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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第十九章
513/515

猛毒と策謀

 雪原を四つ脚で駆ける狼に、人の脚が敵うはずもない。

 木々の間を縫うように走っていたアレクだったけれど、雪原に抜けるとすぐアイルに回り込まれ、俺に背後を取られて足を止めた。

 それは、まだ彼方で争う声が届く程度の場所。現状は、たったそれだけの距離を稼ぐことしか許さなかった。


 広の視点に動くものは無い。

 雪も降らず、風すら凪いだ雪原は、隠れる場所も、隙も、与えてくれない。

 俺の前に立つ背中は、激しく肩を上下させ、白い息を吐いていた。


「フェルディナンド様」

「その名を呼ぶな!」


 乱れた呼吸を整えるのもままならぬ状況のアレクが、振り返りざま、そう叫ぶ。

 怒りに振り切れた表情が、呪い殺そうとでもするかのように、俺を見た。

 俺はウォルテールから降りて、アレクの前に立ち、彼と向き合った。


「ではアレク、もう抵抗は無駄だと理解してほしい。

 ジェスルからの進軍は、国軍が到着、対応しているそうだし、国境沿いの別働隊も既に規模を把握されている。

 貴方の策謀は、もうどう足掻いても実を結ばない。

 なにより……陛下のご出産がもう、お前の計画を狂わせていたはずだ」


 その言葉を掻き消すように、アレクは「あああぁぁぁ!」と、吠え。

 そして俺に向かい短剣を振り被り、襲い掛かった。


 けれど、公爵家貴族たる教育を受けていたであろうアレクは、短剣の扱いになど慣れていないのだと、その動きを見るだけで明白で……。

 突きだされた短剣を、体捌きで避け、その隙に腰から抜いた短剣で、次を受ける。背側の切れ込みに刃の部分を絡めて捻ると、呆気なくアレクの手から奪えた。

 けれどそれは陽動。

 アレクは左手で腰帯から引き抜いた小刀を、更に俺の顔へ突き立てようと振るったけれど、それも右の籠手で受け、踏み込まれていた左脚を俺の右足で払うと、あっさり雪原に転がってしまう。


 その腹を、ウォルテールの脚が踏み、更にアイルの足が、利き腕であろう右腕を踏みつける。アイルの持つ短剣が、アレクの首の上に掲げられた。

 左腕は、俺が足で踏み、動きを封じる。

 抵抗できなくなったアレクは、粗い呼吸を暫く繰り返していたけれど……。


「さっさと殺れ!」


 そう叫び、ぐっと腕に力を込めたが、腕の自由は取り戻せなかった……。


「くそっ」


 そして、自暴自棄なのだろう。全身の力を抜いた。

 フウゥ……と、ひとつ。長い息を吐き。


「……まず何から始めるんだ。俺の右手を斬り飛ばすのか?」


 皮肉げな口調でそういい、ハッと嘲笑う。


「そんなことはしない……」

「すりゃ良いだろ。されたことを返せ! 当然の権利だろう⁉︎

 お前のその、何をされても人を恨めませんみたいな善人面は、ほんっと毎回反吐が出そうになる。

 俺は、この屈辱を忘れない。動ける限り、取り返しに行くぞ。お前から奪う。この世から奪う! 分かってるだろう⁉︎」

「うん」


 灯りのない闇の中でも、アレクの白い輪郭はよく見えた。表情はぼやけていたけれど、考えているであろうことは、踏みつけた腕から這い上がってくるみたいに、理解できる。

 もうこの後には、死しか残されていないと、アレクは理解している。

 そしてやっと……このくだらないことを考え続ける人生から解放されるのだと、どこかで安堵している……。


 人というのは、ひとつの感情を長く維持できる生き物ではない……と、俺は思う。

 どんな喜びも、悲しみも、苦しみも、時間と共に慣れ、薄らぎ、起こったことのひとつとしてでしか認識できなくなっていく。

 だけどアレクは、その感情を無理やり繋ぎ止めてきた。恨まないと生きてこれず、今からだって、憎まないと生きていけない。

 それを辞められるのは、来世に旅立った時だけなのだと、決めている。

 辛くて苦しい人生に、そうやってしがみついて来た。


「俺がどう言葉を尽くそうと、貴方に俺の気持ちは届かないし、理解し合うこともできないと、分かっている」


 そう言うと、クッと口角が持ち上がり、引き攣ったような、乾いた笑い声が闇に響いた。

 俺に説得を諦めさせたことが愉快なのだろう。

 この綺麗事だらけの男を歪ませてやった。ざまあみろ! と、そんなことを思ってる。


 でもエルピディオ様は……そんな貴方でも、生きていてほしいんだ。


 俺もそう思ってる。

 あなたの言う通り、綺麗事だらけの俺は、これだけのことをされても、俺の人生からこれ以上を、失いたくない。貴方だって、失いたくない。

 今は恨みや苦しみにしか目が向かなくても、いつかそれ以外に気付いてくれる日が来ると、性懲りもなく思ってる。

 その時が来たら、自分のして来たことの本当の意味に、貴方は死にたいと思うほど苦しむことになるだろうけれど、その時は、共に支え合っていけば良いと……。


 それが貴方の言う綺麗事だということも、理解しているけれど……。


「俺は、そんな生半可な方法で、お前を楽にしてやる気はない」


 敢えてそう口にした。

 アレクは慈悲や赦しなど求めていないし、それを与えたところで、彼を反省させることすらできないと、分かっている。

 貴方は、いちいち手緩い俺にできるのは、せいぜい嘆きながら、恨みきれない貴方を殺し、生涯苦悩することだと、そう思っているんだよな。


 だけど俺だってね、もうそれだけではない。

 貴方を傷つける方法は、貴方から得てきた。学んできたよ。


 だから、今までアレクがそうしてきたように俺は、本当の気持ちに仮面を被った。

 うっすらと微笑み、アレクの心を踏み躙り、折るために、言葉を尽くす。

 俺は彼にとって、悪魔でなければいけない。


「アレク……良いことを教えてあげよう。

 エルピディオ様はね……ずーっと、知ってらっしゃったんだよ。アレクが、誰か」


 そう言うと、閉ざされていたアレクの瞳が開いた。

 暫く虚空を彷徨った視線が、言葉を上手く聞き取れなかったとでもいうように、疑問だらけで、俺を見る。

 その瞳を覗き込み、俺はそこに、毒を流し込む。


「初めから、全部分かっていたんだよ。貴方が誰か。

 だけどそれを認めてしまえば、貴方はまた、死ななきゃならない。

 フェルディナンド・ディルミ・オゼロは、存在を抹消されてなければならなかった。

 だから、貴方が誰か知っていることを、世間の誰にも、絶対に悟られてはいけなかったんだ。当然、貴方にすらね。

 エルピディオ様は、貴方を愛していたから。祖父だと名乗れなくても、死んだことにしてでも、貴方に生きていてほしかったんだよ」


 愛していた……。

 大嫌いなその言葉に、(まなじり)が吊り上がる。

 でも、俺の言葉の真偽から、意識が外せない。こいつは何を言っている? 今度はなんの懐柔作戦で来たんだ?

 甘ったれのこいつらしい、反吐が出そうな言葉選びだ。だが、知っていたとはどういうことだ? そんなはずはない。何故なら俺を自ら手に掛けたのは……。


「だって、アレクを神殿に預けたのも、他ならぬエルピディオ様だもの」


 アレクの思考の隙をついてそう言葉を織り込むと、アレクの瞳は俺を見据えて固まった。


「秩序と民の生活を守るために、一度は殺した。同席した部下たちも、フェルディナンドは死んだのだと、その目で認めた。

 だけどお前は息を吹き返したんだ。

 そのお前を、もう一度殺すなんてできなかった。どんな形でだって良いから、怨まれて良いから、生きてほしかった。

 幸いにも、気付いた者は他にいない。エルピディオ様が口外しなければ。

 それでお前は手厚く治療されて、神殿で意識を取り戻したんだよ。

 エルピディオ様は、まさか神殿が、自分に孫を殺させた相手だなんて、知らなかったからね」


 面会を求めて来た俺に、エルピディオ様は会ってくれた。

 アレクの正体を語る俺に、何故それを、どこで知ったと、そう言ったよ。

 俺の語ったことに、涙を流して苦悩された。

 それでも貴方をなんとかして守りたいと、一度は俺を消すことまで脳裏によぎらせたし、エルピディオ様自身が貴方と差し違えることだって、考えたんだ。


 だから提案した。

 どんな形であっても、構わないか。と……。


 貴方を死なせない。国の不利益にもならない。そうできる策を、用意しますと。

 恩義あるエルピディオ様に、俺が返せるものは、これしかないと思った。

 陛下を納得させ、神殿の力を削ぎ、アレクを死なせない。

 これは、そのための一手。


「なぁアレク、お前はずーっと踊らされていたんだよ。

 神殿は当然知っていたのに、お前を駒に育てるために、この事実を隠蔽して、お前はそれに気付かなかったんだ」



 ◆



 実際のところがどうだったかなんて、俺には分からなかった。

 けれどアレクがエルピディオ様を恨み、神殿を恨み、世を恨んでいることは理解している。

 だから俺は、アレクの苦悩しつつも足掻き、生きて来た時間を、全否定することから始めた。


「神殿からはどう聞いていたんだ?

 オゼロに殺されたお前に息があったから、隠して守ってきたのだとでも、言われたのか?

 それとも神殿の息がかかっていた父親が、お前を必死で守り、逃したとか? まぁ、都合良いように言われていたろうね。

 そもそも意識の無かったうえ、世事にも疎かった子供のお前には、それを確かめる術など無かったのだもの」


 追い詰められ、自暴自棄になっていたところを俺につけ込まれたアレクの心は、無防備だった。

 エルピディオ様から聞き出した当時のことと、アレクの反応から、少しずつ心を削ぎ、抉り、深くに潜り込んでいくことを意識する。


「お前の出世が早かったのも、その白色と、高貴な身体を売り込んだからだけじゃないよ。

 お前に流れる血の価値と、お前のためにと続けられたオゼロからの莫大な寄進。それがお前の背を支えていたからだ。

 ずっと一人で足掻いて来た。食らい付いて来たと思っていたのか?

 神殿社会が地位に縛られた社会だということ、知っていたろう?

 けれど、幼くて世間知らずな上位貴族のおぼっちゃまだったアレクには、そんなことを理解しろなんて、酷な話だったよな」


 呆然と聞いていたアレクは、そこでハッと我に返った。

 黙れと鋭く言葉を吐くが、足で踏みつけられて抵抗を封じられたその姿に、そんな抑止力などあろうはずがない。


「白くなってしまったその髪も、神殿にとっては好都合だったろう。

 公爵家の血を引くお前は、王家の血も引いている……その上で後天的にとはいえ、白髪を得た。

 だから機が巡ってくれば、お前自身がそれを言い出さなくとも、神殿は祭り上げるつもりでいたろうな。

 だけどお前はまんまと策にはまって、オゼロを憎んだ」


 ある日急に祖父に斬られ、両親どころか己の存在すら失くした。意識が戻ってみれば知らない場所で痛みに耐える日々。名前も地位も、それまでの色すら失くなって。

 そんな状況で、まともな判断などできるはずがないではないか。

 苦しかったろう。優しかった祖父を知るだけに、そうされた理由すら分からず、憎むことも恨むこともはじめは、難しかった。

 どこに心を置けば良いか、分からなかった。当然だ。


「分かるよ。そうでもしなきゃ、壊してしまいそうだったのだって。

 心も身体も、他人に好き勝手にされるのだもの。普通では耐えられないさ」


 傷が癒たら今度は、その幼い身体を弄ばれる日々が待っていた。

 信仰とは名ばかりの、性欲のはけ口にされる日常だ。

 公爵家の血を、組み敷きねじ伏せる。貴族社会で地位を巡る争いに負けた者らの巣窟である神殿社会は、その鬱憤の吐口を、お前にも当然のように求めた。

 更に白い髪が、神に近い身体だと、信仰を深めるためだと、言い訳する理由すら与えた。

 けれど、力で捩じ伏せられ、嬲りものにされていることに変わりはない。

 それはお前自身が、一番よく分かっていた。


 生き残ったことを後悔したろう。だけど死ねない。もう一度あの痛みを、苦しみを、越えなければならない。嫌だ、怖い、死にたくなどない!

 だから必死で、考え方を改めた。都合が良いのだと、そうすり替えるしかなかった。


 この色が使えるなら、利用しよう。

 上に這い上がるために、何だって使おう。

 そして最上段に上り詰めたら、そこから世の中を蹴り倒し、踏み躙ってやろう。

 されたことをそのまま全部、何倍にもして、返してやる。


 心を寄せて、気持ちを引き込み、己に刻んだ。

 実際体験してないことだから、本当の意味では分かってやれない。

 だけど、たった一人で抱えることからだけは、救ってやれる。

 お前の全部を俺は知っているのだと、そう思い込め。

 隠せないのだと、隠さなくて良いのだと、理解しろ。


「運が巡ってきたと……そう思ったよな。サヤのことを知った時は。

 千載一遇の好機! アミは運命の歯車を廻してくれたと、歓喜したろう?

 この素晴らしい叡智を手に入れたい。そう思った。

 裏の神殿の汚泥に深く身を浸していたお前は、もう神殿の本当の顔も、知っていた。

 そこで俺のことも知った。なんだか似たような奴がいるとでも、思ったか?

 だけど知れば知るほど腹が立った。

 自分と違い、こいつはどこまで恵まれ、甘やかされていることか。

 だがどうでも良い。利用する駒の生い立ちに、拘る必要は無い。そう思った。

 だのに侮っていた俺に、最も見せたくなかったものを見られてしまった。

 必死で受け入れ、足掻いて生きて来た方法を、頭ごなしに否定されてしまったのだものな」


 何も知らないくせに、汚いものから身を引くように、そんなことはするな。と、言いやがった。


「だから俺から奪ってやろうと思ったのか?

 地位も、生活も、右手も、友も、愛する人も。命も……。

 だけど残念だったね。せっかく追い詰めたと思っても、幾度となく逃げられてしまった。

 苛ついたろう。サヤのことがどうでも良くなるくらい、俺が憎くなったのだものな。

 だから、ウォルテールを使って、足がつく危険を冒してまで、俺を狩ろうとした。

 ついでに、俺に獣人らが寄せる信頼も、踏み躙ろうとしたろう?

 なのに絆が切れなかった。それどころか、己の駒(ウォルテール)まで奪われてしまった」


 憤怒に歪んだ表情を見下ろし、踏みつけた腕に、体重を掛ける。

 柔らかい雪にずぶりと腕が沈む。それでも更に、踵を押し込む。

 骨を踏み砕くほどに。

 痛みで歪んだ顔を、じっくりと見下ろして、涙は心の奥に仕舞い込んだ。


「なぁアレク、お前の人生は、全部人に弄ばれて終わるな」


 痛みより、怒りが上回る。

 ぐっと腕に力が篭るけれど、足は緩めなかった。


「祖父にも、神殿にも、何一つ思い知らせてやれず、お前は蜥蜴の尻尾みたいに切り捨てられて終わる。

 まぁお前がして来たことが、お前に返るだけ。

 お前が言う通り、当然の権利が振るわれたに過ぎない。

 だけどお前自身は、その当然の権利すら振るえず、終わる……なんて理不尽だろう。なんとも情けない、人には許されて、お前には許されない権利があるなんて!」


 ぶるぶると震える腕。砕けそうなほどに食いしばり、噛み千切られた唇。


「無駄に足掻いただけの人生だ」


 腰を折って、その顔を上から覗き込んだ。腕に更に、体重を掛ける。

 俺の言葉に心を抉られ、深い傷に杭を撃ち込まれ、更なる絶望に縫い留められて。


「悔しい?」


 口角を引き上げて、目尻を下げて、全身全霊の笑顔を振り絞る。


「ならばひとつ、俺と取引してみるかい?」


 膝を折り曲げしゃがみ込んで、顔を近づけて、腕にぐっと、体重を乗せた。


「お前を、俺が、神殿の頂点に据えてあげよう。

 お前にその無駄な三十数年を味わわせた神殿を、踏み躙る機会を与えてあげる」


 他人に使われ、弄ばれるだけだったお前の人生を、更に俺が使って、踏み躙ってやろう。


「どうする? このままお前が、何も成さず、得られず、無駄でしかないその人生を終えたって、どうでも良いけどね。

 ここでお前を殺さずとも、お前は神殿に責任を押し付けられて、切り捨てられて終わる。

 ほんの数ヶ月から数年、更に汚くもがいて、結局何もできず、終わる」


 そんなのは嫌だと、そう思っているのは、その瞳で分かっている。

 苦しくてもしがみついてきた生だ。もう一度、食らいつけ。足掻け。俺を踏み躙りに帰ってこい。


「俺如きに、そんな権限は無いと?

 いいや、あるんだよ。俺は、その方法を持っている。

 欲しいか? 今のお前の地位なら振るえる、とっておきの武器なんだ。

 信じられない? お前を組み敷いて肉欲を満たし、笑って説法を説いてきた奴らを、思う存分にいたぶれることくらいは、保証できるけどね」


 司教まで上り詰めてしまったお前は、あの大司教で行き止まりだろう?

 それを踏みつけて、更に上に行けるよと、俺は彼の耳に、言葉の毒を、注ぎ込む。


「俺に返事は必要ない。帰って、言われた通りを実行してみれば良い。

 そうすれば、王家から返事が返る」


 その時が、お前が神殿の頂点に脚をかける時だ。



 ◆



 アレクを解放し、逃げる背中を見えなくなるまで見送ってから、踵を返した。

 俺の後ろをついてくるアイルも、喋れない狼姿のウォルテールたちも、当然無言。

 ウォルテールに乗って駆けた距離を、脚を引きずってゆっくりと歩き、その間に心を落ち着けた。

 まばらな木々の間を縫って、赤々と燃える松明がいくつも立った、屋敷の跡地へと戻ってきた。

 そこももう、戦いは終わっており、生き残った影らは縛られ、死体も集め、荷車に積み重ねられ、血に染まった雪すら埋める処置が進められている。

 その中に立つ、何処か小さく丸まってしまったように見える背中……。


「エルピディオ様。お怪我はございませんでしたか」

「あぁ、こちらは大事ない。……司教はどうされた?」

「お帰りになられました。誤解は解けましたから、もう、ご安心ください」


 笑ってそう言った俺に、なんとも難しい顔をするエルピディオ様。

 右手を失い、地位を追われて逃げた俺が、夜半に妻を伴い、侵入不可能であるはずの公爵家別邸二階にある、エルピディオ様の私室の露台から、のこのこ顔を出して来た時にも、だいぶん呆然とされていたけれど、今はそれに輪を掛け、少々放心しているよう。

 まぁね、無理もない。それで内密の話があると言われた挙句、語られたのがアレクのことだったのだから。


 だけどアレクから、秘密裏に会わせたい人がいる……という趣旨の手紙が届いた時、もう無理やりにでも、腹を括るしかなかったし、それがアレク本人ではなく、髪色を似せた別人を連れて来た……となっては、罠なのだと、理解するしかなかった。

 この方も、この現実を受け止めるには、時間が必要だろう。


「……そうか」


 ぽつりと添えられた、ただ音だけの返事。


 思うことはあるだろうし、もう少し俺に問いただしたいとも考えている。

 けれど、オゼロの配下の方々は事情を知らない。アレクの正体も伏せてある。

 だから、この場では触れられない。


「心優しき方ですから、訴えを鵜呑みにされたのでしょうね……。

 でも今後はもう、このようなことはございませんよ。きっとね」

「そうだな……。そうだろうとも」


 増援を二段階に分けたのも、俺たちがオゼロ騎士に扮したのも、フィルディナンドという存在を死んだままにしておくためだった。

 今回のこの事件も、スヴェトランの策謀のひとつで、人の良い司教を利用し、オゼロ公爵を亡き者にしようとしていた陰謀である。という形で纏めるつもりだ。

 遠方のアギーが管轄の司教に取り入ったのも、事情を悟らせまいとした、スヴェトランの策。

 まだ若く経験の浅かったアレクが、標的にされたのだと。


 その利用された司教は、これから神殿に戻り、神殿内部にスヴェトランと繋がった組織があることを洗い出し、告発することとなっている。

 それが、陛下からの指示である、『神殿関係者から、言い逃れできない証拠を掴め』に、繋がる予定だ。


 そもそも、俺の手配書が出回っていない件も、アヴァロンが動いていない件も、やはり陛下の手だった。

 いや、そりゃ彼の方しかそんなこと、できるわけがないのだけれど……。どうやってクロードたちを納得させたのかと思うじゃないか。

 だが、王家と公爵家には、下々である俺たちには伏せられている、代々の王と、領主にしか伝えられない口伝があった。

 それが、今回のことに大きく関わっていたのだ。


 その口伝というのが、マルが聞けば踊り狂って喜ぶのじゃないかと思われる新情報。

 フェルドナレンの興りが、人と獣人の交わりにあったことだ。

 俺たちがアヴァロンを追われた時、陣痛のはじまっていた陛下は、それから一日、出産に掛かりきりとなった。

 そうしてやっと御子を産み落としてみれば、もう、全てが終わった後……。

 俺は右手を残してアヴァロンを去り、獣人を使う悪魔とその使徒に仕立て上げられていた。

 本当の、真実を知っている陛下は、ただ唖然とするばかりだったという……。


 三年前の夏、陛下がクリスタ様としてセイバーンへとお越しになった時は、陛下もご存知なかった……。

 そして王となられ、戴冠式等の一通りを済ませた後、先王より口伝を伝えられ、頭を抱えたのだそう。


 陛下は聡い方だ。己を蝕む白の病と、この獣人が人より生まれ出る形が似通っていると、当然感じた。

 けれど……だからどうだと言う話だ。

 今更、深く根付いてしまった因習を、どうやって覆せば良い? と……。


 だから、代々の王と公爵家領主は、神殿の力を少しずつ削ぐことを行なって来た。

 かつて、力の脆弱だった時代の王国が犯した過ちだ。少しずつでも正していくしかない。

 そしてそれでも、神への信仰が、国を支えている事実に変わりはない。

 危うい天秤の傾きを、少しずつ、少しずつ、正していくしかない。子に、孫に、繋げていくしかない。


 だが、どうすれば良いのだろう。

 一度は潜って消えたと思っていたものが、こんな風に現れるなど、知らなかった時代の者が犯した過ちは、難題すぎた。

 己の血に、獣人の血が流れることを、どうやって広めれば? 

 神殿の信仰がある限り、獣人は悪魔の使徒だと教え込まれていく。

 かと言って神殿を糾弾することも、駆逐することも不可能だ。

 信仰は、民の支えでもある。貴族は皆、アミの民でもあるのだ。


 そうして神殿を牽制する王家に、神殿も勘付いていた。

 だから、王家を内側から蝕むことを、考えたのだろう……。

 そんな水面下の攻防を、俺たちは知らず、日々の安寧を願い、過ごしていたなんて……。


 しかし。


 陛下が無事御子をお産みになられたことが、状況を変えた。

 まず神殿だ。大司教は唖然と固まってしまったという。

 王家が御子を授かり産み落とす。それは、アミが陛下の選択を認めたことに他ならない。子を授かるとは、即ち神の祝福そのもの。


 大司教は、慌てて帰路についたという。今後のことを、神殿内で話し合わなければならないからだろう。

 そしてホライエン伯爵様は、歓喜したものの、困惑することとなった。

 俺が陛下を匿い、無事出産するまでの守りを担っていたと、知ったからだ。


 陛下が後継を孕まないのは、アミがその婚姻を認めていないからだと、神殿は主張していた。

 公爵家との正しい婚姻を結ばなかったから、子が授からないのだと。今からでも公爵家と婚姻を結べ(あやまちをただせ)と、そう言っていたのだ。

 もし万が一、ご懐妊が神殿関係者に知られれば、それを認めたくない輩からの妨害だって有り得る。だからこそ陛下は、ご懐妊を隠し、出産した。


 そこに更に、俺の部屋を捜索していた俺の部下だったひとりが、とあるものを見つけた。

 それはまずクロードに渡され、更に陛下へと渡された。俺の遺言としてだ。

 陛下はそれを見て、大いに笑ったそう。涙を流し、まだ産後の出血が続いていたお身体に負担を掛け、ナジェスタに寝台を出てはならないと言い渡されるほどに。


 何も知らないはずの俺が知っていたこと、調べていたこと、進めていたことがまさか、国の秘密にこうも関わっているなんて。と……。


 それにより、陛下は腹を括った。

 即座に公爵四家へ、レイシールを保護せよ。神殿に奪われるな! という伝令を走らせた。

 なにぶん、視察中という建前の、人員不足甚だしい状況であったから、信頼に足る部下も少ない。そこで、アギーより応援を頼み、伝令には近衛からも人員が選別された。

 このオゼロに向かい、走らされることとなったのは……。


「レイシール様」


 そう呼ばれ、顔を上げた。

 橙色の髪の長身が、松明に照らされた髪をより一層明るく燃やし、こちらに脚を進めて来ていた。


「……様は必要無い。今の俺は、地位など持っていないから」

「…………そうもいきません。……その、お怪我は?」

「大丈夫、無いよ」


 そう返すと、少し困ったように手を首にやるロレン。

 オゼロへの伝令は彼女だったのだ。

 本当は俺の心配などしたくないのだろうが、とある人物を納得させるために、怪我の有無を確認したのだと思う。


「これより、屋敷に戻りますが……ご一緒されますか? それとも、まだここの処理がおありですか?」

「ん、そうだな。サヤとオブシズは……」

「あちらで手当を」


 ロレンの言葉をぶっちぎって振り捨て、慌てて足を進めた。

 まさか怪我をしていたなんて! なんてことだ、全く気が回っていなかった。

 命に別状は⁉︎ 手当と言っていたし、現場が慌ててないから、然程の傷ではないと思いたい!


 必死で足を進めると、後から到着したであろう幌馬車があり、そこに毛布に包まる二人の姿があった。

 簡易かまどが置かれ、湯気を立てていて、流石公爵家の幌馬車は一味違うと普段ならば思っていたろうけど、そんな余裕も無い。


「サヤ!」


 右手を上げようとして、籠手が付いていることに慌てて気付いた。危ない。サヤを刺してしまうところだった。


「怪我は、どこを……⁉︎」

「あ、平気です。ちょっと掠った程度なので。雪で足元が、滑ってしまって……」


 ほんの少しだけ掠めてしまったのだと、肩の裂けてしまった女中衣装を見せられ、背筋が凍った。布を当てられているが、それだけだ。


「知らない人は、まだちょっと……」


 肌を見られたり、触れられたりしたくなかったのだそう。男性が怖いサヤだものな。

 それで応急処置をオブシズに頼んだのだと言うが……。


「いや、俺がやるのもちょっと……」


 と、視線を泳がせるオブシズ。

 肩をということは、衣服を脱がなければならない……。野外で、しかも男の目が多数ある中で。


「よし分かった。屋敷に急いで戻ろう。

 ロレン、至急戻りたい!」


 ロレンに頼るという選択をしないでくれて良かった……。

 そうされていたら、俺は理性を保てた気がしない!


 そうしてまた慌てて戻って来た俺に、ロレンは呆れた息を吐いて……。


「そうでしょうね」


 と、肩を竦めた。

はーい、まだ終わりませんでしたーっ。明日も続きますね……。

すいません、後一話か二話で終わると思う……多分。

とりあえず、明日もお会いできるよう、気合いで書きます。でないと、一話で終わらせなきゃならなくなるからね。無理だった時泣くしか無いからね!

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