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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第十二章
353/515

閑話 夫婦 3

 西への旅は昨年の秋以来。あの時は、進むにつれ体調を崩していった。


 今なら分かる。俺は多分、西の風景や匂い、雰囲気などを、無意識下で記憶していたのだろう。

 あの夢の場所……母が俺の死を望んだ場所。あそこに近付くことを、身体が拒否していたのだ。


「…………」


 なのに、不思議だ……。

 同じ風景を前にしているのに、あの時の恐怖が、今は湧いてこない……。


 陽光にきらめく水面は、ただ美しいだけだ。

 夢の中で何度もここに足を浸した。あの時の俺は小さかったから、あっという間に頭の先まで、水の中だったけれど、今なら……。


「レイ」


 名を呼ばれ、後ろから抱きつかれて我に返った。

 振り返ってみると、不安そうな表情のサヤと視線が合った。水面を前に動かなくなってしまった俺を心配したのだと分かって、ちょっと恥ずかしくなる。


「いや、大丈夫なんだよ。あれだけ怖かったのに、もうなんともないのが不思議で……見入っていただけなんだ」


 そう言うと、ホッとしたのか、表情と腕を緩めた。けれど……。


「もう、準備できたから、戻ろ」


 俺の袖を摘み、まだどこか不安そうな表情で、そう言ってくる。

 その言葉に従って、サヤとともに水面を離れた。

 本日宿泊する予定の邸に戻ると、懐かしい顔が出迎えてくれ、俺は彼に微笑みを向けることができたことを、改めて嬉しく思った。


「カーク、久しぶり。その後なかなか顔を出せなくて申し訳なかった」


 隣の地区を管理するカークが、ご挨拶にと出向いてくれていた。

 手紙でのやり取りはあったものの、父上救出の後はすぐに越冬準備に追われてしまった。

 更にアギーの社交界出席、王都の戴冠式と続いたから、カークとは秋以来だ。歳も歳だし心配していたのだけど、どうやら元気であったよう。


「その後変わりはない?

 この地区の管理者を定めた件、急だったのに色々手配を手伝ってくれてありがとう」

「いえいえ、お陰様で越冬期間の仕事量が半減しました。

 スヴェンという者も、勤勉で良い人物ですね。

 越冬中、来て早々村の雪下ろしを始めたそうで、大雪の後は定期的に行ってくれたと聞いております。皆助かったと感謝しておりました」


 長らく管理者がいなかったこの区域を、セイバーンの特別部隊、吠狼の管理区域としたことを、カークには伝えてあった。

 影の部隊となるため、表向きは俺の私兵扱い。その部隊の長が、吠狼のスヴェンと定まったのだ。

 彼はローシェンナの補佐的な役割を長年続けており、豺狼組であった頃の人間側代表者……ローシェンナを表に出せない場合の、頭役。だから適任者だろうとなったのだ。


 急にこの地区に管理者が決まった理由は、これからこの西の地に道を繋げる予定が立ち、そのための下準備という建前になっている。

 氾濫のせいで、この地域へ赴くには南から大きく迂回しなければならなかったため、色々不便で発展も遅れていたのだけど、道が繋がれば、メバックまでにかかる時間が半分以下になる。そのため、その計画は大いに歓迎されているようだ。比較的豊かなセイバーンにおいて、この区域が最も寂れていたしな。


「父上は足を痛めてしまっているし、医師の管理下で容態を調整しているから、長距離の移動が色々と難しくてね。

 王都に行くのはどうしようもない決定事項だったから、そこでちょっと無理を押している。それで今は、拠点村で体調を整えているんだ。

 でもカークに手紙を預かってきている。後で渡すよ。

 それから父上の容態だけど、相変わらず毒の摂取は続いているけれど、分量としては当初の半分以下に減ってるんだ。今年いっぱいを目処に、終わりにできそうだって医師は言っているから、とても順調に回復へと向かっているよ。

 最近はね、車椅子で村の中を散策されたりもするんだ」


 父上の様子を話して聞かせると、とても嬉しそうに目を細める。

 母のことも、色々あったけれど、今は飲み込めていると伝えた……。


「もう、母が俺を疎んでいたわけじゃないのだって、分かったから……」


 そう話すと、良うございましたと涙を拭うカーク。

 泣かせるほど心配させていたのかと慌ててしまう。


「歳を取ると涙腺が緩くなってしまいますもので……」

「色々心配させて申し訳なかった」

「これでようやっと、心残りがなくなりました。安心して来世へと旅立てます……」


 そう言い肩の力を抜いたカーク。

 きっとカークは、俺の年齢と同じくらいの年月、母と俺のことを思い悩んでいたと思う。


「縁起でもないこと言うな。父上が、道が繋がったらこちらにも顔を出したいとおっしゃっていたんだよ。

 もう交易路計画の方は始動してる。堤も完成したから、雨季が明けたら西への道にも着工できると思うんだ。

 毒が抜けたら、父上はもう少し自由に行動できるようになるから、カークと顔を合わせることもできると思う。だからどうか元気でいてくれないか」


 そう言うと、お迎えが来ぬ限りは頑張りますと言い、カークは微笑んだ。



 ◆



 その日は邸で休むだけの予定であったのだけど、急遽村の者たちに、もてなされることとなった。


 邸を俺たちが利用するから、カークは早い時間に戻って行ったのだけど、残って貰えば良かったと今更思う……。村人の圧が、凄い。

 なにせ今まで田舎の中でも更に田舎であったこの西の地が、これから開発されていくことになる。その切っ掛けとなったのが俺の氾濫対策。

 長年いなかった管理者も定まり、色々と環境も改善されるとあって、なんだか救世主の如く持ち上げられてしまった。

 今回邸を宿泊に使うから、前もって先触れを送っていたのだけど、まさか歓迎の宴が用意されていようとは……。


「あの、お酌を……」

「酒は遠慮する。嗜まないから。

 私とサヤ以外が飲むから、そちらへ回しておくれ」


 目一杯めかし込んだのであろう村の娘が、さっきから幾人も……何度となく酒や料理を勧めてくる……。

 これで四人目だ……。何が目的かも透けて見えるから居心地の悪さに拍車がかかっているのだけど、どうせ彼女らの両親なり村長なり……その辺りが気を利かせたんだか欲に駆られたんだか、行って来いと年頃の娘をけしかけているのだろうと思うので、極力笑顔で対応した。

 感謝の気持ちも少なからずあるのだと分かるから、無下にもしにくいのだ……。

 去年の秋は、俺の立場なんて無いに等しかったのに、この待遇差。後継って、大変なんだなと思う。


 本当は、この歓待だって辞退しようとしたのだ。

 けれど、村長の涙ながらの訴えで受け入れるしかなかった。

 長年、それこそ氾濫が頻発するようになってから、この地は捨て置かれたも同然だった。

 なにせ、ここまで水が来るわけではないし、大きな被害に見舞われるセイバーン村への対処でどうしても手を取られる。

 西回りの街道はずっと望まれていたのだけど、氾濫の度に道が潰れるのではどうにもならず、ずっと放置され続けた。

 その悲願がようやっと叶うというわけで、それがしかも……幼き頃、ここに滞在していた俺の手によってなされるものだから……うん、なんか、俺がかつてからこの地を懸念し、開発を考えていたみたいに思われていたのだ。

 しかも私兵部隊をこの地に駐屯させ、管理をさせるものだから、まるで俺がこの地を特別贔屓にしてるみたいに受け取られてた。


 なんとも居心地悪い誤解だ……。母がここで囲われていた頃は、遠巻きにされていたように記憶しているから。

 だけど認知すらされていなかった俺が、今や後継なのだものな……。当時のことを知らない者も増えているのだから、俺は過去など覚えていないという風に振る舞った。

 それが一番穏便だったから。

 今回のことはたまたま。ほんと、たまたまなんですよ。


「明日はいつ頃出発なされるご予定ですか。案内人を手配いたしますよ」

「必要無い。明日は部下が迎えを寄越してくれる手筈になっているし、そもそも陽も昇らぬ早朝に発つ。

 この歓待だけで充分だから、我々のことは気にしないでくれ」

「ですがそれでは……」

「いや、本当に。そんな大層なことじゃないんだから」


 なんとか繋がりを作ろうとしてくる村長。

 比較的若い彼は四十代と男盛り。新しく村長に任じられたばかりとあって、張り切っている様子。これを機にあれもこれもと欲が出ているようだ。

 それで宴や女性で俺をもてなそうとしていたわけだけど、肝心の俺が、既に引き気味。

 でも、これ以上の手段を思い付かないのだろう。必死で食い下がろうとしてくる。

 宴は……田舎の村からしたら、それこそ祭りのようなもので、村の皆も楽しみにしているだろうと思うと、断れなかったのだけど……やはり断っておくべきだったか……。

 そんな風に考えていたら、横から不機嫌な声音でハインが助け舟を出してくれた。


「レイシール様、明日は早いのですから、そろそろお休みいただきませんと、色々差し支えます」

「あ、もうそんな時間か。

 村長すまない。そういうことだから、私はここらで失礼させてもらうよ。村の皆はそのまま楽しんでくれ。せっかくだから」

「サヤ、レイシール様のお支度を頼みます。他の皆は……」

「自己判断で構わない」

「畏まりました。では邸までお送り致します。オブシズ、任せましたよ」


 そそくさと退散する俺の背中に視線が刺さる。村長や村の娘らの視線だろう。

 けれど、怖い顔のハインの采配に、否を唱える気にはなれないらしい。

 すると、通り掛かったエルランドが、お戻りですか? と、声を掛けてくれた。


「うん。……色々ややこしそうだから……」

「あぁ……お疲れ様です。では、我々が歓待をお引き受けいたしますよ」

「助かる。ほんと……」

「一応、施錠にはお気を付けください。……念のため」


 意味深に笑ってそう言ったのは、夜に忍んでくる輩を警戒しておくべきだという進言なのだろう。

 あの村長の様子的に、ありそうだもんな……。


「うん。注意しておく」


 邸に戻ると、明けの明星より数人が残って警護にあたってくれていた。ここはもう良いから、宴に行ってきたらと促したら、半数だけが先に向かう。

 残りも後で交代して参加するのだろう。


 屋敷の二階、父上が領内を巡っていた頃に使っていた部屋が、本日は俺の寝室。

 部屋に入り、サヤに着替えを手伝ってもらっていたら、コンコンと扉が叩かれ、アイルがやって来た。

 彼らは表立って共に同行していない。そのため、山城へ行っていると思っていたのだけど……。


「警護につく。村の者は近寄らせない」


 それだけ言い、サッと闇夜に紛れてしまった。


「申し訳ない気がするな……」

「彼らは村の歓待より、サヤの菓子の方が喜ぶさ」


 皆の手を煩わしているなぁと思って呟いたら、オブシズがそんな風に言い、笑う。

 するとサヤが「では、ロジェ村に着いたら調理場をお借りしましょうか」と微笑み、気を遣わせてしまってるなと更に思う。


「皆もすまないな……」

「レイシール、何もすまなくない。貴族としてはこれが当たり前だし、今までのお前が身軽すぎただけだ」

「う。そうなんだけど……」


 分かってはいても、やっぱり慣れないのだよな……。

 こう、後継として扱われることに、違和感しかない。それこそ、兇手に狙われるとかではなく、夜の警戒を必要とするとか、そういう……こう……なんかなああぁぁって思う。

 拠点村でもモヤモヤしていたのが、ここに来てあの事件よりも更にあからさまで、余計にモヤモヤしてしまった。


 これが権力を持つということなのだというのは、理解している。

 それにより、周りの対応も違って当然。分かってはいるのだけど……。

 肩書き一つで周りに振り回されることに、違和感と、嫌悪感を感じてしまうのだ。


 そんな風に考えていることは、同じく貴族であったオブシズには、手に取るように理解できたのだろう。

 少し困った苦笑いで、助言をくれた。


「……まぁあれだ。次からは、遠征荷物にサヤの女性用礼装を準備するようにすべきかもな。

 こういった、予定に無かった行事ごとなんかもあるのだと分かったし。

 そんな時はサヤが婚約者として、着飾って隣にいれば、そうそういらぬちょっかいを、かけてはこれないだろうから」


 オブシズのその言葉に、サヤが申し訳なさげに身を縮める。

 今回の遠征、サヤは女従者としての衣服しか持って来ていなかった。

 仕事に来ているのだから当然のこと。まさかこういった場を用意されているなど思いもよらなかったからな。

 だから宴の際も、サヤはハインとともに従者として振る舞っていた。彼女が俺の婚約者であることも、敢えて口にしなかった。


 仕事着のサヤを婚約者として扱うのは、女従者という職務を冒涜することになる。

 女性の男性職進出は、ただでさえ物議を醸す。下手をしたら、妾を傍に置く口実だと言われかねない。

 だから、今回はサヤの紹介は避け、村人の前では従者として接するに徹したのだ。


「そうだな……。サヤには申し訳ないけど、その方が俺も有難いかな」


 あの村長、接待のつもりで女性を寄越していたのだろうけど、俺はそういうもてなしは必要としていない。

 サヤがいるのに、サヤ以外と褥を共にしようとも思わないし。迷惑なだけだ。

 そんな風に思っていたら、サヤがお茶を用意してきますと言い、部屋を出た。

 なんだか唐突…………。


「……気にしてるよな……あれ」

「まぁ、気にするなって方が無理だろうな……」


 村長が俺に女性を当てがおうとしていたこと、サヤも当然理解しているだろう。

 普通に、いつも通り。気にしていないみたいに振る舞っていたけれど……。良い気分であるはずがない。悪く受け止めていなければ良いのだけど……少し心配だ。

 そんな風に考えていたら、オブシズが少しだけ逡巡した後、また口を開いた。


「……とりあえず一応、言っておくけどな……。

 レイシールには、これからこういったことが、一生ついてまわることになる。

 今までは、異母様やジェスルの脅威があったから、事情の分かる者は一歩引いていた。

 だけどそれが退けられたことは、誰の目にも明らかになった……」


 そう言いオブシズは、少し厳しい表情になった。


「サヤを娶った後も。領主となってからも。サヤが子を成してからだって、今日と同じことはいくらでもある。

 貴族というのはそういうものだし、とくに後継、領主となると、子を残すことが義務付けられるから、周りがいらぬ気を回す。

 一人では心許ない。二人でも心配。三人以上の子に恵まれても、男児だ女児だで色々言われる」


 耳に痛い言葉だった。

 だけど、サヤがいない時を選んで口にしてくれたのは、サヤに対しての配慮なのだろう。

 今日のことは、特別なことではない。常について回ることなのだと、敢えて口にしたのは、俺がこのことを、煩わしく思っていると察しているから。

 いちいち腹を立てるな。上手くいなして躱せるようになれと、そういうこと……。


「お前が、サヤを本当に大切に思っているのは理解している。

 だけど、貴族である以上、割り切るしかないこともある……。

 このことにあまり、潔癖になりすぎるな」

「………………」


 オブシズは、サヤが子を成すことができないかもしれないということを、知らない……。

 もし知ったら、貴族の責務として、サヤ以外の妻も娶れと、言うのだろうか……。


「お前は、サヤだけで良いと言う。その気持ちを尊重したいと、俺たちも思っているよ。

 だけど、俺たちがお前の安寧を思うくらいに、セイバーンの安寧を考えて、ああいった行動に出る人だって、これからはきっといる。

 どんな考えの者でも、お前の配下になるんだ。付き合わないわけにはいかない」

「…………うん、その通りだ」


 ガイウスだって、そう思って、サヤを退けようとしたのだ。だから、分かってる……。

 分かってるけど、俺がこれを煩わしく思うのは、これがいちいち、サヤを傷付けるからなのだ。

 これがいちいち……いちいちサヤを追い詰める……。子を成せないならば、領主の妻となるべきではないと、サヤに考えさせる。

 俺が腹立たしいのは、他にどれだけ優れていようと、子を産めるか否かで、彼女を天秤にかけようとする輩。

 たったそれだけのことで、サヤを俺から退けることを正義だと、主張する輩なのだ……。


「……まぁ、今は難しいかもしれないが……少しずつで良い、慣れろよ」

「うん……」


 返事はしたけれど、俺には正直、無理そうだ……。



 ◆



 そして無事に迎えた翌朝。


「おはようございます。お迎えにあがりました」


 スヴェンが、朝食を済ませた頃合いにやって来た。

 髪を撫でつけて、上品な色合いの衣服を身に纏い、いかにも役人といった風態。上手く化けるものだと感心する。


「よく似合ってる」

「は……ありがとうございます。だいぶん居た堪れませぬが……」

「カークも褒めていたよ。寂れた地域を押し付けられて、嫌な顔ひとつしないできた人物だって」

「我らにはとっては黄金郷ですのに」


 苦笑するスヴェン。

 放浪生活をしてきた彼らからしたら、定住できる地というだけで、そこは楽園なのだという。

 獣人を多く抱える彼らは、人前に立てない者らを匿う場所がいる。そういった意味で、この地は彼らにとって理想的な立地でもあった。

 森や草原が多く、人が比較的少なく、交通が不便である地……。これからここを開発していくけれど、極力彼らにとって過ごしやすい形を損なわぬよう、調整を重ねていかねばと思っている。


 現在彼は、セイバーン男爵家より山城の管理と、この地域の治安維持も仰せつかったことになっている。

 とはいえ、吠狼の一員という扱いだから、彼自身も影の一人。役人としてどこかの村に在中するわけではない。だからこうして定期的に、この地域の村を巡回し、要望などあればそれをこなしていく日々なのだ。


 で、まずは、冬から今までの報告。


「畑が多く、人里が少ない関係上、どうしても猪や鹿といった野生動物が増殖しているようでした。

 狩人もいるようですが、圧倒的に数が少ない様子。

 そのため、これを定量まで減らす方が良いかと思いまして、吠狼の面々で訓練を兼ねた狩猟を行なっておりました。

 冬の間は食料にもできたのでようございましたが、これからは肉の処理の問題が……」

「分かった。メバック方面で引き取れるものは引き取る。賄い作りなんかに回せるか確認しよう。

 あと、ウルヴズ行商団で、薫製肉なんかにして売り捌くのもありじゃないかな」


 簡単な現在の問題点を報告し合ってから、ではロジェ村にご案内しますとなった。

 昨日村長に言っていた通り、陽の昇る前の出発だ。

 早朝だから必要ないと言ったのに、それでも村長と数人の村人が見送りに来ていて、世話になったと馬車から手を振った。

 ていうか一緒にいる眠そうな顔をした娘……昨日の娘のひとりだ。あれ、村長の身内だったのか……。


 馬車は途中まで。そこからは徒歩になるという。


「品物を卸す時はどうしてるんだ?」

「馬車が入れる場所で落ち合っていたのですよ」


 エルランドがそんな風に説明してくれた。前は馬車を途中に残し、馬と人で荷物を運び込んでいたそうだ。

 馬車をそのまま放置しておくわけにもいかないから、森の中に数人の見張りを残すことになるし、結構大変だったそう。


「現在はそこに簡素ですが、停留所と倉庫が出来上がってます。

 施錠できますし、見張りも屋根の下で眠れます。それに、吠狼の方の定期的な巡回もあるので、本当に助かってますよ」


 元捨場であり、オーストの領地であったロジェ村。

 セイバーンで最も近場となる山城のある村であっても、二日ほどの距離があり、一日は野宿となった。

 とはいえ、護衛はしっかりいるので安心して休むことができ、然程苦もなかった。

 そうして、拠点村を出てから五日目の夕刻。


「お疲れ様でした。到着です」


 陽の沈みきる前に、なんとか到着したその村は、一見樹々に埋もれた廃墟にしか、見えず……。

 いちばん手前にある、二棟の朽ちかけた掘っ建て小屋。壁には穴が開き、蔦や苔が中まで侵食しているのをうかがわせる……。

 背の高い樹木がのしかかるように枝を伸ばした、薄暗いその空間に、人が住んでいるとは到底思えなかった……。

 ロゼの生活する村……。こんな厳しい環境だったのかと、呆然としていたのだけど……。


「いやいや、こうしておかないと。隠れ里なんですから」


 エルランドに笑ってそう言われ、ハッとなった。

 そ、そうか。村の入り口をこんな風に偽装してあるんだな。びっくりしてしまった。


「まっ、ちょっと前まではまさにこんな感じだったんですよ。

 でもこの冬は、色々家々の手直しもしていただけましたし、食料事情もかなり改善されましたからね」

「今年は餓死者も出ませんでした……。吠狼の方々が、冬の間も狩猟を行なってくれたおかげで、肉類も補充できましたし。

 こんなに安心して冬を越せたことなんて、今まで無かったです」


 そんな風に言いつつホセが、こちらですと朽ち掛けた掘っ建て小屋の間を進む。

 それに続いて俺も足を運び、更に十分くらい奥へと分け入った頃、森の先に、少し陽が射す場所が出てきて、夕陽が木々を赤く染め上げる中に、明らかな人工の光……。

 そうして見えてきた建物の前に、数人の人影があった。中心にいる背の高い女性はローシェンナ。その隣……深く頭巾を被った、こちらも女性。

 二人は腕に、布包みをひとつずつ抱えていた。


「いらっしゃい」


 優しい声音でそう……まず言葉を発したのはローシェンナ。

 その姿に、なんだかドキリとしてしまったことに、びっくりした。

 どうしてローシェンナにドキリとしてしまったのかが、自分でよく分からなかったのだ。

 なんだろう……凄く……女性的で美しく見えたというか……。

 ローシェンナは前から肉感的な肢体をしていたし、綺麗な人だったけれど、そういうのじゃなくて……。


 何か、それまでのローシェンナとは、決定的に違ったのだ。


 まず気付いたのは、ローシェンナが袴を穿いているということ。

 義足の部分から断ち切られた、片足だけ短い細袴ではない。踝までを隠してしまう女性らしい袴を身に付けていて、義足は隠れてしまっている。

 それが珍しく感じたのか?…………いや、違う気がする……。

 出会った当初より少し伸びた髪?

 柔らかく穏やかな表情?

 色々考えたけれど、これというはっきりとしたものが掴めず、首を傾げるしかなかったのだけど……。


「レイきたー!」


 その女性の足元。二人の袴の間から、飛び出してきた幼い女児。

 まるで跳ねるようにして駆けてきて、そのまま俺に全力の体当たり。

 それを受け止め抱き上げると、そのまま首に抱きつかれ、グリグリと頭を擦り付ける、お馴染みの抱擁。

 くすぐったくて、可愛くて、笑いを堪えることができなかった。


「ロゼ、元気だった」

「げんきー!」


 二ヶ月ぶりくらいになるロゼは、元気いっぱい。満面の笑顔で笑ってくれた。その姿に、俺がどれほど癒されたか。……まぁ、本人はなんとも思ってないんだろうけど。

 だけどホセは慌てた。

 まぁね。通常は貴族相手にやって許される行動じゃないものな。


「ロゼッ、レイ様って言いなさい! それと誰彼構わず抱っこを要求しない!」

「いやっ! だってロジェはレイだっこしたかったんだもん!」

「良いんだよホセ。俺だって嬉しいんだ。ロゼが大歓迎してくれているって分かるから」


 そうか。ロゼ的には俺をだっこしてるつもりだったのか……。

 そう思ったらおかしくって笑ってしまった。隣でサヤも笑っているから、尚更楽しい。


「ロゼ、ノエミと、ロゼの弟たちを紹介してくれるかい?」


 そう言うと、うん! と、良いお返事。そうして、腕から飛び降りたロゼは、そのまま俺の手をグイグイと引っ張った。

 そうして、ローシェンナと並ぶ女性の元に誘導されて。


「カーチャ! えっとね、レイだよ! おとこのこだからね! まちがっちゃだめだよっ」


 ………………。


 ブフォッ! って、後ろで誰かが吹いた。

 バカ、口塞げと叱責の声。

 だけど笑ったやつだけじゃなく、皆が必死で笑いを噛み殺しているのは、気配で分かってるんだからな……っ!


「娘が大変失礼をいたしまして……っ」

「いや……まぁ正直、外見に関しては……今更と言うか……」


 怒りよりもなんかこう……絶望に近いものがくる……。


 なんともいえない気分を味わっていたら、焦ったようにオロオロしていたノエミは、意を決したように、深く被っていた頭巾を自ら外した。

 そうして現れたのは……ほぼ、狼に近い、顔……。いや、獣化している者も多く見てきたけど、やはり狼とは、どこか違う。

 鼻は低めだ……なんというか、人と狼の中間? 鼻と口が、人より少しせり出しており、狼よりは口吻が短い。顔面にも体毛が生えていて、鳶色の毛並みだけど、服の隙間から覗く喉元の毛は色が薄い……。瞳はほぼ白目が無く綺麗な琥珀色をしていた。

 髪は体毛とほぼ同じ色。だけど、肩の辺りで二つに分けて括られていて、頭上に、その髪の間からピンと飛び出る獣の耳……。

 顔以外に晒された肌……手は、人となんら変わらない。それだけに、彼女は獣人なのだと、強く認識した。


 あぁ、ホセは……彼女が獣人だって、当然分かっていて、それでも妻にと、夫婦になると、覚悟を固めたんだ……。

 それが分かって俺は……なんだろう。とても、安堵した。救われたと言っても良いと思う。

 あぁ、種が違っても、共に歩むことはできるのだ……。

 種が違っても、俺たちだって、ちゃんと夫婦に……。


「……はじめまして。

 私は、レイシール・ハツェン、セイバーン。セイバーンの後継です。

 この度は、おめでとうございます。

 本当は、もう少し早く顔を出したかったのですが……申し訳ない」


 そう言い笑い掛けると、ノエミは、少し戸惑うみたいに瞳を揺らした。

 そうして、視線をホセに向ける。

 と、ノエミの袴を、下からグイグイと引っ張る手。


「カーチャ、レイがねっ、レイルとサナリがみたいって、みせてあげよっ。ロジェのきょうだい!」


 まるで自慢するみたいに大きな声で、早くとせっつくロゼに、ノエミの隣にいたローシェンナがくすくすと笑う。


「そうだねぇ。ロゼはそればっかり、毎日言っていたもんねぇ」

「うんっ! だってね、レイはぜったい、かわいいっていうよ!」


 それでローシェンナは、視線をノエミに向けた。

 どこか不安そうにするノエミ。だけど、その腰を片手でポンと叩いて、大丈夫だよと促す。

 そうして二歩、ローシェンナはノエミに身を寄せた。


「ほぅら、見てごらん。可愛いよ」


 二人が抱いていた布の包み。それを俺の前に。

 多分そうだと思っていたのだ。それぞれが抱く、布に包まれているものが、きっと幼子なのだと。

 そうして見せられた二人は、複産だから、双子に近いのだと思っていた。でも、似ていなかった。

 女の子の方は、桃色の肌に、ふわふわ綿毛のような小麦色の髪を逆立てている。

 あまりにちっちゃい手……爪は更に小さくて、あるかないか分からないくらい……。

 ふくふくのほっぺたに、花弁のような唇。それはそれは愛くるしい。

 男の子の方は、布に包まれている身体は見えないものの、顔は完全なる狼だった。

 とはいえ小さい。ほぼ子犬だ。

 鼻鏡は黒く濡れてツヤツヤしていて、毛並みはやはり茶色っぽい。けれど、全体的に灰味がかっている感じ。口吻はノエミよりも長く、より狼らしかった。

 二人とも眠っているから、瞳の色は分からない。だけど、レイルの耳は、ピクピクと音を聞き取り、動いていて、顔を寄せるとフンフンと、鼻を鳴らした。

 そうして、顔の横の手……肉球のついた手が、空中を掻く。


「あらぁ、知らない匂いがしたの、分かったのかしらねぇ」


 ローシェンナが、慈愛に満ちた笑顔でそう言い、レイルの額を指で撫でる。すると、耳を寝かせて、気持ちよさそうに身を任せて……!


「う……っわあぁぁ、可愛い…………!」


 ふたりは本当に可愛くて、可愛くて、可愛くて……! 愛おしいと言う気持ちが、胸にいっぱいになる。

 幼子から香るこれは、乳の匂い? ふわんとした、牛酪に近いような香り。

 サナリが口をあむあむと口を動かし、溢れたヨダレをノエミが手拭いでそっと拭った。

 そんなひとつひとつがとても美しくて、幸せが滲み出ているようで、なんともいえない気持ちになった。そう、これは幸せ。ここは幸せに満ちている。


「良かった……。ずっと心配していたんだ。

 こうしてちゃんと、元気に生まれてきて、本当に良かった。良かったなロゼ……」


 母子とも命が危うい、覚悟もしているって聞いたあの時は、本当に辛くて、悲しくて……。ひとりで頑張って我慢しているロゼが、心配で……。

 それがこうして、無事に生まれてきた赤子を、皆が祝福してる。大切にしているって、ちゃんと分かる。

 感極まって、ロゼを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめたら、むふふと笑う声が、首をくすぐった。


「ほらねカーチャ、ロジェは、レイはぜったい、かわいいっていうって、しってたけどね!」


 そう言って、とても幸せそうに笑ったロゼは、天使のようだった。


ごめんっ、まずはアップだけ!

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