発作
六の月五日。
力加減にもずいぶん慣れ、失敗の少なくなったサヤは、揺れる馬車でも大丈夫になったため、今も俺の横に座っている。
舌を噛まないように注意しながらだが、会話もできる。
前回と同じく早朝に出発し、昼の直前にメバックに着いた。
雨季が近いせいか、人が多い気がする。普段なら流れていく旅人が、留まって職探しをしたりしているのだろう。前回同様、並足で商業広場を突っ切り、今回は騒動もなく、バート商会に到着できた。
裏側に通され、馬車を降りる。
すると、奥からルーシーが駆けてくるのが見えた。
「レイシール様! サヤさん! ハインさんも、お元気そうで良かったです!」
「ルーシー久しぶり。そちらも元気そうでなにより」
「叔父は今商談中なので、私がご案内します。いつもの応接室なんですけどっ」
忙しく行き来する使用人達の間を通り、前回と同じ応接室へ通される。
「みなさんはまだお食事は済まされてないですよね?
叔父が、昼食は一緒に取ると我儘を言ってるので……しばらくお茶で我慢してて下さい」
そんな風に言われお茶と茶菓子が用意される。
俺は苦笑しつつ、長椅子に腰を下ろした。
今日は、商業会館に行くつもりが無いので私服だ。礼服は荷物の中にある。
サヤは定着してきた少年の格好で、ハインはいつも通り。
「いつも急ですまない」
そうルーシーに謝罪すると、レイシール様は良いんですと笑顔で返された。
相変わらずこの一家には家族扱いされてる……。
「それはそうと、叔父が怒ってました。手紙。なんて書かれてたんですか?」
「手紙?」
「二通目です。意味が分からん! とか昨日の今日に⁈ とか叫んでました。
さっきも商談中じゃなかったらと歯噛みしてました。
言い訳考えておく方が良いかもしれないですよ? 私を怒る時の叔父と表情が一緒でした」
神妙な顔でそう言われ、ハインにも何を書いたんですかと目で聞かれ、あれ? と気付く。
何を書いたかあまり思い出せないのだ。時間が無くて、思うままを箇条書きにしたような記憶はおぼろげにあるのだが……。
「土嚢の袋にどんな材質が良いか聞きたかったからそのことと……あと何書いたかな?」
うーん?……あっ、大店会議で話し合う内容が大幅に変わりそうだから、一旦止めてもらおうと思ったんだったよな。
マルの手紙に時間をかけ過ぎてしまったから、ほとんど考えずに書いたしなぁ……。
「そういえば、マルには何を送ったんですか」
「マルには……。
ああ、それもギルが来たら話そうか。色々、予定を変更しなきゃいけないし」
ハインの質問に、俺はそう答える。
マルに、サヤを隠すことを止めるのだ。一度に説明してしまいたい。
二人は多分反対だと思う。サヤのことを思えばそうなるのだが……なんとしても、マルを取り込まなきゃならないと思うのだ。そうでなければ、今後が難しすぎる。
ただ、サヤを隠していくだけなら良かった。一人の保護した少女でしかないなら……。
だがサヤは良くも悪くも、規格外すぎた。ハインが言っていたように、サヤの情報は諸刃の剣となりつつある。サヤは優しく、困った人や、状況を放置できる人間ではなかったからだ。そうである以上……情報が溢れ、世間に知られるのは時間の問題だ。
そして、俺たちの状況が、サヤの情報を、知識を、保留にしておけないほど切迫している……。
「あっ、そうだ。
サヤさんの補整着、できたんです。ただ、微調整があるから、一度セイバーンに持って行って試着してもらわなきゃって言ってたんですけど、今時間があるようならやっちゃいますか?」
沈みかけてた思考が、ルーシーの言葉で急浮上した。
ああ、そういえば、今のは誰かの試作品って言ってたっけ……。っていうか、サヤ以外に男装しようとする女性がいることが驚きだ。ギルが手掛けてるってことは貴族だろうし……。
サヤがどうしましょう?と、俺の方を見たので、どうせ待ってるだけだからやって来たらと勧めておく。サヤにとって要となる装備だろうし、ギルが言っていたように、サヤの美体を損なう前に、身体に合うものにすべきだと思うし……いや、断じていやらしい思惑は無い。身体に無理させてないか、心配なだけだよ。ほんと。
「ここに小部屋を作りましょうか? 私やサヤさんの部屋でも良いですけど……」
前回失敗してしまってるルーシーが若干慎重に、サヤにそう訊く。
サヤはそんなルーシーに、ここでした方が作業しやすいかどうかを確認する。
「作業しやすいか?……? えっと?」
「レイシール様や、ハインさんの意見を伺いながらの方が良いなら、ここで構いません。
私だけの問題なら、どこにでも移動します。ルーシーさんたちの、やりやすい方法で構わないですよ」
まさか自分のやりやすさを確認されるとは思ってなかった……。ルーシーの顔にはそう書いてあった。貴族相手の仕事ってのは、得てしてそうだろうな。
「微調整だから……サヤさんだけの問題……かな。痛い場所や、摩れる場所がないかとか、緩かったりしないかとか……。なので、場所としてはどこでも困らない……?
あっ!駄目駄目、いま、レイシール様たちのお相手を任されているから、退室したら怒られちゃう」
「なら、ここの部屋にします」
「畏まりましたっ。じゃあその……準備します。しばしお待ちください!」
「はい、お願いします」
ぺこりとお辞儀したルーシーが、廊下の使用人に声を掛けて、小部屋の用意と、サヤの補整着を持ってくるよう指示を出す。
「小部屋というのは……お風呂の壁にしているあれのことですよね?」
「そうだよ。うちのは壁にくっつけてるから半分くらいしか無いけど」
そんな風なやり取りをしている間に、数人の使用人に担がれた荷物が部屋に運び込まれて来た。
衝立が立てられ、部屋の中に小さな部屋が作られていく。
さして時間を掛けずに、小部屋はあっという間に完成した。
さらに別の使用人が、木箱を三つ小部屋の中に持ち込む。
……三つ?
「じゃあサヤさん、この中にどうぞ。
試着して頂きたいのは三つです。それぞれ形が違うので、ちょっと時間掛かりますよ?」
「はい。大丈夫です。では、お願いします」
ルーシー以外に、二人の女中が残り、小部屋の中に入る。それ以外の使用人はさっと外に退室していった。衝立の中からは、肌着以外を脱いで下さいとか、ここに手を通してとか、やりとりが聞こえてくる。若干、居心地が悪いな……なんか想像してしまいそうで……。
「そういえば、試作品を使用されてて気になった点はありましたか?」
「えっと…少し窮屈だったのと……腰のライン……あ、ここが擦れて、ちょっと痛かったですね」
「ああ……うわっ、皮めくれちゃってますね」
えっ⁉︎
二人の会話に、俺は長椅子を立ち上がりかけ、ハインは動きを止めた。
まさかサヤが怪我をしていたとは思わなかったのだ。いつもにこやかに、笑顔でいたから……。
「これ、サヤさんより小柄な方のものだったから……やっぱり擦れちゃったんですね……」
「このくらいなら、大丈夫です。あと、やっぱり毎日使うと代えが必要かな……。洗いにくいです」
「毎日……やっぱりそうなりますよね……。男装休憩の日があるのか、叔父も心配してたんですけど……」
男装休憩?
「今、異母様たちが滞在されてますし、農作業も、これからは土木作業もありますから……。
当面休憩はないかなと。そんな生活になるのは充分理解してますから、大丈夫ですよ」
サヤとルーシーの会話を聞きながら、俺とハインはサヤに無理をさせていたことに改めて気付き、溜息を吐いた。
彼女は何も言わなかった。だけど、それは理由にはならない。サヤが頑張る子なのは分かっていたことだからだ。
更に、男装という、通常ではあり得ない状態で生活をするのは、当然何か、しわ寄せがあるのだと、理解しておくべきだった。ギルが体に合わないものを身につけることを、あれだけ怒っていたのも、こういうことだったかと今更ながら実感した。
「今……農作業なんかも手伝ってらっしゃるんですか?」
「はい。収穫は終わったので、脱穀真っ最中です。
でも、これも私たちが帰る頃には終わってそうだから……次は川の補強ですね」
「ほぼ肉体労働なんですね……従者なのに……」
「従者見習いです。楽しいですよ? 私、力持ちなので、適材適所かと」
女の子の会話じゃない……。
ルーシーの声に、どことなく怒気も含まれているように感じる……。
俺は心の中でサヤに謝罪し、帰ったらもう少し、役割分担を考えようと決意した。
数日ごとに休憩の日を入れるとか……何かしら。
そして、そのことに気づかせてくれたルーシーにも、後でお礼を言っておこう。
「まあそれで。同じ形のものをずっと身につけておくと弊害が多いって、叔父が言っていたので、補整着は形の違うものを三つ作ったんですよ。用途によって分けられるように。
腰までのものと、胸の下までのものとその中間ですね。
服装によって、選べます。
あと、今からは暑くなって汗も増えると思うので、下着の上に肌着、その上に補整着とした方が良いと思います。汗が増えると、蒸れるし、擦れてしまうから」
「ずいぶん、厚着になってしまうんですね……」
ボソリと、ハインが零す。
夏はこれからだ。服の下に三枚も着込んで……サヤの場合、体型を隠す必要もあるので、どうしても袖や裾が長くなりそうだ。体調が心配だな……。不安が募る。やはり……男装は無理があるかもしれない……。
従者としてそばに置くのは厳しいかもな……。と、そんな風に暗い気分になっていたら、応接室の扉が叩かれた。
「失礼致します。
お食事の準備が整いましたので運ばせて頂きます。
主人の方も、間も無く顔を出せるとのことです」
ワドだ。相変わらずにこやかに、優しい笑顔で挨拶をする。彼が来たということは、ギルも……ああ、来た。
「……ホントだ、怒ってる」
ズンズンと大股で歩いてくるギルが怖い。そして部屋に踏み込んで来たかと思うと、俺の頭に拳を落とした。
「お前な! 意味が分からんにも程があるぞ!
水に強い繊維に土を入れるって何だ⁉︎
水のことを聞いてるのか土のことを聞いてるのかどっちだ!」
「ご、ごめん……早馬を出せる、ギリギリの時間だったから……咄嗟に走り書きで……」
「しかも説明全部すっ飛ばして大店会議は待てだとか、明日来るかもといいつつ来ないとか!
こっちは何かあったのかとヒヤヒヤしたんだからな‼︎」
「どんな内容だったんですか、手紙」
「三行だ! 水に強い繊維って何がある? 土を入れるんだけど。大店会議ちょっとまって、内容変わりそう。近いうちに行くのは一緒。明日かも。
こんな文章で意味がわかる奴がいるなら連れてこい‼︎」
「すいません。私が貰っても意味が分からないです」
ハインすらギルの肩を持つとは……。しかも衝立の向こうから、複数の笑い声まで聞こえる……。
俺が項垂れていると、補整着の調整が終わったらしいサヤとルーシーが出て来た。
「叔父様、今、調整が必要なかった一番短い補整着を使って貰ってます。
やっぱり、二枚ずつは必要かと思います。それから……聞いてください! サヤさん帰ってからほぼ連日男装ですよ! しかも農作業三昧‼︎ 従者の仕事じゃないですよ、農家の仕事です‼︎」
「はああぁぁ? 護衛じゃないと思ったら農作業だああぁ⁈」
「ご、ごめん……サヤも楽しそうにしてるし……仕事も捗るし……全然気が回ってなくて……」
「大丈夫ですよ? 私楽しくやってましたよ? 農家の皆さんともとても仲良くなれましたし!」
殺されそうな俺をサヤが必死で庇う。しかし、ルーシーの次の言葉でギルの雷は結局落ちた。
「サヤさん、補整着が擦れて腰の部分の皮膚がめくれちゃってたんですよ!」
「この野郎! 女性の柔肌を全く理解してやがらねぇとはな! こっち来やがれ‼︎」
「理解できないよ! 俺の人生で女性と触れ合うような時間は社交界しかないんだぞ⁉︎」
「言い訳すんな! てめえよりか弱いかどうかは見た目で判断できんだろうが‼︎」
結局ギルに羽交い締めにされてこめかみを拳でグリグリと圧迫されつつ女性が如何にか弱いかについて懇々と諭された。
ううう、ごめんなさい。もうしません。ちゃんと考えます……。
◆
「ほんっとうに……最低だなお前ら。マジで連日男装だけとは……最低だ!」
ギルがまだ怒っている……。食事中もずっと怒っていた。
美しいサヤを美しくしておかないことにご立腹だ。
俺は知らなかったのだが、サヤの荷物の中にはちゃんと女物の衣服があったらしい。休みの日に、部屋の中でくらい女性の服装をと準備してくれていたのだ。なのに、そんな日は一日も無かった。
「お前らほんと、分かってるか?
考えろよ、女装して十日以上過ごす自分を想像しろ! ぜんっぜん気が休まらねぇって気付けよ!」
「気色悪すぎて想像したくありません」
ギルの言葉にうんざりした顔で答えるハイン。
そうは言っても、セイバーンでは男装してもらうしかない。別館の中にまで本館の使用人が来るという事件もあったので、今まで以上に気が抜けない。
渋る俺に、ギルはキレた。その結果、メバックにおいてはサヤを絶対に男装させないと宣言されてしまった。本気で怒っているギルに、俺も降参するしかなかった。
よって、今サヤは女装……もとい、女性の装いになるべく、ルーシーの部屋に退室させられていて、俺はひたすら怒り続けるギルに、謝っていた。
「絶対痛かったぞ……腰の皮膚がめくれてたって……ただでさえ敏感な部分なのに……」
「悪かったよ……」
「言えねぇよな……男二人に腰を晒すわけにもいかねぇしな……くそっ、俺がいれば気付いてやれるのに……!」
「…………」
それはそれでサヤにとって良いかどうか微妙だ……。なんとなく、半泣きになっているサヤが想像できてしまう……。
そう思いつつも、俺は……ギルであれば、もっとサヤに配慮できたのだと……そう考えると暗い気持ちになった。
「さっき……夏場のサヤの服装がどうなるかも聞いた。
下着、肌着、更に補整着があって、服なんだよな……」
「そうだ。確実に暑い。肌を隠す服になるだろうし、尚更だ。
正直俺は勧めねぇよ。特に、外に出すべきじゃない。下手したらぶっ倒れるぞ。
月の半分、だけだとしても……無理がある」
土木作業なんざ以ての外だぞと、ギルは俺を睨みつけた。
俺は小さくなるしかない……だって、指摘されなければ、きっと今まで通り、サヤに頼っていた……。近づく雨季に焦り、作業を早める為サヤに無理をさせる自分が、目に見えるようだった。そしてきっとサヤは、それでもニコニコ笑っているのだ……。辛かったり、痛かったりを悟らせず……。そして俺は、それに気付きもしないのだ…………。
腹の奥底の、黒いもやもやが疼く。
帰す方法を探すと約束しているのに、それについては何一つ行動できていない。それどころか……サヤを帰すことを、俺は嫌だと思っている……。
罪悪感に胸が潰されそうだ。サヤはあんなに、頑張ってくれてるのに、俺がサヤにした仕打ちときたら、これなのだから。
「サヤを男装させないで済むように、考えてみるよ……」
「おう、そうしろ……。なんだよ……素直だな」
「サヤに怪我までさせてたんだよ……。素直にもなるさ。明らかに俺が悪かったんだから」
前ここに来た時、サヤが嫌だと言ったとしても、俺はサヤを説得すべきだった。
少しくらいセイバーンから離れたとしても、ここにいれば、サヤは怪我なんてすることもなかったし、異母様に目をつけられるようなこともなかった……。
結局今日まで俺は、サヤに何一つしてやれてない……。
頼るだけ頼って、その上危険に晒してしまった……。
落ち込む俺の横で、ギルの話は土嚢のことに移り変わっていく。
「土木作業といやぁ……土嚢……か。言われてみれば簡単なことなんだが……。凄ぇな……誰が考えついたんだ、そんなもん」
「数十年、水害対策は遅々として進まなかったのですからね。サヤが土嚢を教えてくれなければ、きっとまた十数年……下手をすれば、数十年、水害に悩んでいたのでしょうね」
土を袋に入れる。それはただ単純に、それだけのことなのだが、水害に悩まされてきたセイバーンの誰にも思いつけなかったことだ。
サヤの国では、何百年も前に、その方法が編み出されていたらしい。
「これの凄い部分はその先だよ。土嚢の上から補強を進めれば、今後の氾濫を回避できる可能性すらある……しかも少しずつ、強化していけるんだ。毎年一から作り直す必要すらない……道の問題はあるけど、本当に……画期的だ」
そう。サヤの教えてくれたことによると、土嚢を用いて水害対策したのち、それを解体するのではなく、さらに補強していけば、河川敷という水害を防ぐための備えに改造できるのだという。これはまさにセイバーンが求めて止まなかった、画期的な水害対策というやつなのだ。
「しかもなんなんだよこの図面……なんでこんなもん描けるんだよ……訳わかんねぇな」
サヤの描いた図面を見てギルが唸る。川の断面図と、河川敷の予想図だ。
似た地形を知っているからと言っていたが…知ってて描けるなら誰も苦労しない…。
ざっくりと簡単なものではあるが、有ると無しでは全然違う。言葉で説明できない部分を、絵が上手く表現していた。
「で、大店会議で、これを作っていくって提案すんのか」
「まだその段階に無いよ。まず土嚢で氾濫対策をする。それが成功したら、その土嚢を補強し、氾濫の起きない川に改良していく話に進める。でないと、土嚢が有効かどうか、伝わらないだろ?」
「……成る程。久しぶりに考えた感じだな」
「考えてましたよ。数時間心ここに在らずでしたからね」
ボソボソとギルが言い、ハインが答える。
俺はそれを無視し、深呼吸。決意を固めた。
「マルに、サヤのことを話そうと思う」
暫く、反応がなかった。
次の瞬間、胸倉を掴み持ち上げられ、俺は一瞬息が詰まって咳き込んだ。
「おぃ……マルには隠すんじゃなかったのか……あの情報馬鹿に知られてみろ、サヤが骨までしゃぶられるって、分かってるよな?」
止めに入ろうとしたハインを手で制して、俺はギルを見る。こっちも真剣なんだ。きちんと俺の口で言わなきゃならない。
「……っかってる。けど。サヤの教えてくれたことを、きちんと、活かそうと思ったら……マルが必要なんだ」
「……どういう意味だ?」
「土嚢は、未知の技術じゃない。手近にある袋に土を詰めるだけの、思い付きさえすれば、誰にでもできるものだ。
けど、河川敷はどうだ? 土嚢を使って補強した後に、更に次の段階にしていくなんてこと……誰が思いつける? 川幅を広くする理由や、土嚢の壁の上に道を作るなんてことを。
これを誰が思いついたんだって、そんな話になったらなんて言うんだ? サヤを出すわけにはいかない……。だが俺たちでは、サヤの身代わりはできないと思ったんだ。
……これ以外にも、沢山、細々したことが、きっと変わっていく。
今回の収穫で、麦の干し方が変わる。各家庭ごとにしていた収穫すら、変わるかもしれない。特殊な料理も増えると思う。
一つ一つは、たいした変化じゃないだろうが……それが全てセイバーンからだ。
なんか変だってなるのは、時間の問題じゃないか? それで、サヤのことが知られたら……サヤはどうなる……?
だから、マルを……取り込もうかと。
サヤの言う数々の知識を、一番理解できるのは、マルじゃないかな。表面的なことじゃなく、二手、三手先まで……見えるのはと、いう意味で。
それをマルに与える代わりに、サヤの情報を、隠してもらう約束を、しようと思った。
サヤの身代わりを、マルにしてもらうんだ。
水害対策は、待った無しだ。喉から手が出るほど、欲しい技術だ。今までのやり方と、土嚢を使ったのとでは、強度にどれほどの差があるのか、マルに計算してもらってる。その先の河川敷も……。
マルの頭から出てきたのなら、納得できる。少なくともメバックの商人たちや、学舎でマルを知っている者は、納得できる。異界の少女の身代わりができる頭脳があるのは、マルだけだと、思う」
俺の長い説明の間、ギルの手は緩まなかった。
「それじゃすまねぇって言ったんだ。
サヤの国の、世界の、様々なことを聞き出そうとするぞ、あいつは。それが問題にならないわけがねぇって言ってんだよ。
それをお前はどうするつもりだって聞いたんだ」
「マルなら大丈夫だ。サヤを拷問したり、脅したりする奴じゃない。けど、マルより危険な奴がサヤを知ったら、異界の女性に配慮なんてしないかもしれない……。何をされるか分からない相手から守るために、マルを取り込むんだよ。そして、マルは情報の専門家だ。正当な報酬なり、取引無しにサヤの話をばら撒くようなことはしない」
しばらく睨み合う。
サヤの知識は、何を狙われるか分からない……。サヤが計り知れないからだ。
逆に言えば、マルに与える餌は選べるということだ。マルは情報の選り好みはしない。新しいことを知れるならそれで良いのだ。けれど、サヤに配慮をしない相手は、そうではない可能性が高い。そう、異母様に知られてしまったら……サヤは……。
「…………ま、考えた感じだな」
ギルが手を離した。
俺は長椅子に放り出される。
「マルが、乗ってくれりゃ、それでいいんだろうが……乗るのかあいつ」
「乗らないと思う?俺は情報がそこにあると知ってて食いつかないマルなんて知らないよ」
「……そりゃそうだな」
襟元を直し、安堵の息を押し殺す。
ギルが説得できて良かった……。メバックの商人の一人であり、貴族相手に商いをし、王都に本店があるバート商会だ。その影響力は大きい。彼が是と言うなら、メバック商人の三割は是に傾くと思う。そもそもが俺との繋がりでメバックに来たギルだ。反対に回られたら、それだけで俺への信頼度がガタ落ちするところだった。
「何にしても、とりあえずはメバックの商人連中を納得させる必要があるわけだけどな。そこで頓挫する可能性もあるわけだが……どうなんだ、いけるのか?」
「たぶんね。サヤは、知識として知ってるだけで、作ったこともないし、実物を見たこともないと言ってたけど」
「……え?……だ、大丈夫なのか?」
俺の返答に、ギルが唖然とした顔で、そう聞いてくる。
俺からしたら、その疑問こそが不思議だった。つい、小首を傾げてしまった。
「大丈夫だよ。サヤは賢い。根拠の無い適当なことは、喋らないよ。
ただ知ってるだけと言ったって、きっとサヤの中には膨大な知識がある。下手をしたら、マルくらい……もしくはマル以上の知識が蓄えられているのだと思うよ。
サヤはそれを頭の中できちんと検証して、意味があると思ったから、言ったんだ。
サヤは何日も考えてたよ。それだけで充分、信用に足る」
異母様に堂々と嘘をついてみせたサヤ。
あんな突発的な、心の準備をする余裕すらないような中でも、サヤはちゃんと考え、行動し、見事勝ちを収めたのだ。サヤは賢い。
「へえ…………。前来た時よりなんか、随分と……。お前、まさかサヤに気……」
それまで黙って、やり取りを見守るだけだったハインの手が、目にも留まらぬ速さで振るわれ、ギルの後頭部を叩いた。
「……いてぇな……何しやがる」
「どこかの馬鹿の頭に悪い虫がいたのでつい」
なに……? なんでハインは急にギルに喧嘩をふっかけたんだ?
そのままお互いに視線で刺し合いを始める二人。俺が慌てて止めようとしたところで、コンコンと応接室の扉が叩かれた。
「叔父様! 戻りま……」
「叔父じゃねぇ‼︎」
「なっ……何? なんで急に、そんな……怒ることないじゃない!」
丁度帰って来たルーシーが二人の刺し合いのとばっちりを受けた……。そしてギルに怒鳴られてしゅんとなるルーシーではなかった。一気に沸点に達して怒鳴り返す。あああぁぁ、ハインお前が急にギルを殴るからなんか修羅場になってきたじゃないか!
「お、落ち着こう。ハインお前も謝れ。なんなんだよ急に、意味もなくギルに喧嘩売るなよ」
「私なりに意味のある行動でしたのでほっといて下さい」
「余計悪いだろ⁉︎ ルーシーごめん、ちょっと間が悪かった…ギルとハインが喧嘩始めた所だったんだ…」
「えっ、喧嘩ですか? 何故?」
「訳わかんないよ。ほんと急になんだ。ハインが…………」
そこで俺の思考は停止した。いやもう、ハインが喧嘩売ったことなんか吹き飛んだ。
目の前にあるものが……俺の頭を支配してしまったのだ。
「ハインさん、どうされたんですか?」
「おや……。サヤ、お帰りなさい。見違えましたね。とても美しいですが、ここに猛獣がいるので近付かない方が良いですよ」
「てめぇ、まだ俺に何か不満でもあんのか……あるならキッチリはっきりこっち見て言え。拳で解決してんじゃねぇ。
サヤ、やっぱりお前、その方が断然いい。俺は見違えねぇ。サヤが美しいのを一番理解してるのは俺だ。こいつらは朴念仁だからな」
「サヤさん酷いんですよ、叔父様、叔父様なのに叔父様って言ったら怒って来たんですよ!」
「ゴルァ! ルーシーてめぇおじおじおじおじ嫌味かそれは!」
「どう足掻こうと叔父じゃないの‼︎」
凄い状況が目の前を掠めているのだが、俺はそれどころじゃない。サヤが……サヤから視線が外せなかった。
立襟に、丁寧な刺繍を施された短衣は淡い水色で、袖が無い為肩までが見えている。
胸の下あたりまで編み上げられた袴はとても深い緑。普段のゆったりした男装と真逆に、腰の細さがこれでもかと強調されているうえに、胸の膨らみまではっきりとしている。丈は長く、踝までが隠されているので、とても清楚な出で立ちだ。そして、艶やかな黒髪だけはいつも通り、首の横あたりから、ゆるく結わえられ、白い飾り紐で括られている……。
化粧は殆どしていない。それなのに……。
女神だ。
知ってた。サヤは美しいって。知ってたけど……。
「あの?……やっぱり、似合いませんか? 男装と随分雰囲気が違うから、可笑しいですよね」
「あっ! サヤさん、言いましたよ! さっきも言いました‼︎ すごく似合うって言ったのに!
もう、レイシール様⁉︎ 聞いてますか? サヤさん綺麗ですよね? とても似合ってますよね? なんとか言ってあげて下さいよ!」
「へあっ⁉︎」
いつの間にやら、皆の視線が俺に向いていた。サヤに見惚れているうちに。
一気に顔が熱くなる。やばい……これは駄目だ!
「に、似合う……よ。ほんと、とても美しい……。その…………ごめん!」
サヤが綺麗すぎて、皆の視線に怖気付いて、俺は混乱し、挙句最悪なことに逃げ出してしまった。応接室から。
廊下を突っ切って、階段を降りて、先ほど馬車から降りた裏庭を横切り、更に奥へ。
どうしよう……落ち着け俺。逃げても仕方がない。だけど、あの場にいれるのか? 無理だ。サヤが綺麗すぎて……やっぱりサヤは、女性の装いが良い。あれが本来のサヤだ。でもあれは、危険だ。ていうか凶器だ。男が群がる。絶対そうだ。カナくんがサヤを嫌ってるなんてあり得ない。どうやって嫌えって言うんだ?あんな清楚な服装なのに、目のやり場に困るってどういう事だ。やっぱりサヤは綺麗だ……。確認するまでもなかったけど。駄目だ、思考が空回りしてる明らかに!
「っああああぁぁ! もう‼︎」
「ひぁ⁈」
自分の混乱ぶりを振り払うつもりで声を荒げたのだが、まさかの悲鳴がすぐ後ろから聞こえた。
嘘……まさか……っ!
「うわあああぁぁ! サヤ、付いて来てたの⁈」
「ごっ、ごめんなさいっ! だって、ハインさんが、護衛って……一人にしちゃ、駄目だって言うから……っ!」
俺の驚きぶりにびっくりしたのか、はたまた叱責だと受け取ったのか、サヤが涙目になる。
ああぁ、ごめん、違う、サヤは何も悪くないんだ!
「に、逃げるくらい、言葉に困りました? 大丈夫です。似合わないなって、私も思うから……。
夏だからって、ルーシーさんが、今年の流行だからって……肩が……これくらいならと思ったけど……やっぱり、やめます、ごめんなさい、びっくりさせてしまって……」
「違う違う違うから! 似合ってるから! 凄く、良いと思う。違う……俺が逃げたのは……サヤのどこ見て良いか困ったからであって、似合わないからじゃないからね⁈」
言ってしまって恥ずかしさで憤死しそうになった。顔を押さえてしゃがみ込む。最悪だ……ほんと最低……かっこ悪すぎる……。ガン見してたくせに、意識してしまったら綺麗なサヤを見てられなくなって逃げるとか。言い訳すらまともに出来ないとか。
「よく考えたら俺、仕事以外で女性と口聞いたこともほぼ無いし、学舎は殆ど男だらけだったし、どうして良いかわかんなくなったんだ……。サヤが綺麗なのは知ってる。男装してたって綺麗だと思ってた。でも……面と向かって、女性の格好見たら……本当に、綺麗で……」
「あ、あの? なんか変になってます、レイシール様。良いです。充分です。褒めなくて良いですから……」
「なら分かってもらえた⁈ ちゃんと似合ってるからそのままでいいから!」
「は、はい。分かりましたから……あ、ありがとうございます……」
なんかもう自分で何言ってるのかも分からなくなって来ていたが、とりあえずサヤが着替えないという言質が取れたのでよしと胸をなでおろす。これでサヤが男装とかに戻ったらギルに殺されるところだった……もしくはルーシーに。
「サヤ……悪いんだけど……ちょっと落ち着くまでここで頭を冷やして良いかな……。
その……慣れれば見てられると思う……から……」
「は、はい。じゃあ……どうしたら良いですか? 視界に入らないところにいましょうか?」
「ここに。見える場所にいて。……変な主人で本当ごめん」
俺の言葉に、サヤはいいえと答えてからしばし逡巡し、俺の向かいから、少し横の位置にある木に背中を預けるようにして立った。
風が吹いて、サヤの袴が少し揺れる。
しゃがみ込んだままの俺には、サヤの袴部分ばかりが見える。本当に、腰が細い……。武術で鍛えたサヤの身体には無駄な贅肉なんて無縁なんだと思う。
早朝……サヤが別館の木陰で、武術の型を繰り返しているのを、何度か見かけた。今も毎日、鍛錬をしている。本館の誰かに見られないよう気をつけて、まるで舞うように。そして稀に、ハインと手合わせをする。これは夕刻だったり、湯浴みの前だったり、ハインの手が空く時だ。剣を折らないよう木の棒を使って。外でやると目立つから、玄関広間が使われる。だから俺も、よく見ていた。
ふと、先ほどの会話を思い出す。サヤを男装させるべきじゃないと、そう言ったギル。
やはり、潮時なのかもしれない……。これでよく分かった。サヤは女性なのだ。こんな風に、しておくべきなのだ。
「なあサヤ……雨季を無事に過ごせたら、サヤの帰る方法を探そうって、言ったけど……。それは、俺とハインに任せて、サヤはここに、残らないか」
「えっ?」
サヤは毎日、忙しく過ごしていた。畑の手伝いもし、従者としての仕事もし、食事の準備や掃除や……目の回るような忙しさだと思うのに、いつも笑顔で……帰りたいと泣くこともなく、いつになれば帰り方を探してくれるのかと、文句を言ったりもせず、それどころか、魘される俺を心配して、俺の過去にまで気を配る……。サヤは何一つ、自分のことをしていないのではないか。俺に、振り回されて……男装までし、生活する……。なんて過酷な環境だろうか。サヤは、こんなにも女性らしい子なのに……。こんな風に、綺麗な服を着て、ふんわりと笑っている方が似合うのに……。
そんな風に考えてしまうと、腹の奥底のもやもやが、また少々、疼いた気がした。
「サヤはその方が良い……。今の、その格好の方が、男装よりずっと似合う。
ここならギルがいるし、ルーシーがいる。ギルは事情を知ってるし、サヤのことを他言したりはしない。俺たちも月に一度は顔を出して状況を報告するよ。
ギルがサヤを褒めてた……美的感覚が優れてるって。本気で欲しいって。前回は、断ったけど……サヤは、泥に塗れているより、こっちの方が、ずっと……」
「嫌です」
珍しく、サヤが俺の言葉を遮った。
視線を少しだけあげると、歯を食いしばった、サヤの口元が見える。それと一緒に、細くくびれた腰と、豊かな胸の曲線が見える。露出なんてしていなくても、充分魅力的なサヤの肢体。
長い袖に隠されていたサヤの腕は、力仕事なんて無縁であるかのような細さだ。ふと、腕の一部にうっすら青みがかった部分を見つけてしまい、俺はさらに後悔を募らせる。痣……。サヤは何も言わない……痛みがあっても、それを悟らせず、ずっと微笑んでいるような子なのだ。
ジクジク、ジクジクと、疼きが心を蝕みだす。
やはり、そんなことにすら気付いてやれない俺のそばより、ここにいた方が良い……。
「……現状、泉のそばにいる意味は、無いだろ? サヤの帰るための方法を、全く探せていない。そして、時間も無い状態だ……。夏は、暑いし……男装も難しいよ。今まで以上に、サヤに無理をさせてしまうのが、目に見えてる」
「嫌です。私は、レイシール様のお手伝いをしたいと、言ったはずです」
頑なに拒むサヤ。
サヤの言葉が嬉しくない筈がない。けれど……異母様のこともある。兄上のことだって……。この美しいサヤを見ると、あの環境がサヤにとって良いだなんて……間違っても思えない……。サヤの美しさに、気付かれてしまったらどうなるか……そう思うだけで、身の毛がよだつ。
それに……一番問題なのは俺だ。
サヤは女性として見られたくないのだ。なのに、俺は、ギルのようにできない……。忘れよう、捨てようとしているのに、気持ちの整理がきかないのだ。
それどころか、サヤの存在が、日に日に俺の中で膨らんでいく……。
悪夢から救い出される度に、サヤの可愛らしい仕草を目にする度に、涙や、苦悩を目にする度に、笑顔を目にする度に、また、気持ちが育ってしまうのだ。
「もう、充分だよ……。後はなんとかする。土嚢も河川敷も、ちゃんと方法を考えてる」
「手伝ってくれたら嬉しいって、言うてたやない! なんで今更、翻すん? それに、夢のことかて……雨季は今からやのに」
「っ、自信が、無いんだよ……」
サヤとちゃんと、適切な距離を保っておける自信が無い。
異母様や兄上から、守ってやれる自信が無い。
「今はいい……兄上はサヤに気付いていないから……。でも、サヤは……危ないよ。あそこにいるべきじゃない。異母様も、サヤを気にしてるんだ……兄上の目が向くのも、時間の問題だ。だってこんなにも……!」
サヤは、こんなにも綺麗なのだ。
夢なんて、些細なことはどうでもいいんだ。サヤが守れない方がずっと怖い。
俺は未だ、異母様や兄上に抗い切ることができない。声を聞くだけで震えてしまうような人間なのだ。
そして、結局気持ちを育ててしまっている自分が怖い。
カナくんという想う人がいると知っているのに、サヤはこの世界の人間ではないと理解しているはずなのに、それでも歯止めが掛からない。この状態が既におかしい。どうにもならないって分かってる。分かってるのになんで気持ちを捨てられないんだ!
俺は何も持ってはいけないんだ。手に入れることはない。許されていない!
そもそも、サヤが怪我をしても気付けない。痛みを堪えて笑うサヤを、俺は普通の笑顔だと思っていたのだ。そんな風では、サヤが苦しいのを隠していても、気付けない。帰りたいと心の中で叫んでいても、気付けない。口先で幸せと言い、表面だけで笑っていても気付けないのだ。
そして結果、川の底に、身を沈めることになってしまう!
そう思った瞬間、ジクジクした疼きは、急に身体を割くような痛みに変じた。
不安が一気に膨れ上がってくる。ダメだと思ったけれど、もう気持ちの暴走は止まらなかった。
「自分の身は自分で守れる」
「それは、時と場合によるだろ。サヤは……体調を崩す可能性だって、ある。
そうなったら、好き勝手されることになるだろ。それが一番、怖い。俺は役立たずなんだ。剣も握れない。異母様や兄上に……刃向える立場にもない。何か起こってしまってからでは遅いんだよ!」
目に見えるようだ。ただ声を聞くだけで、動けなくなってしまう自分の姿が。
過去にすら抗えない、役立たずの俺。
「バレんように、する。頑張る。この前、勝手にしたから、怒ってはるん? もうしいひん。ちゃんと言う事を聞くて、約束する」
「違う!…………なんで、そんなに拘るんだ……俺が信用ならないの? 帰る方法を見つけると約束するから……ちゃんと、約束を守るから……ここに居てくれよ……笑って、恙無く過ごしててほしい……安全な場所で」
「笑えへんもん! レイが心配になるに決まってるやろ! 毎月報告に来る? そないなんで、納得できるわけあらへん!」
そうか……そうだよな……信用なんてできないよな……。だって俺はこんなにも不甲斐ない……。
「やっぱり、信用できないか……」
「そんなんと違う! レイが、頑張りすぎるからやろ⁉︎」
ぺたんと、サヤが座り込んだ。俺の視界に、顔が飛び込んで来る。
その表情が、ひたすら俺を心配する顔で、ただ一心にこちらを……瞳の奥を覗き込まれるようで俺は視線を逸らした。見透かされそうな気がしたのだ。
「レイは、自分が思うてるより、危ういんやで? いっつもなんか、ピリピリしとる。毎日綱渡りみたいに、しとる……。せやのに、周りにばかり気ぃ使うて、無理して笑う。頑張ってるのに気ぃ付いてへん感じが、ほんまに、心配なん……。
どうせ自分では分かってへんのやろ……そういう人やもん……。擦り切れるまで自分を削る人やもんね……。周りにバレとらんなら、無かったことにするんが上手やもんね。けど……私は、もう知ってる。せやから……」
サヤの視線を感じる。俺が視線を逸らしても、サヤは逸らさなかった。
「レイは何を隠してるん? なんで綱渡りに戻ろうとするん?
手伝いたいって思って何があかんの。私はレイの役に、たてへんのん?」
懇願するような声音に身が震えた。駄目だ……そんな風に言われたら、また……!
「居なくなるのに……!
居ることを当たり前にしちゃ駄目なんだ……。
もう既に、サヤがいないといけないように、歯車が噛み合ってきてしまってる。
そのうち縛られる……帰れなくなってしまう……。捕まってしまうんだ!
そもそも始めが間違ってた。サヤをここで生きていけるようになんて、してはいけなかった。未練を作るような手段を選ぶべきじゃ……」
「私は! 人形やあらへん‼︎ 自分のことは自分で面倒見るて、決めたんは私や! そこをレイに、とやかく言われとうない‼︎」
やってしまったと思った。けどもう、零してしまった言葉は戻らない……。さっきからずっと、口が止まらない。不安が膨れ上がってくるんだ。サヤを壊してしまう。きっと表面を笑顔で固めて、心を壊していくんだ。
「……レイ……どないしたん?……なんか、変や……」
「何も変じゃないよ。俺は、サヤをセイバーンには、連れて帰らないよ。ここにいるべきだ。ギルにはそのように言っておく」
「レイ!」
「聞き分けろよ! なんで分かんないかな⁈」
不安のあまり大声で、怒鳴るように言ってしまった。
そしてより一層後悔する。サヤが……びっくりした顔のサヤが、傷付いたように、顔を歪めたのだ。
せっかく綺麗なのに、笑ってて欲しいのに、なんでこんな風にしかできない……やっぱり駄目なのだ。俺では何もかもが足りない。そしてサヤにとって害でしかない。駄目だ、怖い、いつかサヤを壊すのは俺だ‼︎
「戻る……。俺は、部屋にいるから……頭、冷やすから……。
怒鳴って悪かった……でも、どうか、聞き分けて欲しい」
返事を待たず、俺は立ち上がり、踵を返した。
早足で歩くと、ついてくる足音がある。サヤなのだろう……律儀に部屋まで護衛するのだ。来なくて良いのにと思う。なのに胸が妙に浮つく。嬉しいのだ。そんなチグハグな自分にまた幻滅する。
一度も振り返らず、前回泊まった俺の部屋まで一直線に進み、中に閉じこもる。
扉を背に座り込んで、震える唇で大きく息を吐いた。
怖い。
おかしいな。最近調子が良かったのに……。
気のせいだ。怖いものなんて何もない。やることが沢山あるんだから、気持ちを乱してる場合じゃない。
俺は間違ってない。サヤはここにいた方が絶対良いんだ。だってルーシーという友達がいる。そして、ギルはサヤの怪我を見過ごしたりしない、サヤを女性として見るなと言い含めてあるし、そこも気をつけてくれるはずだ。それに、ワドもいるし……。彼がいれば万事恙無い。ここには、サヤの害になるものはない。あるとすれば俺だ。けど、それも月に一度きりだ。今までより断然良い。サヤが慣れれば……顔を出す回数を、減らして……いけばいい……。
大丈夫だ……悲しいと思うのは今だけだ。サヤも少し不安になってるんだ、環境が変わることが不安なだけだ。すぐに笑うようになる。優しく微笑むようになれる。きっとすぐ、これで良かったと、思うように……。
考えれば考えるほど、背中を恐怖が這い上がってきた。
俺は這うようにして寝台に向かう。なんとか長靴を脱ぎ捨てて、中に潜り込む。
怖いものなんて何もない。
サヤがいないことに恐怖を感じているなら、慣れることだ。サヤは居なくなるのだ。故郷に帰るのだ。それが今か、未来かの差でしかない。
目を瞑る。寝よう。落ち着かなきゃ。今のままでは駄目だ、みんなの前に出れない。
寝て起きれば、きっと大丈夫、気分も落ち着いているはずだ……ここはギルの家だから、きっと夢も、這い出して来ない……。
書きためていた分がここで終了です。
次は目線を変えるつもりなのですが、サヤにするか…ギルによるレイの過去の話にするか…考え中です。




