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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第三章
39/515

暗夜の灯

 飲み込まれた時のことは、説明しにくい。

 油の中に沈められてしまったような、妙な体の重さというか、自由の効かない感じになる。

 頭の中が砂で満たされてしまったみたいに、ザラザラとした雑音が鳴り止まず、その中に、誰かが誰かと囁き交わす声が、聞こえるようで聞こえない。

 たまにその雑音に埋もれた声が、棘のようになって突き刺さる。刃のようになって切り裂き、岩のようになって胸を潰す。

 他愛のないことが身の毛もよだつ様な恐ろしいことに思えて、恐怖に心臓を抉られる。

 自分が何故こんなことになってるのか、そのうち分からなくなって、ただよく分からないまま、体を締め付けてくる重いものに、苦しむしかできなくなる。


 ああ、楽になれたらいいのに。


 ただそうなれたらと思うだけで、何かをしようとは思えない。そんな気力すら湧かない。呼吸をすることを、忘れてしまえたらいいのにと、そんな風に、ぼんやりと思うのだ。

 最悪の時は、そこに悪夢が這い出してくる。

 楽になりたいままに、何度も死を繰り返す。死んだはずなのに、また繰り返す。要らないはずなのに、また戻される。実際自分は今どうなっているのか、それが分からなくなる。

 ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、要らないことを刻み込まれ、なのに居なくなることも出来ない。そしてその合間合間に、同じ風景が挟まれる。

 多分これが現実のはずの、部屋の片隅。もしくは寝台。最後に動けなくなった場所だ。


 だから、今回はマシ……大丈夫だ。夢は這い出して来ないはずだから。

 働くことを放棄しそうな、砂を詰め込まれたような頭をなんとか動かして、俺は寝台の中で浅い眠りを繰り返す。できるだけ起きてはいけない。起きると幻聴が、俺を取り巻いて、眠ることを邪魔するようになるし、刺さってくる恐怖が、棘から刃に育っていく。

 いらないことを考え、そのせいで育った恐怖が、俺を雁字搦めにしていく。

 これ以上崩れてはいけない。雨季が来るのだから。

 役割を捨てるわけにはいかない。持ってはいけない俺が、唯一、持てるものだから。

 だから眠る。現実の延長のような、寝ている夢を見ているような状態を維持する。

 その中でたまに、刹那の夢を見る。

 波紋の広がる鏡の中で、誰かと手を繋ぐサヤだとか、俺の前にしゃがみ込んで、あけすけに笑うギルだとか、ハインと何か話をしながら、作業をこなすサヤだとか、腰の剣を引き抜き、首元に構えたハインだとか、膝を抱えてその上に頭を乗せているサヤだとか、黄金色の海原みたいに広がる麦畑だとか、俺を掻き抱いてるギルだとか、濡れて路地に転がるハインだとか、俺に手を引かれ、泉の中から飛び出した瞬間のサヤ。


 ハッと気が付くと、窓からの薄ぼんやりとした光が、俺の顔を照らしていた。

 朝……もう朝か……。

 上掛けはいつの間にか剥がれ、半分床に落ちていた。

 朝が来たなら、動かなきゃいけない。だってもう半日、時間を無駄に使ってしまった……。

 本当はその半日すら貴重なのに、それを無為に、転がって過ごしてしまった。

 不甲斐ない自分に胸がまた痛む。

 不甲斐ないと思うなら、動け。これ以上迷惑を掛けるな。

 寝台から這い出すと、身体はまだ油の皮膜を纏っているようで、動かしにくい……。疲労感が凄まじい。身体中の筋肉が酷使された後の様に、強張っているようだ。

 なんとか長椅子まで移動して、小机の上にあった水差しの水を、そのまま口にした。

 溢れたぶんが襟を濡らすけれど、気にしない。どうせ着替えなきゃならないのだ。

 袖で口元をぬぐい、しばらく長椅子にもたれ、気力を奮い起こしてから、今度は着替えの為に移動する。

 緩慢な動きで着ていた服をなんとか脱ぎ捨てて、衣装棚に手を突っ込む。とにかく一番端のものを一つずつ引っ張り出して、おぼつかない指で苦労して着込んだ。

 着替えの途中で、飾り紐が引っ掛かり、外れてしまった。サヤに結わえてもらった髪が、ゆるゆると解けていくので、解けきる前に、首の後ろを適当に括った。


 それだけのことをこなすのに、結構な時間を使ってしまった。

 薄ぼんやりとしていた窓からの光は、もうしっかりと俺の足元を照らしていて、目に刺さってくるように眩しく感じる。

 とりあえず、いかなきゃ……。やるべきことをやらなきゃ……。

 長靴を履くのが一番手こずった。足首に力を入れることが出来ず、同じく力の入らない手で、長靴を無理やり引っ張ってなんとか履いた。壁を手掛かりにして立ち上がり、歩き出せば、足は動いてくれた。ホッとする。そして俺は、部屋の外に向かった。


 相変わらず油の皮膜のようなものは纏わりついたままで、外に出ると、砂時計の砂が落ちるような幽かな雑音が、耳に張り付いていることに気付く。けどまあ、聞こえるし動けるなら、いいか。いいことにしよう。

 応接室に入るには、少し気力を振り絞る必要があった。

 扉を押し開けるだけで結構消耗し、顔に笑みを貼り付けるのにまた消耗し、それでもとりあえずは、何もなかったように振る舞う。そして味のしない朝食を少量だけ食んだ。


 なんとか場を取り繕っていたのだけれど、会話には難儀した。

 頭が働かず、言われたことの三割程が、すり抜けてしまう。

 理解できたことを繋ぎ合わせて、なんとか意味を汲み取って、言葉を紡ぎ、その所為で無駄に気力も体力も消費してしまった。

 実際聞こえていることと、幻聴との区別もつけなきゃならない……。ただでさえ使えない頭がはちきれそうだ。

 途中でうっかりサヤを見てしまい、ズキンと胸が痛む。

 娘らしい服装をしたサヤは、綺麗なのに、とても苦しそうに見えたのだ。

 俺は、間違ってないはずなのに……。

 そんな言い訳みたいな感情が、胸に刺さる。

 笑ってないサヤに、胸が軋む。

 痛みに顔を顰めてしまわないよう、気合いで口元の笑みを維持した。

 けど、結局そのあとは散々だ。

 だんだん集中が保てなくなり、雑音も酷くなり、気持ちがぐらぐらと揺れて均衡を崩す。失言が増える、妙な恐怖が胸を騒つかせる。サヤがバルチェ商会までルーシーを護衛すると言い出し、反対する俺を無視して、ハインがサヤに許可を出した。

 その挙げ句、ギルには殴りたいなんて言われて……。


 俺、どうすればよかったんだ?


 虚無感に取り憑かれて、なんかこのまま消えてしまいたいと思った矢先、ギルに夢の中で見たように、抱き竦められた。


「お前さ、いい加…………辞めろよ。

 そんなに苦…………、捨てるより、…………く方に、苦しむべきじゃ……か」


 耳元で、ギルの声がする。

 殴りたいって、言ったのに……。

 ギルの腕が少しきつくて、苦しい。

 大抵ギルはちぐはぐで、俺がどうしようもない時、言ってることとやってることが食い違う。

 ぼんやりと霞む頭でそんなことを考える。

 ギルが何か言ってるのに……もう、半分くらいが俺をすり抜けてしまって、意味を考えるのも億劫で、頭が働かなかった。



 ◆



 そこから暫くは、ただそこに居るだけだった。

 誰かの立てた物音が、急に耳元で吹かれた大音量の笛のように聞こえたりして、いちいち頭を揺さぶってくる。

 やばいかもしれない……。なんかもう、動く気力も湧かない……。急ぎすぎたかな……多分そうだったんだろう……。色々がキツすぎて、視界まで歪んできた気がする。

 どうしよう……こんな場合じゃないのは重々承知してるのに……。

 長椅子の背もたれに寄りかかったまま、俺は考えることもできずにいた。

 どうにかしなきゃいけないのは分かっているのに、何をしたらいいかわからない。

 どうにかしなきゃいけないのに……。

 どうにかしなきゃ……。

 ただそれを繰り返していた時、耳に叩きつけるような音が響いて、俺は飛び起きた。


 どこからの音が分からず、視線を彷徨わせると、ギルが応接室に来ていた。

 怖いくらいの顔で、俺の方にまっすぐ歩いてくる。

 俺……また何か、失敗したのか?

 よく分からないままに、不安が胸を圧迫してくる。

 そんな俺の心情を知ってか知らずか、俺の前まで来たギルは、一度ぎゅっと眉を寄せて、それから何か言った。


「……、……ヤの手当て…………てやってくれ……」

「手当て……?」


 手当て。そう聞き取れた。けれど、何故ギルが手当てと言ったのか分からなかった。だから首をかしげる。すると、ギルの後ろにサヤがいた。使用人の服を着て、いつもの男装で、左腕を庇い、右手を伸ばして、いる、サヤ。の、左腕が、赤黒く、染まって、いる。


「サヤ‼︎」


 サヤは、顔を歪めて逃げるように二歩引いた。

 俺は無我夢中でサヤの腕を掴みに行く。染まっていない右腕を掴み、引き寄せ、左腕の手首を掴むと、サヤの腕は冷たかった。微かに、震えてすらいる……やばい!

 血を失いすぎると、体が震える。

 だから俺は、サヤを無理やり引っ張った。嫌がってる場合じゃない。下手をしたら、この世のどこからも、サヤを失う!

 ギルが、使用人が運んで来た治療道具を小机に広げてくれたので、机の上をざっと見て鋏を取る。邪魔な袖を切って開く。傷を縛っていた手拭いも毟り取った。


「お前…………」


 ギルが呻く。

 サヤの上腕には、赤く長い筋が走っていた。手のひら大の長さ。傷はまだ塞がってすらいず、端から赤い筋が、肘に向かって伝っていく。

 想像していたより酷くはない。だが、赤黒い血が固まって、腕を斑らに染めている。一体どれくらい放置してたんだ⁉︎ 俺は喚きたい気分だった。


「縫うほどでは無いようですね……。サヤ、事情を説明してください」

「それは後だ‼︎

 ハイン、手拭いを塗らせ」


 この状況に説明を求めるハインを怒鳴りつけると、サヤがビクリと身を竦めた。

 説明なんて、そんなものどうでもいい。それよりもサヤを、繋ぎ止めなければ。

 そこではたと、現実に気付く。

 俺の手では、押さえてられないかもしれない……。

 右手は握力が弱いし、包帯を巻くのだって片手では無理だ。押さえておかなれば、サヤは痛みで暴れるかもしれない……。

 慌てて周りを見渡す。

 生憎、ギルが人払いをした後なのか、使用人の姿がない。

 焦ってギルに女中を呼ぶよう、お願いしようと視線をやると、途中でルーシーを見つけた。良かった!

 ルーシーにサヤの腕を押さえておくようお願いしてから、ハインが差し出した手拭いを受け取り、サヤの腕を綺麗に拭う。汚れは残しては駄目だ……膿みやすくなるって、サヤが言ったから。傷口の近くも拭ったが、サヤは声を上げなかった。

 水差しの水で傷口を洗う。下に置かれた盥に、薄紅色の水が注がれる。新しい手拭いで、濡れた腕と、滲む血を拭ってから、俺は意を決して、サヤの傷口横に両手を添えた。


「んっ…………」


 サヤが初めて呻いた。くぐもった、押し殺した声で。

 傷口を開いたのだから、無論痛いだろう。癒合し、血の止まりかけていた部分も、無理やり剥がされた為、出血の量が一気に増えた。

 血を拭いながら、全体を丹念に確認して、ルーシーにも傷口に異物が入る可能性があったかを確かめる。青ざめていたが、ルーシーはきちんと答えてくれた。問題無さそうだな……なら、あとは傷を塞ぐだけだ。

 左手で腕を掴むようにして傷口を合わせる。そうしてから油紙を当てて、包帯でキツめに縛っていく。

 縛る間も、サヤは顔を背けたまま、悲鳴を上げなかった。

 ただ、痛みに耐えているのは、腕に力がこもる感覚で分かる。痛くないはずがない……。そんなの当然だ。なのに、なんでそれすら、我慢する? そんなことまで遠慮するのかと思うと、胸が苦しくなった。

 最後まできっちり巻き終わり、端を括って止めるそこまで来て、俺はやっと、全身の力を抜く。サヤも、痛みに耐えきり、ぐったりと長椅子に寄りかかっていた。

 良かった……傷は、大きかったが、最悪なほど深い……なんてことは無かった。

 とはいえ、軽いものでもない。当分消えないだろう……もしかしたら、一生残るかもしれない。

 けど……サヤを失くさずに済んだ。それだけで、今はいい。


 間に合わなかったのかと、思った……。

 俺がサヤを手放せないでいるうちに、決まってしまったのかと思った。

 罰が、もう、サヤを、絡め取ってしまったのかと……。

 我慢する。我慢できる。

 サヤが、この世のどこにも居ない絶望に比べれば、会えないくらい、我慢できる……。

 そう思ったときには、手が泳いでいた。

 サヤの温もりに触れ、確認する。まだここにいる。

 そうすると、もう離せなくて、両手で拘束するように捕まえてしまった。

 サヤが慌てて、何か言っていたけれど、包帯を巻いたばかりの腕を動かすから、咄嗟に叱りつけ、腕に力を込める。

 失くすことに変わりはない。だけど、どこかに居ると思えるなら、我慢できるはずなのに、ちぐはぐな俺は、気持ちと身体が食い違っていた。

 ごめん、ごめん、失くしたくないなら我慢しなきゃいけないのに、ごめん。

 ひたすら謝りながら、サヤが今ここにいることを、噛み締めた。


 いつの間にか、サヤは震えなくなっていた。

 どこかぼんやりする頭で、何故震えていたんだろうかと考えていると、痺れを切らしたハインが、サヤに詰問を始めた。


「サヤ、報告して下さい。なぜ手傷を負ったのですか。誰に、このような仕打ちを受けましたか」


 その言葉に、サヤを傷付けた誰かという存在に気が付いた。

 ハッとする。

 そうだ……サヤの腕に、刃物を這わせた者が、いるのだ。

 ずっと残るかもしれない傷を、刻みつけた何者かが。命を刈り取るかもしれなかった、何者かが。

 それに気付いた途端、腹の底の、モヤモヤしたものが、カッと熱を持った。

 サヤがしどもど、状況を説明していく。話す中に、幾人もの人がチラつく。ルーシー、バート商会の使用人、エゴンの息子、刃物を持った来客、こいつか。そう思ったら、熱は一気に膨れ上がる。


「そいつがサヤを斬ったのか……」


 心で思ったことが、勝手に口をついて出た。

 そいつがサヤに、俺の罰をなすりつけようとした奴か。


「事情が、あったんです! それに私が、急に割り込んだから……悪いのは私です!」

「だがそいつが……!」

「無理な返済を強いられてて、どうにもならなくなってらしたんです!」

「だからって‼︎」


 だからって、サヤが傷付く謂れは無かったはずだ!

 そいつをどうにかしなければ、またサヤを害しに来る。ふいに、そんな予感がした。俺はいてもたってもいられなくなって、膝に力を入れる。頭の中をなんとかしなければという言葉が、繰り返される。取られる、消される、なんとかしなければ。先になんとかしなければ。サヤを消そうとしたのだから、先に消さなければ、またそいつが……!

 だが一歩を踏み出す前に、柔らかい感触が、俺の腰に絡みついてきて、それを振り払うために見下ろすと、サヤだった。

 腕に巻かれた包帯に自ずと視線が張り付いてしまい、俺は動くに動けない……。


「家族のことを、叫んでらしたんです……父親を亡くしたら、家族が、困ってしまう……。ほっとけなかったんです………」

「サヤ、傷に響く、手を離せ……」

「大丈夫やから、レイ、落ち着いて……。大したことない……。こんなん、全然大したことあらへんから。

 レイらしくないんは、嫌や。な?」


 言い聞かせるように、ゆっくり囁くように言うサヤの声が、俺の中の熱源に染み込むようで、怒りか焦燥なのか、よく分からなかったものが、次第に蠢くのを止めていく……。

 ふと気付くと、いつの間にか俺を取り巻いていた油の皮膜のようなものが、無かった。

 雑音も無い……。半分理解できていなかった言葉の波が、普通に聞き取れるようになっている。

 あれ?

 どこか滞っていたような思考も、違和感を無くしていた。

 サヤの手が、ぽんぽんと、俺の背を叩いている。

 サヤが俺に触れてる……。それに、どういうわけか、安堵していた。


「サヤ、誰を庇っているのか存じませんが、それでは正確な状況把握ができません」


 ハインが、怒りを押し込んだような顔で、サヤを説教しはじめる。

 ギルが、俺に心配そうな目を向けていたが、視線が合うと、ホッと息をついた。

 そして、とりあえずは落ち着けと言わんばかりに、お茶を入れようと言い出す。俺にしがみついたままだったサヤに視線をやり、それから俺を見て、少し意地の悪い顔をする。


「サヤ、お前は、長椅子に横になっとけ。結構血を失くしてる筈だ。

 レイは……サヤの様子をきちんと見てろ。こいつ、俺が手当てするって言っても触れさせやしねぇ……あの状態で逃げやがったんだ。

 お前しか触れないんじゃ、お前が診とくしかねぇ。分かったな」


 ひくりと、サヤの手が反応した。

 俺がサヤに視線を落とすと、俺に絡みつけていた腕をそっと離し、視線も同じく、明後日の方を見る。

 あの状態で、逃げた…………。


「分かった……診てる」

「あ、あの……ごめんなさい、その……ほんと、ごめんなさい……」


 視線を空中に彷徨わせながら謝罪をするサヤに、いつも俺が言われていたように「寝なさい」と、言うと、こくこくと頷いた。



 ◆



 サヤの怪我をした経緯を改めて聞くと、さもありなん……サヤだな。という感じだった。

 つい人のことに足を突っ込みたがる辺りが。

 怪我の経緯が、サヤを狙ったものではなく、偶然が運悪く重なってといった感じだったので、胸を撫で下ろす。

 サヤを標的にと定めた相手じゃなくて、心底ホッとした……。そんな奴が現れたら、俺はそいつに何をしてしまうか分からない……先程の熱を思い出して、背筋が寒くなる。

 俺は、事情を知りもしないで、何をしようとしていたのか……そう考えると怖かった。

 サヤが止めてくれなかったら……俺らしくないのは嫌だと言ってくれなかったら……あのまま外に向かっていたら……。相手の顔も素性も分からないのだから、どうしようもなかったとは思うけれど、感情に溺れてしまう自分は気味が悪かった。


 俺がそんなことを考えている間に、ギルが溜息をつき、ハインが思案に暮れ、サヤがウーヴェという、エゴンの息子を擁護している。


「怪我の手当ても申し出て下さったんですけど……触れられたくなかったんです……。だから、ルーシーさんに無理を言って、付き合って頂いたんです。あの……ルーシーさんを怒らないで下さいね。全部、私が無茶を言ったんです」


 ギルが渋面になってる。

 触れられたくないって、傷の手当ては例外にしろよと思ってるのだろうな。

 震えていたし、きっと怖かったのだと思う。ギルには、急に湧き上がってくるような恐怖というのは分からないかもしれない……経験がないと、あの感覚は理解できないと思う。理屈じゃないんだ。

 と、……? 震え……? サヤは、男装してるのに?

 違和感を覚えた。

 収穫の手伝いをしている時のサヤは……男がすぐ側にいても、ぶつかっても、たまにポンと肩を叩かれても、怖がっている風ではなかったということに、気が付いてしまったのだ。

 女性として扱われるより、同性と思ってもらえた方が楽だと言っていたのを思い出す。

 サヤは自分が男だと思われているなら、側に男が来ても、あまり意識しないで済むのだと思う。

 なら、震えていたのは……知られてしまったからなのでは? 女性として見られたと、認識したからでは?

 でもそうなら……知られてしまったことを、報告すべきだ。

 それとも、あれはやはり、血を失いすぎたせいで、震えていたのか?


 どちらとも言い難く、俺がサヤに触れていた手をなんとなしに眺めながら考えていると、気付いたギルにどうしたと聞かれてしまった。

 いや……確証があるわけじゃないしな……。首を振ってなんでもないと伝えておく。

 そもそも、男だと思われてるなら、怖くない……なんていうのにも、根拠は無い。なんとなくそうなのではと思ってるだけだしな……。


 なんにしても、そのウーヴェという、エゴンの息子に会ってみれば、何かしら分かるかもしれない。

 ギルが蛇に似てると言ってたけど……サヤは爬虫類が苦手……という可能性もあるのだし。

 なんとなく怖くて嫌とか。女の子はそんなのがよくあるのじゃなかったか。

 結構失礼なことを考えていたが、ハインがサヤに、マルとの交渉について話を振ったので、俺の意識はそっちに全力で方向転換した。


 結構な血を失っているはずなのに、サヤは頑なに出ると言い張っている。

 今日は、もう休んでいるべきだ。そう思ったのだがサヤは受け入れない。長椅子から身を起こすので、寝ているようにと制止するが、それも拒否されてしまった。


「自分のことです」


 そう言うサヤは、瞳の中に、何かチラリと、イラつきのようなものを覗かせた。

 少なからずムッとしてしまう。サヤの体調を心配してるだけなのに……。それどころか、交渉自体を自分でしたいと言い出す始末。

 何を言ってるんだ。これは初めから、俺たちですると言っていた筈だ。

 先程までは頭が働かず、正直どうしようかって思ってたのだが、俺はそんなことも忘れていた。サヤの強情さに気分を害し、その勢いのまま、思ったことを口にする。


「駄目だ! あんなに血を失くしてるのに、集中出来るわけないだろ⁉︎ 俺は明日だって、サヤを人前に晒す気は無い! ここで大人しく……」

「レイは、そないに私を、居いひんかったことにしたいん⁉︎」


 叩きつけるように言葉を浴びせられた。

 怒鳴られた…………。

 一瞬それが飲み込めない。

 俺を睨みつけるサヤの顔が、前に怒った時のそれとは比較にならないくらいで、俺は釘を打たれたように、固まった。

 睨んでいるのだけれど……何故か悲しそうに見えた。


「私な、レイが私のこと帰さなあかんって、言わはる度にな、ちくんって、なんや、棘が刺さる心地やった。

 レイがここに残るよう言うた時も、そうやったんよ?

 ずっとその事について、考えとったん……。

 何が痛いんやろって。何が辛いんやろって」


 静かな声音だったが、普段より低い、重たい声だ。腹の底に、響くような……。


「ようやっと分かった。

 私、レイにいいひんかったことにされるんが、嫌やったんやわ。

 私がここにおることが、間違うてることみたいに言わはるんが、嫌なんやわ。

 けど、私は、ここにおる。京都やのうて、セイバーンにおる。今のこの瞬間が、私の現実や」


 長椅子から足を下ろし、俺の方に向き直る。

 視線を俺から離さない。俺は、サヤの視線に気圧されて、身を引いた。

 だが、膝をついて座り込んでいたため、それ以上の距離を取ることができない。

 するとサヤは、俺に向かって、身を乗り出し……膝が当たるほど近くに座り込んで、俺の顔を至近距離で睨む。


「今、決めた。

 私、勝負するレイの罰と」


 ……罰?

 俺を睨み据えるサヤが、俺の目を見つめるサヤが、俺じゃなく、俺の中を見ている気がした。


「私、いいひんかったことにされたない。せやから、戦うことにする。

 覚悟してな。もう決めたし、レイが何言うたかて、聞かへんから」


 夜の部屋や、二人の時にしか口にしなかった、訛りの強い、サヤの言葉で言う。

 だが、その内容に俺は慌てた。俺がサヤを居なかったことにしようだなんて、そんなことは思ってやしない。ただサヤを、失くしたくないだけなんだ。


「何、言ってるの?

 俺は、別に、サヤをいなかったことにしようだなんて、思っ……」

「思ってるやろ⁉」


 最後まで言い終わる前に全力否定された。ハインもかくやという眼力で睨み据えられた。


「何度も何度も言われたのに、分からへん訳ない。私はそこまで、阿呆と違う!

 レイはそう思うてる。おることに、慣れたらあかんって言うたやない。私がいいひんのを、当たり前にしようとしてはるやない。

 罰やからって、持ったらあかんって。それで私を、無かったことにするんや!

 今までの時間全部、無かったことにしようとしてる! これからも、作らんようにしようとしてるんや‼

 私は、レイと共有した時間を、無かったことになんてしいひん。絶対に、許さへんから!」


 無かったことにしようとしてる……。

 それは、俺が心の奥底に沈めたことだった。

 知ってしまったら、失くせなくなってしまうから。

 幸せを得てしまうと、消えた時に耐えられないから。

 全部知らなければ、苦しくない。

 初めから持ってなければ、無いことを知ることもない。

 サヤは元から、この世界の人間じゃない。俺が得られるものじゃない。だから……。


「レイ。よく聞き。一回しか言わへんし。聞き逃したらもっと怒るしな⁉」


 サヤの気迫に、ただ反射で頷いた。

 そんな俺に、サヤは叩きつけるように言ったのだ。


「罰なんて無い。

 今までも無かったし、これからも無い。

 レイは何も失くしてへん。

 無かったことにせなあかんって思うから、辛いんやろ。

 私がいいひん日が来たら、私と共有した時間が、消えて無くなるとでも思うてるん?

 使うた時間はレイのものやろ。誰にも取られへん。失くなったりもせえへん。

 レイは、ちゃんと持っててええ。

 私は、レイの中にいっぱい、私のことを残す。沢山残す。

 それで、レイが何も失くしてへんこと、罰なんて無いこと、証明していく。

 ここにいる時間全部使うて証明する!

 それが、私と、罰の勝負や。分かった⁉」


 嵐が吹き抜けていくように、宣言した。

 そしてグッと、胸を逸らす。腕を組んで、ふんっ! と、怒った顔でふんぞり返った。


「私は忘れへん。どこに居っても、レイのこと忘れへん。私の世界に帰った後も、なかった事になんてしいひん。

 それで……もし帰れへんかったとしても、私の居った世界を、無かったことにも、しいひん。

 辛くても、悲しくても、幸せやったことまで捨てる必要ない。ちゃんと覚えとく。忘れへん」


 それは俺への、宣戦布告だった。

 持たないことで失くさないようにしようと願う、臆病な俺への。

 これは罰だと。俺に課せられたものだと言い訳して、ずっと逃げてきた俺への。

 得ようと、足掻こうとした時も、あった。

 でも途中でそれも辞めてしまった。もうこれ以上を失くしたくなくて。それ以上は耐えられないと思ったから。

 失くした時、胸が苦しくなることに耐えられないから、もうそれをしないと決めてしまった。

 だけどサヤは、苦しくても思い出すのだ。苦しさと一緒にある幸せを失くさない為に。

 自分の世界に帰っても、俺を無かったことにはしないでくれると言った。

 それは……俺を、大切なものの中に、加えてくれてると言ったようなもので……俺は、心臓が潰れてしまうかもしれないと思った。


 そしてサヤは、故郷も忘れないと、言った……。


 この世界にいる限り、サヤは不幸なのだと思っていたのに……俺の側にいる限り、辛いままだと思っていたのに……失くさないと言ってくれた。ここにいても、サヤの世界が、サヤの中から消えたりはしないと。ここにいることが、不幸ではないと、言ってくれた。


 なんだろう。胸が痛い。明らかに痛い。

 痛いのに、なんだろうこれは……。苦しいのに、張り裂けそうなのに……。

 どうして俺は、こんなにも嬉しいんだ…………。

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