異界
俺たちの不毛な会話がひと段落するとほぼ同じく、サヤさんが身支度を終えていた。
「もう済んだの⁉︎」
女の子は時間がかかると思っていたのに……。
きちんと着替え、身を整えたサヤさんは、とても凛々しくて、何だかドキドキしてしまった。
「おおきに。本当に助かりました」
「いや……うん。どういたしまして」
頭からかぶる形の短衣に細袴。丈としては丁度良かったようだ。若干、胸元が窮屈そうな気もするが……そこはまあ、男と女の体格差なので致し方ない。
拭いて、水気を拭ったはずの黒髪は、それでもやはり艶やかだ。一体どうすればこんな光沢が出るのか、貴族女性の羨望を集めそうなほどに、照り輝いている。
胸元できっちりと切り揃えられていて、緩やかに広がっているさまは、絹の羽衣を纏っているかのようだ。
紫色になっていた唇も、元の血色を取り戻しつつあっててホッとする。
それにしても……なんだろう? 佇まいが、なんか騎士みたいな女性だ。
背筋がピンと伸び、歪みが無い。歩く姿も、重心が安定しているというか……。それにこの間合い。
なんか、きっちり測ったように距離を取るな。
俺やハインが踏み込んでもギリギリ届かないような立ち位置。
部屋に入って、窓を閉めて振り返ると、そのきっちり測ったような距離間でまっすぐ背筋を伸ばしていたサヤさんが、腹部に手を重ね、深々とお辞儀をした。
えっ、なに?
「ハインさんには、まだ自己紹介してへんし……もういっぺん、ちゃんとお話しします。
私は、鶴来野小夜。十六歳です。こんな怪しいのに、よくしてくらはって、ほんまおおきに。
私は日本の京都在住。常盤高校二年生です。高校……学校なら通じるやろか? そこから帰宅途中、雑木林の中の池に光るものがあって、落とし物かと思うて手を入れたんです。
そうしたらなんや、気が付いたらここに……レイシールさんに、助けてもろてました」
「ちょっ、ちょっと待って、なんで急に?」
「そっちの会話全部筒抜けてたし……聞いてたらそりゃあ、怪しいなぁて、自分でも思うて」
「うわぁ……そこまで考えてなかった……。ごめん、なんか気を遣わせちゃったね」
「ううん。それやのにこうして親切にしてくれてはるもん。有難いなあって、思う。ほんまおおきに」
ふんわりと笑って、サヤさんがそう言う。
またおおきに……さっきも言ってたけどおおきにってなんだ……。
それはそうと、美人の笑顔の攻撃力が凄い。なんか眩しくて直視できない。
ソワソワ浮つく心臓を叩いて落ち着かせていると、表情を引き締めたサヤさんが、意を決したように居住まいを正した。
「それで、お二人にお聞きしたいんですが、日本という国は、知ってはりますか?」
「ニホン……いや、聞いたことないよな?」
「私も存じません」
「そやろね……じゃあ、やっぱり……そういうことなんやろね……。
あの、たぶん……私、ここの人間やあらへん思います。異国人やのうて、異界人かなって」
……え?
言葉の意味が分からず首を傾げる俺。
ハインは、眉間のシワを増やして俺を背に庇い、サヤさんを睨みつつ、急に詰問口調になった。
「どういう意味でしょう。貴女は、何を知ってらっしゃるので?」
それに対しサヤさんは、少し怯えた表情を見せたけれど、きちんと答えた。
「いいえ、何も知らへんのです。
けど……ハインさんの青い髪……私の世界には、そんな人いいひん。
反対に、私みたいな黒い髪なんて、アホほどおるんです。
せやから私はここの人間やないなって、分かるんです」
「……青い髪がいないなど、何故言い切れるのですか」
「知ってます。
私の住む世界に、青い体毛の人種は存在しません」
サヤさんはそう言い切った。
それはおかしい。
だって、ハインの青髪は、出会った頃からこうだ。
ハイン以外にだって、何人も出会ったし、村の中にだって、青や緑、赤や黄色。色々な髪の村人が働いている。ただ、黒はいない。でも、白い髪の人を知っているし……だから、黒だけ存在しないなんて、言い切れない……。
俺は世界中の人間を知っているわけじゃない。
なのに、サヤさんはいないと言い切れる?
それがとても不思議だった。
「もう一つ、おかしなことがあるんです。
お二人は、私の言葉を不思議な訛りって言わはった。私が喋ってるんは関西弁とか京都弁とか言われますけど普通に日本語です。
お二人が喋ってはるんも日本語や」
「え? よく、分からない……俺たちが話してるのは広域語だよ。
世界で一番多く使われてる言葉だ。だから……他の国でも、使ってておかしくない……」
思いつくだけでも、数カ国の名前が頭に浮かぶ。
だが、サヤさんはそれも違うのだと、首を横に振った。
「私の世界で一番使われている言葉は英語です。次がフランス語やった思います。
日本語が一番使われとるなんて絶対無いんです。ちっぽけな島国やから」
「……貴女は、世界中にある言語も、国も知っているというのですか?
他の国でも使われているかもしれないと、思わないのですか?」
ハインの追求に、イヤイヤをするように首を振る。
世界中の国や言語なんて、覚えられるわけがないほど多いから無理だと。ただ、自分の居た国が、世界に名を知られるようになって、たかだか百年かそこらなのだと言うのだ。
「日本の歴史を知ってます。日本語が世界で使われていない理由が分かるんです。
四方を海に囲まれた島国で、陸に繋がってなかったぶん、独自の文化を長く育んできた国です。
ほんの百数十年前まで他国と交易すら、ほぼしてへんかった。
そんな国の言葉が、世界中に広まってるはずあらへん」
だんだん、サヤさんの声が震え出した。瞳が潤み、今にも泣き出しそうにしているのだ。
けれど、必死でそれを堪えているのが、握りしめた拳から伺えた。
自分で話していて、絶望していっているのが、手に取るように解る。
「なんでやろ……なんで言葉が通じるんか全然分からへん……分からへんけど、通じて良かった思います。
そうやなかったら、きっともっと不安やったやろなって……」
微笑んでいるのに、泣きそうな顔で、サヤさんは良かったと言う。
ぎゅっと力いっぱい握りしめて、血の気の引いた白い手で、混乱や恐怖を必死に押し込めている。
「私の国では……物語で、似たような話が沢山あります。
いつの間にか、異世界に迷い込んでしまう人の話。
神隠しとか、召喚とか、転生とか……設定は色々やけど、概ね今の私みたい……。
なんかの拍子に、全然知らへんところに迷い込むんです。それで……」
そこで、もう堪えきれなかったようだ。
ボロボロと涙が溢れ出し、両手で顔を覆って、サヤさんは座り込んだ。
「か、帰られへん……のです。大抵の人は。
私はどうなんやろ……もう、帰られへんのやろか、おばあちゃん、カナくん、もう、会えへんのやろか、おとうさん、おかあさん、なんでわたし、こんなことになってるん⁉︎」