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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第十一章
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閑話 息子 2

 父上の元を辞して、俺は兵舎へと足を向けることにした。

 ハインは相変わらず付いてきていたけれど、俺は構わず足を進めた。とはいえ……気持ちとしては、足踏みしていた。

 正直、気が重い。

 アーシュは俺の顔を見るのも嫌だったんだろうなぁって……、そう思ったら。

 戴冠式まで残ると決めていたアーシュ。それは、貴族出身者がいないセイバーンの事情も分かっていて、任命式や戴冠式では、自分が必要だろうからと考え、残ってくれていた……ってことだ。

 それは、母に対する忠義心ゆえの行動だったのだろう。


 もう、三年も前に、亡くなった人なのに、忠義を尽くす……。そういう男であるアーシュが、嫌な奴なわけがない。

 本当ならば、職務に私情を挟むことだって嫌だろうに……、それでも俺に対する態度が硬くなっているって、理性では制御できないくらいの苦痛だったって、ことだよな……。


 兵舎に赴くと、管理者室に使用人の姿。

 今までは騎士らが適当に過ごしていたのだけど、ここにもこの春から、管理者が置かれた。

 騎士の勤務状態も確認できるようになったので、アーシュは本日、どこの警備に配属されているのか聞くと、今日は非番とのこと。


「ですが、外出届が出ておりますので、お出かけされるご予定のようです」


 用事があるのかな? じゃあ、あまり時間は取れないかもしれないな……。


 まだ部屋にいるとのことで、場所を聞き、足を進めた。

 同じ間取りの部屋が続く廊下を進み、数人の非番騎士とすれ違う。

 途中、荷を運び出している部屋があるから何かと思ったら、故郷に配属希望を出した騎士の引越し準備だった。そうか、もう移動が始まっているよな……。

 お世話になりましたと言う騎士に、今までありがとう。と、言葉を掛ける。配属先に移っても、そのうちまた、土嚢関係の訓練でこちらに来ることになるだろうから、その時は声を掛けてくれと伝えた。


「世話になった。どうか配属先でも健やかに過ごしてくれ。また会える時を楽しみにしている」


 少し寂しい……。

 ずっと、関わってこなかったこのセイバーンの地で、初めて深く関わった者たち。少なくない時間を共にした。苦難を乗り越えた。お互いに命を賭けることもしたのだ。


「本当に、ありがとう。君はセイバーンを救ってくれた勇者だ」


 彼らがいなかったら、父上も俺も、きっとここにいなかったと思う。

 人の縁が、彼らの折れなかった心が、セイバーンを救ってくれたのだ。


 その先に更に進み、見つけたアーシュの部屋は、他となんら変わらない一室だった。

 俺より上位である子爵家の方なのに、一般庶民と一緒に宿舎で生活し、そのことに対して何ひとつ文句を聞いていない。

 特権階級であることを、特別にしない。それができている貴族出身者なんて、なかなかに珍しいのだと、俺は知ってる。


「アーシュ、いる?」


 扉を叩いて声を掛けると、少しの沈黙。そして、扉が開き、とても不機嫌そうなアーシュが出てきた。


「ジークらから報告があった件なんだけど」

「…………言うんだろうと思ってました」


 ものすごく嫌そうに、ぼそりとアーシュ。

 その態度にカチンときたのか、ハインの纏う雰囲気が若干剣呑になるが、まだ怒るような段階じゃないってば。膝を叩いて落ち着けと注意した。俺とアーシュより、ハインとの関係の方が問題だと、俺は思ってるんだけどなぁ。

 俺たちのそんな様子を見ていたろうアーシュは、観念した様子で中へどうぞと、俺たちを促す。


「散らかっておりますが、それで宜しければ」

「良いのか? 出かける予定だったんだろう?」

「……ならお帰りいただけるのですか?」


 ……それは承知できないな。


「お邪魔する」


 とりあえず、お言葉に甘えさせてもらうことにした。


 前、ユストの部屋にも入ったことがあったけれど、間取りはそちらとほぼ同一である様子。

 ただ、アーシュはユストほど細々とした道具類を所持していないみたいで、随分と物が少なく、部屋を広く感じた。

 部屋の端には木箱がいくつか積まれており、片付けの最中なのだと窺わせる。


「ご覧の通り椅子はありませんし、これから出かける予定もありますので、このままで失礼します。ご用件は?」

「どうして、俺に黙ってた?」

「報告する義務がございましたか?」


 現在の領主は父上で、俺は父上がご帰還されてからは補佐でしかない。だから、言う必要など無かったでしょうとのこと。

 まあその通りだけど……。俺に伏せると、わざわざ父上の確約を取った理由を、聞きたいのだ。だけど、この様子では答えてくれそうもないな……。

 そう思ったから、理由の追求は置いておくことにした。それよりも本題だ。


「残ってほしいと言っても、駄目だろうか」


 そう言うと思っていたのだろう。

 分かっていたと言いたげに、息を吐くアーシュ。


「何故?」

「何故って……何故も何も、そう思って当然だろう?

 俺はアーシュを得がたい人材だと思っているし、ジークやユストだって、それを望んでいる。

 俺たちがお前を失いたいなどと、思うわけないじゃないか」

「……俺たち……?」


 鸚鵡返しにそう呟き、クッと、口角を吊り上げる。


「貴方にとっての私は、口煩く煙たいだけの存在だと思っておりました」

「そんな風には思っていない! アーシュは俺にとっても、大切な仲間の一人なんだぞ」


 そう言うと、呆れたように笑う。


「それは、とても優等生なご意見ですね」


 本心ではないことを言わなければならないなんて、貴方も大変ですね……と、そんな表情。

 アーシュの俺を嘲ったような態度に、ハインのイライラが募っていく。アーシュもそれは分かっているだろうに……態度を改めようとはしなかった。だけど……。


 …………今日はなんか、いつも以上に突っかかってくるなぁ。


 どうしてだろうかと考えた。普段から言葉は少しキツめではあった。けれど、こんな風に、あからさまな嫌味を言ったりはしなかった。

 俺をさっさと遠去けたくて、わざと怒らせるような言動を取っている?


「お話がそれだけならばお帰りください。私の気持ちは変わりませんでしたので。では」

「待ってくれ。まだ……」

「もう良いでしょう? 貴方はちゃんと、私を引き止めようとした。ジークとユストへの義理はそれで果たせましたよ」

「二人への義理立てでこんなことを言いにきたんじゃない!」

「どうだか」


 なんだろう……苛ついている? 少々焦っているようにも見受けられる。

 早く何処かへ行ってくれと、構わないでくれと、そんな風に考えてる?

 俺を部屋へ入れたのは、他の騎士にこんなやり取りを見せないためだろうし、嫌だと言っても俺が引き下がらないと分かっていたからだろう。そして出かける用事があると、わざわざ時間が無いことを伝えて牽制……俺のことを報告に行った二人への義理を果たせば、俺がここにいる必要は無いから帰ると考えていた?


「今日は、どこに行くつもりなんだ?」

「貴方には関係ない」


 食い気味に拒否られた。

 だけど、怒り顔の裏に、ちらりと見えたのは、焦りと罪悪感……?


「……分かった。邪魔する気は無かったんだ。また後にする」

「私の意思は覆りませんから、もう結構です」

「俺が結構じゃないから来る」


 そう言うと、また嫌そうに顔を歪める。だけど……。

 その裏にやはり、違う表情が隠れていた。何故、俺に後ろめたさを感じているのだろう? 今の態度に対して? 違う気がする……。

 アーシュの顔を覗き込むと、視線を逸らされた。やっぱり見間違いじゃないな、これ……じゃあ、何に対して?


「やめてください」


 もう一歩を踏み出すと、少し焦った様子で、一歩下がる。

 俺に知られたくない? 悟られたくない……だけど、それだけじゃないように思う。なんだろう、これ……。


「近い!」


 肩を押されて押し退けられた。

 ちょっと顔を覗き込もうとし過ぎたようだ。

 それと同時に、ふわんとなにか、青い香りが鼻先を掠める。

 ……香水じゃないよな……アーシュ男だし……女性の移り香?


「何を隠してる?」


 つい我慢がきかなくて、そう問うたら、途端にアーシュは振り切れた。


「貴方には関係ない!」


 そのまま肩を押され、部屋の外に向けて押しやられる。


「お願いですから、帰ってください!」


 焦った声音。俺に何かを隠していて、それを知られたくなかったということが、それで理解できたのだけど、そのままハインと共に部屋を追い出された。

 鼻先で扉が閉まり、そこに暫く呆然と、佇んでいたのだけど……このままここにいても、嫌がられるだけだな。


「……一旦帰ろうか」


 そう呟き、足を進めた。いつもなら怒りそうなハインが大人しいなと思っていたら……。


「とても違和感のある香りの部屋でしたね……」

「違和感?」

鬱金香(うこんこう)(チューリップ)臭かったです」


 獣人であるハインは、俺たちより格段に鼻が良い。

 ハインには、あの部屋に鬱金香の香りが充満していると感じたらしい。


「花なんて無かったろう?」


 そもそも男の部屋に鬱金香って……。

 あの可愛らしい花が飾ってあれば、目に付いたと思う。でも……アーシュから香った草木の香り……あれがもしかして、鬱金香だったのかな。


「箱の中では? 濃厚でしたよ。他にもいくつか混じってましたが」

「……ハインって、花に詳しいな。前も紫陽花の異名を知ってた」

「花の香りは特徴が強いので、覚える気など無くても記憶に残ってしまうだけです」


 他にも分かる香りがあった? と聞くと、木春菊(もくしゅんぎく)(ガーベラ)も強かったという。

 濃厚な花の香りが複数混じっている……。

 それが指すものが、何か思い至らない……。


「まさか花束……のはずないか。アーシュが花束……」


 女性に贈るため? いやでも、彼のそういった浮いた噂って聞いてないし……俺が知らなくても、ユストたちが知らないってことはないだろう。

 だけどじゃあ何かって考えると…………全然出てこない。


 そのまま足を進めていると、管理室前まで戻ってきてしまっていた。

 お帰りですかと聞いて来る使用人に、ふと思い至り、アーシュの外出先って、どこか分かる? と、聞いてみた。

 有事の際の連絡先として、記しているかもしれないと思ったのだけど。


「セイバーン村となっております」


 ………………っ。

 …………答え、分かった気がする。



 ◆



 一旦執務室に戻った。

 すると、マルも戻っており、笑顔でお帰りなさいと声が掛かった。窓辺にはジェイドの姿もあり、丁度休憩中である様子。

 口にするか少し迷ったけれど、マルに聞けば大抵のことが、分かるのだ。時間的に、あまり余裕も無いと思ったので、思い切って聞いてみることにした。


「マル……俺の母なんだけどね」

「ロレッタ様がどうかされました?」

「母の亡くなった日って……」


 そう聞くと、少々表情を引き締める。そうして、少しだけ視線を彷徨わせてから……。


「三年前の本日…………で、しょうね。

 致命傷となった後頭部の損傷からして、即死に近かったかと思いますので」


 それで、確信。

 アーシュ、母の墓前に参ろうとしていたのじゃないか。

 俺に言わなかったのは、俺がそれを不快に思うかもしれないと、考えたから。

 たとえ俺にとっての母がどんなであっても、アーシュにとっての母は、死を悼みたいと思う人なのだろう。

 それと一緒に、父上とアーシュが示し合わせた理由も分かった。

 アーシュがここを離れる本当の理由も……。


 父上が、それを俺に隠すことを、アーシュに許したのだろう……と、いうことも……。


 言ってくれれば良いのに……と、ちょっと思った。

 だけど、言えるわけがないよなと、考え直す。

 あの二人は、言えないよな……。

 アーシュは俺が、母の記憶で落ちる所も見てるし、邸で記憶に翻弄され、晒した醜態だって、忘れてやしないだろう。

 父上からだって……母の気持ちや、あの時の顛末も聞いたけれど……。

 俺がそれを今、どう思っているか……そこは伝えていなかった。


「……マル、今日は俺、ちょっと休みを貰って良いかな」

「今日です?」


 マルは、理由の追求をしなかった。


「…………ええ、構いませんよ」


 そうして、少しだけ考える素振りを見せてから、ジェイドを呼ぶ。


「少し頼まれてくれます?」

「なンだよ」

「レイ様の護衛をお願いしたいんですけど」


 武官二人は不在であり、サヤくんも今日は空いてませんしね……と、マル。

 護衛なら、ハインがついてくると思うけど?


「駄目ですって。貴方はもう片田舎の日陰者な二子じゃないんですよ。

 セイバーン後継であり、地方行政官長なんです。従者一人だけ連れてうろうろできる立場じゃないんです」

「えぇ……そんなにおおごと?」

「そりゃそうでしょ。秘匿権の無償開示、もうされちゃったんですよ?

 それの出所がここであり、大災厄前文明文化研究所には秘匿権がゴロゴロしてるってことだって知られたんです。

 貴方は言わば、歩く金の卵なんですから、せいぜいしっかり身を守っていただきたいですね」


 何があるか、分かったもんじゃないんですから。との、呆れた声。


「……今日までそんなこと言わなかったじゃないか」


 もう拠点村に戻って何日も経つのになんで? と、疑問をぶつけると。


「拠点村の中は良いんですよ。ここは極力、日常を支障なく過ごしていただけるように、僕が糸を張り巡らしてますから。

 村を水路で囲って侵入経路も絞ってありますし、村門は全て、昼夜問わず、騎士が警護してますし、村の中だって常に吠狼が巡回してます。

 貴方の危険は、せいぜい女性の色仕掛けくらいのものです」


 万全すぎて呆れてしまう警備態勢だ。

 だから尚のこと、この村を出るときは注意していただきたいんです。と、マルは言う。


「普段に隙がない分、隙のある時に危険が集中します。

 時期的にまだそこまでではないと思いますけど、用心は忘れないでください」

「分かった……」


 結局それで、ジェイドを連れて行くことになった。


 時間が惜しかったので、馬車ではなく馬で行くことに。

 馬であれば、セイバーン村までは一時間も掛からない。

 それに多分、アーシュも馬だろう。騎士は皆、自らの馬を持つからな。


 ジェイドは何も言わずついてきたが、途中で一度犬笛を吹いた。ハインが顔を顰めるが気にしない。

 孤児であるこの二人に、こんなこと付き合わせて良かったのかな……と、内心少し考えていたのだけど、他の選択肢、無かったしな……仕方がないか。

 花を持ったアーシュは、あまり馬を急がせることはできないだろうから、ゆっくりになるだろう。そう思ったから、急いで出て来たのだけど、どうやらアーシュの先手を取れたらしい。暫く進んでも、アーシュらしき馬影は現れない。

 これならもう大丈夫だと思ったので、馬の速度を少し落としたら、隣にジェイドが並んできた。


「で、どこまで行くンだよ?」

「セイバーン村の共同墓地だよ」


 母は妾であったから、セイバーン男爵家の墓所には入れない……。

 俺は葬儀にも出ていないし、母の骨がどこに埋葬されたかは、帰郷当時に一度聞いただけだった。だから、母に参るのは、これが初めてだ……。


 共同墓地は村の南外れにある。

 俺が来ていることが、村人からアーシュに溢れてはいけないから、村は迂回することにした。ぐるりと西を大きく周り、南側から直接共同墓地へ。

 この共同墓地と、焼き場である南東の外れは、森の中を通る細い道で繋がっているのだけど、その途中にセイバーン男爵家の墓所もあった。


 母がこの共同墓地に埋葬されていることは分かっていたけれど、ここの何処かは知らない。とりあえず彷徨いて、探してみることに。


「そういえば、サヤの国では、毎年死者を悼むのだそうです。死者というか……先祖の全てだそうですが」


 共同墓地には石碑がいくつかある。

 大きなその石碑には上からびっしり、名前と、没した日が記されている。

 この石碑がいっぱいになると、新たな石碑が用意されるのだけど、これを埋め切るには数十年単位で時間がかかる。

 しかし、セイバーン村では水害が多発し、死者も多かったから、この石碑が埋まるのも、他の地域より早かった。


「毎年? なンでだ?」

「なんでも、決まった日に魂が帰郷するのだそうです」

「…………来世はどうしたンだよ……」

「来世という考え方もあるそうですが、天国やら地獄やらに行って暮らすという考えもあるそうです」


 地獄は拷問巡りの日々らしいですよとハイン。それにジェイドがうへぇと嫌そうな顔をする。

 そんな風に話をしながらぐるりと巡ったのだけど……。


「……………………ない……」


 母の名は、無かった。


「マジでねぇな……もう二巡しちまった……」

「三人の目で探して無いのですから……セイバーン男爵家の墓所では?」

「いや、それは無い…………それは、異母様が、許すはずがない……」


 じゃあ、異母様なら、一体どうする?

 そう考えると、もう、望みは無いのだと思った。彼の方が、ここに墓を残すことを許さなかったのだとしたら、母は…………。

 母は、命だけで済まず、亡骸すら、冒涜されたということだ……。


 それは、あまりにも、あまりじゃないのか…………。


「母様…………」


 どうして良いか、分からなかった。

 怒るのも、悲しむのも違う気がしたのだ。何より三年、このことに気付きもしなかった自分に、他を責める資格などありはしないだろうと思った。

 去年の初夏、兇手の三人をここに葬った時にすら、俺は……母の名を、探さなかった……。このことに、気付かなかった……。


 この世界で(むくろ)は、(カラ)だ。死者はこれを脱ぎ捨てて、羽化し、来世へと旅立つ。

 だから、サヤの世界のように、長年に渡り死を悼むようなことはしない。死者はとっくに来世へと向かった後だから、ここにさしたる意味は無いのだ。

 だけど(カラ)には、記憶が残される。

 だから、死者との時間を取り戻したい時俺たちは、墓に参る。ここで、記憶と接して過ごすのだ……。

 なのに、母の記憶は…………。

 ここに骸が無いなら、母の記憶には…………もう……。


「……何故、貴方がここにいるのです…………」


 怒りと、警戒の滲む鋭い声音が耳に届くまで、俺はただそこに立っていたのだと思う。

 気付けば、花束を持ったアーシュが、怒りも露わに俺を睨め付けていた。


「アーシュ…………」


 顔を見た途端、悲しさと、申し訳なさと、後悔とで、俺の中の何かが振り切れてしまった。


「っ、な…………にを……?」


 その場で急に頭を下げた俺に、狼狽えた声。

 だけど、頭を下げるしか、俺が彼にできる償いは、無かった。


「申し訳ない。母を、悼みに来てくれたのに、それをさせてやれない」


 俺がここにいた三年、母を訪ねて来た者はいない。

 異母様の目があったから尚のこと、母の死を悼むなんて、許されなかった。

 でも、そんなのは言い訳だ。

 やりようはあった。だけどしなかったのだ。

 たとえ一度でも、俺は母を悼むことを考えたか? 答えは否だ。実感一つ伴わないまま、今日まで来た。ただ日々に、流されてきた。

 いないことだけ理解していた。だけど、死を、受け止めていなかった。それどころか、俺の中の記憶を疎んですらいたのだ。

 母の全部から、俺は目を背け続けてきた。拒んできた。今日まで、ずっと。


 あれから夢は見ていない。

 母の、記憶だったのに……あれも母の記憶だったのに…………!


「申し訳ない。墓のひとつも、守れない……不甲斐ない息子で。

 皆の記憶すら、足蹴にしたも同然だ……本当に、申し訳ない!」

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