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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第十二章
364/515

試練の時 2

 セイバーン村にて。


 館跡の宿舎はほぼ完成しており、俺たちはそこで厩に馬を預けて村の視察へと足を向ける。

 厩は大きく拡張されており、視察や訓練で赴いた者たちの馬を受け入れられるようにした様子。あの親子だけでこれ全体の面倒って見れるのかな……なんて心配になりつつ厩の中に足を入れると、小さな幼子が馬の前に座り込んでいて、慌てて拾い上げた。あっ、あっぶな⁉︎


「駄目だよ。踏まれちゃうだろう?」

「?」


 ……言葉通じてないなこれは……。

 生まれたてというわけじゃない。一歳かそこらといった感じの幼子だ。何かあむあむしてると思ったら……藁⁉︎


「それは食べちゃ駄目なやつだよ⁉︎」


 急いで口から摘み出したのだけど、フニャっと顔を歪め、泣き出してしまった。あああぁぁぁ、ごめん、口が寂しくなってしまったか。


「ヘリン⁉︎」


 その声を聞きつけ、子の名を呼びつつ慌てて駆けつけたのは厩番……の、息子の方。

 俺が幼子を抱き上げていたものだから、慌ててしまった様子。

 あぁ、この幼子……去年生まれたって言ってたあの子か……大きく育ってるなぁ。


「もも申し訳ありません!」

「いや、俺は良いんだけど、藁を食べてたから摘み出したら泣いてしまったんだ。ごめんな」

「あああぁぁ、お手が……なんとお詫びして良いか……」

「拭けば良いんだから、そこは気にしなくて良い。それよりも、馬の足元に座り込んでいたんだよ。もうひとりで動き回れるのなら、少し考えないと」

「やっぱり抜け出して……木箱に入れておいたんですが、よく抜け出してしまうんです」

「………………木箱?」


 こてんと首を傾げるサヤ。厩番に案内されて行った先にあったのは、少し大きめの木箱で、中に積み木が放り込まれてあった。

 それを見たサヤが驚愕に瞳を見開く。


「…………木箱に幼子を、ひとり残しているんですか⁉︎」

「? よくあることだよ。この中で遊ばせておくんだ。一応近くに親はいるんだけど」

「小さすぎませんか⁉︎」


 何が?

 何かひどく動揺している様子のサヤに首を傾げつつ、一応幼子を木箱の中に戻す。すると積み木に気を取られたのか、それを手に取ってしゃぶりだした。口寂しいのかな……。


「店や内職を持っている母親がいるならば、家の中で放しておけるのだけど……。

 奥方は、どうしたんだ?」

「ここのところ臥せっておりまして……」


 厩番が職場に幼子を連れてこなければならない事態というわけだ。


「い、一歳くらいのお子さんに、こんな木箱は小さすぎます……。それに、ささくれが刺さったりして危険ですし、乗り越えた後も、もし落ちて頭を打ったりしたら……」


 あわあわと慌ててサヤ。

 サヤの世界は子供に手厚く、配慮や道具、おもちゃも行き渡っている風だったしなぁ。


「そりゃ、それができるならそうしますが……今はこの箱しか空きがなかったし……。

 預けられる先も探してみたのですが……このところ村はどこも盛況で忙しく……」

「あぁ、預けられなかったんだな。

 ……そうか、色々人手が増えた弊害が出ているな、ここも……」


 普段ならば幼子を預かって手間賃を稼ぐご老人らも、現在は内職があったりしている。子供の面倒を見るってやはり大変で、それよりは内職でもしてしっかり稼ぎたい……と、考えたっておかしくない。

 これは早急に何かしら対策を練らなきゃな……と、考えていたら、サヤが動いた。


「あの、寝台の敷布や、大きな一枚布はありますか。できれば綿の」

「サヤ?」

「赤ちゃんは、一人にしておくなんて危険です。さっきみたいに馬の足元に入ってしまったり、石を誤飲してしまったりしたら……っ。ただでさえ厩は不衛生ですっ。

 だから、抱っこして動き回れるようにしましょう。とりあえず誰かが抱っこしておく方が良いです」


 有無を言わせぬ口調。そう言いつつ、自身の腰帯代わりにしているベルトを外しだし、それに一瞬頭が真っ白になった。


「さっ、サヤ⁉︎」

「輪っかが二ついるんです。丁度今日のベルトが……」

「駄目っ、服は脱がない!」

「脱ぎません。ベルトを使うだけです」

「駄目だって言ってる! ベルト外さない! 輪っか……金属の輪っか⁉︎ それなら鍛冶屋に行けばすぐ手に入るから! ジェイド、アイル、そこら辺にいる⁉︎」


 人前で腰帯を外すなんて絶対に駄目!

 必死で押し留めつつ大声で呼ぶと、いつの間にやらジェイドが傍にいた。

 ベルトに手を掛けるサヤを、必死で押しとどめようとしてる俺を見て、なんとも言えない微妙な表情になる……。

 急に現れた人影に目を白黒させている厩番は無視して、ジェイドはサヤにとどめの一撃を放った。


「お前……人前で腰帯外すって、襲ってくれって言ってるようなもンだぜ?」

「そうなんですか⁉︎」

「むしろ男誘惑するときの常套手段だろ……」


 そういうこと今ここで教えない!


「サヤ、どんな輪っか⁉︎ このベルトぐらいのもので良いんだね⁉︎」

「あ、いえ……できるならば……これくらいの、もう少し大きくて、細い輪が二つ欲しいんです。極力軽い、丈夫な、同じ大きさのもの二つ……。継ぎ目は引っ掛かりのないよう、ヤスリで磨いてもらったものならなお……」

「ジェイド!」

「わぁってる……すぐ手に入れてくるから、脱ぐな」

「も、もう脱ぎません!」


 真っ赤になってしまったサヤは大変失礼致しました! と叫ぶように謝罪し、別館の方に走っていってしまった。相当恥ずかしかった様子。

 走り去ったサヤに慌てる俺を見て、溜息を吐いたハインが一礼して、それに続いた。サヤを一人にはできないと判断したのだろう。俺には、クロードたちや武官の二人がついているものな。


 正直他の男性陣は、まさかサヤが人前で腰帯を外すなんて暴挙に出ようとするとは思いもよらず、呆然と状況を見ていたのだけれど、そのうちハッと我に返った厩番。


「……さっきの女性………………と、いうか……サヤ、くん?

 ほ、本当に、女性……だったんですね……」

「あ」


 そこからまだ、知らない人は知らないのか……。


「いや、噂では伺っていたのですが……」


 厩番としては信じ難く思っていたそう。

 館が燃えたあのどさくさの時は、暴れる馬を落ち着かせたり、避難させるのに必死で、見ていなかったから、余計に……。


「うん、そうだよ。身の安全のための男装であったのだけど……俺の婚約者となり、セイバーンの庇護下に入ったからね。

 サヤは今まで通りを望んでいるから、従者も続けるのだけど、どうかそのように接してもらえると、嬉しい」

「…………今まで通りですか?」

「近い将来領主の妻となるけれど、サヤはサヤだよ。彼女の本質はなんら変わらない。行動も変わらない。職務もね。

 貴族の妻らしくはないと思う……けれど、それがサヤの魅力だと俺は思っているから、やりたいようにやってほしいと思うんだ」


 そんな話をしていたら、一旦ハインが戻ってきた。


「小一時間ほど頂きたく思います。

 サヤが、子を抱いておける道具を作りたいとのこと。完成次第追いかけますから、まずは交易路の方を視察されては如何でしょう」

「え……はっ⁉︎」

「分かった。ハインも手伝ってくるの?」

「二人でやれば早いでしょうから」

「ええっ⁉︎」

「そういうことだから、小一時間ほどへリンを抱いて待っててやって。

 サヤの国では、子は神からの預かり物と考えるそうでね、彼女は幼子を疎かにできないんだよ。

 きっと役立つものを作るのだと思うし……付き合わせて申し訳ないけど、良いだろうか?」


 話についていけてない様子の厩番にそう言うと、困ったように口元を歪めたものの、最後にはい……と、力なく返事が返った。

 貴族の横暴に付き合わされるのには慣れっこといった様子。ジェスルのいた頃にはそれが日常だったから。

 だけど……サヤは、そういうのじゃないよ。安心してほしい。


「きっと、良いものを作ると思うから、待ってて。

 馬の世話は水と飼葉だけ与えておいてくれたら、後は帰る前に自分でしても良いし……」

「そ、そうは参りません!」

「ははっ、お前たちの仕事を取りはしないよ。だけど……幼子を放って仕事を優先してもらうのは、なんだか俺も嫌だから。奥方が体調不良の今、俺たちに対しては、できる範囲で構わない」


 そう言い置いて空いた場所に各自で馬を繋ぎ、厩を後にした。

 ここの厩番は親子二人で回されており、人手が少ない。今はただでさえ多くの貴族が出入りしているし、気が抜けないだろうから、少しくらいは負担を減らしてやりたかった。


「ハイン、サヤは……」

「別館の女中の所です。裁縫道具を借りに。そちらをそのままお借りして、スリングなるものを作って参ります」

「分かった。……ハイン、サヤを、一人にするのは控えて。別館にいるのなら良いけど……極力ひとりで人目のない場所へは、行かせないでほしい……」

「は?」

「……なんとなくね。その、立場のこともあるし……」

「……畏まりました」


 何か根拠があるわけでもないのだ……。

 だけどなんとなく……サヤを孤立させることに、胸騒ぎを覚えるというだけ。

 拠点村やロジェ村ならば、吠狼の目があるし、そこまで気にしないのだけど……。それ以外の場所には、誰かをつけておきたかった。

 とくにここは……セイバーン村は、サヤの腕時計が失せた場所である可能性が、高い。

 そして長年、ジェスルが巣食っていた村なのだ。あちらにとってもここはもう、懐の内だろう……。



 ◆



 交易路計画の視察をしつつ、村の状況を見ていった。

 公爵二家の血を引くクロードが、男爵家の成人前である俺にへりくだっている様子は、とてつもなく異様であるみたいで、他領からの視察団は総じて瞳が泳いでいるから面白い。

 土建組合長や人足らとも言葉を交わしつつ、ぐるりと周り、気になる箇所を質問をしつつ歩けば、あっという間に時間は過ぎた。


「うん。大丈夫そう。二人ともよく現場を見てくれている」

「いえ……」

「有り難きお言葉です」


 ニコニコと笑顔のクロードに、どこか冷たいアーシュの反応……。

 それを慄きつつ見ている貴族関係者と、ほのぼの眺めるセイバーンの者たち。温度差が凄いなぁ。


「若様!」

「あ、久しぶり……でもないな。ついこの前まで拠点村にいたんだものな」

「ははっ、そうなんです。配属先ですぐここに派遣されて……」


 例の偽装傭兵団から騎士へと昇格した者が、偶然にも派遣された騎士に含まれていた。

 元気な様子に嬉しくなり、ちょっと話し込んでしまった。

 彼が、土嚢を作る時の、袋を裏返す意味が分からないと言うから、縫い目を中の土が抑えて破れにくくするんだよと教えてやると、周りの騎士らも覗き込んできて、いつの間にやら小さな人だかりになってしまった。


「成る程! 土をそのまま入れれば、二枚の布は裂けようとするけど……」

「裏返すと、縫い目が片側に折れて、更に土がそれを抑えて塞ぐのか……凄いなこれ!」

「うんそう。ひとつひとつには、きちんと意味がある。おろそかにしたらそれだけ、強度が下がる。

 たったこれだけのことで強くなるなら、しないよりした方が断然お得だろう?」

「じゃあ、縛った頭をいちいち内側に丸め込んで積み上げるのも……」

「意味があるのかぁ……」

「もし意味が分からなくても、こうすればどうなるか……というのを突き詰めて考えてみると、案外面白いと思う。

 そうしていけば、そのうちもっと凄い利用法が発見されるかもしれない。……君たちの誰かが、発見するかもしれないしね」

「えっ、俺たちがですか⁉︎」

「そうだよ。この土嚢や土嚢壁は、立案されてまだ一年やそこらなんだ。まだまだ改良、発想の余地は沢山残されていると思うよ」


 コツを掴んで、より速く、正確に土嚢壁を作れるようになれば、川の氾濫を未然に防げるし、一夜にして城壁を築き上げることもできるんだよと話すと、皆が面白そうに話しに聞き入る。


「技術だけじゃなく、そういうのを、君らが更に後輩へと伝えていってほしい。

 土嚢を作り、積み上げることは、この国の土台を作り、支えるに等しいことなんだ。陛下はそれを望まれているし、大切なことだと考えている。

 この土嚢壁は、セイバーンから始まった。皆は、この国の礎を築く先駆者の一人なんだ。……誇りに思うよ。ここの氾濫対策が、国にとって有益だって言ってもらえたんだから。

 皆も、その誇りを胸に、精進してほしい」

「若様は、陛下のお言葉を、直接頂いたんですか?」

「うん。頂いたよ。陛下が直々に、皆にこれを覚えてほしいって言ったんだよ。

 他国からの脅威だけじゃなく、自然災害にも役に立つ技術だから。家族を守るための大切な技術だからって」


 まぁ噛み砕いてはいるけれど、概ねそうおっしゃったに等しい。

 俺の言葉で、騎士らだけでなく、人足らも高揚したよう。おっしゃ頑張るぞー! おー! といった掛け声が上がり、休憩は終わりと相成った。

 そんな彼らを見送って、俺も席を立つ。


 小一時間……と、言っていたけれど……もう過ぎたよな?


「クロード、すまないが、サヤを迎えに一旦戻ろうと思う……」


 そんな風に話していたら、土建組合長がこちらに小走りでやって来た。


「若様、今日の作業は切り上げます。若様もすぐにお戻りください」

「え……どうした?」

「天候が不穏なんですよ。

 鼻のきく奴が、小一時間ほどで降り出しそうだって言うんで、これから急いで道具を片付けて宿舎へ戻ります。

 通り雨ならば二時間ほどで止むと思うんですが……」

「……分かった、ありがとう」


 空を見上げてみれば、まだ雲はさほど立ち込めておらず、降り出しそうな雰囲気は無いに等しい……。

 けれど……こういったことは、当てる奴は当てる……。例えば古傷が痛むとか、匂いがするとか……。土建組合長が、貴族の混じる現場で、ああもはっきりと判断を下したというのは、当然そう言った者の的中率を信用しているからだろう。


 今、麦畑は収穫と乾燥の真っ只中だ……。

 雨が掛かってしまえば、当然影響が出るし、品質だって落ちかねない……。

 作業切り上げて避難しようとする雨が、ぱらつく程度とは思えない……。この空模様であるのに、そういった者が嗅ぎとれる予兆がある……きっと凄い土砂降りになるはずだ。


「ハイン! 村人に…………っあ、ハインもいないのか……」


 バタバタと人足たちが慌ただしく動き出し、彼らの一人に村への知らせに走ってもらおうかと考えたけれど……止めた。

 彼らの戻る宿舎はここのすぐ近くだ。村まで出向くなんて遠回りになる。

 今いる場所から村までは、走ればものの五分ほどだし、途中までは厩に向かうのと一緒の方向……よしっ。


「クロード、アーシュ、オブシズは厩に。馬の用意を進めておいてもらえるか。シザーは俺と村へ。雨を知らせに走る。

 あっ、別館にサヤとハインが残っていたら、そのまま帰る準備を進めておくよう伝えて!」


 オブシズは貴族の二人の警護に残し、俺はシザーだけを伴い村に向かうことにした。

 サヤの話では、今年の麦の収穫量は、去年よりも下がっているはず……。だから、穂の一房だって無駄にしたくない。

 その思いで足を急かした。

 途中で見つけた村人にも説明し、その者にも走ってもらう。


「皆ー! 豪雨の来る可能性が高い! 収穫された麦は今すぐ干して、雨避け対策急げ!」

「あれ、レイ様?」

「雨が来るんだ! 干せるものはすぐ干して!できるなら屋根のある場所へ避難させて!」


 去年同様、麦の干し台はサヤの伝授したものが採用されていて、脱穀も倉庫前で屋根を作って行っていたそう。

 やった。それなら雨に濡れるのは最低限に抑えられるな!


 去年との違いは、家毎に干し台が分けてあったこと。だけど……。


「もう一緒くたにしてしまえ!品質第一だ!」

「干せるところから干せ!」

「脱穀した分はとっとと貯蔵庫に放り込め!」


 本日丁度収穫の最後であったそう。

 乾いたものから脱穀にも取り掛かっていたから、全ての麦を屋根のある場所に入れることができそうだった。

 濡れてしまうと発芽の危険が高くなる。発芽してしまえば当然、品質は下がり、味も落ちるのだ。とにかく濡らしたくない。


「帆布あるか? こっちに後二枚!」

「あーある! これ誰か持って行って!」


 結局俺たちも混じって片付けの手伝いに明け暮れた。シザーが大活躍だ。大柄だし力も強い。

 とはいえ、俺は腕力的に戦力外だから、ひたすら采配。効率良く動いてもらえるよう、指示を飛ばす。

 そうこうしていたら、何故かサヤとハインが駆けてきた。


「帰る準備って言ったろ⁉︎」

「クロード様たちには先に戻って頂きました。馬ならばなんとか拠点村まで帰り着けるでしょうから」

「レイシール様はどうせこうなってるだろうと思いましたし」


 手伝いに来てくれたのか……。


「食事処へ知らせも走らせました。最悪あそこに避難できますから、お好きなだけどうぞ」


 ハインの言葉で腹を括った。よし。ならば全部終わらせる。


「帆布、外側から掛けて行って! 内側は濡れにくいんだから!」

「足元、雨が流れ込んで泥濘まないように、周りを土嚢で囲いましょうか」

「それ名案!」


 結局一時間をギリギリまで使って麦の避難を終わらせ、村人らも見張りを残して家に帰らせた。

 見張りに残る者らも、屋根のある場所……湯屋で待機。そこからなら、かろうじて干し台が見えるし、何かあってもすぐに駆けつけられる。


 雨は二時間程度と見越しているから、それでなんとかなるだろう。


「俺たちも食事処へ急ごう」


 小走りで食事処に向かっている途中でボタリと、なにやら大きな雨粒が落ちて来た。うあっ、やばい……。

 ボタボタと、まるで水の塊といった様子の雨粒が、容赦なく地面を染め上げていく中、なんとか食事処へと駆け込んだのだけど、結局俺たちもずぶ濡れだった……。

 軒先に入り、肌に張り付く上着を脱いで、髪を拭いっていたら……


「まあぁ、ビショビショになっちゃって。早く中に入って、そこじゃ凌やしないんだから」

「えっ、カーリン⁉︎」

「中濡らして大丈夫だから。そんなこと今気にしないで、早く入って!」


 中に引っ張り込まれた。

 服や髪からボタボタと落ちる水滴が玄関を濡らすけれど、そんなことはお構いなしと、カーリンは俺たちを奥に促す。

 食事処の中には、ダニルとカーリン……二人が残っていた……。え、ダニルはともかく、カーリンは家に帰らせてると思ってたのに⁉︎


「仕込みがまだあるんだ。手伝いの子たちは返しちゃったから、雨の間も進めておこうと思って」


 あっけらかんとそう言ったカーリンが、はい使って。と、手拭いをドンと机の上に置いた。大量に……。


「着替え、あたしたちの分で良かったら貸せるから、とりあえず着替えちゃって。

 そのままだと身体冷やしちゃうから良くないよ。今、ダニルが温かいお茶用意してくれてるから……」

「かっ、カーリン! 走らないでっ、なんなら俺たち自分でするから!」


 想像以上に大きく張り出した腹部。

 それを重たそうに手で支えながら、カーリンが小走りするものだから、俺は慌てて彼女を抱き留めた。あっ、駄目だ、濡らしてしまった⁉︎


「ご、ごめんっ、冷たかった⁉︎」

「あはは、レイ様慌てすぎだって。大丈夫、今は安定してる時期だから。

 重たいから手で支えてるだけで、別になんともないよ。着替え持ってくるから……」

「て、手伝います! カーリンさんは走らないでくださいっ。私がしますから!」


 そう叫ぶように言ったサヤが、急いで上着と中衣を脱いだ。

 ベルトにも手を掛け、止める間も無くそれを外す。ひいっ⁉︎ と、悲鳴を飲み込んだ俺とシザーの前で、ストンと袴が落ちると……今日は巻き袴であったよう……中に細袴を穿いていた……。


「わっ、凄い……」

「な、中は然程濡れてませんから、お気になさらず。場所を教えていただければ、私が持って来ますから……」

「うーん……でも説明、しにくいから……」

「で、でしたら、ゆっくり動きましょう? 階段も手を貸しますから、走ったりしないでください」

「サヤさんも大袈裟だよ……」


 手拭いを器用に使って頭の髪をくるりと巻き上げてしまい込んだサヤは、もう水滴を滴らせはしなかった。

 カーリンに手を貸して、二階の部屋に着替えを取りに行く。

 その間に俺たちは衣服を脱いで、窓から外に絞って水滴を捨てた。


「……どうぞ。熱いうちに」

「……ありがとうダニル…………」

「……」


 調理場から出て来たダニル。

 無精髭を生やし、瞳は翳っていて、目の下のくまも……。

 随分と疲れているように見えて、それ以上の言葉が続かなかった。彼の疲弊っぷりが、カーリン以上に痛々しくて……。


 カーリンも……だから何も、言わないのか……?


 ダニルは、苦しんでる……。

 日々大きく育っていく腹の中にいる子……。自分の子が育っているのに、それを認められないことを……。

 ダニルは、無責任に欲を優先するような男じゃない。カーリンを愛したからこそ抱いた。

 ちゃんと所帯を持って、いつか子が授かればと……良い父親になろう思ってたんだと、そう叫んだ。


 だけど、彼は人を殺して生きて来た。そういう生業でここまで来た。それを、忘れられなかったから…………。


 愛する人たちを、自分の罪に巻き込みたくない。来世まで不幸にしたくない。

 だから得ては駄目だと、幸せになっては駄目だと、自分の首を、自分で締め上げている……。


 俺が何も言えないままでいるうちに、ダニルは調理場に戻り、作業を再開した。

 大量の野菜を刻み、鍋で煮込む……。宿舎の人足達や、騎士らに振る舞う夕飯の準備。今は人数も多いから、たった二人と、手伝い二人だけで回すのも大変で……だからカーリンは、未だに働いている……。


「……ダニル、雨季明けには、料理人を手配できると思う。

 近くヴァイデンフェラーから数人の料理人が来る予定でね、やり方は前と同じ。カーリンやユミルとやったみたいに……お互いの手持ち料理を教え合ってくれたら良い。

 まだ到着してないから、通いになるか、住み込みになるか分からないけれど……こちらには二人、お願いしたいと思ってるんだけど、どうだろう……」

「任せるっす」

「……なぁダニル……少しこちらに来て、話ができないかな……」

「無理っす。今仕込みがあるんで」


 拒絶……。

 話すことなど、何も無いのだと、彼の纏う空気が、そう言っていた……。

 言葉を詰まらせていたら、上の階に姿を消していた女性二人が、戻って来る音……。


「ほら、なんともないんだってば」

「駄目です。立ち上がったり、重いものを持ったりは特に注意して、勢いよく動くのはやめてください。

 一回一回はなんともないことみたいに思えても、蓄積していけば、大抵のものが脆くなります。大切な身体なんですから……どうか楽観しないでください」


 サヤに支えられつつ、カーリンが下りてきた。彼女を無事に下ろしてからサヤは再度階段を上がり、衣服を持って下りて来る。

 俺とハインはダニルの服で大きさも大丈夫だったけれど、シザーは流石に、大柄すぎて、借りれる衣服が無い……。

 仕方ないので夜着を羽織らせてもらい、衣服が早く乾くよう、干させてもらった。

 そうすると、ハインがすっと立ち上がり、調理場へ。


「屋根を借りる礼です。仕込みを手伝いましょう」

「あっ、私も手伝います!

 カーリンさんは、レイシール様のお話相手をしててくださいね」

「えっ、そんな……悪いよ!」

「悪くありませんよ。服まで借りたんですから、お礼くらいさせてください」


 調理場から、野菜を刻む小気味良い音が響き出した。

 俺は申し訳なさげに調理場を見るカーリンを手招き、隣に座らせて。大きく張り出した腹は、座ると尚一層……。ここに、レイルやサナリみたいなものが、入っているのだよな……。


「凄いなぁ、こんなに大きくなったんだ」

「えへへ、たまにね、足型がボコって浮き上がったりするんだよ」

「えっ⁉︎ あ、足型⁉︎」

「ほんとほんと、面白いよ。よく見ててよ、たまにお腹が揺れるから。その時は、中の子が起きて蹴ってる。今は……静かだから寝てるかも」

「…………お腹の中の赤子も、寝るの?」

「あはは、寝るよぉ! ずっとは動かないね。動く時と、全く動かない時とあるよ。夜に寝てても蹴られて、飛び起きたりすることあるから、私が寝てても中の子は起きたりしてるみたい」


 饒舌に喋るカーリン。

 ここ最近、朝に脚がつって、痛みで飛び起きたりすると言った。

 尋常じゃない痛みなのに脚に手が届かなくて、隣の兄弟を叩き起こして、足の指を伸ばしてもらうのだと。だから最近、カーリンの隣はくじ引きで負けた者が寝ると決まったらしい。


「腹部に痛みなんかは?」

「んー、たまにキリキリするけど、その時は座って休ませてもらってるから大丈夫」

「…………どの辺りが痛い?」

「どのって……お腹の前の方だったり、下の方だったり……色々だよ?」

「…………やっぱり心配だな……一回医師に診てもらってみる? 今は拠点村にナジェスタがいるから、カーリンも気兼ねしなくて済むと思う」

「……女の医師様なの?」

「うん、そう。明るくて元気な人だよ。なんなら足がつらなくなる薬湯とかないか、聞いてみようか」

「そんな都合の良いもの無いって……。それに医師様は高くつくしさ……うちは母がいるし、大丈……あっ!」

「えっ⁉︎」

「今蹴られた。起きたみたい……レイ様ここに手を置いて」

「えっ、えっ⁉︎」

「そのまま触れてて。そのうち……ほらっ」

「……………………揺れた……」

「うん。結構動くんだ」

「……………………あ?…………えっなにこれ、なんかグリュってしたんだけど⁉︎」

「今凄い動き方したね……」


 くすくすと笑うカーリン。

 凄い。赤子って腹の中でこんなに動くの⁉︎

 ちょっと夢中になってしまった。シザーも恐る恐る手を置かせてもらって、動きを感じた時は「動いたっ」って、声が出てしまって逆に驚かれた。

 その人喋れたんだ! だって。


 そんな風に盛り上がっている間に、外の雨音は更に大きくなった。

 仕込みを終えたサヤとハインが戻り、手の空いてしまったダニルも渋々調理場を出てくる。

 手練れの二人が手伝ったから、あっという間に終わってしまったようだ。これなら、ここに料理人を二人送り込めば、なんとかなりそうだな。


「……ジェイドとアイルは大丈夫かな……」

「あっ、お二人にも一応、知らせました。返事があったから、避難されていると思います」

「そっか、良かった……。すいんぐ……すり……? すりんぐか。それもできたの?」

「はい。ちょっとうろ覚えで手間取ったんですけど、なんとか。

 敷き布を頂いて、それでと思ったんですけど……裁縫道具をお借りした女中さんが、綿布ならあるよって、色々と出して下さって。

 丁度良い厚みのものがあったのでそれを買い取らせて頂きました。

 スリングは、こちら風に言うと抱き布……でしょうか。幼い赤ん坊ならくるんで胸の前に。少し育ったら座らせて腰の辺りにって固定できて、両腕で抱えておくよりはずっと楽に抱っこができるんです。色々抱き方も工夫できますし」

「え、なになに、なんの話?」

「あっ、そうですね……カーリンさんにも必要ですね! 拠点村に戻ったらマルさんに聞いて、秘匿権に絡むかどうか確認してみます。

 大丈夫そうだったら、カーリンさんにもプレゼントしますね。出産祝いとして!」

「……見たことも聞いたこともなかったので大丈夫ですよきっと……サヤの国は色々画期的過ぎます……」


 雨音に負けないくらい、明るく喋るサヤ。

 子育て用の道具が色々あると聞き、興味津々話に加わるカーリン。

 たまに俺やハインが合いの手を入れて、シザーとダニルは、だんまりのまま……。

 一時間を過ぎても雨は弱まらず、まるで雨季が早々に来てしまったのではないかと心配になるほど……。


「……空気が冷えてきたな……」

「あっ、お茶、入れ直すよ! ちょっと待ってて!」

「いえっ、私がしますから、カーリンさんは座っててください!」


 俺の呟きに、カーリンが慌てて立ち上がったら、何かパシャっと、水の跳ねるような音がした。


 外で何か、落ちたかな?


 そう思い視線を窓の外に向けたのだけど、外は雨の幕が隣家も見えないほどに垂れ込めている。

 これでは何も見えないな……と、思った俺の右肩を、誰かが無遠慮に掴み、そのまま後方に引き倒さ……⁉︎


「カーリン⁉︎」


 ダニルの絶叫。


 椅子から落ちた俺の、すぐ目の前に、薄く桃色の滲んだような水溜りがあった……。

 ……カーリンの……つい先程まで座っていた、椅子の下に……それは……。


「え……なにこれ……」

「っ、は、破水⁉︎」


 慌てて立ち上がったサヤの前で、ダニルがカーリンをすくい上げるように横抱きにした。

 そのカーリンの足が、何故か雨に濡れたみたいに、水滴を滴らせていた……。

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