借りできますか? と、聞いてきた。


「石鹸⁉︎」


 咄嗟に聞き返してしまったよね……。

 石鹸。あるにはあるが、特別な時に身を清めるのに使うくらいで、普段は滅多に使えない。ましてや、洗濯物には使わない……。

 あんな高価なものが洗濯物に普段使いできるなんて、桁違いの金持ちか、王族、一部の上流貴族ぐらいだが……。


「サヤは……実は王族だったり、しないよな……?」


 もしそうなら結構酷い扱いをしてしまってることになるので、俺は恐る恐る聞いてみた。


「ち、違います! 私の家はごく普通の、一般家庭です!

 私の国で石鹸は、安価でありふれた道具なんです。

 種類も沢山あって、体を洗うもの、洗濯に使うもの、掃除に使うもの……掃除でも場所によって種類が違ったりとか……清潔好きな民族みたいに外国では言われてます」


 慌ててそう説明してくれたのだけど、そこでまた、不安そうに眉を寄せ、逡巡するように視線を逸らし……。


「……あの、石鹸でもう一つ気になったんですけど……。

 お風呂とかって、毎日どうされてるんですか?

 案内、されませんでしたよね……」


 なんだか恐る恐る聞いてくる。

 顔に若干恐怖が滲み出てるようにすら見えた。


「そのようなものは上流貴族の家庭にしか無いです。

 我々はせいぜい、水で濡らした布で身体を拭くとか、盥に溜めた湯に浸かって洗うとか、それくらいですが」

「本館には一応あるけど……異母様用だから使えない。

 それでも月に一度くらいしか使わないと思うよ」

「嘘……」


 サヤがヨロリとよろめいた。相当衝撃だったようだ。「そんな……」と、恐怖に顔を引きつらせている。

 さっき綺麗好きな民族って言ってたしな……。サヤも御多分に洩れずそうなのか。困ったな……。


「私……服は、お風呂の時に、一緒に洗わせてもらおうと思ってたんです……。

 洗濯機が無いっておっしゃってたから、そこは覚悟してたんですけど……石鹸もお風呂も無いなんて……」

「サヤの所は、毎日風呂に入るのかい?」

「うちは毎日でした。髪も身体も、洗わない日なんてほとんど……風邪を引いたときくらいしか……。

 あぁ、でも、でも慣れないといけませんよね。申し訳ありません、贅沢なことなんですね……」


 暗い顔で、一生懸命自分に言い聞かせるようにサヤが謝罪する。

 それを見て、俺とハインはまた顔を見合わせた。

 ここに迷い込んでしまっただけでも結構な心労だと思うのに、生活習慣の差は相当きついと思ったのだ。


 俺も、三歳かそこらの記憶だけれど、何かするたびに怒られ、凄く怯えてた憶えがある。

 貴族となった途端生活や価値基準が一変し、それまで当たり前だったことができなかった。

 だからその苦痛は……よく、分かる。

 ハインも、孤児から従者になろうと決意した時、きっと辛い思いを沢山したと思う。

 全く違う世界に足を踏み入れるというのは、決意だけではどうにもならない問題が多々あるものだ。

 

 どうしよう……大きな盥に湯を張るくらいならしてやれるが……。

 それとは違うんだろうなぁ。

 

 俺が逡巡していると、ハインが不思議そうに、サヤに疑問を投げかけた。


「サヤの国は、何故そのような習慣なんですか?」

「習慣?」

「何故、身綺麗にすことにこだわるのでしょう。

 正直、色女(いろめ)(娼婦)でもないなら、毎日身体を磨いておく必要はありませんよ?」


 はっハイン⁉︎ お前……っ、よりにもよって!


 色女なんて単語を出すんじゃないと目で怒りを表すが、ハインは気にしていない。気にしようよ!

 けどサヤは、いまいち言葉が理解できていないのか、小首を傾げて考えているようだ。

 暫く沈黙してから顔を上げ「健康のためですね」と、言った。


「何故身綺麗が健康に関わってくるのですか……」


 また不思議なことを言い出したな……。

 サヤの話はなんだかいまいち脈略がないと、分かってきた気がするぞ。


「清潔にすると、病気になりにくいんです。

 今、この空間にも、病原菌……病気の元となる小さな生物が沢山いて、呼吸や食事などで体内に取り込まれています。

 普通はそんなちっちゃな生物になんて負けませんから、少々侵入してきても退治するのですが、家の中や身体が不潔だったりすると、その菌が増えてしまいます。

 えっと……一対一で戦うことは、難しくありませんよね?

 でも、多数に攻撃されると大変でしょう?

 体内に入ってくる菌の数が増えると当然負けやすくなり、結果病気になりやすくなります」


 サヤの話に、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。

 病気って、そんな風にしてなるの⁉︎ というものと、本気で言ってる⁉︎ という……混乱に近い衝撃。

 ハインも、目を見張っている。馬鈴薯を剥く手すら止まってしまった。

 目に見えない生物とか、なんでサヤはそんなものを知ってる⁉︎ 本当にそんなものがいるのか?


「……それは本当?」

「はい。信じられないと思いますけど、本当ですよ?

 ……いえ、私の世界ではそうなんです。ここが全く一緒とは思いませんけれど、感覚的には、さほど変わらないと感じます。

 どう言えば伝わりますかね……?

 例えば……うーん……生水。

 その辺で汲んだだけの生水と、煮沸した水とでは、お腹を壊す可能性が違いますよね」

 サヤの例えに、俺も思考を巡らせる。確かにそれは違うよな……。でもなんでかって言われると……なんでだろう?

「怪我をした時も、傷口が膿んだりしますよね。それは、何故だと思います?」

「何故……? たまたま、何か運が悪かったとかではなく?」

「違います。傷口から、体にとって良くない菌が侵入したからなんです。

 膿は、白血球……血の中の、侵入者と戦う兵と、侵入してきた菌の死骸等でできてます。

 水の場合は、目に見えない微生物や菌……これが煮沸で死んだから、体に悪影響を与えなかったということです」


 ちょっ、と、待って。なんかもう、頭がついていかない!

 え? ハッケッキュウ? 膿が死骸?

 目を白黒させて必死で話についていこうとするが、俺には理解不能だ。

 そんな俺を見て、サヤがもっと噛み砕いた説明をしてくれた。


「刃物で怪我をしただけの傷口は、すぐに治りますよね。

 だけど、その傷に泥や錆が付いていたら、膿みやすくなります。

 戦場に出ている兵隊さんは、自分の怪我の治療なんてそっちのけで、泥まみれになって戦うので、傷が膿みやすい」


 あ、それなら解る。確かに、遠征の兵士には、小さな傷が命取りとなって死ぬ者や、腕や足を切り落とすような惨事になる者がいるという。

 そんな時、傷口から悪魔が入ったと言うのだ。もしかして、その悪魔が、サヤの言う菌なんだな?


「そう。そうなんです。それから、病気の大流行とか、たまにあるでしょう?

 あれもだいたい菌が原因なんです。

 知らない間に拡大しているように見えますけど、菌は、病気の人の体内でたくさん増えるんですよ。

 病気の人が熱を出すのは、その菌と戦っているから。そして、病気の人の呼吸や咳、嘔吐物から菌がばら撒かれて、それを吸った周りの人が感染するんです。

 だから、家族とか、職場とか、同じ場所に居た人に移ります。

 うがい、手洗い、アルコール消毒などで菌を退治したり洗い流したりして、感染をある程度防ぐこともできます。

 お風呂が良いのも、菌を洗い流したり、体を温めることで、免疫力が高まる……だと、分からないのかな……。

 えっと、菌は、熱に弱いものが多いので、体を温めるだけで、たくさん倒すことができるんです」


 なんとなく分かってきた。我々が悪魔に魅入られたとか言っているようなことが、大抵は菌が原因だということか。

 ハインも食いつかんばかりに聞き入っている。相当興味があるのかな? こんな真剣な顔も久しぶりな気がする。


「サヤ。水で身体を洗うより、湯で洗う方が効果的なのですね?

 それは、服や食器の汚れが、湯の方がよく落ちるのと同じような理由ですか?」

「はい、そうです。

 それと、体を温めることで、血の循環が良くなり。血の循環が良くなると、敵を倒す兵の生産が増えるんです。だから、菌の侵入に強くなります」


 ひいては、健康になります。

 サヤがそう言って話をまとめる。

 凄い……凄いな。本当に、綺麗にするだけで病気が防げるなら、そんな良いことはないよな! 医者は高値だ。それこそ、農民達が風呂に入る習慣を付けたら、病気になる者が減って、家計の助けにもなるのじゃないか?

 俺が興奮気味にそう語ると、サヤが嬉しそうに微笑み同意した。


「そうだと思いますよ。

 あと、怪我をした時、適当にその辺の水で流すのではなく、一度沸騰させた水で洗う方が良いかもですね。でも、洗わないよりは洗ったほうが、断然良いかと」

「よしっ、じゃあ農民たちにも周知しよう!」

「はいっ」

「それはまだ意味がありません」


 盛り上がる俺とサヤに、ハインが横槍を入れた。

 意味がない? とはどういうことだ?


「今の説明で、一体村人のうちの何人が理解できるやら……。

 まして、湯に浸かるのが良いと分かったところで、薪・水汲み・そもそも風呂の設置。

 問題が山積みです。

 私たちですら、風呂は高価だと言っているのに、農民では一生かけても無理でしょう」


 そう言いつつ、皮を剥いだ馬鈴薯を輪切りにしていく。結構分厚く。

 それを、沸騰間近の鍋に投入。次は玉葱を手に取った。


「これは極力薄切りでしたね」

「あっ、は、はい」


 サヤが我に帰り、洗濯物の入った籠を壁際に置くと、調理台に戻った。

 そして、タンタンと調子良く胡瓜を薄切りにしていく。

 ハインも玉葱の皮を剥き、半量ほどを薄切りにし始めた。

 その合間に、片手鍋をざっとかき回す。ジュッという脂の爆ぜる音。どうやら肉か何かを焼いているようだ。


「サヤの話はとても興味深いです。

 ですが、実現するのは難しいですよ。

 できるならば、まず私たちで検証し、安価にできる手段を模索したいところですが、それも難しいでしょう?」


 淡々と言う。

 それは……確かにそうだな……。

 サヤの素晴らしい知識があったとしても、使えなければ意味がないか……。

 なんだかとても気分が高揚していたのに、一気に冷水を浴びせられた感じだ。

 はあ……と、溜息をつくと、胡瓜を切っていたサヤが、ふと顔をあげた。

 胡瓜を小皿に入れ、少量の塩をかけて、なぜか揉むように混ぜる。そうしながら言うのだ。


「手段、なくもないです」

「え⁉︎」

「は⁉︎」


 俺とハインの声が重なった。


「安価にお風呂を作る方法です」


 塩で揉んだ胡瓜をそのままにして、サヤが今度は大きな深皿に片手鍋の肉を移す。

 良い塩梅に焼かれた塩漬け肉だ。何故か細切れだが。

 そうしつつ、そばに置いてあった小鍋に手を伸ばす。


「まずお風呂なんですけれど、私の国ではドラム缶風呂とか、五右衛門風呂と呼ばれるものがります。

 大きな鉄鍋に、人が入る感じでしょうか。竈門(かまど)に仕掛けて、水を入れておき、下から火を炊き沸かします。

 鉄鍋の底は熱いので、木で組んだ(すのこ)を踏んで湯に沈めて、その上に乗って浸かります。

 一度温まると、ごく小さな火で保温ができ、冷めない快適なお風呂なんですよ。

 温度調節は、水を足して行います。

 キャンプとかで作ったりもするので、数時間程度で作れる簡単なお風呂ですね」


 小鍋の中に、ひとまわり小さな木蓋をひっくり返して入れ、皮をむいていない馬鈴薯数個をより分け、それを三つ机に置いた。そして、その上に鍋を置く。


「こんな感じでしょうか」


 馬鈴薯が竈門で、小鍋が風呂で、木蓋が簀だと言う。

 湯を移すのではなく、水を直接沸かすか。確かに、冷めにくそうだし手間も格段に少ない……。


「それと、周知する方法ですけど。

 日本には湯屋……近年では銭湯と呼ばれるシステムが、生活に溶け込んでいました。

 道が舗装されていなかった頃の日本は砂が舞いやすく埃っぽくて、一日に何度も風呂に入って流す生活をしていたんです。

 でも、裕福だったわけじゃないんですよ? 風呂が安くできるシステムがあって、それが湯屋でした。

 湯屋は、お風呂に入る権利を売ってるんです」


 風呂に入る権利を売る……という言葉がまた、衝撃だった。


「一つの大きなお風呂に、身分関係なく沢山の人がお金を払って入りました。たしか蕎麦の半値……ほんの小銭程度で入れたはずです。

 見知らぬ人同士で一緒に入り、一説によると、身分も性別も関係ない時期すらあったらしいですよ。さすがに男湯と女湯に別れましたけど。

 各家庭でお風呂を作るより、一つ大きなのを作りお店にすれば、燃料的にも水の量としても節約できますよね?」

「ほう……風呂に入る権利を売る……面白い発想ですね。

 同じ風呂の湯を使い回すわけですね。確かに、一度入っておしまいにするより、格段に安くつきます。

 湯に浸かる度にお金を払うのですか?」

「いえ、湯屋の中にいる限り、一度の料金と考えます。

 江戸時代には手形のようなものがあって、例えば、月に五十回以上入る人は、四十五回分の料金でその手形を買っておきました。

 そうすれば、それを見せるだけで、四十五回以上入れたんですよ。

 人によっては、一日に四、五回入っていたって言いますから、かなりお得です。でも、それだけサービスできたのだから、繁盛してたんでしょうね」

「料金以上入るとそこからは只なのか⁉︎ なんで金を取らない⁉︎」

「ちょっとおまけをするだけで、毎月それを買ってくれたら、安定した収入になります。

 天候で客足が引く日があっても、前払いしたお金は返さなくて良いし、お互いちょっと得した気分になるんです」


 ニホンという国では、朝と夕方風呂に入る生活が当たり前であったらしい。

 そして、貴族も商人もと町人も、この湯屋に通っていたというのだ。

 身分の違う人間が入るので、規則づくりは徹底していたという。

 まず、風呂の湯で体を流し、髪や身体の汚れを落とし、それから湯に浸かる。

 湯船に汚れを持ち込まないようにし、湯の質を極力保つのだそうだ。

 そして、上澄みは自ずと湯船から流れ落ち、大抵の汚れはこの上澄みにあるから自然と排出されるという。


「そろそろジャガイモが湯がけました。取り出しましょう」


 芋?

 頭が湯屋でいっぱいになっていたので、料理のことをすっかり失念していた。

 サヤが流しに置いた笊の中に、今まで煮ていたものをひっくり返す。

 お、おい、捨ててしまうのか⁉︎ と、一瞬慌てたのだけど、鍋の中のものが笊に残った。

 ホクホクに煮えた馬鈴薯は、そのまま肉を入れていた深皿に投入された。そして茹でた卵を放り込み、塩にまぶしていた胡瓜もさっと水洗いして、絞って入れる。なんだかふにゃふにゃになってしまっている……。


「……混沌とした料理ですね」

「ここから、このジャガイモや卵を潰して、混ぜます」

「えっ? ぐちゃぐちゃにしてしまうのか⁉︎」


 サヤが匙を手に取り、宣言通りぐちゃぐちゃとかき混ぜ、匙で馬鈴薯や卵をえいえいと潰し出した。

 風呂の話も気になったが、この料理も気が気でならない。

 ある程度潰したら、塩と胡椒を少量投入し、さらにマヨネーズまで投入し、また混ぜ出すのだ。

 ま、魔女の所業のようだな……。グッチャグッチャネチャネチャリと異様な音がする。

 そして、そのまぜこぜになったものを見渡し、清々しく宣言したのだ。


「出来ました」


 恐る恐る覗き込むと、ほんのり生成り色の、胡瓜や肉を混ぜ込まれた何かになっている。

 思っていたより気持ち悪い状態ではないな……味は底知れないが……。


「今回はしっかり潰しましたけど、ジャガイモをあえてゴロゴロ残す感じにしても良いです。

 あ、半分選り分けて、そちらは玉葱をまた混ぜ込みますね」


 出来たと宣言したポテトサラダを、半分別の皿に移して、ハインの切った薄い玉葱をサッと水にくぐらせ、しっかりと水気を絞ってから入れる。今度はある程度簡単に混ぜたら、指ですくって味を確認。また少しだけ塩を足して、もう一度混ぜた。


「はい。玉葱入りも出来ましたよ」

「では、昼食にします。レイシール様、どいて下さい。そちらに運びますから」


 慌てて扉の前から離れると、ハインが先ほどのサラダと、焼いた肉や麺麭を持ち出す。

 食堂の机に大皿のままサラダを置き、そこからさらに取り分けて盛り付ける。

 肉もなんだか、普段と違う……。


「これはムニエルです。下味をつけた肉に、小麦粉を薄くまぶしてバターで焼くだけなんですけれど、肉汁が蒸発しにくくなって、少ししっとり感が増します。お肉がパサつくっておっしゃってたので、試してみました」


 バターってなんだ……。まぁもうなんだって良いか。


「お魚とかでよくやる料理法なんですけど」と、サヤが言いつつ、肉に何か汁のようなものをかけている。

 それは何? と聞くと、肉を焼いた鍋で、バターと酒、柑橘類の汁等を混ぜて作ったソースというものだそうだ。

 柑橘類は、酸味が強くて食べにくいと言っていたものを絞って使ったという。


 席に着き、何から口にしようかと逡巡。

 肉もなんだか照りがあって美味そう。だけどやっぱりポテトサラダ、玉葱無しの方かな。

 匙ですくって、少量を取り、思い切って一口。


「……美味しい!」


 ぐっちゃぐちゃだしどうなってるんだと思ってたのに、胡瓜はコリコリと歯ごたえを残していた。たまに肉が旨味を存分に発揮してくる。

 きっと卵も、旨味の一端を担っているのだろう。食べ慣れた食材なのに、全然味わいが違った。

 面白くなって、玉葱入りの方も食べてみると、こちらは何かピリリとして、さらに玉葱のシャクシャクとした食感が新しい。これもこれで美味だなぁ。でも、俺は初めの方が好きかも。


「この玉葱入り……美味ですね。こんなにも味わいが違うのですか」


 ハインはこっちの方が好みなのか。

 そして、ムニエルという料理も今までにない味わいだった。

 酸味の効いたソースが、なんだか妙に美味いのだ。脂のしつこさがなく、さっぱりしている。そして、普段より確かにパサパサしていない気がする。


「小麦の粉が、肉汁を吸って壁になってくれるんですよ。

 なので、油や肉汁が抜け過ぎないんです。

 豚肉は特に柑橘類と相性が良いと言われていますから、酸味のある果物が良く合います。

 小麦粉をまぶすという方法は、汁物に入れる鶏肉とかにも使いますね。

 汁に多少とろみが出ますけれど、冬場は冷めにくくなる効果もあるので、特に向いているかも」


 ニコニコと語るサヤ。そんなにぶっちゃけてしまって良いのかな? と、少々心配だ。

 それはハインも感じたようで……。


「……サヤは、何やら特殊な調理法を知っているのですね。サヤの学校は料理も習うのですか?」


 その問いに、サヤは一瞬言葉を詰まらせてから、もう一度微笑んだ。

 微笑んで……いるのだと思うが……なんだろう、違う。


「学校でも習いますけど、私に料理を手解きしてくれたのは祖母です。

 私、祖母と二人暮らしだったので……小さな頃から、わりとなんでも一緒にしてたんです」


 あぁ……悲しいのだ。

 口にした言葉で、 それが分かった。

 祖母のことを思い出した。そして祖母を一人きりにしてしまったことを、考えてしまった。


「うちは両親が海外で仕事をしています。

 私は幼い頃、特に病弱で、外国での生活には耐えられないだろうって祖母に預けられたんです。

 実際、月の半分は風邪を引いていて、手間をかけたと思うんですよね……。

 でも、拳法を習うようになってから、随分健康になったんですよ。

 それまでは家の中にこもって本を読んでばかりいる子供でした。

 今も読書は好きですけど……体を動かすのも好きになりました」


 照れたような笑みに隠して、サヤは悲しみに蓋をした。

 泣いたって良いと思うのだが、そうはしなかった。

 顔を伏せて、小さく切った肉を口に運び、咀嚼することでその表情も隠してしまった。

 まだここにきて半日も経っていない……感情が割り切れるはずがないのに、無理矢理自分を納得させようとしているように見えた。

 

 帰してあげなきゃな……。

 

 もう一度、心に決意する。必ず帰り方を、見つけ出さなければ。

 そして、それまで絶対に守り抜かなければと。

 サヤが異界の人間だということは伏せる方向になるだろう。

 異国からの流民とするのが一番無難だ。流民は一番弱い立場だが、俺が雇ったことでサヤはセイバーンの領民となり、セイバーンの規則に縛られるものの、法に守られる立場となった。

 

 だが俺は、この領内での最上位ではない……。

 

 それを思うと、恐怖が襲う。だが、もう子供ではないのだからと自分に言い聞かせた。

 守ると決めた。たとえ異母様や兄上に逆らうことになったとしても、絶対に。

 俺は波風を立てる気も、兄上を差し置いて領主になる気もない。……この家に居続けようとも思っていない。

 父上が快復し、俺がその助手を務め続けることができれば……父上との繋がりが残るならば、身分なんて要らない。家族であることにもこだわらない。

 貴族でいるのも、二十歳までだ。

 成人して、父上の庇護下を離れられるようになれば、貴族なんて辞める。そのつもりでいた。それだけを目標に、今日まで足掻いてきた。

 しかし、サヤを守るためには、貴族という立場が必要だ。

 

 彼女を守り切るまでは……。

 

 俺が一人決意を新たにしている横で、ハインはゆっくりと食事を味わっていた。

 そして最後に一言ポツリと「サヤは、素晴らしいことをとても簡単に教えてくれるのですね」と、呟いた。

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― 新着の感想 ―
ここの冒頭でレイシールさんが学舎のことを懐かしく思っている場面があって、そこでは身分関係なく対等だったというのがとても素敵でした。 湯屋を始めたら、そこでも身分関係なく入れるようにすれば領民との交流も…
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