舞
呆気にとられる俺たちから数歩ぶん距離を取り、こちらに向き直る。
右手を握り込み、腰のあたりに固定、左手は開いたまま、すっと前に出して、右脚を引き、腰を落とす。ふうっと息を吐くと、急に空気がピリッと鳴ったような気がした。
瞳を閉じ、深く呼吸を繰り返してから開く。すると、眼光までもが鋭くなっている。
ハインが、すっと俺の横に移動。警戒したのだ。俺を守るために距離を詰めたのだと分かる。
けれど、俺は別に身の危険を感じてはいなかった。彼女の雰囲気は一変したけれど、危険な様子はない。
何故かとても美しくて、目を離せなかった。凛として綺麗な彼女から。
そして、フッと鋭く息を吐くと同時に、サヤは動いた。
拳が空を裂き突き出され、脚が高く上がり空間を薙ぐ。体を捻りながらさらに身を屈め、また拳が振るわれる。黒髪がフワリと広がって、身体の動きを追って跳ねる。
まるで舞のようだった。剣技で言うところの型のようなものなんだろう。
飛び跳ねたり蹴り上げたり、流れるように動く。
まさか、素手の武術⁉︎
と、いきなりハインが動いた。
腰の剣を鞘ごと引き抜き、あろうことかサヤに向けて踏み込み、振り下ろしたのだ。
「ハイン⁉︎」
制止の声は無視され、剣は過たず、サヤに迫る。
ハインが本気で攻撃したのが分かった。容赦も遠慮もない速さ。俺は横からだから見えているけれど、サヤは……っ。
しかし彼女は、急な展開だろうに悲鳴をあげるでもなく、弾むように右に半歩だけ身体を外し、身を捻るようにしながら左の拳の甲で剣の腹を弾く。
ビシッという音。
「⁉︎」
そこで彼女の舞は終わった。
左の拳はハインの剣の軌道を逸らし、受け止めている。が、たいした衝撃も受けていない様子。器用なことに、打撃の重みは流してしまったらしい。
そして右の拳がハインの顔の手前、顎から紙一重で止められていた。剣を弾くと同時に、一気に距離を詰め、一撃を繰り出していたようだ。一瞬すぎて、全然分からなかったが……。
流石のハインも驚いたのだろう。動くに動けないでいるのが分かる。
俺も驚きのあまり、声すら出なかった。
言っておくけど、ハインはそこそこ強いんだよ? これのどこが素人よりマシな程度⁉︎
だが、驚いたのは俺たちだけではなかったらしい。
「わっ、嘘⁉︎ ごめんなさいっ、なんか身体がやたらと軽かったというか……っ、絶好調だったみたいです! 申し訳ありませんっ」
サヤは両手ををささっと背中に引いた。若干腰も引けている。今までの気迫が嘘のように霧散してしまって、申し訳なさそうに眉と頭を下げる。
いや、先に手を出したのはハインなんだから、どちらかというと君はハインを責めて良いと思うんだ。
そう言おうと口を開きかけた俺の目の前で、もうひとつ信じられないことが起こった。
なんと、ハインの剣が真ん中からパキンと折れて落ちた。鞘ごと。
「…………」
「ぅうえぇ⁉︎」
「ひああぁぁ⁉︎ な、なんで、なんで⁉︎」
ハインは呆然と言葉を失い、俺は意味のない奇声を上げることしかできず、サヤは泣きそうな顔で大混乱。
ないないない、だってこれ鉄製だよ? 拳で叩いて折れるようなもんじゃないからね⁉︎
「お、落ち着こう。きっとあれだ、剣が古かったんだ。たまたまだよ、うん、たまたまっ」
「そ、そう? ですよね! 金属なのに叩いて折れるっておかしいですよね!」
「失礼な。確かに長年使っておりますが、手入れはきちんとしてますし、つい先日も研ぎに出しましたし、充分使用に耐えうるものですよ」
一生懸命現実を飲み込もうとしているのにハインが否定する。
鞘から剣を引き抜くと、見事に中程から先が無かった。
いきなり強力な負荷が掛かったのだと分かる。曲がりもせず、きっちり綺麗に、まるで切り取られたかのように折れているのだ。
ハインの言葉通り、ちゃんと手入れの行き届いた曇りも錆もない刀身。
鞘の方はというと、こちらは多少破片も飛び散っているようだ。というか指の形に凹んでいたりもする。これも鉄製です。
恐る恐る剣の有様を覗き込む俺とサヤをさせるがままにして、ハインは剣をひっくり返したり、断面を見たり。そして暫く考えた後……。
「もうひとつ気になっていたのですが……先ほどサヤは、我々の話が普通に聞こえていたと言いましたね?
初めの方の、怒鳴り合いならまだしも……全て聞こえていたのですか?」
「え? はい……多少聞き取りにくくはありましたけど……聞こえてました」
「レイシール様、窓の外に出て、こちらに背を向けたまま、何かを喋っていただけますか」
急に話を変えたハインの意図が分からない。
あえて現実逃避してみました。と、いうわけでもないだろうし……?
とりあえず、言われた通り、露台に出て窓を閉め、ハイン達の方に背中を向けたまま「ハインはいつも顔が怖い」と呟く。怖いので結構な小声で。
そして振り返ると、歪んだ窓硝子の向こうで、サヤが明らかに困った顔をしていた。
窓を開け、室内に戻る。
「やってきたけど?」
「私には何も聞こえませんでした。サヤは?」
「……き……聞こえました……」
ちらりと俺を見て、ハインを見て、なんでそんな事を言ったの⁉︎ と言いたげな顔。
答え合わせをするよう促すハインに。
「……い、良いんですか?」
俺がこくんと頷くと、サヤさんは絞り出すような小さな声で……。
「ハインはぃつもかぉがこわぃ……」
「ほぉ」
「うん、正解」
凄い。あんな小さな声が本当に聞こえたんだ。
初めはびっくり、ただ凄いとだけ思った。だがよくよく考えてみると、なんか変だぞと気付く。
だって俺は、相当小声で言った。しかも窓に背を向けて。ましてや――。
「サヤはハインより後ろにいたのに……聞こえた?」
三人でしばし沈黙した。
到底、聞こえないような声を聞き取り、鉄の鞘に入った剣を拳で叩き折る。
これは、彼女が異界の人間だから?
サヤを見ると、何か怯えたかのように俯き、青い顔をしている。
剣を折った時も驚いていた。
あれが演技だとは思えない……。
「一応聞くけど……サヤは鉄を折ったのは、はじめて?」
「は、はい! ありえないです!
さっきも言った通り、私は二段……十段階ある階級の、たった二つ目なん。
師範は、昇級試験受けるかて言うてくれてはったけど……師範かて鉄を叩き折るとか、できると思えへん!」
おろおろととサヤが答える。気持ちに揺らぎがあるためか、言葉遣いに気を回す余裕もないようだ。
俺は、サヤを泉から引き上げた瞬間のことを、思い出していた。
泉から出た手を、俺は右手で握った。そう、左手は泉の岸についていたはずだ。
全力で、力一杯引いた。そうしたらスルッと抵抗もなく一気に持ち上がって、水面を離れた瞬間にぐいと腕を引かれたような負荷がかかった。それまで俺は、重さを何も感じていなかった……。
握力の弱い右手だったのに。
「うん。とりあえずあれだ。
サヤのいた場所と、こことでは、何かが違うってことで良いんじゃないかな」
違う世界からやって来たというサヤの不思議。
全く違う世界と言葉が通じる不思議。
サヤは夕方と言っていたのに、今は朝だという不思議。
理由を探したってどうせ分からない。そして、今さらそれが増えたってなんだというのか。
「サヤにとって良いことだと思おう。
人より秀でた能力は、あって損はないさ」
そう言うとサヤは、少し驚いたみたいに瞳をこちらに向けた。
「え……アマゾネスとか、狂戦士とか、……キモい、とか、怖いとか……思わへん?」
そしてまた出てくる謎の呪文。
「アマゾネス……それも謎の単語だ。
でも、狂戦士は違うんじゃない? サヤは別に、戦場に身を置きたいわけじゃないだろう?」
「う、うん……別に、敢えて戦いたないし……」
「ほら、じゃあ違う。それからキモいって気持ち悪いのこと?
いやいや、それはないよ。サヤは可愛いとか綺麗とか、そんな分類だ。
怖いっていうのは……こんな感じだ」
「……左様ですか」
ハインを指差すと、いつもの眼力でギロリと睨まれた。
うん。怖い。
「そんなことより、重要なことを思い出したんだ。
朝食! もういい加減、食べさせてくれ! こんなんじゃ頭も働かないと思う!」
サヤの気持ちを切り替えさせよう。色々なことが起こりすぎているから、これ以上追い詰めたくない。
そう思って、食事と、休息を取ろうと提案した。
俺の主張に、ハインがポンと手を打つ。
「そうでした。サヤ、手伝ってください。貴女の分も用意しなくてはいけませんから」
返事も待たずにスタスタ行ってしまうハインに、サヤは「え? あっ……は、はいっ」と、とりあえず従うことにしたようだ。後を追って、部屋を出て行く。
それを見届けてから、俺は長椅子にどさりと身を投げた。
落ち着きたかったのは、俺も一緒。
なんなんだ……今日はいったい何が起こってるんだ……。
嫌な夢を見て飛び起きて、泉に行って不思議な少女を拾って、その少女が異界の人間で、鉄を素手で折ったり妙に耳が良かったり……ここまで盛り込んでまだ朝とか!
はぁ……と、溜息を吐いて、暖炉横の衝立に視線をやる。
……片付けなきゃ。ハインもサヤも行ってしまったし……。
そう思いつつ立ち上がり、衝立を畳んでいくと、濡れた服が、きっちり整頓され籠の中に収めてあった。
貸した俺の上着が一番上に、綺麗に畳まれている。
律儀だなぁと思うと同時に、サヤの面差しと、艶やかな黒髪が脳裏をよぎる。
……異界の人間は、皆あんなふうに美しいのだろうか……。
泣いていたのに、俺を慮る優しさを持っていて、苦境にあっても、強く立とうとする。
そして微笑んだ時、本当に綺麗で可愛くて……なのに、出会ってから今まで、彼女を悲しませてばかり。
雇うと決めたからには、俺は彼女を守らなければならない。
いつかサヤが、故郷に帰れるその日まで。
「……守る。絶対に、絶対に…………」
震える手を、握り込んで誤魔化した。
サヤは女性だ。だから尚のこと、たとえ護身のためでも、兄上に手を出させるわけにはいかない。俺は妾の子で、兄上は跡継ぎ。立場が違うから、正当防衛であってもこちらが不利になる。
「そんな危険に、サヤを晒しちゃ駄目だ……」
兄上に会わせちゃ駄目だ。そうなるしかないとしても、必ず俺が、盾になる。
でも始終俺が付いて回るわけにもいかないよな……。
そう考えると背に冷汗が伝った。
やっぱり、雇うべきじゃなかったかな……。
例えばそう、信頼できる人……ギルに事情を話して預けるとか……その方が、彼女のためには……。
「いや……あの泉から出てきたんだ。帰り道もあそこかもしれない……。
だからここを離れてしまったら、良くないよな……」
言い訳するように自分で呟いて、誤魔化すために思考を切り替えた。
「……朝食食べてから考えよう。今は頭働かない……」
結局衝立を畳んだだけで、片付けも保留にして、俺は部屋を出る。
一階の食堂に向かうのだ。
ハインのことだから、そろそろ降りないとまた顔が怖くなるに違いないのだから。
ほどなく、汁物の良い香りが鼻腔に届く。俺の腹が、思い出したかのようにきゅうと鳴った。