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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第一章
7/515

レイシール

この辺りから漢字表記が増えるので読み方です。


麺麭…パン 

萵苣…チシャ(レタス)

 食堂に、何故か麵麭(パン)が積んであった。

 麺麭卵野菜麺麭麺麭肉卵麺麭みたいな……そんな順番で積まれていたのだ。意味が分からない。


「……何これ?」


 咄嗟に出てしまった俺の独り言だったのだけど、答えはサヤがくれた。


「サンドイッチです」


 サンドイッチってなんだ……。


「意味があって積み上げてあるってこと?」

「これ、私の世界の料理なんです。

 ハインさんが、作ったものが冷めてしまったとおっしゃって……これなら冷めても美味しいかなって」


 その返事には驚いた。

 俺が部屋に残っていたのはせいぜい数分。だったそれだけの間に料理し直したってことらしい。


「マヨネーズだけ作って、それをパンに塗って、具材を挟んだだけですから」


 ハインが作っていた朝食を、そのまま再利用して作った料理ということか。

 なるほど……。確かに挟まっているのは、いつも見慣れた朝食の内容そのものと言える。

 卵と薫製肉、そして萵苣(チシャ)(レタス)。うん、いつも通りだ。

 この白っぽい何か以外は…。


「……これがマヨネーズ? 一体何でできてるんだ?」


 ドロリとした、妙な物体だった。少し黄味がかった色をしている。うちの食材に、こんなふうになりそうなものはなかったと思うけど……。


「ありあわせで作りましたし一番簡単なやつなんですけどね。

 卵黄と、油、塩と酢でできてます」


 ……それがどうしてこうなる?


 材料をあっさり教えてくれたことには驚いたけれど、聞いても全く何がどうしてこうなってるかが想像できないのにも驚いた。

 いや、料理は分かりやすく教えてもらえなくて当然なのだけど、それにしたって想像外の形状だ。

 味が全然連想できないが……食卓に出ているということは、ハインは当然毒味してるよな?


 そう思いつつ、食器を運んで来たハインを見ると、いつも大抵険しく刻まれている彼の眉間のシワが、綺麗に伸ばされていた。

 ハインが険悪な顔してない! いつぶりなんだこんなスッキリした顔⁉︎


「秀逸です。

 正直、このようなものは想像すらできませんでした。サヤは凄いです。

 しかも作り方を教えていただけるとは」


 教えてもらったのか⁉︎


「いえ、これは別に、私が考えたわけではないですよ?

 私の国ではよく使われている調味料なんです。

 サンドイッチ以外でも、色々な調理に使えますから、それはまた今度教えますね」

「それはもう是非」


 照れたように笑うサヤに、穏やかな表情のハイン。

 サヤは可愛いで済むけれど、ハインは正直違和感がありすぎて逆にちょっと怖い……。

 汁物を配膳するハインは、サヤに剣を突きつけていた時と打って変わって上機嫌だ。

 新しい料理を教えてもらえたことで、気持ちが浮き立ってしまっているのだろう。

 

 調味料……って、作れるのか……凄いな。

 だけど料理を教えるって、凄い投資(・・・・)をしたもんだな。

 

 確かに料理が趣味のハインには有効な手段だ。それをこの短時間で彼女は見抜いたのか?

 そうだとしたら、サヤは思いの外相手をよく見ているし、有能だ。

 もうハインの心を鷲掴みしたも同然なのだから。


 とりあえず席に着き、これをどうやって食せば良いんだと思案していると……。


「そのまま手に持って、ガブッてしたら良いですよ」


 サヤがそう言って、お手本よろしく麺麭から麺麭までを手に取り教えてくれた。

 なるほど。麵麭から麵麭を持てば手が汚れない。そのように考えられた料理ってことだな。

 俺もサヤにならって同じように、麵麭から麵麭までを掴んだ。

 手で持って食べる食事なんて、面白いな。

 そう思いつつかぶりついたわけだが……。


「んんー!」


 なんか今まで食べたことない味がした!

 酸味があるのに何かまろやかな、不思議な味だ。

 それが野菜や卵をひとつにまとめている。一言で言うなら複雑な美味さとしか表現できない!

 卵や野菜の分量で味がいちいち変わるのが面白い。


 あっという間に一つ目を食べ終えてしまい、二つ目に手を伸ばす。

 こちらには卵と薫製肉が挟んである。そしてそれもやはり美味だった!

 肉にも合うのか、凄いなマヨネーズ!


「具は色々変えて楽しめますよ。

 茹でた卵やツナをマヨネーズで和えたものとかも良いですし、海老や生ハムやアボカド……。

 厚切りトマトやベーコン、チーズとか」


 知らない名前の食べ物がポンポン出てきたが、色々挟むものを変えて楽しめる料理であるらしい。

 季節の野菜や肉の種類によって味も変わるに違いない。


「では、昼は茹でた卵を用意しましょう」


 激しく興奮しているのか瞳をギラつかせているハイン。


「お昼もサンドイッチにするんですか?

 茹で卵を作るなら……ポテトサラダも美味しいので、そちらを作りませんか?

 ジャガイモがあればまあだいたい出来ますし……」

「あります!」

「食べてみたい!」


 これがこんなに美味いなら、サヤの作る料理は相当期待できるってことだ!

 

 想定外の美味なる朝食を堪能した。いや、まさかこんな展開は予想してなかったよ……サヤが本当に料理できるだなんて。

 学校に通うほど裕福な家庭にいるのに、料理、洗濯、掃除ができると言っていたから、まさかとここまでとは思っていなかったのだけど、俺の通っていた学舎みたいに、人の営みの一通りを教えるような場所なのかもしれないな。


 サヤはあまり食欲なさげで、ハインの汁物を美味しいと言ってはいたが、食べたサンドイッチは手をつけたひとつきり。

 まあ、正直あまり食事を楽しめる気分でもないのだろう……。そう思ったので、追求はしないでおくことにしたけれど、少し心配だ。


 食後のお茶を用意してから、もう一度俺たちは俺の私室に戻った。まずはサヤに、ここで暮らすための諸々を説明しなければと思ったからだ。

 暖炉前の長椅子にサヤを座らせて、俺はその向かいに執務用の椅子を運び、座った。

 ハインは俺の斜め後ろで直立待機。ここが従者の正しい立ち位置。


「さて。腹もこなれたし、これからのことについて話そう。

 俺に仕えてもらう以上、気を付けてもらわなきゃいけないことが幾つかある。

 質問があったら、話の途中でも構わないから聞いて」


 多分はじめは質問だらけになるだろうしな。

 分かった? と、確認すると、神妙な顔でこくりと頷くサヤ。

 よし。それではまず注意事項から伝えることにしよう。


「サヤはひとりで本館には近付かないこと。

 サヤを雇ったのはあくまで俺で、サヤに関する全ての責任と権限は俺にある。

 セイバーンに仕えるのじゃなく、俺に仕えるのだと理解して。

 だから、例えば本館の者や俺の身内に何か命令されたとしても、サヤはそれにいっさい従わなくても良いから。

 ただ、貴族相手に不敬となる態度をとってはいけない。

 匙加減が分かりにくいと思うんだけど、しばらくはハインと一緒に行動させるから、その間に憶えてほしい。


 仕事内容は、まず俺やハインの補佐をしてもらってから、適性を見て決めようと思う。

 それと、生活上の雑務だね。

 これも、しばらくハインと行動して覚えてほしい。一通りできてくれると有難いけど、まずはできることを一つずつ増やすくらいに思っておいてくれたら良いよ」


 まさかの料理上手で確実に役に立ってくれるに違いないと確信は持てたけれど、使用人として働くというのは貴族出身者にはかなり酷なことだろうしな……。そう思っての発言だったのだけど、そこでサヤがスッと手を挙げた。

 その動作の意味が分からず黙っていたのだけど……。


「あの、レイシール様が直接雇っているという使用人は、ハインさんだけということですか?

 本館というのが先程の大きな館であるのは分かるのですが、あちらへの挨拶等も必要ないということでしょうか」

「ん? あぁ、うん。そうだよ……えぇとね……」


 挨拶に行くつもりであったような発言に、内心で肝を冷やした。

 いや、良い心掛けなんだよ、本来は。だけど俺に関わる場合、それは最低の悪手だ。

 やっぱり誤魔化して伝えるのも危険だよな……。


「ごめん、まず俺の立場から伝えるべきだったな……。

 俺はこのセイバーン男爵家の二子ではあるんだけど、母は正式な妻ではなく、妾だったんだ。

 それで貴族としての認知はされているけれど、まぁその……兄上や異母様には、快く思われていない。

 本館の使用人はセイバーン男爵家の使用人だから、俺が使って良い者たちじゃないというか……」

「……でも、レイシール様は領主代行をされているのでしょう?」

「あー……うん。まぁ、そうなんだけどね……。

 ほら、無為徒食は恥ずべきことだし、一応セイバーン男爵家の一員として、やるべきことはしないといけないというかね……」


 必死で言い訳を連ねていると、ハインから重く低い「レイシール様」の声が。


「はっきり申しませんとサヤの身を危険に晒します。

 サヤ、この方はセイバーン男爵家正妻のアンバー様、そのお子であり一子であるフェルナン様にとっては邪魔な存在です。

 ですがいないと困るのですよ。

 領主様が病床に臥し、補佐であったこの方の母君が没してから、領地を管理できる者がこの方しかおりません。

 セイバーンは麦の生産地。豊穣な土地柄なのですが、管理が難しい。それは伯爵家から降嫁されたアンバー様や、甘やかされて育ったフェルナン様には担えないものなのです」


 一応言葉を選んでくれた様子のハインに、内心でホッと息を吐きつつ、俺はぶっちゃけられてしまった内容が恥ずかしくて俯くしかない。

 そうなんだよね……。領主代行という立場ではあるけれど、俺は働き手として使われているだけの存在なのだ。


「使用人に関してですが、セイバーンの使用人をこの方が使いますと、その使用人本人や更に身内が罰せられます。

 またこれは、誰かを雇うにしても同じこと。セイバーン領内で下手に人を雇えば、雇われた者だけでなく、その一族にとっても不利益となります」

「不利益……」

「具体的に申しますと、異母様の心証が良くないですから、些細なことで鞭打ちや罰金、仕事を奪われたり、場合によっては解雇の憂き目に遭います」


 あんぐりと口を開けてしまったサヤに、申し訳なくて俺は縮こまるしかない。

 そう……。

 学舎から帰ってきた当初は、そういった事情が分かっていなかったものだから、使用人との距離感が掴めず、無駄に罰や叱責を受けるような目に合わせてしまった。

 異母様からしたら、俺はセイバーンの一族に相応しくない……家族ではないという感覚なのだと思う。だが、使用人は俺を父上の子として扱わねば不敬となってしまうのだ。俺に頼まれごとをすれば、聞かないわけにはいかない。

 そこを帰って間もない俺は間違えてしまった。申し訳ないことをしたと思う。

 なので、今はあえてセイバーンに仕える使用人には接触を控え、関わらないようにしていた。


 話を聞いたサヤは呆然と俺を見つめている。

 いや、本当にごめんね……こんなのに雇われることになってしまって。


「本来はもう少し、使用人を持つべきなんだけど……信用できて機転がきく、扶養家族(あしかせ)の無い者を厳選するとなると、なかなかそれも難しくてね……。

 ハインを酷使しすぎていると分かっていても、他にやりようもなくて……」

「足手まといがいるより全然やりやすいです」

「またそういうことを言うぅ……」


 他の人を雇えない理由としては、その雇った者が異母様の手の者ではないという保証もなく、下手をすると埋伏(まいふく)の虫を抱えることになってしまうということもあった。

 彼方に弱味は極力掴まれたくないから、どうしても慎重になってしまうのだけど、流石にそれは不穏すぎるから伏せる。


「サヤはこう言っちゃなんだけど、天涯孤独の身だから、君を雇ったとしても君の親族が苦しめられることはない。だから、君さえ本館に近付かなければ大丈夫。

 彼方も基本俺たちには関わらないようにしてるから、何か言われることもないと思うんだけど、まぁ一応、念のために把握しておいて」


 サヤは絶対に異母様の息がかかった者ではない。

 それが分かっていたから、ハインもここで彼女を雇って良いと言ったのだと思う。


「……じゃあつまり、ハインさんもお身内がいらっしゃらないのですね」

「うん。ここの全ては彼が一人で取り仕切ってくれている。

 掃除、洗濯、料理、領地経営の補佐に俺の護衛……あ、サヤがする仕事は彼の二割くらいの分量で充分だからね。

 こいつはちょっと異様というか、俺の世話が天職、生き甲斐くらいの感覚だから、仕事量おかしいんだ。

 口うるさいと思うんだけど、やることが多くて時間のやりくりが大変で仕方ないんだよね」

「それが分かっているなら、きちんと予定通りに行動していただきたいのですが」

「……ごめんって」


 それでようやっと、張り詰めていた場の雰囲気が若干和んだ。

 ちょっと怖がらせてしまったろうか?

 そう思ったものの、彼女の事情も事情だし、俺たちが雇うしかないわけで……。


「父上は病の療養中でここではなく、馬車で一日ほど離れたバンスという街の別邸にいる。

 セイバーン村には居着きの医師がいないから。

 兄上と異母様は、月の半分をその別邸で過ごしているし、そうそう接点はないし……何かあったとしても、必ず俺たちが守るから」


 サヤを傷付けるようなことは、絶対にさせないと、言葉にはせず心で誓う。

 サヤは少し考えてから「お力になれるよう、頑張ります」と、拳を握っている。

 ……分かってるのかな? 一応危機感は持っておいてほしいってことなんだけども……。

 まぁ……急に全部把握しろってのも無理か。


「サヤが仕事を手伝ってくれるのは、正直とても有難いんだ。

 これでちょっとはこいつも怒りっぽくならなくて済むかもしれないし……。いやはい、分かってる……俺が怒らせるようなことしなきゃいいんだって分かってるよ。

 あと……ああ、住み込みになるから、まずは部屋を決めてもらおう。

 今日中に部屋を整理しなきゃ、サヤが夜寝る場所に困ることになるよな」


 思いつきのまま発言したのだけど、サヤが、慌てた様に口を挟んだ。


「えっ? ここに、住むんですか⁉︎」


 俺とハインを見比べて、何か言いたげに口を開きかけてから、また止める。

 あ、そうか……。まあ、そうだよな。でも、一人暮らしはとてもじゃないがお勧めできない。特に女性は。兄上に知れたら何が起こるか分からない。

 だからあえて、ここに住むことを決定事項として伝えることにした。


「うん。ハインもここに住んでるしね。

 元々が使用人達の住居だから、部屋は多いし、かなり余ってるから大丈夫だよ。

 あ、ちゃんと鍵のかかる部屋だから安心して」


 そう言うと、心なしかホッとした顔をするサヤ。「そっか。マンションみたいなものですよね……」と自分で納得していたが、マンションが分からないのでなんとも言えない。

 まあなぁ。他人の男二人と一緒の場所に住めって言われたらびっくりするか。

 けれど鍵で納得してくれるなら良かった。

 俺はこれでこの話を終了するつもりだったが、ハインがまた口を挟む。


「サヤのいた場所ではどうかは知りませんが、成人前の女性が、一人で暮らすのはお勧めしませんよ。

 特に、この村には危険な男がおりますので、あなたは一人暮らしすべきではない」

「き、危険な男?」


 ……ああもう!


「順を追って説明しようと思ってるのに、なんでそう先々喋るんだ!」

「ここで言わずいつ説明するんですか。

 サヤ、この村に家を借りること自体は可能です。

 しかし当然私たちの目が届かないので、不埒者に襲われても対処できません。

 私やレイシール様と共にいれば、貴族に仕えるということ自体が貴女の保身や信用となりますし、なによりその危険な男は側に来ないのです」


 危険に一番近い場所ですが、一番安全なんですよと、ハインが言う。

 俺は頭を掻き毟ってから大きく溜息を吐いた。

 そりゃまあ、ちゃんと伝えなきゃいけない事なんだけど……なんだけど……まずは部屋を用意して、きちんと安心して眠れる場所を確保してからにしようよ……。でないと、サヤの気を抜ける空間が無いじゃないか。

 こういう繊細な話は、ちゃんと逃げ込める場所を確保してからにすべきだろ。

 そう思っていたのだが、サヤは不安だけ煽られているような状況だ。半泣きで俺を見てくるから、仕方なく先に説明をすることにした。


「そう……。ここに居てもらうのが、一番安全だと思ったんだ。

 俺とハインの目が届く場所なら、万が一の場合も介入できるから。

 ……ハインの言う危険な男というのはね、俺の、兄上のことなんだ……」


 ついでだ。

 兄上についても説明しておく。


 フェルナン・ジェスル・セイバーンという名の兄上は、現在二十七歳。

 既に成人しているのだが、精神的に安定していない人だ。

 基本、酒の入っていない時は大人しい。気怠げで、周りにも興味ない様子でいることが多い。

 だが、酒を飲むと暴力的になる。特に女性に対して酷く、手を挙げる程度は日常茶飯事。あの人は……何故か女性を支配しようとする節があるのだ。

 俺は六歳からここを離れ学舎に入ったので、兄がどうしてそのようになったかは解らない。

 

 子供の頃から暴力的ではあったのだけれどな……。

 

 そこまで考え、過去の記憶を引き出しそうになって、慌てて蓋をした。

 そこは今、関係ないから……。


「兄上は、ハインが関わってくるような事態は望んでいないというか……ここには来ないから、安全なんだよ」

 その……前にちょっと、やらかしたことがあるのだ……。

 

 異母様方が、俺やハインを遠避けるようになった事件がある。

 それはここに帰ってまだ二ヶ月かそこいらの、二年前の今頃のことだった。

 その頃俺たちは領主の館に住んでいた。そう、あの無骨な館。あそこの隅にではあったけれど、部屋を与えられていたんだ。


 普段はなかなか来客などない田舎のセイバーンなんだけど、あるお客様がいらっしゃった折の晩餐で、一応体裁的に俺の出席を許していた異母様が、俺に退室を促したとき、それは起きた。

 そのまま挨拶だけ済ませて退室するはずだったのだが、その間際に兄上が急に怒り出し、女中を殴りつけたのだ。

 前後は全く解らなかったのだが、兄上の暴力は一度では済まず、女中が転倒しても更に拳を振り上げたので、とっさに俺がそれを庇ってしまった。どうやらそれが逆鱗に触れてしまったのだ。

 兄上が激昂し、意味不明のことを怒鳴り散らしながら食事に使っていた小刀を振り上げ俺を切りつけ、それでハインがブチ切れて、兄上を叩きのめしてしまい、更に異母様がブチ切れるという……もうどうしようもない修羅場だった。

 俺は痛みと失血で朦朧(もうろう)としてるし、ハインは半狂乱だし、異母様はハインを殺せとか喚いてるし……。お客様ほったらかして何してるんだって状況だよ。

 とにかく俺は必死でハインに落ち着くように言って、お客様が俺の止血をして下さり、その場を納めるよう指示を飛ばしてくださって、なんとか落ち着いた。


 俺の傷はそれなりに深く出血も多かったので、その後呼び寄せた医師に二週間の安静を言い渡された。

 当初、ハインも投獄されていたのだけど、寝込んだ俺の世話をする者がいなかったので、投獄は三日で解消。

 本来なら、ハインは解雇だろうし、下手したら命も無い。理由はどうあれ貴族に怪我をさせるようなことをしでかしたのだから。

 だが、お客様の計らいもあり、それだけは免れた。


 ただ、兄上に躊躇(ちゅうちょ)なく手を出したハインをそのまま傍に置いておく気もなかったようだ。

 こいつら危険という判断が下され、怪我の完治と同時に館の部屋から物置になっていた、この元使用人用住居に俺たちの生活圏が移されたわけだ。


「文字通り、怪我の功名だったと思ってるけどね。

 正直、本館で生活するのは息が詰まりそうだったし。

 俺たちが本館にいたら、使用人は俺にも気を使わなきゃいけない。だけど、それをすると兄上や異母様は快く思わない……。更に兄上の逆鱗に触れる機会が増えるしで、いいことなかったんだ。

 ここは本館から程々離れてるし、生活に必要なものは一通り揃っている。使用人も来ないから、誰にとっても平和なんだよね」


 帰還した当初、酒が入る度に絡んできていた兄上も、あの事件以来滅多に来なくなった。生活の場が離れ、館内で鉢合わせすることもなくなったし、そもそもハインを避けているようなのだ。

 酒を飲むと記憶が飛ぶことの多い兄上が、こればかりは忘れなかったということだろう。


「まあそんなわけだから、今はここが一番安全なんだよ。

 ここに移ってからは兄上も異母様も、一度もいらっしゃってない。

 まずは落ち着くまででも良いからここで生活して、この世界の習慣に慣れたら、その後どうするかを決めたら良いと思うんだ。

 きっとサヤのいた場所とは違うもの、解らないことが沢山あると思う。

 俺たちになら、遠慮なくそれを聞けるだろう?」


 村や街で生活するにしても、一般常識は必要だ。

 あまりに当たり前のことを周りに聞くと怪しまれると思う。

 だが俺たちなら事情を分かっているから、こっそり教えてやることも、それとなく庇ってやることもできる。

 一生懸命、そのように説明すると、サヤは納得できたのだろう。こくりと頷いてくれた。


「解りました。よろしくお願いします。

 その……本当に、色々考えて下さって、ありがとうございます」


 まだ不安は多々あるだろうけれど、それでもそう言って微笑んでくれる。

 なんか慣れないな……そんな風に感謝してもらうことじゃないと思うし……。

 逆に落ち着かなくって、俺が戸惑ってしまった。だってまず、笑顔が眩しい。同年代の女性は学舎にはいなかったし、仕事以外で女性と口をきくことも滅多にない。

 よくよく考えたら、挨拶以外の普通の会話をしたのも初めてかもしれない。それに気付いてしまって、さらに落ち着かなくなってしまった。


「いやいや、そんな畏まらなくて良いから。

 じゃあハイン、とりあえず、まず部屋を決めよう。他にも沢山説明しなきゃいけないけど、手を動かしながらでもそれはできる。ここの中も一通り案内して回ったほうが良いよな」


 照れ隠しにそう言うと、ハインは即了解してくれた。


「そうですね。ではまずはここの説明と案内をしましょう。

 玄関に戻りますよ。そこからです」


 スタスタと扉に向かう。

 サヤについて行くように言い、俺も席を立った。

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いやぁ……お兄さんのフェルナンさん、私の想像以上に危険人物だった!(; ゜Д゜) 今はこの別館で見つからないように過ごすしかないけど、いつか目を付けられて面倒なことになりそうな嫌な予感がします(。>_…
[一言] マヨネーズは卵の衛生状態が良くなければ作ってすぐ食すと食中毒になる 少なくともマヨネーズを作って常温で1昼夜滅菌時間が必要 また新鮮な卵=安全というわけでは無い 近代レベルでも殻を洗浄しても…
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