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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第四章
81/515

大災厄

 六の月、二十六日。

 本日、夕食の賄い作りはハインが担当となった。

 とはいえ、下準備は村の女性陣に任せておけば問題無いらしい。

 彼女らは、俺が未だ警戒続行中であることを察してくれていて、サヤちゃんは護衛を頑張りなと、応援してくれるそうで、彼女の手をできるだけ煩わせない様、立ち回ってくれるのだという。

 本日、サヤは夜が長い。本館へ忍として侵入し、マルを運ぶという仕事があるからだ。

 なので、昼食の賄いを作った後は、仮眠をしっかり取る様、予定を組み直した。

 当然マルも同じ予定なので、只今仮眠中だ。


「味付けも、ほぼ問題無いんです。ただやはり、しょっぱい味のものに砂糖を入れたり、汁物に酢を入れたりする感覚は分からないみたいで……」

「うん……俺もそれ分かんないかな……」

「人の舌は、複数の味で味覚を刺激される方が美味だと感じるものなんですよ」

「うーん……でもしょっぱいものに砂糖を入れたら、美味しく無いと思うよ……」

「いつも美味しいって食べてらっしゃいますよ」

「えっ? 俺が食べたのにも入ってたの⁉︎」

「そりゃあ入ってますよ。私のところでは、隠し味って言うんです」


 護衛を兼ねての仮眠となるサヤは、俺の部屋で、長椅子に横になっている。

 仮眠くらい部屋でゆっくり取れば良いと言ったのだが、夜は夜でサヤが抜ける為、ギルやハインの負担が増える。だから、物音で起きれるサヤが、護衛兼、仮眠という状態だ。

 なので只今、ギルも仮眠中だ。

 本当に人手不足が痛い……。皆の負担が半端なくて、申し訳なさすぎる。だから少しでもしっかりと休んで欲しいのだが……。


「……サヤ。話してないで、寝ないと」

「そうなんですけど……なかなか眠気がやって来ないんです」

「話してるからだよ」

「違いますっ」


 長椅子で丸まっているサヤがぷぅっと頬を膨らませる。

 ……その表情は反則だと思うんだ……。可愛い……何かに似てる……なんだっけ。


「こんなに燦々と日が照ってるのに眠くなんてならないですっ」

「じゃあ、帷を下ろそうか? 多少は暗くなると思うよ」

「そうするとお仕事の邪魔をしてしまうから嫌ですっ」

「……なら、ちょっと疲れたし休憩する」


 俺がそう言って伸びをすると、サヤが「えっ、そんな……」と、狼狽えた声を上げる。

 帷を下ろしに行こうとすると「あっあのっ、下ろさなくてもちゃんと寝ますからっ」と焦った声で言うのだ。

 ちらっと視線をやると、鼻の下まで上掛けを引き上げて、必死に目を閉じている姿があり、つい吹き出してしまった。

 俺の仕事の邪魔をしたと思ったんだな。


「いや、大丈夫だよ。本当は、一区切りついたんだ。

 サヤもお茶飲む? 気分転換に」


 こんな日中に、なかなか寝れないのは仕方がない。

 そう思って声を掛けると、サヤは謀られたと悟った様子だ。また、ぷうっと頬を膨らませた。

 その顔にまた吹き出してしまう。分かった。栗鼠だ。頬に食べ物を詰め込んでる時の顔だ。


「……なんで私の顔見て笑うんですか……」

「いや、他意は無いんだ、ごめん…………っくっ」

「まだ笑ってる!」


 ああ、癒される。

 サヤが居てくれて本当に良かったと思う。

 彼女が一生懸命元気に振舞ってくれているのは分かってるんだ。俺とハインとギルが、ギクシャクしない様に、凄く気を回してくれている。

 先程も、ハインと夕食の隠し味について話していた。

 サヤと料理の話をする時は、ハインの表情も、心なしか和む。きっとハインにも、彼女の気持ちは伝わっているのだろう。

 彼女の慈悲は凄まじい。とても大きく、温かい。

 夏場、香草茶など、お湯で入れるお茶は暑いので、朝方朝食とともに大量に作り、冷ましたものを水差しに入れてある。それを湯呑みに注いで、一つをサヤに差し出した。


「はい、どうぞ」

「……ありがとうございます」

「怒ってる?」

「怒ってませんっ」


 笑われたことを恥ずかしいと思っているのか、顔が少し赤い。

 なんて愛らしい生き物なのだろうかと感心しているだけだから、別に恥ずかしがる必要なんてないのだけれど、理由を知らされずに笑われているのだから、あまり良い気分ではないだろう。


「ごめん。サヤが可愛かっただけなんだよ。

 たまに、頬をぷって膨らませるだろう?あの仕草がなんか栗鼠みたいで……」


 意地悪する気もなかったので、正直に理由を教えると、サヤの顔がより赤くなった。


「かっ、……、わ、私、やってしまってたんですか⁉︎」


 はい?


「やらない様に、気をつけてたのに……カナくんにも、餅みたいって、ガキかって揶揄われて……人前でするな、恥ずかしいって言われたことがあって……も、申し訳ありませんっ」


 顔を両手で隠して下を向いてしまった。

 カナくんめ……あの表情の何が恥ずかしいんだ。可愛すぎてたまらないとすら思うのに!

 いや待て、たまらないは却下だ。それはちょっと変態っぽい。


「恥ずかしくないよ。とても愛らしいだけだ。

 俺は好きだよ。サヤみたいに表情がくるくるするのは本当に可愛い。

表現が自然で豊かで、気持ち良いとすら感じる。決して、恥ずかしい表情なんかじゃない」


 あの表情が見れなくなるのは嫌だ。

 上目遣いにこちらを見てくる表情も好きだけれど、あれはこう……駄目な感情が掻き立てられそうでちょっといけない。頬を膨らませる顔は、不埒な感情を刺激しない。ただひたすら可愛いのだ。

 ……駄目だ。俺の思考がなんかちょっとやばい気がしてきた。


「れ、レイシール様はたまに……すごく恥ずかしいことを、臆面もなく仰いますね……」

「えっ⁉︎ やっぱり俺、恥ずかしい⁇」

「ちっ、違います!

 私の世界の男性なら、言わないかなって思う言葉で、褒めたり、慰めたりして下さるので……わ、私が恥ずかしくなるんです……」

「え? そんなことないと思うよ……? 俺なんか、口下手なくらいで……」

「あります! だって、だって私……あちらでは可愛いとか、愛らしいとか、う、美しいとか、言われたことないですから……」

「嘘っ⁉︎ 絶対それは無い! サヤは本当に可愛らしいし、美し……」

「いいい言わないでくださいっ」


 座褥(クッション)に顔を埋めてしまった。

 うなじまで赤く染まっていて、その細い首元が、なんというか妙に艶めいて見えてしまい、急いで視線を外す。


「本当に、無いんです。私は地味ですし、武術を習ってますし、あのこともありましたから、男の方にはつい警戒してしまって……あまり好感の持てる態度の人間では、ありませんでしたから……。

 だからその……褒めて頂けるのは、嬉しいのですが……慣れていないもので、つい、恥ずかしさが勝ってしまいます。申し訳ありません……」

「……いや、謝ることなど無いよ。……ただ、俺が冗談とか、お世辞で言ってるんじゃなくて、本当にそう思ってるんだって、誤解しないでくれると、嬉しい……」

「う、またそうやって、恥ずかしいことを言うぅ……」


 カナくんは、サヤを褒めなかったのかな……。

 先程名が出て来たこともあり、ついそんな風に考えてしまった。

 サヤの一番近くにいて、サヤが気持ちを寄せている相手。なのに……サヤはカナくんに嫌われていると言う。過去の経験から、男性を怖いと感じ、つい警戒してしまうサヤを、彼は煩わしく思うようになったのだと、そんな風に聞いた。

 さっきの言葉だって……あんな風に言われたら、傷付くよな……。俺なら、人前では絶対にすまいと、気持ちが張ってしまうと思う。そうやって、どんどん苦手意識が育ってしまったんじゃないのか?

 ここにサヤが来てひと月と少し……。長いような、短いような時間だが、サヤはすぐ俺に触れられる様になったし、ギルにだって……昨日は、ハインやマルもきっと大丈夫だと言っていた。

 彼女は努力家だ。この世界に一人で放り出され、必死で慣れたのかもしれないが……それでもこの期間に、努力して慣れたのだ。

 なのに故郷では、彼女は六年、苦しんでいた。

 彼女の口ぶりからして、カナくんには、多分触れられないままなのだ。

 だけどあんな言い方をする相手じゃ、慣れるなんて、無理だって気もする。

 カナくんは……サヤのこと、どう思って、どう扱っていたんだ?


「あの、こんな居た堪れない話はやめましょう。

 それよりもその……どうせ寝られないなら、この機会に聞いておきたいことが、あるんです」


 不意にそんな言葉が耳に飛び込んで来て、俺は思考を慌てて切り離した。

 つい、カナくんのことを考えて、眉間にシワが寄ってしまっていた……。視線をやると、まだ赤い顔のサヤが、座褥を抱きしめたまま、こちらを伺っていてドキリとする。

 う……カナくんのことを考えていたこと、バレてませんよね……。


「なに? 聞いておきたいことって」


 内心ドキドキしつつも、そんな風に答えると、サヤは真剣な顔で視線を落とした。

 あ、真面目な話であるようだ。俺も居住まいを正す。


「ハインさんのことです……。……獣人って、どんな人種なのでしょう。

 ハインさんが、死んでしまいたいと、思うようなものなのですか。

 私、ずっとそれが、気にかかっていて……獣って……どういう意味ですか」


 ああ、やっぱり。

 サヤには聞かれているかもしれないと思ってた。

 俺の寝言にすら起きて、部屋から駆けつけてくれる娘なのだものな。

 心優しい彼女が、ハインの事を気にしない筈が無い。

 天井を見上げると、昨日の小刀がまだそこに刺さっている。あれでハインは、咄嗟に首をかっ切ろうとしたのだ。俺が、ハインを獣人だと、知った瞬間に。

 うん……一連のことが片付いてからと思っていたけれど……そこまで待てないってことだよな……なら、今話すか。


「……前から、刹那的だなとは思ってたんだけどね……。死のうとしたことも、今思えば二度程あるかな。あの時は、気付けなかったのだけど、今考えると、多分そうだったんだろうなって」


 一度目は、俺を刺した時。二度目は、俺が学舎を辞める時。積極的では無かったけれど、可能性としては低くなかった。通常、貴族を刺せば、切り捨てられても文句は言えない。そして、二度目の時は、俺が要らないと言えば、あいつは本気で、死ぬ気でいたのだし。


「まさか獣人だとは、考えもしなかったな。

 でもまぁ、知れば……そうならざるを得ないのも、分かる気がするよ……」


 死んでしまいたいと思う程、彼にとっては受け入れられないことなのだと思う。自分が獣人であるという事実が。

 隠していけるなら、ずっとそうしていたかったろう。

 けれど、知られてしまうと同じくらい、苦しかったのじゃないかとも思う。自分を認めず、目を背けたままで生活することは。

 隠したまま、バレないように気を張り詰め、ただ俺に尽くす日々は。


「獣人は、災厄の象徴とされていてね……人じゃない。獣なんだ。

 えっとね……二千年前に、大災厄と言われた大戦があった。人と、獣人が争ったんだ。

 本当に酷い争いで……あまりの凄まじさに、大地は裂け、海は荒れ、空から太陽も月も去ったとすら言われてるよ。文明は白紙に戻され、獣人は滅び、人も滅びかけた。

 獣人は悪魔の使徒として……頑強な肉体と、牙と爪を使い、人を八つ裂きにし、噛み千切り、その血に酔って笑い、咆哮をあげたと言われている。大災厄のことを、終焉の宴と呼んだりもするんだ。

 まあ、だからその……獣人は、人の血に酔うと思われていてね……恐れられる。

 生まれた瞬間から忌避され、売られるか、捨てられるか、殺されるか……。だけど、一度獣人を産めば、血から種が抜けるのか、次に獣人を生むことはないと言われているから……」

「ちょっと待って下さい、滅んだのでしょう? 何故生まれるのですか?」

「……ああ……その……人からね……なんの前触れもなく、子の代わりに生まれるんだよ。

 悪魔は、人に種を仕込んでいるとされている……。人が堕落して行き着く先が、獣人なんだ。

 前に、孤児について話をしたろう?悪事を働き、魂が汚れ、来世もまた辛い人生を約束される。それを繰り返すとね……穢れきった魂は、人であることが出来ず、獣人になると言われてるんだよ。そして、人から赤子の身体を奪って生まれてくる。だから、そうなることが嫌なら……」

「神に、縋るしかない……ですか」

「そう。けど……獣人になったら、もう救いは無いんだ。またいつか、大災厄を狙う悪魔が、機が熟したと判断した時、手駒になる。獰猛な獣に戻り、人を八裂きにし、噛み千切り、血に酔ってまた殺戮に走る。それを恐れられているんだ」


 そう。ハインはもう、悪行の限りを尽くした魂を持つ、堕ちた存在なのだ。


「でも、それ……二千年も前の話なのですよね?作り話とか、神話の類なのでは?」

「まあ、作られた部分は多くあると思うよ。

 けど……愛した相手の子を孕んだ筈が、獣が生まれてくるのだから……真実もあるということだ。

 誰もが、獣人を産んだことを隠すから、いったいどれくらい生まれてきているのかは分からないが……」


 サヤが視線を落とし、何かを考え始める。

 俺も、昨日の気になったやり取りを思い出していた。


 番号持ち。


 という、胡桃さんの言葉が引っかかるのだ。

 それは、何かの組織が絡むという意味だよな。

 狂信者と表現されたのは、一体どの神の信者だ?どんな神の元にも盲信的な者はいるし、中には過激な思想の者もいるのだが……。どんな神かによって、危険度も変わるしな……。


「レイシール様は……ハインさんが血に酔って、人を襲う……なんてことが、あると思います?」


 とても真剣な顔で俺に問われ、まさか。と、笑った。


「それに関しては、本当に迷信だと断言できるさ。

 俺、結構あいつの前で血を流してるからなぁ」


 刺されたとき然り、兄上に斬られたとき然り、あの二つが断トツの出血量だったわけだが、あいつは、泣きそうな、縋るような視線を向けてくるか、絶望を振り切るかのように暴れるかだった。血に興味なんて、全く示さなかった。


「見ても反応はない……匂いじゃない?血の味に酔う……ということ?……血の成分で興奮状態になる? 我を忘れてるなら人を襲う……?」


 サヤが、ブツブツとそんな風に呟く。その内容に、顔が凍った。

 あいつを、疑うっていうのか?


「サヤは、ハインが人を、害するとでも?」


 自分が思っている以上に冷たい声音になってしまい、言ってしまった後でしまったと焦る。

 ビクッとサヤが身を縮こませたので、慌てて取り繕うこととなった。


「ごっ、ごめん! 思ったより声が低くなって……怖がらせるつもりは……っ」

「あ、いえ。私が、酷い言い方をしたのは自覚してます。

 けれどその…私の世界に、狂犬病とか、血にまつわる病がありまして」


 病……?


「狂犬病は、噛まれることで、唾液からウィルス……あ、菌が、体内に侵入して、脳が侵略を受けるんです。

 その病は名の通り、獣の病なのですが、人にも移ります。菌に侵略されると、狂犬病になった犬は、麻痺して動けなくなるか、獰猛になって、あらゆるものに襲い掛かるんです。発病したが最後、必ず死に至ります。

 私の国では、もう長く狂犬病は起きてなくて、無くなっているようなんですけど、外国ではまだ存在してて。噛まれることで移り、また感染を広げるために噛み付くので、人類や、獣人全体を脅かす可能性もあるのかなって。

 かつてその狂犬病が、吸血鬼という、血を吸う魔物の物語を生んだともされていて……少し、獣人の言い伝えと似ているなと、思ったんです。

 で、でも、二千年前の一度きりであるなら……同じような事件が繰り返されていないなら、病の可能性は低いですよね……もしくは、もう病も絶滅しているかです。そうであれば、もう獣人さんが、怖がられる理由も無くなってるってことになるんですけど……」


 ちょっと、勘ぐりすぎな気がしてきました……と、サヤは笑ったけれど、明らかに眉が下がり、笑顔に無理があって、俺は自分が相当険悪な表情で、サヤにあの言葉を吐いたのだと自覚した。そして、サヤを疑ってしまった自分を、恥じた。

 手を握ると、ビクリと反応され、更に罪悪感が募る。


「ごめん……怖がらせたね」

「い、いいえ! 私が悪いんです。あの言い方じゃ、ハインさんを疑ってるように、聞こえましたよね!

 でも私だって、ハインさんがどういった人かは、もう知ってるつもりです。

 その……大災厄にも、きっと何か、原因があるのではないでしょうか。

 それが分かれば、獣人さんが虐げられる関係は、変われるのじゃないかって、ちょっと思ってしまって……あっ」


 腕を引いて抱き寄せたら、サヤは少し身を硬くした。

 けれど、俺がサヤをこうするのは、下心からじゃないと察してくれた様子で、少しずつ、体の力を抜く。

 そうだよな。この優しい娘が、ただハインを恐れてあんなことを口にする筈、ないじゃないか。


「ごめん……自分ではあまり、気にしていないつもりでいたのだけど……やはりちょっと、張り詰めていたのかもしれない。

 サヤがそんな風に考えるはず無かった……。サヤにあたってしまって、申し訳ない。

 ハインが獣人だってことは、本当に気にしてないんだ。けど……なんかさ、信頼してもらえてなかったってことが、ちょっと、辛かったんだよ……。だから、過剰になってしまってた……」


 ハインは、咄嗟に死のうとする程に、俺を信じてはくれなかったのだと、心の隅で、ちょっとそう、思ったんだ。

 そんな俺の考えを口に出したわけではない。けれど、サヤはそれをちゃんと拾ってくれた。


「……九年は、長いですよ。

 ハインさんは、天邪鬼だから……本当は思ってないのに、わざと裏腹なことを、口にされたんだと思います。

 だって……レイシール様のことに、あんなに一心不乱になる方ですよ?ただそれだけの感情で、あんな風には、なれないですよ。

 それに、ちょっと分かる気が、するんですよね……。

 近いからこそ、怖いって、あるんですよ。

 今のこの関係を、壊したくなくて、手放せなくて、言おう、言わなきゃと思っていても、言えない……って、思っちゃう感覚」


 腕の中のサヤが、少し、身体を俺に摺り寄せた。

 なんとなくそれで、サヤのその言葉と感情が、誰によってもたらされたものかを知ってしまい、胸が締め付けられる様な心地を味わう。


「ハインさんは、レイシール様を万が一にも失いたくなくて、人であり続けたかったのじゃ、ないでしょうか。だから、知られてしまった瞬間、大切な記憶を、綺麗なままで残したくて、獣人の自分を、知られないままにしたくて……。

 もう一つは、レイシール様を、ハインさんの関わるいざこざに、巻き込みたくなかったんでしょうね。

 人が獣人を忌避する様に、獣人も人を、友好的には見ないのでしょうから」


 人から生まれるのに、人ではない獣人。

 捨てられたり、売られたりした者たちが、人を快く思うわけがない。


「ああ、ハインさんが、手段を選ばないのって……自分はもう穢れきっているからと、そう、思ってらっしゃるから……なのでしょうか……」


 そんなわけ、ないのに……。ぽそりとサヤが、零した呟きが、かろうじて俺の耳に届く。

 その呟きに、かつてサヤが、病の原因について話してくれた時ことを、ふと思い出した。


 菌という小さな生物が、身体に侵入することで病は起こるという。

 先程のキョウケンビョウというものも、同じ類である様だ。

 サヤの世界では、病は、悪魔の仕業でも、前世や今世の悪行故、招いた結果でもなく、ただ偶然の産物なのだ。

 この世界では、神の教えに反する、サヤの世界の理。

 ハインは、その話を聞いた後、俺に少しだけ、過去の話をしてくれた。

 その時俺は、サヤの話の何かが、ハインを救い上げたのだと感じたのだ。


 魂が汚れきって、獣人へと堕ちたハイン。

 だけどサヤの言うことが正しいのなら……ハインが獣人であることは、偶然なのだ。

 生まれや前世の行いなど関係なしに、病や不幸が起こるなら、当然、獣人が生まれる理由も、違ってくる。

 サヤの理屈で言うなら、ハインは何も汚れてない。獣人は、ただそう生まれたというだけの、人でしかないのだ。

 そうか、お前はそれに、救われたと感じたんだな。今なら、それが分かる……。


「サヤ……ハインを救ってくれたのは、多分君だ」

「え? な、なんの話ですか?」

「いや、良いんだ。こっちの話だから……でも、サヤは女神だよ。俺にとっても、ハインにとっても」

「あ、あの……レ、レイシール様……恥ずかしい話はやめましょうって言ったじゃないですか……」


 腕の中のサヤが身動ぎするが、おれは彼女を離せなかった。

 あの話が無かったら、彼はもっと絶望していたのだと思う。

 もしかしたら、昨日も、思い止まってはくれなかったかもしれない。

 たとえ一時的にではあっても、ハインは残った。この時間は、サヤが作ってくれた時間だ。

 腕の中のサヤの温かさを、噛み締める。この温かさが、ハインの気持ちを少し溶かしてくれていたのだと思うと、ことの外、愛おしく感じた。


「ありがとうサヤ」


 君は本当に、俺の女神だ。

 ああ……何故サヤは、異界の者なのかな……。

 この娘はこの世界に必要なのだと思う。

 サヤを手放したくない……こんなに愛おしいのに……帰さなきゃならない…………。

 俺にも、ハインにも、この世界にとっても、彼女は救いであるのに。

 何故、帰さなきゃならない……サヤの世界で、サヤは幸福でいられるのか? カナくんは、サヤを大切にしてくれるのか? 正直、そうは思えない……。

 俺の方が絶対に、サヤを好きなのに……カナくんより絶対に、大切にするのに……サヤをここに引き止めておくにはどうしたら良いだろう。サヤを手にい……っ!


 駄目だろ⁉︎


 急いでサヤを身体から引き離した。

 今自分が導き出そうとしていた言葉が、鼓動を早くしていた。

 なんて恐ろしいことを……。そんなこと、考えちゃ駄目だって、分かってる筈なのに!


「レイシール様?」

「あっ……ご、ごめん。サヤを抱きしめたまま、思考に没頭しそうになって……」


 無理やりひねり出した言い訳に、サヤの目が丸くなる。

 そうして破顔した。クスクスと笑う。


「それは、確かに困っちゃいますね。

 レイシール様、下手をしたら、数時間固まってしまいますから」


 疑いなく信じてくれた様子で、笑うサヤが眩しい。

 帰してあげなきゃ駄目だ。そう約束した。家族も、想い人も待っている、サヤの世界なのだ。なのに、何を考えてた……いつからそんな、自分勝手なことを、望むようになってしまったんだ……。


「さあ、話はこれくらいにしよう。この問題は、もうしばらく保留だ。雨季が来たら、嫌でも時間が山程出来る予定だからね。その時じっくり考えよう」

「雨季が来たら?」

「そう。川の氾濫さえ無ければ、凄く暇だ。長雨で外出がままならないんだよ……。雨に監禁される心地なんだ」

「ああ、それは確かに暇そうです」

「それに、サヤはもう、いい加減、眠らないと。夜が辛いよ」

「うーん……やっぱり全然、眠くならないです……」


 小机の湯呑を手に取ったサヤが、こくんとそれを飲んで、また小机に戻す。そして、畳んで端に寄せていた上掛けに手をやった。

 眠くならないと言いながらも、寝るための準備を始めたので、俺も長椅子から立ち上がる。

 すると、サヤがまた「あの…」と、声を掛けてきた。


「お仕事は、ひと段落されたんですよね?」

「うん。もう今日はすることが無い……どうやって時間を潰すかな…」

「じ、じゃあ、まだここに、座っていてもらえますか?」


 え? だけど……邪魔じゃないかな。


「その……近くにいて下さった方が、いざという時お守りしやすいですし……長椅子は広いので、レイシール様が座ってらっしゃっても、私はちゃんと寝転がっていられますし……えっと……」


 しどもど言葉を探す素振りを見せるサヤが、うつむき気味に言い淀む。その頼りなげな表情に、胸を射抜かれた。

 可愛い……。これはあれか、独りが寂しいということなのか?甘えられてる?

 どうしよう……むちゃくちゃ嬉しい……だけど顔に出すな。なんか、駄目だそれは。


「う……ん。いいよ。じゃあ、ここで本でも読んでおくよ。ちょっと待ってて」


 平静を装って、本棚に向かう。

 本を探すふりをしつつ、顔の火照りを気合いで誤魔化すため、心よ凪げと、呪文の様に繰り返した。

 本を選んでいる余裕なんて無くて、適当なものを手に取って長椅子に戻ると、サヤが長椅子の奥に身を寄せてくれていたので、どこに座ろうかと悩む羽目になる。

 足元はなんか……意識しすぎてる気がする……。かといって、腰の辺りも自分からはちょっと……うう……。


「こちらにどうぞ」


 手でポンポンと、サヤの太腿の辺りの空間を叩かれた。なのでそこに失礼する。


「せ、狭くないかな……」

「大丈夫ですよ。じゃあ、その……あ、ありがとうございます。……おやすみなさい」

「うん、おやすみ……」


 ドキドキしつつ、本を開いたけれど、駄目だった。

 文字が幾何学模様に見えるのは初めてだ……全然頭に入ってこない。

 別に密着してるわけでもないのに、妙に意識してしまう。

 しばらく目を泳がせつつ、なんとなく惰性で頁をめくっていたら、さして時間の経たないうちに、サヤの息づかいが、規則正しくなっていることに、ふと気付く。

 姿勢を変えず、視線だけを向けると、彼女はあっさり、眠りに落ちていた。

 ……寝れないって言ってたのに、案外早かったな……。それとも……俺が側にいる方が、安心、出来たということなのか……?

 しばらく、サヤの寝顔を見つめていた。

 思った以上に、あどけない表情……。瞳を閉じているサヤは、幼く見えるな……。

 前の時は、顔色の悪さが目に付いたけれど、今のサヤはふっくりとした唇も桃色だし、頬も血色が良い。相変わらず睫毛が長くて、きめの細かい肌がとても柔らかそ……駄目だろ見ちゃ! 女性の寝姿を眺めるだなんて、あまりにも、配慮に欠けた行為だ。


 慌てて視線を逸らし、手元に戻す。今度こそ読書だ。これ以上サヤを意識してまうと危険だ。

 すると、自身が眺めているものに唖然とした。

  こんな時に、これを選ぶとは……アミ神の采配? それともただの偶然?

 俺が選び、膝に乗せていたのは、何故か、フェルドナレンの神話集だったのだ。

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