猛毒と策謀
雪原を四つ脚で駆ける狼に、人の脚が敵うはずもない。
木々の間を縫うように走っていたアレクだったけれど、雪原に抜けるとすぐアイルに回り込まれ、俺に背後を取られて足を止めた。
それは、まだ彼方で争う声が届く程度の場所。現状は、たったそれだけの距離を稼ぐことしか許さなかった。
広の視点に動くものは無い。
雪も降らず、風すら凪いだ雪原は、隠れる場所も、隙も、与えてくれない。
俺の前に立つ背中は、激しく肩を上下させ、白い息を吐いていた。
「フェルディナンド様」
「その名を呼ぶな!」
乱れた呼吸を整えるのもままならぬ状況のアレクが、振り返りざま、そう叫ぶ。
怒りに振り切れた表情が、呪い殺そうとでもするかのように、俺を見た。
俺はウォルテールから降りて、アレクの前に立ち、彼と向き合った。
「ではアレク、もう抵抗は無駄だと理解してほしい。
ジェスルからの進軍は、国軍が到着、対応しているそうだし、国境沿いの別働隊も既に規模を把握されている。
貴方の策謀は、もうどう足掻いても実を結ばない。
なにより……陛下のご出産がもう、お前の計画を狂わせていたはずだ」
その言葉を掻き消すように、アレクは「あああぁぁぁ!」と、吠え。
そして俺に向かい短剣を振り被り、襲い掛かった。
けれど、公爵家貴族たる教育を受けていたであろうアレクは、短剣の扱いになど慣れていないのだと、その動きを見るだけで明白で……。
突きだされた短剣を、体捌きで避け、その隙に腰から抜いた短剣で、次を受ける。背側の切れ込みに刃の部分を絡めて捻ると、呆気なくアレクの手から奪えた。
けれどそれは陽動。
アレクは左手で腰帯から引き抜いた小刀を、更に俺の顔へ突き立てようと振るったけれど、それも右の籠手で受け、踏み込まれていた左脚を俺の右足で払うと、あっさり雪原に転がってしまう。
その腹を、ウォルテールの脚が踏み、更にアイルの足が、利き腕であろう右腕を踏みつける。アイルの持つ短剣が、アレクの首の上に掲げられた。
左腕は、俺が足で踏み、動きを封じる。
抵抗できなくなったアレクは、粗い呼吸を暫く繰り返していたけれど……。
「さっさと殺れ!」
そう叫び、ぐっと腕に力を込めたが、腕の自由は取り戻せなかった……。
「くそっ」
そして、自暴自棄なのだろう。全身の力を抜いた。
フウゥ……と、ひとつ。長い息を吐き。
「……まず何から始めるんだ。俺の右手を斬り飛ばすのか?」
皮肉げな口調でそういい、ハッと嘲笑う。
「そんなことはしない……」
「すりゃ良いだろ。されたことを返せ! 当然の権利だろう⁉︎
お前のその、何をされても人を恨めませんみたいな善人面は、ほんっと毎回反吐が出そうになる。
俺は、この屈辱を忘れない。動ける限り、取り返しに行くぞ。お前から奪う。この世から奪う! 分かってるだろう⁉︎」
「うん」
灯りのない闇の中でも、アレクの白い輪郭はよく見えた。表情はぼやけていたけれど、考えているであろうことは、踏みつけた腕から這い上がってくるみたいに、理解できる。
もうこの後には、死しか残されていないと、アレクは理解している。
そしてやっと……このくだらないことを考え続ける人生から解放されるのだと、どこかで安堵している……。
人というのは、ひとつの感情を長く維持できる生き物ではない……と、俺は思う。
どんな喜びも、悲しみも、苦しみも、時間と共に慣れ、薄らぎ、起こったことのひとつとしてでしか認識できなくなっていく。
だけどアレクは、その感情を無理やり繋ぎ止めてきた。恨まないと生きてこれず、今からだって、憎まないと生きていけない。
それを辞められるのは、来世に旅立った時だけなのだと、決めている。
辛くて苦しい人生に、そうやってしがみついて来た。
「俺がどう言葉を尽くそうと、貴方に俺の気持ちは届かないし、理解し合うこともできないと、分かっている」
そう言うと、クッと口角が持ち上がり、引き攣ったような、乾いた笑い声が闇に響いた。
俺に説得を諦めさせたことが愉快なのだろう。
この綺麗事だらけの男を歪ませてやった。ざまあみろ! と、そんなことを思ってる。
でもエルピディオ様は……そんな貴方でも、生きていてほしいんだ。
俺もそう思ってる。
あなたの言う通り、綺麗事だらけの俺は、これだけのことをされても、俺の人生からこれ以上を、失いたくない。貴方だって、失いたくない。
今は恨みや苦しみにしか目が向かなくても、いつかそれ以外に気付いてくれる日が来ると、性懲りもなく思ってる。
その時が来たら、自分のして来たことの本当の意味に、貴方は死にたいと思うほど苦しむことになるだろうけれど、その時は、共に支え合っていけば良いと……。
それが貴方の言う綺麗事だということも、理解しているけれど……。
「俺は、そんな生半可な方法で、お前を楽にしてやる気はない」
敢えてそう口にした。
アレクは慈悲や赦しなど求めていないし、それを与えたところで、彼を反省させることすらできないと、分かっている。
貴方は、いちいち手緩い俺にできるのは、せいぜい嘆きながら、恨みきれない貴方を殺し、生涯苦悩することだと、そう思っているんだよな。
だけど俺だってね、もうそれだけではない。
貴方を傷つける方法は、貴方から得てきた。学んできたよ。
だから、今までアレクがそうしてきたように俺は、本当の気持ちに仮面を被った。
うっすらと微笑み、アレクの心を踏み躙り、折るために、言葉を尽くす。
俺は彼にとって、悪魔でなければいけない。
「アレク……良いことを教えてあげよう。
エルピディオ様はね……ずーっと、知ってらっしゃったんだよ。アレクが、誰か」
そう言うと、閉ざされていたアレクの瞳が開いた。
暫く虚空を彷徨った視線が、言葉を上手く聞き取れなかったとでもいうように、疑問だらけで、俺を見る。
その瞳を覗き込み、俺はそこに、毒を流し込む。
「初めから、全部分かっていたんだよ。貴方が誰か。
だけどそれを認めてしまえば、貴方はまた、死ななきゃならない。
フェルディナンド・ディルミ・オゼロは、存在を抹消されてなければならなかった。
だから、貴方が誰か知っていることを、世間の誰にも、絶対に悟られてはいけなかったんだ。当然、貴方にすらね。
エルピディオ様は、貴方を愛していたから。祖父だと名乗れなくても、死んだことにしてでも、貴方に生きていてほしかったんだよ」
愛していた……。
大嫌いなその言葉に、眦が吊り上がる。
でも、俺の言葉の真偽から、意識が外せない。こいつは何を言っている? 今度はなんの懐柔作戦で来たんだ?
甘ったれのこいつらしい、反吐が出そうな言葉選びだ。だが、知っていたとはどういうことだ? そんなはずはない。何故なら俺を自ら手に掛けたのは……。
「だって、アレクを神殿に預けたのも、他ならぬエルピディオ様だもの」
アレクの思考の隙をついてそう言葉を織り込むと、アレクの瞳は俺を見据えて固まった。
「秩序と民の生活を守るために、一度は殺した。同席した部下たちも、フェルディナンドは死んだのだと、その目で認めた。
だけどお前は息を吹き返したんだ。
そのお前を、もう一度殺すなんてできなかった。どんな形でだって良いから、怨まれて良いから、生きてほしかった。
幸いにも、気付いた者は他にいない。エルピディオ様が口外しなければ。
それでお前は手厚く治療されて、神殿で意識を取り戻したんだよ。
エルピディオ様は、まさか神殿が、自分に孫を殺させた相手だなんて、知らなかったからね」
面会を求めて来た俺に、エルピディオ様は会ってくれた。
アレクの正体を語る俺に、何故それを、どこで知ったと、そう言ったよ。
俺の語ったことに、涙を流して苦悩された。
それでも貴方をなんとかして守りたいと、一度は俺を消すことまで脳裏によぎらせたし、エルピディオ様自身が貴方と差し違えることだって、考えたんだ。
だから提案した。
どんな形であっても、構わないか。と……。
貴方を死なせない。国の不利益にもならない。そうできる策を、用意しますと。
恩義あるエルピディオ様に、俺が返せるものは、これしかないと思った。
陛下を納得させ、神殿の力を削ぎ、アレクを死なせない。
これは、そのための一手。
「なぁアレク、お前はずーっと踊らされていたんだよ。
神殿は当然知っていたのに、お前を駒に育てるために、この事実を隠蔽して、お前はそれに気付かなかったんだ」
◆
実際のところがどうだったかなんて、俺には分からなかった。
けれどアレクがエルピディオ様を恨み、神殿を恨み、世を恨んでいることは理解している。
だから俺は、アレクの苦悩しつつも足掻き、生きて来た時間を、全否定することから始めた。
「神殿からはどう聞いていたんだ?
オゼロに殺されたお前に息があったから、隠して守ってきたのだとでも、言われたのか?
それとも神殿の息がかかっていた父親が、お前を必死で守り、逃したとか? まぁ、都合良いように言われていたろうね。
そもそも意識の無かったうえ、世事にも疎かった子供のお前には、それを確かめる術など無かったのだもの」
追い詰められ、自暴自棄になっていたところを俺につけ込まれたアレクの心は、無防備だった。
エルピディオ様から聞き出した当時のことと、アレクの反応から、少しずつ心を削ぎ、抉り、深くに潜り込んでいくことを意識する。
「お前の出世が早かったのも、その白色と、高貴な身体を売り込んだからだけじゃないよ。
お前に流れる血の価値と、お前のためにと続けられたオゼロからの莫大な寄進。それがお前の背を支えていたからだ。
ずっと一人で足掻いて来た。食らい付いて来たと思っていたのか?
神殿社会が地位に縛られた社会だということ、知っていたろう?
けれど、幼くて世間知らずな上位貴族のおぼっちゃまだったアレクには、そんなことを理解しろなんて、酷な話だったよな」
呆然と聞いていたアレクは、そこでハッと我に返った。
黙れと鋭く言葉を吐くが、足で踏みつけられて抵抗を封じられたその姿に、そんな抑止力などあろうはずがない。
「白くなってしまったその髪も、神殿にとっては好都合だったろう。
公爵家の血を引くお前は、王家の血も引いている……その上で後天的にとはいえ、白髪を得た。
だから機が巡ってくれば、お前自身がそれを言い出さなくとも、神殿は祭り上げるつもりでいたろうな。
だけどお前はまんまと策にはまって、オゼロを憎んだ」
ある日急に祖父に斬られ、両親どころか己の存在すら失くした。意識が戻ってみれば知らない場所で痛みに耐える日々。名前も地位も、それまでの色すら失くなって。
そんな状況で、まともな判断などできるはずがないではないか。
苦しかったろう。優しかった祖父を知るだけに、そうされた理由すら分からず、憎むことも恨むこともはじめは、難しかった。
どこに心を置けば良いか、分からなかった。当然だ。
「分かるよ。そうでもしなきゃ、壊してしまいそうだったのだって。
心も身体も、他人に好き勝手にされるのだもの。普通では耐えられないさ」
傷が癒たら今度は、その幼い身体を弄ばれる日々が待っていた。
信仰とは名ばかりの、性欲のはけ口にされる日常だ。
公爵家の血を、組み敷きねじ伏せる。貴族社会で地位を巡る争いに負けた者らの巣窟である神殿社会は、その鬱憤の吐口を、お前にも当然のように求めた。
更に白い髪が、神に近い身体だと、信仰を深めるためだと、言い訳する理由すら与えた。
けれど、力で捩じ伏せられ、嬲りものにされていることに変わりはない。
それはお前自身が、一番よく分かっていた。
生き残ったことを後悔したろう。だけど死ねない。もう一度あの痛みを、苦しみを、越えなければならない。嫌だ、怖い、死にたくなどない!
だから必死で、考え方を改めた。都合が良いのだと、そうすり替えるしかなかった。
この色が使えるなら、利用しよう。
上に這い上がるために、何だって使おう。
そして最上段に上り詰めたら、そこから世の中を蹴り倒し、踏み躙ってやろう。
されたことをそのまま全部、何倍にもして、返してやる。
心を寄せて、気持ちを引き込み、己に刻んだ。
実際体験してないことだから、本当の意味では分かってやれない。
だけど、たった一人で抱えることからだけは、救ってやれる。
お前の全部を俺は知っているのだと、そう思い込め。
隠せないのだと、隠さなくて良いのだと、理解しろ。
「運が巡ってきたと……そう思ったよな。サヤのことを知った時は。
千載一遇の好機! アミは運命の歯車を廻してくれたと、歓喜したろう?
この素晴らしい叡智を手に入れたい。そう思った。
裏の神殿の汚泥に深く身を浸していたお前は、もう神殿の本当の顔も、知っていた。
そこで俺のことも知った。なんだか似たような奴がいるとでも、思ったか?
だけど知れば知るほど腹が立った。
自分と違い、こいつはどこまで恵まれ、甘やかされていることか。
だがどうでも良い。利用する駒の生い立ちに、拘る必要は無い。そう思った。
だのに侮っていた俺に、最も見せたくなかったものを見られてしまった。
必死で受け入れ、足掻いて生きて来た方法を、頭ごなしに否定されてしまったのだものな」
何も知らないくせに、汚いものから身を引くように、そんなことはするな。と、言いやがった。
「だから俺から奪ってやろうと思ったのか?
地位も、生活も、右手も、友も、愛する人も。命も……。
だけど残念だったね。せっかく追い詰めたと思っても、幾度となく逃げられてしまった。
苛ついたろう。サヤのことがどうでも良くなるくらい、俺が憎くなったのだものな。
だから、ウォルテールを使って、足がつく危険を冒してまで、俺を狩ろうとした。
ついでに、俺に獣人らが寄せる信頼も、踏み躙ろうとしたろう?
なのに絆が切れなかった。それどころか、己の駒まで奪われてしまった」
憤怒に歪んだ表情を見下ろし、踏みつけた腕に、体重を掛ける。
柔らかい雪にずぶりと腕が沈む。それでも更に、踵を押し込む。
骨を踏み砕くほどに。
痛みで歪んだ顔を、じっくりと見下ろして、涙は心の奥に仕舞い込んだ。
「なぁアレク、お前の人生は、全部人に弄ばれて終わるな」
痛みより、怒りが上回る。
ぐっと腕に力が篭るけれど、足は緩めなかった。
「祖父にも、神殿にも、何一つ思い知らせてやれず、お前は蜥蜴の尻尾みたいに切り捨てられて終わる。
まぁお前がして来たことが、お前に返るだけ。
お前が言う通り、当然の権利が振るわれたに過ぎない。
だけどお前自身は、その当然の権利すら振るえず、終わる……なんて理不尽だろう。なんとも情けない、人には許されて、お前には許されない権利があるなんて!」
ぶるぶると震える腕。砕けそうなほどに食いしばり、噛み千切られた唇。
「無駄に足掻いただけの人生だ」
腰を折って、その顔を上から覗き込んだ。腕に更に、体重を掛ける。
俺の言葉に心を抉られ、深い傷に杭を撃ち込まれ、更なる絶望に縫い留められて。
「悔しい?」
口角を引き上げて、目尻を下げて、全身全霊の笑顔を振り絞る。
「ならばひとつ、俺と取引してみるかい?」
膝を折り曲げしゃがみ込んで、顔を近づけて、腕にぐっと、体重を乗せた。
「お前を、俺が、神殿の頂点に据えてあげよう。
お前にその無駄な三十数年を味わわせた神殿を、踏み躙る機会を与えてあげる」
他人に使われ、弄ばれるだけだったお前の人生を、更に俺が使って、踏み躙ってやろう。
「どうする? このままお前が、何も成さず、得られず、無駄でしかないその人生を終えたって、どうでも良いけどね。
ここでお前を殺さずとも、お前は神殿に責任を押し付けられて、切り捨てられて終わる。
ほんの数ヶ月から数年、更に汚くもがいて、結局何もできず、終わる」
そんなのは嫌だと、そう思っているのは、その瞳で分かっている。
苦しくてもしがみついてきた生だ。もう一度、食らいつけ。足掻け。俺を踏み躙りに帰ってこい。
「俺如きに、そんな権限は無いと?
いいや、あるんだよ。俺は、その方法を持っている。
欲しいか? 今のお前の地位なら振るえる、とっておきの武器なんだ。
信じられない? お前を組み敷いて肉欲を満たし、笑って説法を説いてきた奴らを、思う存分にいたぶれることくらいは、保証できるけどね」
司教まで上り詰めてしまったお前は、あの大司教で行き止まりだろう?
それを踏みつけて、更に上に行けるよと、俺は彼の耳に、言葉の毒を、注ぎ込む。
「俺に返事は必要ない。帰って、言われた通りを実行してみれば良い。
そうすれば、王家から返事が返る」
その時が、お前が神殿の頂点に脚をかける時だ。
◆
アレクを解放し、逃げる背中を見えなくなるまで見送ってから、踵を返した。
俺の後ろをついてくるアイルも、喋れない狼姿のウォルテールたちも、当然無言。
ウォルテールに乗って駆けた距離を、脚を引きずってゆっくりと歩き、その間に心を落ち着けた。
まばらな木々の間を縫って、赤々と燃える松明がいくつも立った、屋敷の跡地へと戻ってきた。
そこももう、戦いは終わっており、生き残った影らは縛られ、死体も集め、荷車に積み重ねられ、血に染まった雪すら埋める処置が進められている。
その中に立つ、何処か小さく丸まってしまったように見える背中……。
「エルピディオ様。お怪我はございませんでしたか」
「あぁ、こちらは大事ない。……司教はどうされた?」
「お帰りになられました。誤解は解けましたから、もう、ご安心ください」
笑ってそう言った俺に、なんとも難しい顔をするエルピディオ様。
右手を失い、地位を追われて逃げた俺が、夜半に妻を伴い、侵入不可能であるはずの公爵家別邸二階にある、エルピディオ様の私室の露台から、のこのこ顔を出して来た時にも、だいぶん呆然とされていたけれど、今はそれに輪を掛け、少々放心しているよう。
まぁね、無理もない。それで内密の話があると言われた挙句、語られたのがアレクのことだったのだから。
だけどアレクから、秘密裏に会わせたい人がいる……という趣旨の手紙が届いた時、もう無理やりにでも、腹を括るしかなかったし、それがアレク本人ではなく、髪色を似せた別人を連れて来た……となっては、罠なのだと、理解するしかなかった。
この方も、この現実を受け止めるには、時間が必要だろう。
「……そうか」
ぽつりと添えられた、ただ音だけの返事。
思うことはあるだろうし、もう少し俺に問いただしたいとも考えている。
けれど、オゼロの配下の方々は事情を知らない。アレクの正体も伏せてある。
だから、この場では触れられない。
「心優しき方ですから、訴えを鵜呑みにされたのでしょうね……。
でも今後はもう、このようなことはございませんよ。きっとね」
「そうだな……。そうだろうとも」
増援を二段階に分けたのも、俺たちがオゼロ騎士に扮したのも、フィルディナンドという存在を死んだままにしておくためだった。
今回のこの事件も、スヴェトランの策謀のひとつで、人の良い司教を利用し、オゼロ公爵を亡き者にしようとしていた陰謀である。という形で纏めるつもりだ。
遠方のアギーが管轄の司教に取り入ったのも、事情を悟らせまいとした、スヴェトランの策。
まだ若く経験の浅かったアレクが、標的にされたのだと。
その利用された司教は、これから神殿に戻り、神殿内部にスヴェトランと繋がった組織があることを洗い出し、告発することとなっている。
それが、陛下からの指示である、『神殿関係者から、言い逃れできない証拠を掴め』に、繋がる予定だ。
そもそも、俺の手配書が出回っていない件も、アヴァロンが動いていない件も、やはり陛下の手だった。
いや、そりゃ彼の方しかそんなこと、できるわけがないのだけれど……。どうやってクロードたちを納得させたのかと思うじゃないか。
だが、王家と公爵家には、下々である俺たちには伏せられている、代々の王と、領主にしか伝えられない口伝があった。
それが、今回のことに大きく関わっていたのだ。
その口伝というのが、マルが聞けば踊り狂って喜ぶのじゃないかと思われる新情報。
フェルドナレンの興りが、人と獣人の交わりにあったことだ。
俺たちがアヴァロンを追われた時、陣痛のはじまっていた陛下は、それから一日、出産に掛かりきりとなった。
そうしてやっと御子を産み落としてみれば、もう、全てが終わった後……。
俺は右手を残してアヴァロンを去り、獣人を使う悪魔とその使徒に仕立て上げられていた。
本当の、真実を知っている陛下は、ただ唖然とするばかりだったという……。
三年前の夏、陛下がクリスタ様としてセイバーンへとお越しになった時は、陛下もご存知なかった……。
そして王となられ、戴冠式等の一通りを済ませた後、先王より口伝を伝えられ、頭を抱えたのだそう。
陛下は聡い方だ。己を蝕む白の病と、この獣人が人より生まれ出る形が似通っていると、当然感じた。
けれど……だからどうだと言う話だ。
今更、深く根付いてしまった因習を、どうやって覆せば良い? と……。
だから、代々の王と公爵家領主は、神殿の力を少しずつ削ぐことを行なって来た。
かつて、力の脆弱だった時代の王国が犯した過ちだ。少しずつでも正していくしかない。
そしてそれでも、神への信仰が、国を支えている事実に変わりはない。
危うい天秤の傾きを、少しずつ、少しずつ、正していくしかない。子に、孫に、繋げていくしかない。
だが、どうすれば良いのだろう。
一度は潜って消えたと思っていたものが、こんな風に現れるなど、知らなかった時代の者が犯した過ちは、難題すぎた。
己の血に、獣人の血が流れることを、どうやって広めれば?
神殿の信仰がある限り、獣人は悪魔の使徒だと教え込まれていく。
かと言って神殿を糾弾することも、駆逐することも不可能だ。
信仰は、民の支えでもある。貴族は皆、アミの民でもあるのだ。
そうして神殿を牽制する王家に、神殿も勘付いていた。
だから、王家を内側から蝕むことを、考えたのだろう……。
そんな水面下の攻防を、俺たちは知らず、日々の安寧を願い、過ごしていたなんて……。
しかし。
陛下が無事御子をお産みになられたことが、状況を変えた。
まず神殿だ。大司教は唖然と固まってしまったという。
王家が御子を授かり産み落とす。それは、アミが陛下の選択を認めたことに他ならない。子を授かるとは、即ち神の祝福そのもの。
大司教は、慌てて帰路についたという。今後のことを、神殿内で話し合わなければならないからだろう。
そしてホライエン伯爵様は、歓喜したものの、困惑することとなった。
俺が陛下を匿い、無事出産するまでの守りを担っていたと、知ったからだ。
陛下が後継を孕まないのは、アミがその婚姻を認めていないからだと、神殿は主張していた。
公爵家との正しい婚姻を結ばなかったから、子が授からないのだと。今からでも公爵家と婚姻を結べと、そう言っていたのだ。
もし万が一、ご懐妊が神殿関係者に知られれば、それを認めたくない輩からの妨害だって有り得る。だからこそ陛下は、ご懐妊を隠し、出産した。
そこに更に、俺の部屋を捜索していた俺の部下だったひとりが、とあるものを見つけた。
それはまずクロードに渡され、更に陛下へと渡された。俺の遺言としてだ。
陛下はそれを見て、大いに笑ったそう。涙を流し、まだ産後の出血が続いていたお身体に負担を掛け、ナジェスタに寝台を出てはならないと言い渡されるほどに。
何も知らないはずの俺が知っていたこと、調べていたこと、進めていたことがまさか、国の秘密にこうも関わっているなんて。と……。
それにより、陛下は腹を括った。
即座に公爵四家へ、レイシールを保護せよ。神殿に奪われるな! という伝令を走らせた。
なにぶん、視察中という建前の、人員不足甚だしい状況であったから、信頼に足る部下も少ない。そこで、アギーより応援を頼み、伝令には近衛からも人員が選別された。
このオゼロに向かい、走らされることとなったのは……。
「レイシール様」
そう呼ばれ、顔を上げた。
橙色の髪の長身が、松明に照らされた髪をより一層明るく燃やし、こちらに脚を進めて来ていた。
「……様は必要無い。今の俺は、地位など持っていないから」
「…………そうもいきません。……その、お怪我は?」
「大丈夫、無いよ」
そう返すと、少し困ったように手を首にやるロレン。
オゼロへの伝令は彼女だったのだ。
本当は俺の心配などしたくないのだろうが、とある人物を納得させるために、怪我の有無を確認したのだと思う。
「これより、屋敷に戻りますが……ご一緒されますか? それとも、まだここの処理がおありですか?」
「ん、そうだな。サヤとオブシズは……」
「あちらで手当を」
ロレンの言葉をぶっちぎって振り捨て、慌てて足を進めた。
まさか怪我をしていたなんて! なんてことだ、全く気が回っていなかった。
命に別状は⁉︎ 手当と言っていたし、現場が慌ててないから、然程の傷ではないと思いたい!
必死で足を進めると、後から到着したであろう幌馬車があり、そこに毛布に包まる二人の姿があった。
簡易かまどが置かれ、湯気を立てていて、流石公爵家の幌馬車は一味違うと普段ならば思っていたろうけど、そんな余裕も無い。
「サヤ!」
右手を上げようとして、籠手が付いていることに慌てて気付いた。危ない。サヤを刺してしまうところだった。
「怪我は、どこを……⁉︎」
「あ、平気です。ちょっと掠った程度なので。雪で足元が、滑ってしまって……」
ほんの少しだけ掠めてしまったのだと、肩の裂けてしまった女中衣装を見せられ、背筋が凍った。布を当てられているが、それだけだ。
「知らない人は、まだちょっと……」
肌を見られたり、触れられたりしたくなかったのだそう。男性が怖いサヤだものな。
それで応急処置をオブシズに頼んだのだと言うが……。
「いや、俺がやるのもちょっと……」
と、視線を泳がせるオブシズ。
肩をということは、衣服を脱がなければならない……。野外で、しかも男の目が多数ある中で。
「よし分かった。屋敷に急いで戻ろう。
ロレン、至急戻りたい!」
ロレンに頼るという選択をしないでくれて良かった……。
そうされていたら、俺は理性を保てた気がしない!
そうしてまた慌てて戻って来た俺に、ロレンは呆れた息を吐いて……。
「そうでしょうね」
と、肩を竦めた。
はーい、まだ終わりませんでしたーっ。明日も続きますね……。
すいません、後一話か二話で終わると思う……多分。
とりあえず、明日もお会いできるよう、気合いで書きます。でないと、一話で終わらせなきゃならなくなるからね。無理だった時泣くしか無いからね!




