表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第十二章
346/515

満ちる

「……母子、だけ……?」


それまでただ黙っていたカタリーナが言葉を発した。

視線を向ければ、瞳にも思考がちらついていて、そこに恐怖と混乱、そして何かに対する期待……。伸し掛かり、押しつぶそうとしてくる絶望を、必死で振り払おうとする意思が、まだ、あった。


薄れた……。母と同じだった、あの雰囲気が!


どれだ、どこが要だ? と、記憶を探り、やはり反応した言葉は、あれしかないだろうと結論付ける。


「……うん。長屋の住人は全て母子だけだ。子が男の子である場合はあるけど、それも十二歳までだよ。

男性職員は、四名だけ。でも、男手が必要な時以外は、女性職員が中心的に動く。だから、何も心配することはない」


噛んで含めるように、言って聞かせた。大丈夫だ。心配無いと、伝わるように。

アレクセイ殿から、彼女の境遇は聞いたし、神殿での環境を考えても、男性との接触が彼女の負担になるだろうことは想像できた。

だからメバックでも、バート商会に彼女のことをお願いしたのだ。あそこは女性に優しいギルの采配で回る店で、女性の使用人も多い。気配り上手なワドもいる。だから、彼女が事情について何も言わずとも、彼女を追い詰めるようなことはしないと、分かっていた。

そうだ……。あそこはカタリーナにとって、過ごしやすい場所であったはずなのに……。

実際に、俺たちが王都へ行っている間も、彼女は普通に過ごしていたし、ジーナも随分と元気になっていた。ワドからの定期連絡にも、問題は上がっていなかった。


だのに本日、彼女はあそこから、まるで逃げるようにして、ここに来ている……。

早朝の、セイバーン村行きの辻馬車を利用したのだろう。そして、途中から下車して、歩いて来た。少し待てば、拠点村行きの物資を運ぶ荷馬車があったのに。

交渉し、料金を払えば、ここまで乗せてもらうこともできたのに……。


カタリーナは、あの時の母と同じように、早朝、人目を忍んで、メバックを出た。

彼女をここまで怯えさせ、急かす理由。それは、ここ最近の何かにあったはず。そしてそれには、男性が絡むのだと思う。


神殿関係者が呼び戻しに来たとかか?

…………けどカタリーナは、アレクセイ殿から直々に保護を頼まれたのだ。あの権力に弱そうな司祭らが、上役の意向を無視してまで動くとは思えないし、そもそも、捨て駒にしようとしていた信者に、拘るとも思えない……。

アレクセイ殿より更に上の地位の方から指示されれば、動くかもしれないが……司教より上の方が、信者を連れ戻せと要求する理由も思い浮かばない。この可能性は限りなく低いだろう。


ならやはり、更にその前では?


カタリーナは、夫からの暴力に耐えかねて、娘を連れ、神殿へと逃げ込んだのだよな。しかしその神殿にすら、裏切られた。司祭らからの暴力に晒されていた。


なのに何故、神殿に居続けた?


夫から逃れ、神殿に来たように、神殿を逃れ、更に次の地へと旅立つことを、何故選ばなかった?

初めて会ったあの時、カタリーナは言った。


「娘がいます。後生ですから、どうか、命だけは……あの子を、残していけない……どうか、どうか!」


貴族を前にして、床に這いつくばって、必死の懇願をした。自らに振るわれ続ける暴力など気にもとめず、娘を守ろうとしていた……。

娘を残してはいけない理由は、夫の手に、娘を渡さないため……なのでは?


考えているうちに、女長屋へと辿り着いた。

サヤが、出入り口となる水路上の石橋に、足を掛ける。それと同時に、石橋の横手に作られた仮小屋から、男性職員が出て来た。

ビクっと、カタリーナが一瞬で身を強張らせたが、続いて出て来た女性職員がサヤへ来訪理由を確認。その様子を見て、俺の言葉が嘘ではないのだと、胸を撫で下ろした。


「……神殿には、関係者以外の立ち入りを禁ずる場があるね」


俺の呟きに、またもやカタリーナは強く反応。その腕に抱かれたままのジーナが、不安そうに俺たちを見上げる。


「この拠点村にも、そこまで厳重ではないけれど、守りはある。

村門は、騎士に守られていたろう? 水路に囲われたこの村への入り口は、四六時中、全て騎士が警護し続けている。

そしてこの女長屋も、出入り口には常に、職員が待機している。

女性職員だけではちょっと心許ないから、男性職員もいるけど、彼らの職務は主に、あれだよ。女長屋へ立ち入る者は、あそこで確認されているし、手続きが必要だ。

正当な理由無しに、男性を通すことはしない」


その言葉に、カタリーナの視線が、俺へと向けられた。

澱んだ瞳が、縋るように、俺を見ている……。


「女性と子供ばかりの長屋だからね。彼女らには盾が必要だ。だから特に、男性の出入りには注意を払う。

女性であること、流民であること、夫がいないこと……そんなことを理由に彼女らを侮って、不埒な行動に出ようとする者など、立ち入らせはしない。

そんな輩は、この村にはいないと思いたいけど……これから人の出入りも増えるからね」


カタリーナが恐れている人物が誰かを、今この場で聞き出そうかと、一瞬考えた。

けれど、俺はまだ彼女に信用されていないし、警戒心の強い彼女が、ここまで追い詰められている。きっと今は語れない……言葉にする恐怖に抗えない……。

だから、ぐっと飲み込んだ。


手続きを済ませたサヤが戻ってきて、どうぞと俺たちを促すから、揃って足を進め、石橋を渡った。

渡り切ったところで、サヤが鍵をカタリーナに手渡す。

ぶら下がった木札に記されていたのは十三。


「カタリーナさんのお部屋の鍵です。

同室なのは、ターシャさんと、娘のマーニャちゃん。年も近いですから、きっとジーナちゃんとも良いお友達になれます。

この長屋には、お母さんと子供さんが沢山いらっしゃいますから、寂しくないですよ」


そう言うサヤの向こう側に、長屋での生活準備に追われている女性陣や、走り回る子供らが見える。こちらを伺う様子もあり、ジーナがソワソワと視線を巡らせた。

そんな光景を呆然と見ているカタリーナに、俺はこれだけ、伝えておこうと思った。


「カタリーナ。どうにも困ったことがあったら、私に言うんだよ。

貴女はもう、セイバーンの領民だし、私は貴女のことを、アレクセイ殿に託されているんだ。

貴女はこういうことを、あまり好まないのかもしれないけれど……一人ではどうにもならないってことが、人にはある。

だから、その時は助けてと、言って良いんだ」


助けて。

それを言葉にする恐怖を、俺は知っている。

たったそれだけの言葉を口にすることが、どれだけ、苦しく、恐ろしいことか。

自分の手に余ることに、人を巻き込んで良いのか。その人を苦しませやしないか。

自分のことなのに、自分で対処できない、不甲斐なさに失望し、それでもなんとかしなければと……なんともできないなら、耐えれば良いのだと。自分が苦しいだけならばと……そんな風に、どんどん深い沼に、沈んでいくんだ。


「カタリーナ、私はね、貴女が我慢して済めば良いなんて風には、思わない。

だから、前以て言っておくよ。貴女はセイバーンの民で、私は領主一族の者だ。私には、領民の生活を守る責務がある。

貴女は私になら、遠慮なんていらない。私には、助けてって、言って良いんだよ」


母のようになんて、しない。絶対に。

ジーナを俺と同じ目に合わせてなるものか。

ここは俺の職場で、俺の研究施設。そこにいる者は、皆俺の使用人も同然なんだ。手出しなんて、させやしない。


だけどカタリーナ、俺が勝手に動いても、きっと貴女を絡め取っている鎖は、貴女に繋がれたままになってしまうから……。

それを断ち切るためには、貴女が、自ら一歩を踏み出すしかない。自分の意思で動かなければ、心の枷を外す術は無いんだよ。





「マル、ちょっと調べて欲しいことができた」


執務室に戻り、第一声。

研修を続けていたマルが顔を上げ、長椅子で寝そべっていたジェイドが片目だけを器用に開いた。


「はいはい。なんです?」

「カタリーナについて。彼女の夫のことが気にかかる」

「アギーの一般庶民ですかぁ。了解です。プローホルの神殿に保護されていたなら、その管轄内のどこかが出身でしょうしねぇ……。

名や特徴は……分からないですよねぇ。まあ、大丈夫です、調べられますよ。ちょっと時間を貰うことになりますけど」


急なことであったのに、マルはこてんと首を傾げただけで、俺の頼みをあっさり聞き入れたから、ホッと安堵の息を吐いたのだけど……。


「で、夫の何が気になるんです?」

「あっ、いや……単に気にかかるって段階だから、まだ何がとかは無くて……。と、とりあえず夫についてを調べてみてくれないか。

カタリーナ……彼女、だいぶん追い詰められている様子で……。

ああまで憔悴してる理由、可能性として一番高いのが、夫関連じゃないのかって、思っただけだから」


しまった。まだ根拠も何もないのに、ただそんな気がして発言してた。

だけどそう思うには、それなりの理由があるんだということを、マルに話すことにした。

応接室で、カタリーナがどんな状態だったか。ただ、あくまで俺の印象の話だから、上手く伝わらないのがもどかしい……。

だけど、彼女を放置なんてできない。あれは、もうギリギリだと思うのだ。

前を見ているのに、見ていない。ジーナを抱えているのに、ジーナを感じていなかった、あれは……。


「どうにも怯え方が、母に似ていて……。今に心中でもしかねないと、思えてしまって……」


俺の言葉に、アーシュも顔を上げた。母を持ち出したことに反応したのだろう。


「穏やかじゃないですね…………」

「さっきは、本当に危険だと思ったんだよ……。

正直、雰囲気としか、言いようがないんだけど……でもあれを俺が、勘違いするわけない…………」


泉に俺を沈めようとした時の、母と酷似していた。

心の闇に囚われて、闇の底にしか行き先を見出せなくなった人の目だったのだ。

せり上がってくる闇に、胸を染め上げられていく、あの感じ。

まとわりつく絶望に、抗い続けることに疲れて、折れそうになっている……。

その絶望は、セイバーンを終わらせようとした時の俺も、囚われていたものだ。俺は、どちら側も経験した。だから、間違えない……間違いようがないんだ。


「今は、多少持ち直している……。女長屋には男性の立ち入りを制限しているって言ったら、少し落ち着いたんだ。だから、暫くは大丈夫だと思うんだけど……。

あの神殿の関係者が彼女を探していると考えるより、夫の方があり得ると思ったんだ。

カタリーナ、もしかしたら、未だに夫から、追われているのかもしれない。

メバックからも、逃げてきたのかも。

なんの根拠もないけど例えば……似た人を見たとか、同じ名前の人を探している噂を聞いたとか…………」


そう言うと、マルは表情を引き締めた。


「メバックから当たりましょう。あそこならば僕は、何一つ取りこぼしません。聞き込み等しているなら、手掛かりも拾いやすいです。きっとすぐ分かりますよ」

「頼む。もしカタリーナらを探す人物が実際見つかったら、素性も洗っておいてほしい。拠点村に来ようとしていたら、それも知らせてもらえるか」

「勿論です」


マルの返事に、ジェイドは特に指示も仰がず、無言で部屋を出て行った。……暫くしてハインが耳を押さえたから、犬笛が吹かれたのだろう。

俺の思い込みでしかない事柄に、彼らが真剣に取り組もうとしてくれていることに、正直ホッとした。

気のせいとか、考えすぎとか言われてもおかしくないことだったから……。


安堵の息を吐いて、さて仕事に戻ろうと、足を執務机に向けた……のだけど。その肩をがしりと、ハインが掴む。


「何?」

「レイシール様は、お部屋でお休みください」

「え? なんで?」

「サヤ、寝室に放り込んできてください」


俺の問いには答えもせず、問答無用でサヤと共に、執務室を追いやられた。暫く意味が分からず呆然としていたのだけど……。


「…………なんで?」

「大事を取って……ということではないですか?」

「なんの?」


そう問うと、サヤは少し、困ったように笑った。そして俺の問いを誤魔化すように。


「ハインさんを怒らせるのもなんですから、お部屋に行きましょう」


何故かサヤまでがそう言い、俺の手を引き歩き出してしまう。

結局部屋まで連行されて、なんだか釈然としない。

寝室で上着を脱がされて……。


「そのままの格好で良いですから、少しお休みください」

「こんな時間に寝ろって言われても……」

「ハインさんが休憩しなさいって言うなら、それは休憩した方が良いってことですよ」

「その理由も教えてもらえずに、納得しろって?」


まだ昼前だよ。起きたばっかりじゃないか……。

そんな風に渋っていると、サヤはまた、困ったように笑い、少し逡巡してから、あ。と、何かを閃いた様子。

俺の顔を覗き込んで、にこりと笑って。


「なら、子守唄でも歌いましょうか?」

「子守唄…………」


この歳になって子守唄で寝かしつけられるの?

サヤの表情的に、幼子みたいに扱えば、俺がそれを嫌がって、渋々でも布団に入ると考えたのだろう。

…………なんかそんな風に扱われるのも、それを選択されたのも、癪に触った。

そう思ったのだけど、良い代案があることを思い出す。俺はお子様じゃないんだよ……。


「子守唄より……」


サヤを腕の中に捕えて、腰を引き寄せる。急に抱き寄せられたサヤは、ちょっと戸惑うように俺を見上げてきて……。


「膝枕の方が、よく寝付けそうだよ?」


にこりと笑ってそう言うと、途端に頬を朱に染めた。


「えっ」

「なんで驚くの。初めてじゃないだろ?」


前に不可抗力でしてもらったことがある。

あの時は、ただただびっくりが先に立って、サヤの膝を堪能なんてしていられなかった。

まだ恋人関係にもなっていなくて、寝ているうちにサヤへ無体なことをしてしまったのだと慌て、罪悪感で混乱してしまっていた。

でも今、サヤは俺の婚約者だもの。

俺はサヤに触れたって、良いのだ。


「駄目?」


明らかに困っているサヤに、加虐心がくすぐられ、わざと返事を急かした。

火照ったままのサヤが、頬を膨らませ、俺を上目遣いに見上げてくる。


意地悪を言わないで。


そんな風に思っているのは充分伝わっているのだけど、サヤの上目遣いは、俺にとっては煽られているも同然。

いけない方向に気持ちを刺激されてしまうから、今それをするのは逆効果だよ。

心の隅で、嫌がってるから止めなきゃ駄目だと思っていたのに、サヤの耳に唇を寄せて、駄目押しの一言を囁く誘惑に、抗えなかった。


「ギルには前、良いって言ってたくせに……俺は駄目なの?」


うっと言葉に詰まったサヤは、また顔を伏せる。

その困惑した様子に、満足感を感じていた。こうなると、サヤの返事は決まってしまうのだ。

そして、俺の想像通り。


「………………少しだけ、ですよ……」


結局そう言い、恥ずかしげに視線を逸らす。

つい心の中で拳を握ってしまった。ほぼ初めての膝枕を獲得!

内心で喝采を上げていたのだけど、サヤは少し逡巡し、何故か長靴を脱ぐ。


…………? なんで長靴を脱ぐ?


その行動の意味が分からず、サヤの動きを目で追っていたのだけど、彼女はそのまま、俺の寝台の上に上が……えっ⁉︎


「どうぞ」


そこで横座り。


いや、ちょっと待って、それは想定していなかった……。てっきり、長椅子でやるものだと…………。


「レイ?」


こてんと首を傾げると、尻尾になった黒髪が、さらりとサヤの肩に流れ、腕を撫でて背に戻る。

たったそれだけのことに、ぞくりと身が震えた。あんな些細なしぐさで淫意を催してしまった理由が、我ながら分からない。

細袴から覗く、サヤの足先。日に焼けていない場所。薄い絹靴下から透ける、白くて細い、女性の足……。小さな爪のついた指が、少しだけ動いたと思ったら、細袴の下に隠されてしまった。

俺の視線がそこにあるのに気付いたサヤが、細袴の内に引っ込め、隠してしまったのだけど、先程より頬が赤いから、多分、足先を見られるのが、恥ずかしかったのだと、思う……。


「はよ、おいで」


その染まった頬で、恥ずかしげに視線を伏せ、サヤは少し強い口調で言った。

寝台の上で、頬を染めて、俺を呼ぶ……。

しどけなく身を崩して、毎日俺の眠る場所に座っているサヤは、とてつもなく蠱惑的で、強く女を意識させた。まるで、爛漫と咲き誇った、匂い立つ華だ……。

あれを、俺の手中に…………今ここで手折ってしまえば、手に入る……っ、違うっ!


これは俺の頭がおかしい状況になってるってことだ! しどけなくって何⁉︎ サヤはただ座っているだけ。膝枕をしようとしてるだけ!


「そんな顔せんでも、ちゃんと寝るまでは貸してあげるし」


てしてしと膝を叩く。少し眉を吊り上げ、怒っている風に表情を作っているけれど、それは照れ隠し。

恥ずかしさを、そうやって誤魔化しているのだということは、表情を読むまでもなく分かるから、不埒なことは考えるなと、自分の欲望を頭から追い出すため、心よ凪げの呪文に頼りついた。

だけど、いつもは助けてくれるそれも、今は全く効力を発揮しない…………っ。


「……………………やっぱり、やめておく……」


その言葉を絞り出すのに、気力の全てを振り絞った。

寝台の上に引っ張られそうになる身体。サヤの膝に張り付きそうになる視線を、身体全体を使ってもぎ離し、背を向けて寝台に座る。

視界からサヤを外すと、自分がだいぶんおかしいという自覚が、更にしっかりと持てた。さっき口走っていた言葉から、そもそも変だったんだ。


なんでサヤを挑発するみたいに言葉を選んでた? 選択肢をなくすように、外堀から埋めていった? 膝枕を承諾させるまでが、まるで誘導尋問じゃないか!

俺は今、おかしい……。こんなんじゃ、ろくなことにならない。

これは絶対、サヤに近付いちゃ駄目なヤツだ…………。


「自分で言うたんやんか!」

「そうだけど、やめておく…………ごめん、もう良いから……」


背中にサヤの、お怒りの声。そりゃ怒るよね。自分で膝枕しろって言っておいて。

だけど、それだけで済ませられる気がしない。

サヤの膝を借りるってことは、サヤが逃げられないような態勢で、俺が自由にできるってことで、無性に欲望に囚われてしまっている今の俺は、それを良いことに、サヤに無体を強いてしまいそうだった。


寝台の上なのがいけない。どうしてもいらぬことを連想してしまう……。


「ちゃんと一人で休むから、サヤはもう、戻って良い……」


サヤに酷いことをしてしまう前に、離れないと……。

今まで何度も失敗して、だけどサヤはその度に許してきてくれた。でも、今回もそうとは限らない。

今までは許せる範疇のことで済んでいただけだし、今の俺は、信用ならない。

だってこうしていても、サヤに触れたくて、たまらないんだ。今サヤを見たら、三年の我慢なんて吹き飛んで、むしゃぶりついてしまう気がする。

そう考えたら、アギーで俺に組み敷かれ、涙を滲ませていたサヤを思い出してしまい、罪悪感と高揚感で余計苦しくなった。

嫌だ。あんな風にしたくないと思っているのに、ああしてしまいたいとも思ってる……やっぱり今の俺はやばい。

なんで急に、こんなに気持ちが荒れたんだろう。

普段通りのやり取りをしているはずだったのに、なんか、凄く攻撃的になって……。


そう思った時だ。

両肩にサヤの手が触れた。そしてそのまま後ろに引き倒される。


「さっ、サヤ⁉︎」

「ええから、寝るの!」


強引に膝枕。

想定外のことに、呆気にとられる俺を覗き込むみたいに見下ろしてくる、上下が反対のサヤの顔。

影になっているけれど、その表情が心配そうに眉を寄せていて、どうしてそんな表情をしているのだろうと、そう思ったら……。


「……今一人になるんはあかんの。せやから、ハインさんは私に、休ませて来いって、言うたんやろ?」


静かな口調でそう言って、俺の頬を両手で包み込む。


「レイが苦しいなっとるの、ハインさんが分からんわけ、ないんやから。せやし、大人しいしとき」


……苦しい?


「なっとるやろ?

レイがあれこれ理由つけて、私に絡もうとしたり、離れようとしたり……そういうチグハグなことする時は、気持ちがグラグラして不安になってる時や、苦しいなってる時やろ」


そう断言され、呆然とサヤを見上げた。


「いい加減、何度も見てきてるんやから、私かて分かるで?」


優しく微笑んで、俺の顔にかかる髪を、サヤの細い指が梳いて払う。

そうして、また俺の頬を包むみたいに手を添えて……。


「寂しいなっとる時、一人になるんはあかんの。

前にも言うたやろ? 寂しかったり、苦しかったりする時は、遠慮せんでええって。

レイが今、私に触れたかったんは、カタリーナさんのことで思い出してしもうた辛いこと……冷えてしまった気持ちを温めたいって、身体が欲したからやろ。せやったら、私は恋人なんやから……婚約者なんやから」


優しく、言い聞かせるようにそう言ってくれ、腰を折り曲げ、右の頬に啄む口づけをくれた。たった……たったそれだけのことなのに……何故か俺は、その細やかな口づけひとつで、心が軽くなったと感じたのだ……。今にも荒れ狂いそうだった気持ちが、萎んでいく……。


「それにレイは、我慢せんでええことを我慢してるんやで。なのにそんな、罪悪感なんか持たんでもええの」

「っ! ち、違うよ⁉︎ サヤだって、申し訳なく思う必要なんて、微塵も無いんだ。三年先を選んだのは俺で、俺が好きでそうしてるんだよ⁉︎」


俺に身を弄ばれたとしても、それはこの国の法では本来俺に許された、当然の権利なのだと、そう言われた気がして、慌てて違うと叫んだ。

この国の約束事なんてどうだって良い。俺はサヤの身体が欲しいんじゃない。サヤと繋がりたいのは、サヤが愛しいからだ。

だから、ただ欲望だけでそうしたくない、ちゃんと気持ちが伴う行為を行いたいわけで……! それにはサヤの気持ちこそが大切で……!

サヤと長く一緒にいたいから、三年先を選んだ。だけどそれだけじゃなく、サヤのご家族に対してだって、不誠実なことはしたくない。彼女が彼女の国で、成人するまで……親の庇護下を離れるまでを待つ。それが誠意だと思ったのだ。

会えないのは分かっている。だけど、ちゃんとご家族に、大切にすると、胸を張りたい。


「分かってる。そんな風に言うてくれるレイが、私に無理を強いるわけ、ないやんか。今までかて、ずっとそうやったやんか。

心配せんでも、レイは私を傷付けるようなことは、絶対しいひん。私がそれを、よく知っとる……。

せやから、別にええの。本当なら当然恋人に求める行為を、考えてしまうくらいのこと、当たり前やろ。それを、悪いことみたいに思わんでええ……」


そう言って、今度は逆の頬に、啄む口づけ……。


「私は、平気。何も怖くないから、こうしてるんやで」


最後に目元を、手で覆われた。


「眠るまでおるから。おやすみレイ」


正直、泣きそうだった。

だって、こんなに嬉しいことって、あって良いのか?

サヤの膝は、震えてなかった。目元を覆う手も、温かくて優しいまま……。

それは、彼女が俺を信頼してくれているということの表れで、不埒なことを考えた俺をも、恐れず受け入れてくれているということで、思考の中で貶められることにすら敏感で、体調を崩していまう彼女が、好きは気持ち悪いとまで言って泣いていたサヤが、俺ならば大丈夫と…………!


異世界に、たった一人迷い込んでしまった彼女にとって、この地で心底安らげる場所なんて、望むべくもなくて……、一生彼女は、孤独なのだ。俺がどれだけ愛し、大切だと思っていても、それが彼女の救いになることはないのだと、心のどこかで思ってきた。

俺には、彼女の孤独を、埋めてやることはできないのだと、そう思っていた……。

でもこれは、俺がサヤにとっての特別に、なれたと、いうことで……。少なくとも、サヤの抱えて来た大きな深い傷を、俺が、埋めてやれるかもしれないと、いうことで……。


愛を受け入れられないと泣いていた少女は、もう、いないと、いうことだった。


「……サヤ……」


この嬉しさ、愛しさを、どうにか伝えたくて、だけどそれを表す言葉が浮かばない。


目元を覆われ、見えない視界には、指の間から滲む淡い光だけ……。

でも触れたくて、手を挙げると、そこにするりと温もりが触れた。感触だけで、サヤの頬なのだと分かる……。


「……………………愛してる」


なんとか絞り出せたのは、なんの飾り気もない、ありふれた言葉。

くすりと笑った音を、耳が拾った。そして温もりが手を離れた後、唇に柔らかい感触。

ただ触れただけのそれが、どんな口づけよりも甘く、芳しく、幸せで、嬉しい。うれしい……。


心が満たされるって、幸せだと感じるって、こういうことなのか……。

今週の更新を開始しました。

明日の分は書けてません、でも仕事です! なんとかひねり出そうと思います!

というわけで、今週も楽しんでいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ