視線
「お伝えしておりました通り、木炭の製造量を倍量近くに増やすとなると、やはり値上げは致し方ないこととなります」
「何故ですか。今年はやむなし……と言うならば分かります。今後もということが、こちらは納得がいかない」
交渉は淡々と始まった。
お茶を楽しみ、人心地ついたらダウィート殿は、直ぐに気持ちを切り替えたよう。
「オゼロからこちらまでの送料が嵩むことが大きな理由のひとつになります。
今回我々がこちらに寄らせてもらう際、輸送経路を辿らせていただいたのですが、街道幅の狭い場所も多く、一度に多くを運びにくい。
そのためどうしても輸送本数を増やすことになります」
「それはセイバーン領内でのお話ですか?」
「いえ、セイバーンまではヴェルテ経由で輸送を行なっておりますので、セイバーンに限らず、その道中のお話となりますね。ヴェルテの求め以上をセイバーンが必要とするならば当然、ヴェルテの関与しない輸送に関しての費用は、セイバーン持ちとなりますので」
普通に考えれば、オゼロから離れた領地は送料が嵩むことになる。
しかし、それで料金が跳ね上がっていては、地方に行くほど燃料費が高騰してしまい、民の生活を圧迫しかねない。
そのため、送料は国全体で計算され、分割がされている。纏めて運べるところは纏めてしまい、輸送の途中、立ち入る領地に荷を下ろして行く形となっており、量もその便の本数で割られている。
今まで、セイバーンが求めていた木炭の量が、今年からほぼ倍となり、荷の量を倍にできるほど積載量に余裕が無かった。
だから、今年はどうしても送料が嵩む。というならば、納得できるのだが……。
「ヴェルテの便が増えたわけではありませんのに、木炭だけ倍になるのです。致し方ないとご理解いただきたい」
それは分かるが……ならばヴェルテを経由する便に拘る必要は、全く無いよな。
「でしたら追加分はアギー経由に経路を変更することをご提案します。距離とてさほど変わりはありませんし、あちらの木炭量は我々の比ではないのでしょう? 送路もきちんと整備されているはず。それならば本数を増やして対応する必要はないでしょう?
セイバーンとアギーは交易路を設ける予定が進んでおりますし、そちらの開通が二年内と考えられております。
現在は交易路資材の運送も頻繁に行なっているので、安全性も確保しやすいかと。
それに今後、セイバーンの木炭使用量は増量こそあれ減量となることは当面見込めませんから、交易路の通行税が経費に加わることを考えても、こちらの方が妥当」
「減量は無い。その保証などございませんでしょう? そうおっしゃるならば根拠を示していただきたいのですが」
「こちらが現在の職人収容率、在籍数。それと、無償開示品の習得を目指し来村されている方の人数。無償開示から、開示品の習得に多くの職人がこちらに来られております。これが根拠ですね。指導者の人数的に数を、捌くためにも木炭が必要なのです。
一度に多くを指導し、早く習得していただきたいのです。でなければ回りません。フェルドナレン中の職人を受け入れられる場所が、まだここしかございませんから」
「そちらを広げるということは? それこそ王都や我がオゼロに支部を設けていただければ、セイバーンのみに木炭を大量輸送する必要はない」
「無理です。まず職人が増えぬことには。
無償開示したとはいえ元は秘匿権所持品ですよ。作れる人数が限られるのは当然でしょう」
……セイバーン……もとい、俺が発言力をつけることを牽制してきている気がするな……。
交渉を始めて数時間。相手の目的はどうやら秘匿権無償開示に対する牽制だけではないようだということが、徐々に理解できてきた。
木炭製造における人件費、材料費、そして運搬費用に至るまで問題があると述べていらっしゃるが、セイバーンに職人が集まることを懸念している節が、会話の中にちらほらと見えていたから。
思えば、任命式の前からその節はあった。俺が他の長らと交流を深めることを、阻害してきていたものな……。
けれどそうする理由。そして交渉にこのダウィート殿を出してきた理由が、まだ見えない。
彼はとても冷静で、頭ごなしな対応を見せることは無かった。常に淡々と、理に適う内容のみを口にする。
また、細かな数字に煩かった。何事にも根拠。細やかなことでも追求してくる。こちらも適当なことは口にできない。マルの用意してくれていた資料が、大変役に立ってくれている。
とはいえ、気は抜けない……集中。今は。
「ふむ……職人が増えぬことには……ですか。
では、将来的には考えていると?」
「無論です。たったふた品の秘匿権無償開示だけでこれだけの職人が集まるのです。今後無償開示が増えれば、この村だけで指導を行うなど無理でしょう。
それは私も重々承知。ですが、まずは職人の質を維持することが最重要。
オゼロ公爵様も懸念されていた通り、中途半端な技術を垂れ流すなどあってはならないのです。それでは国民の生活向上、国力の底上げにはならない。
それだけでなく、現段階では、この村での指導を徹底しなければならない理由がもうひとつあります。
ただ職人を増やしても、支部を広げることは不可能。できるとしても、現状では十年ほど先となるかと」
考えてはいるが、当面は無いよと示すと、ダウィート殿は瞳を伏せ、思案を巡らし始めた。
けれど、何故十年は先と示したかの理由には、思い至らなかったよう。
「申し訳ない。何故十年は無理という試算になるのでしょう。
今の頻度で職人を増やせば、各都市ごとに一人指導者を置くくらいのことは容易にできるはず……」
「品質の維持を考えずとも良いならば、そうですね。
ですが、理由を述べるには、まずブンカケンの運営体制からお伝えせねばならないのですが、よろしいでしょうか」
「大変興味深いです。是非お聞かせ願いたい」
そういうのは結構。……とは、ならないんだよな、この人……。
なんとなく情報に対する貪欲さがマルを彷彿とさせられるというか……。
交渉ごと以外の話が増えてしまって少々厄介だけれど、ここを蔑ろにして信用に欠けると思われては本末転倒だ。
だから正直に、質問に答えるしかなかった。
ダウィート殿は、文官というより、学者肌の人である様子。
ただ交渉を任されている人という印象ではない。だが、ならばこの人はオゼロの何か……という部分も分からない。
家名は捨てているのか名乗られなかったしな……。家名を捨てる……柵を捨てる……その上で貴族社会に留まるというのは、貴族にとって生半可なことではない。
マルがいてくれれば、名前や容姿からある程度情報が絞れたかもしれないのに……。
「秘匿権品は無償開示となっても、その品を指導し、製造許可を出せるのはブンカケン所属職人のみに絞っています。
習得した者には製造権があるだけ、指導権はありません。
それは、今無償開示している品が、そのままではない可能性が高いというのがまずひとつ」
「…………そのままではない?」
「改良し、より良いものにしていく可能性がありますから。例えばこの硝子筆であれば、筆先のみを取り替えできないか、今色々と試作中です」
「……なんと…………それを口にしても良いのですか?」
「もう無償開示し、国で管理する秘匿権です。他に奪われることもないでしょう。
それに、形はある程度見えてきていますので、改良に何十年と掛かることはない……来年か、再来年には出せると思います」
「………………無償開示した品……と、いうことは、新たな硝子筆として提案するのではなく、亜種として出すのですね……。それによる利益は考えないのですか?」
「利益よりも、優先したい目的がありますので。
この硝子筆に関しては、そちらを優先することにしています」
そう言うと、ダウィート殿は暫く沈黙。手元の書類に何かを書き記した。
その間に、ちらりと視線をやった先はサヤ……。
そうしてまた、続けてくださいと俺を促す。
俺は、分からないように息を吐き、乱れそうになる意識の手綱を、今一度握り直した。
「……今最善とされている形でも、今後変更がある可能性がある。不備が出る可能性もね。
だから我々は、誰がどの製品を習得し、指導しているかを把握しておきたい。何かしら変更点が出た場合、指導者全員に知らせが届く体制を維持したいのです」
「…………ですがそれでは、十年後ならば支部を広げられるとする根拠が分かりません」
「…………根拠」
「ええ、根拠。十年後は出来る。その可能性があるのでしょう?」
ダウィート殿との交渉を続けながら、頭は情報整理に半分使い、更にレイモンドの動きにも視線を配る。
広の視点を使えるようになっていて本当に良かったと思う。ただまぁ……とても疲れるから、集中を維持するのが大変だ。
サヤは、交渉が始まった直後から、後方で我々の話し合いを纏めている。
……ふりだけど。
話し合いの内容を覚え書きにしているふりをして、後方での会話を拾ってもらっていた。
ダウィート殿に付き従ってきているお二人も、覚え書きを取りつつたまに会話をする。
それを聞き取れる限り、拾ってもらっているのだ。
「根拠は…………識字率です。先程の、硝子筆にも関連することなのですが……。
現在ブンカケン所属の職人の識字率は、まだ低い……。
全員に文字を覚えてもらうか、もしくは読み書き計算を習得した職人を弟子に置いてもらうかしなければ、通達が行き渡りませんでしょう?」
「…………………………識字率」
「遠方に支部を置くなら絶対に必要です。新たに更新された情報を、必ず伝える術なしに、質の維持は不可能。
ですから、我々は硝子筆の秘匿権無償開示を最優先にしましたし、これからもここに収益を求めるつもりは無い。つまり、我が国の識字率を上げていくためにです。
私は現在の木筆の使用量。これの八割以上をこの硝子筆に置き換えたいと考えています。そのためにも木炭の値上げは困る。
今の硝子筆は銀貨五枚が最低価格。これをせめて、二枚までにしたい。そうすれば、この国の識字率は自然と上がる。記録を残すことが当たり前となれば、様々な品の品質だって変わっていくと考えています」
「………………貴方の話は飛躍しすぎます……」
「そうでしょうか? 世の中、全ては繋がっています。
麻袋に土を詰めたものがフェルドナレンの礎となるように、硝子の筆が国民の生活を変える。それは決して絵空事ではない」
本当は、交渉だけに集中したいんだがな……。
ダウィート殿と、レイモンドの視線。俺に向くそれが、品定めをするかのように、たまにサヤ、シザーへと移り変わる。
それが俺の精神力を削いでくる……。
ダウィート殿は、表情に乏しいせいで、感情の機微が読み取りにくい。だからいつも以上に集中を必要とする相手だった。
それに加えてレイモンドは、数多の女性を陵辱している。子爵家当主という立場を利用してだ。
商家に対し、かなり横暴な所業も行っている。
だからその視線が、サヤを標的にするのではという懸念……。
それが俺の精神を削ぐ。
けれど、どんな情報も余さず拾っておきたい。ジェスルが絡むかもしれないなら、尚のこと。
何よりサヤがそれを望んだ。使うべき者は使うべきと、主張した。
オゼロやジェスルの目的がまだ見えない今は、とにかく情報を得るしかない。
「我々は、ただ識字率が自然と上がることを願っているわけではありません。
十年後と言ったのは、それまでに我々の望む職人が育っている。その確信があるからです。
現在この村は、雨季明けから運営を開始する幼年院を備えております。
この村の子供たちに、読み書きと計算を覚えさせる。それが十年後の根拠。
彼らが育ち職人となる頃には、皆が文字を理解し、計算能力を身に付けた職人に育っているでしょう。
それと同時に幼き頃から、我々の目指すものを伝えてゆきます。
品質の維持が何故重要か。ブンカケンに所属した者が担う責任とは何か。そういったものを骨の髄にまで浸透させる。
一年二年で適当なことはできません。確実に結果を得るための十年。
我々は、ただ現在だけを見ていたのでは駄目だと考えています。十年先のための今。そして十年先が、百年先のための布石でなければ」
「そのために……わざわざ庶民を学ばせる場を、運営するのですか?」
「目的はそれだけではないですが。
秘匿権に関わる仕事が多い以上、秘密の保持も必要ですし、雑務も多い。女性の働き手も求められるので、女性の働きやすい環境を得る模索をした結果、こうなりました。
また、流民の保護も目的に含まれており、そのためこの村は母子家庭が多いのです。母親一人の状態で、子の面倒を見つつ働くのは容易ではありませ……」
「へぇ、崇高なことだ。でも貴殿、孤児まで漁っていたという噂があるが、じゃあそれは何のために?」
急に割り込んだ声に、集中が乱された。
今までの時間、交渉は全てダウィート殿に任されていたというのに、レイモンドの介入。
……孤児に触れないよう、話題を選んでいたこと、気付かれたか?
そう思ったものの、指摘を放置しておくわけにもいかない。
「何のお話でしょう? 漁った覚えなどありませんが」
「アギーの友人が言ってましたがね。孤児らを馬車に押し込めて連れ去ったのを目撃した……と」
それはまさか……あの窃盗団の子らのことか?
アギーの友人……という言い方がとても意味ありげで気持ち悪かった。敢えてブリッジスを匂わせてきたのかな。
そう思ったものの、そこを確認するわけにもいかない。とりあえず状況に誤解がないよう説明することに。
「その友人殿、酷い勘違いをされているようです。
先程申しました通り、我々は事業の一環に、アギーに集う流民の救済と雇用を含めております。
男性の働き手を持つ家庭は、交易路計画の雇用で収入を得られる。
けれど、孤児や母子家庭は、あの現場で職を見つけることは難しい。だからこの拠点村に招き入れました。
孤児らはこの村に設けてあります孤児院におりますよ。神殿の許可も得ております」
「左様ですか」
あっさりと矛を収めるレイモンド。
けれど、その嘲りを含んだ表情がしゃくに触り、心に嫌な負荷をかけてくる。
しかし俺の視線は、ダウィート殿から謝罪が入ったことで向かう先の修正を余儀なくされた。
「部下が失礼。その話、上からは聞き及んでおりませんでした。
流民救済……そのようなことまで含めていらっしゃるとは」
「……セイバーンはアギーと隣接しておりますし、施設の有無や距離的な問題もありますから、他の地での交易路計画には含めていないのです。
そのため、交易路計画としてでなく、私の研究所を兼ねた、この拠点村での事業としています」
その言葉でダウィート殿は熟考に入った。
ただ何を考えていらっしゃるのかはとんと読めない……。表情が乏しい人はやりにくいな……。
しかし、さして間を開けぬうちに、トントンと訪を告げる音。
「どうした」
「お時間です」
「もうそんな時間か……。
ダウィート殿。本日はここまでと致しませんか。田舎の郷土料理となりますが、晩餐をご用意いたしました。
続きはまた明日、お時間を頂ければと……」
「あぁ、そうですね。私も少し聞いたお話を纏め直す時間を頂きたい。
ふむ……なかなかに興味深い。思っていた以上に複雑です」
「まずお部屋へご案内致します。荷はもう運び込んでございます。
晩餐のお時間ですが、如何致しましょう。しばしお部屋でおくつろぎになりますか?」
「では身支度を整えたく思うので、半時間ほどお時間をいただけますかな」
ハインとやりとりするダウィート殿。その間に、会合中の覚書きや資料をまとめていく部下ふたり。
部屋を出ていく三人を見送っていたら、最後に部屋を出るレイモンドが、俺に意味ありげな視線を向けてきた。そうして口角を引き上げる……。
扉が閉まると同時に、俺は膝の力が抜けるまま、床に崩れた。
◆
「レイシール様!」
「ごめん、大丈夫……ちょっと緊張してたから…………今それで、気が抜けただけなんだ」
バクバクと早鐘を打つような心臓。
もうとっくに塞がっている太ももの古傷が、思い出したかのように疼き、心音と重なるように鈍い幻痛を伝えてくる……。
気力で保っていた色々が限界で、吹き出す脂汗が顎を伝い、床に落ちた。気持ち悪い……。胸部が圧迫されているみたいな違和感。吐きそうだ。
馬鹿だな……兄上じゃない。それが分かっているのに、なんでこうも、翻弄されている……。
「シザーさん、お部屋までレイシール様を運びましょう」
「いや、少しここで休めば充分……」
「そんなん、あかん! シザーさん、お願いします」
有無を言わせぬサヤの言葉が終わる前に、シザーがあっさりと俺を担ぎ上げてしまった。
え、それはちょっと……っ、横抱きだけは、勘弁してください!
「シザーッ、下ろせ! もしくはそれ以外の担ぎ方っ! それだけは止めてくれっ」
何が悲しくて、恋人の前でご令嬢よろしく横抱きされなきゃならないんだ⁉︎ そんな姿を晒されるくらいなら、ここで吐けって言われる方がマシなんですけど⁉︎
必死で暴れたら肩に担ぎ直された。
そして風のような速度で部屋に走られ、揺すられ、腹部を散々圧迫されて振られた結果、更に吐き気が増してしまい、気持ち悪くて起き上がれなくなった……。
いや、俺が望んだんだから文句はないけどね……。
寝台の上に放り出され呻いていたら、遅れて来たサヤに上着を剥ぎ取られ、上掛けを掛けられてしまう。
「サヤ、半時間しかないんだ、寝てられない……」
「そんな顔色で何言うてるん⁉︎」
「いや、これ半分は揺すられたからだよ……」
でも、そんな風に二人が俺を心配してくれる、その温かい気持ちは伝わったから、会合直後の怖気は引いていた。
深く呼吸することを意識すれば、圧迫感も自然と引いてくる……。だけど……。
起き上がろうとする俺を、寝台に押さえつけようとしたサヤの手を取って、代わりに頬に。
その心地よい人肌の温もりに瞳を閉じた。
「眠るより、こっちの方がいい……」
サヤに触れたい。温もりが欲しい。心が冷え切ってしまってるだけだから、俺はこれで元気になれる。
そう思っての行動だったのだけど、急に動きを止めてしまったサヤ。閉ざしていた瞳を開いたら、俺に握られた手を頬に固定されたまま、真っ赤になって固まっていた。
その後方で、ハッと我に返ったシザーが、慌て、焦り、まろびつつ部屋を飛び出していく。…………いや、そこまでのものを求めたんじゃ、なくてだな…………。
「…………誤解なんだけど……ちょっと、触れてほしかっただけ…………」
…………いや、言葉と行動を選ぶ余裕がなかった俺が悪いな…………。
「ごめん。サヤに触れていてもらえたらそれで……それで充分なんだ。
今ちょっと、兄上を思い出してしまっていて……それで気持ちが、少し、重たくなっているだけで……だから…………」
お前は俺のなんだと。だから壊しても良いのだと、俺を見下ろしていたあの冷たい視線。
物を見るみたいな、だけど、乾いた身体に必死で水を欲するみたいな、飢えた視線……。
あれに似たものがまた俺を見るから、精気を吸い取られでもしていたみたいに、気持ちが凍えているんだ。
標本よろしく、じっと固まってなきゃならないと、身体が過去に引きずられてしまっていて……。それを無理やり動かしていたから、疲れてしまっただけ。
だから、なんでもいい。温まりたい。触れておいてほしい。独りじゃないんだと、孤独じゃないんだと、もう嵐は過ぎ去ったのだと、そう、実感したい……。
ただ、それだけのつもりだったのだけど…………。
温かく、柔らかいもので唇を覆われた。
視界を覆う黒髪。胸にかかる重み……。
唇だけでなく、被さった身体からも熱が伝わってくる。
左頬にあるサヤの手が、労わるみたいに俺の頬を撫でてくれて、俺も自分の右手を持ち上げて、サヤの左頬に触れた。
啄むいつもの、ささやかな口づけ。
そうして唇が離れて……。
「ごめん……」
やっぱり、もっと欲しい。
けれど、それを言葉にする前に、もう一度唇が塞がれた。
長く押し付けられた唇は、まるで何かを待つみたいに少し開かれていて、誘われるままに舌を伸ばして、後はもう夢中で食らいついた。
そうして実感する。
あぁ、枯渇していたのは俺だ。
兄上はもう今世にはいらっしゃらない。来世に旅立ってしまったから、もう……。
なのに俺は、己の罪悪感から、似た視線を兄上のものと錯覚して、勝手に傷付いて、サヤでそれを、埋めたいと思ったのだ。
多分ずっと、助けを求めていた兄上。
だから俺を、自分の痛みを移すための容れ物として、欲していた。
そう思えば、あのレイモンドと兄は違うのだと、理解できる。
あれは違う……。あれが欲しているのは、痛みを移す容れ物ではなく、快楽を満たす生贄だ…………。
兄上と似ているのは、レイモンドじゃない……。
「…………ありがとう」
唇を離しそう囁くと、上気した頬のサヤが恥ずかしそうに身を起こした。
視線を敢えて合わさぬように逸らし、けれど俺の横を離れることなく、寝台の端に座したまま手を握って、もう少し休み。と、優しい声音で告げて、後は沈黙。
きっと自分から促したみたいな口づけのせいで、顔を見るのが恥ずかしいのだな……。
そんなところが本当に可愛い。
ちゃんと温かいサヤの手。それが、彼女にはまだレイモンドの魔手が伸びていないことを知らせてくれる。
よかった……俺の婚約者ってことが、あいつのつけいる隙になりはしないかと、気が気じゃなかったから……。
その心地よい熱に身を任せていると、「どうしてお兄様を、思い出さはったん?」と、気遣う優しい口調で問われた。
「…………視線が、似てる気がした…………。だけど違う。それはもう理解できたから、次は大丈夫。
ごめん……心配を掛けてしまった?」
「…………今日はちゃんと一人で我慢しようとせえへんかったから……許したげる」
その言葉に吹き出してしまう。
まったく、我が妻となる人は、俺の心を軽くする天才だよな。
「レイモンド……何かは分からないけど、何かを仕掛ける気でここに来てると思う。
あの男がジェスルと繋がっているっていうマルの推測は、正しいのだろうな。実感したよ……」
そう呟くと、サヤがちらりと、視線をこちらに寄越した。
「オゼロとして動いている今、ジェスルとしての行動を、はたして取るだろうか……って、そう思っていたけれど、多分動く。
あいつ本人が動くのではなく、ブリッジスを使うつもりなんだろう。だから時を被せてここに来たのだと思う」
レイモンドは……俺とダウィート殿との会話を、ずっと嘲りを込めた視線で眺めていた。
口元には同僚から隠すように手が添えられており、そうして隠された状態で、俺たちの話の節々で歪められ、何かを呟いていた……。
下からすくい上げるように睨めあげてきていたあの視線……どこを刺し貫いてやろうかと、急所を探すように、俺を見据えていた。頭の中ではきっと、ずっと、呪詛を吐いていたのだろう。
「……あまり気長な男には見えなかったしな……」
今回が下見……なんてことは無さそうだ。そんな風に考えていたら、サヤから合いの手が。
「同僚さんとの会話も、基本が嫌味やった……」
「嫌味?」
「同僚さんが、凄いね。みたいなことを言うたり、感心したりするとな、それを全部否定してた。
同僚さんは、それがこちらに聞こえてへんかって、ずっと気が気やない感じで窘めてはってんけどな、最後の方は余計なこと言わさへんように、話しかけるのもやめてはったん。
そうしたら今度は、レイに直接噛み付いたやろ? 真っ青になってはった」
あぁ、あれそんな感じになってたんだ。
もうひとりの人は、見るからに無害そうだったからほぼ意識してなかったし、気付かなかったな。まぁ……もうちょっと集中できてたら、それも見えてたんだろうと思う。精進が足りない……この程度で気持ちを揺さぶられてたら駄目だな。反省だ。
つい自己分析に入ってしまっていたのだけど、気付かぬサヤの言葉は続いていて……。
「ああいう嫌味ばかり言う人、なんなん? 否定的な目でしか世の中を見られへんのんやろか。
あんな風にしてたら、人生がなんもおもろない思う。粗探しが趣味のお姑さんみたいやわ」
「…………?」
ちょっと驚いた。珍しくサヤが人を罵っている……。
自分をあからさまに悪く言われている時すら、サヤはその相手を罵ったりなどしなかった。悪意のある者に憤慨している場合はあったけれど、それだって、こんな言葉は使わなかったのだ。
なのに今のサヤ……これは悪口を言っているのだよな? あんまりそれっぽくないけど……。
ちらりと表情に視線をやってみると、とにかく相手を悪し様に罵りたいといった怒り顔。
「………………俺の悪口が多かったの?」
なんとなく、そう聞いてみたら、キッと涙目で睨まれ……。
「あんな人にあんなこと言われる筋合い無い思う!」
当たりなんだ……。
だけど怒りより何より、嬉しさと愛しさで胸が苦しいくらい、いっぱいになってしまった……っ。
「笑うところやない!」
「笑ってないよ。違う…………サヤが可愛いのがいけないんだ」
「…………何言うてるの?」
「だって、そんなことでこんな風に怒ってくれる人が、愛しくないわけないだろ?
あああぁぁぁ、また口づけしたくなってしまう、それ駄目。誘惑が凄い……」
抱き締めたい。口づけしたい。腕の中でとろけたようになっているサヤを、思う存分愛でてしまいたい。
たったこれだけの言葉で、真っ赤になってしまう初心さが、なんでこんなに、艶っぽく見えてしまうんだ……。
握られていた手を、指を絡める形に握り直した。
だけどそれだけではこの高まってしまった気持ちが抑えられなくて、その手を引き寄せる。
少し体制を崩して傾いたサヤを、身を起こして受け止め、身体ごと腕に抱き込んだ。
「ありがとう。怒ってくれて……」
「…………近い……」
「駄目?」
「…………駄目とは、言うてへん……」
後ろから抱いている状態だから、サヤの表情は見えなかったけれど、いつもより赤みの強い耳や首元を見れば、彼女がどんな風になっているかなんて一目瞭然。
あぁ、この人を早く、自分のものにしてしまいたい……。
「そんな風に言ってくれる人がいるって、幸せだ」
そう言い、握る手の甲に唇を押しつけると、キュッと手が握り込まれた。緊張して力が入ってしまったんだろう。
手の体温も、上がったかな……、口づけで、ここに熱が集まってしまったみたいだ。
「まだ慣れない?」
「慣れようがない!」
「そっか。じゃあもっとしなきゃね」
「な、なんで⁉︎」
「まだ足りないから、慣れないんだと思う。
習慣化すれば、だいたいなんだって人は慣れるよ」
ちょっとした悪戯心でそう言うと、更にサヤの耳は赤くなった。
怖がってない……。恥ずかしがっているだけだ……。そのことがより一層、気持ちを高揚させる。
興に乗って、もう一度手の甲に口付けしたら、んっと、上ずった声。
…………駄目だこれは。サヤが慣れる前に、俺の忍耐が焼き切れる……。
不埒なことをしてしまう前に手を離すべきだな。うん。自分の忍耐力を過信してはいけない。結構ポカもやってるし……。
むくむくと膨れ上がってくる不埒な欲求を押さえ込んで、笑って誤魔化すことにした。
充分元気はもらった。うん。もう大丈夫。
「ははっ……冗談だから……」
けれど、そこに被さってくる、少しキツめの、サヤの言葉。
「慣れんでええの! 当たり前にならん方が……ずっと、嬉しい」
……っ。
腹部に腕を回して引き寄せ、極力身体を密着させた。
肩に顎を乗せて、力一杯全力で抱きしめることで、気持ちを抑え込む。
今顔を見てしまったら、きっと我慢の限界を超えてしまう……っ。
「そういう可愛いことを、不意打ちで言わないでくれ……」
ほんと、お願いします……。
1話書くのがやっとだった今週、始まりました。更新が。どうしよう!
明日の分全消しになる予感に慄きつつ更新が始まってしまった! しかも1話で一万二千文字近くって久しぶりにえらいことに!長すぎっ⁉︎
二つに分ける誘惑に打ち勝ってアップしました。そして明日からの分を頑張ります。気合いで!




