見えているもの
雪を蹴散らして、狼たちが疾走する。
たった四騎で逃げる俺たちを、狼を多く含む一団が追ってきていた。
雪山をどうやって超えて来たのかと思っていたが、あちらもやはり橇を取り入れていたようだ。
狼に引かせた橇を、狼の主と思しき者らが操っているのが見える。
無償開示をしたのだから、それも当然か……。
けれど、橇を最も上手く扱えるのは、お前たちじゃなく、俺たちだと自負しているんだ。
知り尽くしている俺たちに、同じ道具で勝てると思うなよ。
内心でそんなことを考え気を紛らわせつつ、とにかく身を低くして、ウォルテールの背に身体を添わせた。
そうすると、重心が安定してウォルテールも走りやすくなるのだ。
右腕は毛皮の外套に隠したまま。極力相手を油断させておきたかったのと、矢避け、そして体温維持のために、外套を外すのはまだ暫く後にしたい。
「ウォルテール……木々の間を縫うように走れるか。あちらの橇はそれで機動性を殺せる」
紐を加えたままは喋りにくかったが、耳が近いからなんとか伝わったよう。ウォルテールの耳がピクピクと動き、顔もチラリとこちらを向く。
俺が片手だから、変則的な動きに身体がついてゆかず、振り落とされるかもしれないと考えたのだろう。
「……大丈夫。今ならまだ掴まってられるから、今のうちに……」
あちらの取れる行動を減らしておこう。
急に方向を変え、木々の間に身を躍らせたウォルテールの横を、矢が掠めていった。やはり狙ってきたか。
姉妹とシザーも同じく木々の間に身を滑り込ませ、橇から多少距離を稼ぐことができた。
しかし、今度は追うように指示を受けたであろう狼が、こちらに向かい放たれたよう。人を乗せてない分速い。みるみる距離を縮めてきた。
良いぞ、釣れた。
単身の狼はできるだけ減らしておきたかった。
匂いに敏感な者は少ない方が良い。
姉妹が動いた。
短めの小剣を抜き、一気に狼に肉薄。両側から挟み込むようにして一頭を仕留める。
またパッと離れ、器用に木々を避けながら次の狼へと向かっていく。
木々に囲まれたこの状況では、シザーの大剣は振り回せない。そこを察して動いてくれたよう。
俺も近くにきた狼に胸の小刀を放った。
揺られていても、この至近距離なら外さない。ウォルテールも重心の移動で俺の意図を汲み取り、変則的な動きは控え、まっすぐ進んでくれた。
そうやって単身の狼を合わせて十頭近く屠ったが、そこで木々が途切れてしまった。ここは雪崩でもあったのか、木がまばらなのだ。
頭の中で、マルと飽きるほどに眺めた地形図を思い起こす。隠れるものがないここが、一番の難所。
距離は大分稼げた。もう少し……。
「アッ」
そこで姉妹の片割れから、悲鳴に近い声。
慌てて思考を切り離し、視線を巡らせると、放たれたであろう矢が、狼の太腿に突き立っていた。
必死で走っているが、当然擦り傷ではない。ガクンと速度が落ちる。
狼から飛び降りた彼女は、狼の傷を確認し、そのまま来た方向を振り返り、向かってくる一軍を見て……。
「行ってください!」
そう言われた。
シザーが焦った表情を俺に向ける。
「……っ、逃げろ! 身を隠せっ、生きろ!」
そう叫び返すのがやっと。
ここで追いつかれ囲まれれば、今まで捧げられた命も、時間も、未来もが犠牲になる。
それが分かるから、止まれない……けれど、死なせたくない。
「ご武運を!」
明るく、朗らかな声。そして遠吠え。
手を振る姿がちらりと視界の端を掠め、その向こうに蠢く一団も見えていた。
「行きましょう」
姉妹の片割れが敢えてそう口にし、率先して速度を上げる。
……とにかく、ここを抜けなくては。隠れる場所が無いここにいても、犠牲を増やすだけだ。
振り返れない。
振り返ったら駄目だ。
そう自分に念じて、必死に身を伏せ、ウォルテールの脚に任せた。
矢を射掛けられるくらいの距離にいたはずの一団が、少し遅れたようだ。
こんな、妨げの無い場所で……。
生きろと、言ったけれど。
あぁ。彼女らは、命を燃やす方を選んだのか…………。
◆
雪がちらつき始めていた。
禿げた山肌を抜け、必死で進むうちに、また木々がちらほらと立つようになり、難所は抜けたのだと知らせてくれた。
けれど当然、俺たちを追う影はまだ背後にある。
距離は縮まっていた。目的の場所も近付いていたけれど。
三騎となってから、相手はより勢い付いたようだった。
初めは援軍なり、伏兵を警戒していたのだろう。
しかし、一人を置き去りにし、必死で逃げるしかできない俺たちに、それ以上はできないのだという結論を導き出したようだ。
もう、相手の狙いは俺だけだろう。俺の首さえ刈り取れば終わる。だから二人をどこかで離脱させることができれば、死なせずに済む。
しかし……。
こうも近いと、二人を離脱させるのも難しい……。
少しでも離れれば、単騎になった途端に狙い撃ちされてしまうだろう。
また死なせてしまう。それは嫌だ。だけどこのままだと、追いついてくるのではないか……。
一人を失った焦りが、胸を締め付けていた。
まだか。なんでこんなに遠い場所にしてしまったんだ……! オブシズたちは無事か? 百人程度釣ったところで、あそこにはまだ八百からの兵力がのこっているのに……っ。
嫌だ、嫌だ、死にたくないし、死なせたくない! だけどこれが最良であるはずだ。ここを乗り切れば、脳を潰せば勝機はある。違う、脳を潰すしか、俺たちに生き残る道は無いんだ!
必死で自分に言い聞かせ、とにかく距離を稼ぐのだと念じていたけれど……。
「主っ!」
その声にハッと顔を上げた。途端にウォルテールが進む角度を変えたため、グンと身体が引っ張られる。
慌てて腕に力を込めた。すると頬のすれすれを風が薙ぐ。
嘘だろ……追いつかれっ⁉︎
違う。回り込まれていたんだ!
俺たちが進むであろう方向を見定め、迂回して回り込むよう指示されていた者がいたのだ。
騎狼したその相手に視線を向けると、二名と二頭。狼は首に革の首輪を巻かれており、馬に使うような馬銜を咥えさせられていた。
手綱は首輪に短いものがついている。引けば首を締め上げるだろうに……でもそんなことは、お構いなしという雰囲気。
咄嗟に視線を向けた狼は、瞳に思考が無かった……。首を締め上げられる恐怖と苦痛を回避することだけを考え、無心で指示に従っているのだ……。
獣だ……。
正しく、獣の扱いを受けている。
それを見て、気力を奮い起こした。
心を折っては駄目だ。こんな風にすることを、当然とする相手に屈しては。
近いなら、応戦すれば済む話。
とはいえ、叫んだ時、咥えていた外套の紐を口から離してしまっていたから、自分からこれを外す手段を捨ててしまっていた。
距離もまだある。今外套を捨てて、目的の場所に到達するまで、寒さに身体が耐えられるだろうか?
……そんなこと考えている余裕が、まだあると思っているのか?
今を乗り切るしか、先は無いのに。
「主っ、こちらへ!」
残った姉妹の片割れが、無理矢理方向を変えてこちらに迫ってきた。
俺を守るため、間に身を割り込ませる。
そこからは剣の応酬。巧みに間合いを調整して剣を叩きつけ、二騎を相手に奮闘。
騎狼慣れしていない様子の追手は、跨る狼が泡を吹いていることに気付いていない。
そして彼女が狙っていたのも狼の疲労であったよう。
騎手に集中させていた攻撃を、次の瞬間狼に切り替え、胴体の側面を長く浅く斬り裂いた。
朦朧としていたであろう狼は、その攻撃で転倒、騎手を振り飛ばし、自らも混乱した様子で何処かへ走り去った。飛ばされた騎手は、後方から迫ってきた仲間に踏み荒らされ、消えていく……。
その、様子に視線を向けていた俺は……。
追手の中にあった顔に、その時ようやっと気付いていた。
「主!」
その声に視線を戻し、すまないとおざなりな詫びを口にする。
もう一騎と切り結んでいた彼女は、そのもう一人の喉首を掻き切り、こちらも撃退した。
絶命した騎手が手綱を手放さなかったため、死体を引き摺る羽目になった狼はそのまま木に激突し、動かなくなる……。
そうして体勢を立て直し、俺たちはまた、前を向いた。
俺の顔を知っていて当然だな……。
焦りが冷めていた。
まさかこんなところでまた、相見えるとは思っていなかった。ずっと、役職名でしか意識してこなかったが、そもそも名乗っていたのはきっと偽名だったろう。けれど、かつては言葉を交わすことも、度々あった相手だ。
ジェスルの者としてあの場にいたけれど、やはり神殿関係者だったのだな……。ジェスルを探して見つからなかった理由も、マルをだし抜けた理由も分かった気がする。
彼は当時から手練れだった。その上で神殿関係者だったから、マルと吠狼の包囲から逃れることができたのだろう。
ハイン……。思っていた以上に俺は、元からお前の傍に、居たみたいだぞ……。
俺たちの運命は、お前の想いなど関係なしに、ずっと深く絡まっていたみたいだ。
まさかお前の古巣が、こうも深く関わっていたなんて、お互い、気付かなかったな……。
そしてあの男も、それに気付いていなかったのだろうと思う。気付いていれば、ハインを使えただろうから……。
今更それが分かったところでどうしようもなかったけれど、この戦いを絶対に負けられない理由が、またひとつ増えた。
だから勝ちを得るために、冷静になれ。目的の場所まで、あともう少し。
木々が増えてきて、左右に振られることが多くなった。橇が減速し、少し距離が開く。しかしまた、俺もギリギリだった。
右手を失った療養のために落としてしまった体力も、戻りきっていなかったし、この緊張状態だ。自分で意識しないまま、疾うに限界を迎えていたのだと思う。
速度を落とさず木を避けたウォルテールの動きは今まで通りだったはずなのに、俺は一瞬、身体を浮かせてしまった。
慌てて掴まり直したけれど、時既に遅く、ずり落ちた身体を片手で支え直すことはできなかった。
それをウォルテールも、重心の移動で咄嗟に察知したのだろう。
無理矢理速度を落とし、そのせいで二人して、雪の中を転がった。木々に激突しなかったのは、せめてもの幸運。
「レイ様!」
シザーの声。
急いで身を起こすが、その前にシザーの腕が伸びた。
無理やり俺の左腕を掴み引っ張る。その勢いで身体の位置を入れ替えられて、大剣が、俺に振るわれたであろう小剣を弾く金属音が鳴った。
急ぎ戻った姉妹の片割れが、膝をついたままだった俺を引き起こしてくれる。
「主、お怪我は⁉︎」
「ない」
無いと思う。
状況を確認しようと視線を巡らせた俺の耳にまた……。
「レイ様行って!」
剣戟の音と、シザーの叫び。
今度は……お前が道を塞ぐのか? 身を呈して?
懐に左手を突っ込み、引き抜いた小刀をシザーと切り結ぶ者の頸動脈に放ち、突き立てた。衝撃で動きを止めた追手をシザーが押し退け、蹴り倒す。
一人突出していたその人物は、橇が立ち入れない場所に逃げ込んだ俺たちを追ってきていた、最後の騎狼者。
「こんな場所じゃ、お前はその剣を振れないだろ」
木々が邪魔をして、大剣は役に立たない。文字通りの肉壁にしかなれない。
そんなのはごめんだ……。
「行くぞ……」
あと少しなんだ……。
そう言い足を踏み出そうとして、がくりと膝が崩れた。
歩くのもままならないくらい、太腿が笑っている……。
「……ウォルテール、背を貸してくれ……」
起き上がり、やって来たウォルテールの背に捕まって、なんとか身体を支えて立った。
けれどそうしている間に、橇を捨てた者たちがこの林に踏み込んできたよう。
木々が邪魔で飛び道具が使えないのは有り難いが、今戦力になるのが姉妹の片割れただ一人というのが問題だ。
もう少しだったが……。
この膝ではな……。
シザーが、大剣を背中の鞘に戻し、たった今死んだ男の小剣を拾った。そして迫ってきていた追手の首を、目に止まらない程の速度で跳ね飛ばす。
これならば文句はないでしょうとばかりに血を振り飛ばして、次の相手に剣先を向けた。
まったく、命を疎かにはするなと、言ったじゃないか……。
例えシザーを足止めに残して進んだとしても、この足の状態では直ぐに追いつかれる。
そう思ったから、残りの距離を考え、勝負に出ることにした。
「久しいな執事長。まさかこのような場所で会うとは思わなかった」
膝を休めるために、敢えて覚えのある顔に向けて、言葉を発す。
すると木々の間から、どこか笑いを含んだ返事が返ってきた。
「本当に。何故このような所にいらっしゃるのか、目を疑いました」
「それは私の言葉だよ。……やはり見間違いではなかったんだな」
木々を盾にして、一人、二人と人影が見え始め、だんだんと包囲されていくのが気配で分かった。
全方位を囲まれるわけにはいかない。少しずつ後退する俺の前方をシザーが、後方を女性が守り、目を光らせる。
「いえいえ、これは私こそが言うべき言葉です。
いったい何故……いつの間に貴方は、獣人を使役するようになっていたのでしょう。
貴方が学舎に逃れた時も驚きましたが、四年前の一連は、それ以上の衝撃でした」
そう言い姿を表した執事長は、四年近く前から、殆ど変わっていなかった。
冬の山脈を踏破して来たとは思えない、穏やかな表情。
けれど……表面に出している表情ほど、内心は穏やかではないようだ……。焦っている。警戒している。俺を……恐ろしいと、思っている?
「貴方は急に変わってしまった……。
従順で貧弱な飼い犬であったはずなのに」
「……そうだな。私もあのまま、朽ちるのが自分の運命だと思っていたのに……」
その返答に執事長は、皮肉を返されて苦笑する、親しい友人のような顔をした。
「よく言う……。全く貴方は、今に至るまで、悉く私の意表をついているというのに……」
そうだったろうか?
幼かった頃からの薄氷を履むような日々を思い起こし、いったい何を指してそう言っているのだろうと首を傾げた。
するとまた苦笑。
「何より、未だに不思議でならない。貴方はどうやって渡人を得たのです?
その上隠しもせずに堂々と連れ回し……。正直本当にね、想定外のことをされすぎて、意味が分からなかったです」
そう言われ……。
サヤにちょっかいをかけていたのは、異母様ではなく、異母様を誘導した執事長だったのだと確信を持った。
別館に侵入し、サヤや俺たちについて探っていたのも……。
だけど、彼自身が渡人を信じていなかったか、まさか居るはずがないという疑いの気持ちがあったのだろう。そのため初動が遅れ、担っていた役割もあり、動きが取れないうちに、状況が進んでいってしまった。
「そのうえ貴方が王家と繋がっているなど……。想定外すぎて本当、困りましたよ」
神殿の裏の姿を王家に勘付かれるわけにはいかず、俺たちへの手出しは困難を極めた。
そもそも神殿は、息の長い策略を得意としているのに、俺たちはいちいちが性急だった。
「あまつさえ渡人の知識を振り撒くなど……国を盾にしてそんなことをされた前例も、ございませんでしたしねぇ」
前例……。
まるで、渡人を何人も知っているような言い方だと思った。
五百年前の一人だけではない。今まで他にも沢山、いたということか?
「貴方がたを国から切り離すのに、こうまで手こずらされた……やっとそれが叶ったかと思ったのに、それすら思惑通りにいかないばかりか、獣を奪われ、姿を眩まされ、しかも何故か我々の手を読み、狩猟民を焚き付けてこんなことまで……。
なんなんです本当……貴方には、一体何が見えている…………」
そう唸るように呟き、俺を見る。
さっさと殺してしまいたい。けれど、下手に殺して良いものか。この男が知り、我々が知らぬことが、他にも動いているのではないか……。
「……まぁ、良いです。
それでもまだ、取り返せる……。あの男は貴方がたの処分を望んでおりますが、折角の渡人を始末するのはあまりに惜しい……。
貴方がここにいるということは、あの渡人もいるんでしょう?」
そう言った執事長の言葉で、覚悟が決まった。
サヤを渡す気など、毛頭無い。
「私がそれを許すと思うのか?」
今週最後の書き込みです。ちょっと歯切れ悪い場所でごめんなさいね。
来週も三話更新できるよう、本日よりラストスパート頑張ります。いや、もうちょっとかかりそうだけども。
宣言通り終幕となれるよう、頑張ります。
ではまた金曜日8時以降にお会い致しましょう!




