住処へ
学舎…この世界の学校。
裏山を下り、道を跨いで原っぱを突っ切ると、ちょっとした雑木林がある。
その先に崩れ掛けた低い石垣と、手入れされず荒地と化した裏庭。そして無骨な石造の建物があった。
数代前の領主から暮らす、領主の館だ。
セイバーン男爵領は、我が国有数の小麦生産地で、国の中心地近くにあるくせにど田舎なのだけど、街にあった領主の館を村に移してしまったくらい、農地管理に力を入れている。
そして俺もそのセイバーン男爵家に連なる者であるのだけど……俺の住処はここではなく、館から少し離れた、雑木林の中にあった。
「ごめん、ちょっと足元悪いから、気をつけて」
かつて庭と雑木林の境界線だったであろう石垣を跨いで越えて、サヤさんに手を貸しつつ、その先の建物を指差す。一応別館扱いされているけれど、別館と言うより……まあ、元使用人の共同住宅だな。
百人以上が生活を営む場だったようで、木造ながらガッシリした大きな建造物だ。ここに俺たちは、たった二人で住んでいた。
「もう館の使用人は起きています。早く! 見つかると厄介ですから」
ハインに急かされつつ足を急がせ、なんとか建物の陰に隠れてホッと一息。
なんで自分の家に帰るのにコソコソしてるんだろうね、ほんと。
だけど見つかればややこしいことになるんだろうし、サヤさんの安全を考えれば尚のこと、バレないに越したことはない。
別館の玄関を押し開き。
「ふう、多分大丈夫だったよな」
閉じると俺たちの声量は通常に戻る。
ここには使用人もやって来ないから、安心して会話ができる。
「まずは着替えないとだな」
春の終わり、まだ肌寒い中でそれなりの時間歩かせてしまったから、サヤさんは唇を紫色にして、少々震えていた。貸した上着も濡れてしまったしな。
「サヤさん、そこの階段上がって、すぐ右側の扉。もうちょっとだよ」
「は、はい」
「レイシール様……」
とりあえず俺の部屋に招こうとしたら、ハインがまた険悪な顔をするからうんざりだ……。
いやだって、暖炉あるし、熾火をしてるからすぐ火もつくじゃない。と、半ば強引に押し切る。言い合いしている時間がもったいないからね。
玄関広間の壁沿いにある階段を上がってすぐ右に折れ、一番手前にある扉。ここが俺の部屋だ。
元の住人は家族で住んでいたのかもしれない。主室以外にも小部屋が二つ付いている広い部屋で、俺は物置と寝室にし、使っている。
基本は板張りの床だけど、主室には一部分石を敷いて暖炉が備え付けてあり、大窓の外には露台もしつらえてあった。多分この屋敷で一番偉い人が使っていた部屋なのだろう。
サヤさんを中に促し、暖炉近くの長椅子に彼女を誘導する。
女物の服は持っていないし、すぐに調達できる伝手もない。ハインは俺の寝室に向かったから、着替えでも物色しようとしているのだろう。
俺は暖炉を掻き回して熾火を確認。小枝と薪を足した。仕掛けてあった薬缶を確認すると、保温されていたから充分温かい。
丁度良いから棚の茶葉を取ってお茶も入れることにする。温かいものを飲んだ方が、きっと身体も温まるだろうから。
と、そこでハインが、寝台から剥ぎ取って来たのか敷布を抱えて戻った。
「とりあえずこれにくるまっておいてください」
言うが早いかサヤさんを覆う。ビクッと驚いた様子のサヤさんだったけれど、大人しくされるがまま。
それを見届けてからくるりと振り返ったハインは……。
「レイシール様は、此の方に近付かないように」
「えぇ……もう良いじゃん……」
「駄目です。貴方はご自分の立場を忘れないでください」
念を押されたから渋々距離を取ったら、ハインは今一度サヤさんを睨み「すぐ戻りますので、そこを動かないように」と、念を押して部屋を出る。
「……ごめんねサヤさん。あいつちょっと職務に忠実すぎて……」
「ううん、大丈夫。おおきに」
……おおきに。
おおきにって、なんだろう……。
「お待たせしました」
思っていた以上に速いハインの帰りに出鼻を挫かれ、おおきにの意味を聞く機会を逃してしまった。
「生憎と女性物は持ち合わせがございませんし、大きさ的にレイシール様の古着をお借りしました」
「あぁ、良いよ。どうせ俺はもう着れないんだし……」
二年ほど前、急激に背が伸び、一瞬しか着なかった懐かしいやつだ。
ハインはそれらを一旦机に置いてから、また部屋を出ていき、すぐに戻ってきた。今度は湯の入った手桶と数枚の手拭いを持ち込んできて、それも俺の机に置いてから、何故か暖炉横の壁際に衝立を用意し始めたので首を傾げる。
「ハイン……それ何に使うんだ?」
「こちらの中で身支度を整えて頂くために用意しているのですが?」
「ええっ? 何言ってるんだお前、他の部屋でしてもらうべきだよ、彼女は女性なんだから」
相変わらず無頓着だなと思いつつそう言ったのだけど、ハインはお前は馬鹿かと顔前面にありありと表現し、不機嫌そうな声音で言った。
「申し訳ございませんが、私はレイシール様ほど危機感をかなぐり捨てておりません」
……それは俺が危機感かなぐり捨ててる前提の発言だな。
「素性の知れない方を一人にして、いつの間にやら逃げ出されていても困ります。
他にも多数懸念がございますので、こちらで身支度をして頂きます」
目の前で着替えろと言わないだけマシだと思いますが……という、凶悪な独り言が耳に届く。
……こいつ、本気だ。
もしごちゃごちゃ文句言って拗らせたりしたら、最悪剣を突きつけ監視の中での着替えとかになりかねないやつ!
だけど……だけど女性を男二人と同室で着替えさせるって……それはなんかもう、犯罪の域に達しているのでは⁉︎
サヤさんが青い顔してるのも寒さのせいではなく、血の気が引いているのでは⁉︎
これは問題だ。何か良い方法……もうちょっとましな手段はないものか……っ。
「ごめん、サヤさん……。
えっとね、一応俺、人に守られる立場ってやつで……。
さっきのもそうなんだけど、ハインは俺の安全を第一に考えなきゃいけないんだ。
あ、勿論サヤさんが俺に危害を加えると思ってるんじゃないよ⁉︎
そうじゃなく、建前というかこう……とにかく守れる形をとっておかなきゃいけなくてね」
守るほどのものじゃないんだけどね……。でもハインは俺の従者だから、そう考えざるを得ないんだよな。
必死で説明してる間に腹を括った。
「それでその、大変申し訳ないんだけど……あの衝立の中で身支度をしてもらって良い⁉︎
無論、君の支度が終わるまでは、絶対に近付かない。
俺たちは露台に退避しておくし、硝子だから見えはするけど、部屋は一応一人にする!」
ごめんなさい……本っ当に、申し訳ない!
歪みがあり、中がぼやけるとはいえ硝子越し。この程度の障壁しか思い付かなかった!
変態! と、罵られる覚悟で切り出したのだが。
「分かりました」
「……え、良いの?」
そんなあっさり?
「懸念は、最もやと、思うたし……。衝立もあって、窓越しやろ?
それくらいやったら大丈夫です。
お湯まで用意してくらはって、感謝したいくらいやから、気ぃ使わんといて」
サヤさんは多少困り顔の、眉を下げた笑顔だったけど、誤解されなかったことにホッと息を吐いた。
良かった。良かったけど……なんか凄く、罪悪感……。
「本当にごめんね。
じゃあ、俺たちそっちに行ってるから。焦ったり急いだりしなくて良いからね」
慌てて中途半端な身支度をさせたのでは申し訳ないので、俺は充分時間を使うようにと念を押して、ハインを露台に促した。
俺の交渉中も準備を進めていたハインは、小机に着替えと湯の入った木桶、手拭いや櫛を置いてから、衝立を窓側から見えない様に調節し、俺が茶葉を放り込んだ薬缶から、湯呑に茶を注いでいた。
そのお茶も小机に一つ置き、用意してあった小ぶりな盆にも二つ準備する。
目視確認を終えると、くるりとサヤさんに向き直り、直立。
「大変申し訳ありませんが、女性用の下着はございません。
未使用のもので男性用ならございましたので、とりあえずはこれでしのいで頂きますが、ご理解下さい。
机の下に長靴と、洗い物用の籠を置いております。汚れ物はこちらにどうぞ。それでは一度退室致しますので、ごゆっくり」
口調も態度も丁寧だが目が怖い……。
それでもまあ……妥協してるね、君なりに。
俺はもう一度「ごめんね」と謝ってから、ハインとともに露台に出た。
出て、窓を閉めた途端。
「では、説明して頂きましょう。
あの女性はどなたですか。どうやって知り合ったんです。貴方はご自分の立場をどのように理解してらっしゃるので? 何故見ず知らずの泉に飛び込むような奇行をする女性をホイホイ連れ帰るのですか!」
まあ、お説教だね……。こうなるのは分かってたけどさ……。
「悪かったって……。
でも泣いてる女性を一人でずぶ濡れのまま山に置いておくのもどうかって話だろ?」
とにかく、サヤさんが身支度をする間、俺はハインにサヤさんとの出会いを説明することとなった。
とはいえ落ち込んでいた部分は省き、夢の話も除外すれば、たまたまあそこで水を飲んで、休憩して、帰ろうかなと思ってたら泉の中から手が伸びていて、引っ張ったら彼女が出てきたという内容になる。
話を聞きながら、ハインの顔はどんどん眉間にしわを増やし凶悪な形相となっていき、最終的には雷が落ちた。
「なんで泉の中から伸びた手を引っ張るんですか、魔物の類とか思わないんですか!」
「溺れてるのかと思ったんだよ! あんなのとっさに見たらそう思うって!」
「思いませんよ! 私なら無視して全力で走って下山します!」
「だって、空中をさわさわしてたから、助けを呼んでるのかもっておも……」
「思いません!」
激しく舌戦を繰り広げるが、平行線である。
俺とハインでは、思考経路が根本的に違うのだよな。
ハインは常に危険回避を優先するので、そもそも変なものは拾わない危険回避型。
俺はさした理由なしに身体が動く条件反射型。
とっさの時の行動は、真反対だ。
「でもまあ、泉から出て来た部分は信じるんだ」
「そう言うのですから仕方がないでしょう……。そもそもそこにこだわる意味も分かりませんし」
しばし睨み合ってから、最後にはお互い溜息を吐き、湯呑からお茶を飲んだ。休憩だ。
正直話してる俺も納得させられるとは思っていない。
俺だって、ハインに同じことを言われたら、こいつ頭おかしいんじゃないかと思うんだろうし。
だってなぁ……あんな浅い泉から人が出てくるなんて思わない。しかも美人が。
「黒髪なんて初めて見た。ハインは?」
「貴方とほぼ同じ行動範囲なのですから、貴方と同じものしか見ていないと思いますが」
「それもそうか。口調も不思議だよなぁ。どこの地方の訛りだろう?」
「学舎にいた頃にも聞いたことがない訛り方ですね。大抵の地方の方はいらっしゃったはず……となると、異国の者となります」
「ハインは、キュウキュウシャとか、リュウガクセイとか、エンゲキブなんて言葉に聞き覚えある?」
「いえ全くございませんね」
「お前もかぁ……これはもう、本人に聞くしかないな……」
「正直に話すとも思えませんが。最悪、剣で脅せば何か零すかもしれません」
「却下。まず威圧する案は採用しないからな⁉︎」
とりあえず、サヤさんの身支度が終わったら、素性については本人に直接確認するしかない。という結論となった。
「それはそうとお腹空いた……」
「誰のせいだと思っているのです。露台にいては準備もできませんよ……」
お小言しか出てこない従者にごめんなさいと謝るしかない俺……。
けれどそこでコンコンと窓が叩かれた。