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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第一章
27/515

「なんなんですか……朝から陰気な……」


 やって来たハインがそう言うほど、俺は淀んだ雰囲気らしい……。

 手で顔を叩いて、頬を引っ張って、なんとか笑みの形を作って……サヤがやって来る前に顔の立て直しを図る。


「ちょっと、夢見が悪かったんだよ……」


 そうとしか言えない俺……。まさかサヤが幸せそうな夢見て落ち込んでるなんて口にできない。

 夜着を脱いで、着替える。しっかり眠れているのに身体が重い。

 なんかもう……ほんと俺って、間が悪いというか……。好きになってもこうなることくらい分かってたのに……。

 良い夢だったじゃないか。サヤは故郷に帰って、カナくんらしき人と手を繋いで、嬉しそうに微笑んでる。一番良い結末だよ。あるべきところにおさまったんだ。


「あるべき……」


 留め金を掛けていた手が止まる。

 異界の人間であるサヤのいる場所はここじゃないのだ。

 万が一……まあ万が一は無い。無いけどそうなった場合、サヤは、故郷を失くす……。

 家族も、幼馴染も、生きてきた十六年を全て。

 微笑んでいても……それは、笑っていられるか?本心からの笑顔でいられるのか……?

 そう思った瞬間、視界がぐらついた。


「レイシール様⁉︎」


 すぐ側でサヤの声がして、びっくりして視線をやると、いつの間にかサヤが横にいて、俺の腕を掴んでいる。あれ? いつの間に……?


「サヤ、おはよう……いつ来たの?」

「さっき、おはようございますって、言いました。

 どうされたんですか? 今何か……」

「ごめん、まだ寝ぼけてたみたい……。ちょっとグラついただけだよ」

「でも……顔色が悪いですよ? 体調が悪いのでは……」

「夢見が悪かったそうですよ」


 夜着を片付けながら、ハインがそんな横槍を入れる。

 若干申し訳なくて視線をそらす俺……。サヤが幸せそうな夢だったのに……後ろめたい……。

 ハインの言葉と俺の反応に、サヤは一瞬目を見張って……。


「また……見たんですか?」


 こっそりと、小声で心配そうに問うてきた。

 ううぅ……心配してくれてるのにごめん……。


「違う夢だよ。大丈夫、ありがとう」


 こちらもこっそりと返す。けれど気分は落ち込んだ。サヤは、いつか帰る……そして帰れなかった時は…………もう、幸せではないのだと、気付いたのだ。

 ここに……俺のそばにいる限り、サヤは不幸なんだと思うと……何かとても、気分が塞ぐのだ。


「なんなんですか。そんな酷い夢だったんですか」

「ほっといてくれ……落ち込んでるんだから」

「何かとんでもない失敗でもする夢なんですか? 予知夢にしないでくださいよ」


 ハインは容赦無い……。

 これ以上の小言を聞きたく無いので、俺はさっさと着替えを終了させる。そして、サヤに髪をまとめて貰うため、長椅子に座った。

 ハインは朝食の準備をしてきますと、俺の部屋を出て行く。


 ツゲグシで俺の髪をゆっくりと櫛付けるサヤ。襟足部分を搔き上げるようにする手の動き。暫くすると、今度はツンツンと、髪を部分的に引っ張られる感覚に変わる。

 腰ほどまである俺の髪を、丁寧に結わえていく。

 予知夢にしなきゃならないのだ……。

 ここにいる限りサヤが不幸なら、帰さねばならないのだ。

 サヤが笑顔でいれることが一番じゃないか。サヤがいなくなると考えると、心臓が潰れそうな気すらするけど……また悪夢に魘され続ける日々が来るのかと思うと、死ぬほど怖いけど……でもそれは些細な……俺だけの問題だ。あんな風に、笑顔で手を振って、別れる時が、来る方が良いんだ……。


「レイシール様? やっぱり、体調が優れないんじゃないですか?

 熱とか……あったりしませんか?」


 相変わらず暗い顔の俺を覗き込んだサヤが、心配げに手を伸ばす。

 首筋にひんやりとした手が触れて、俺の体温を測る。

 細い腕だ……。最近陽に焼けたかな……白かったサヤの肌が、ほんのりと……色づいたような気がする。

 その手に触れて、そっと首筋から外した。触れていたい……けれど、それを当たり前にしてはいけないんだ。後が辛くなるだけだから……。


「大丈夫だよ。心配しなくていい。

 ……雨季が終わったら…………今度は、サヤが帰るための方法を、探そう。

 ごめんね……。こっちの手伝いばかりさせて、サヤのこと、してあげられなくて……」


 櫛を片付けようとしていたサヤの手が止まる。

 びっくりしたような顔をこちらに向けて、それから優しく微笑んだ。


「もしかして、それを気にして落ち込んでらっしゃったんですか?

 大丈夫です。直ぐにどうこうできる問題では無いと、分かってますから。

 それに、今は畑の事が心配です。ここで帰されても、気になってしまいますよ」


 優しいサヤは、そんな風に答える。

 けれど、サヤがここに来て、もう何日経つ? 両手では数えられない時間が過ぎた。日々不安は募っているはずだ。それに……今微笑んでいる、その顔は、サヤの本当の顔なのか、自信が持てない……。悲しいのや苦しいのを、押し殺して微笑んでいるなら、それは……。


「レイシール様……本当に、どうされたんですか?

 もしかして、私絡みの夢だったんですか?」


 あまりにもウジウジしていたからか、サヤがそんな風に、鋭いことを聞いてきたので慌てて否定した。

 夢の内容を聞かれたくない。流石に軽蔑される。サヤが故郷に帰る夢を、俺は悪夢と思ったのだ。


「大丈夫だよ。なんでもないから。そろそろ下りよう。今日もやる事がたくさんあるし」


 重たい身体を持ち上げて、サヤを外に促す。

 俺の後ろを軽やかな足取りでついて来る。

 ここにきた日の悲壮感は、今のサヤには無い。それが嬉しくもあったけれど、申し訳なくもあった。慣れるはずのない異世界に、サヤは馴染もうと必死なのだと、そう思ったから……。


 駄目だ……。悪夢の後の、後ろ向きな思考が、止まらなくなってる…………。


「今日は、脱穀作業の手伝いと、川の補強範囲を決めるんでしたっけ。

 私は脱穀作業の手伝いでしょうか? 力仕事なら任せてください!」


 サヤの元気な声を背中に聞きながら階段を降りる。

 すると、ありえないものが目に入った。さっと手を広げて、サヤを隠す。

 サヤがびっくりしたように、足を止めた。


「おはようございます」


 この別館にはいないはずの者がいた。本館の使用人だ。

 少し、緊張した面持ちで、丁寧に頭を下げる。

 ハインは……気付いてないのだろうな……きっと調理場だ。油断していた。今まで無かったことだからと……。


「おはよう。このような早朝から、どうした? 珍しいな」


 声に警戒が滲まないようにするのに苦労した。

 昨日の、厩番に渡した手紙の件か? それともサヤだろうか……。まさか氾濫対策についてだとは思えないしな。

 俺の警戒を見て、前に立とうと動いたサヤを、咄嗟に手を掴んで止めた。

 ただの使用人だ。武力でどうこうしてくることは無い。


「その……奥方様より、申しつかりました。

 レイシール様の……御髪の艶が、今までと違うようだと……。

 どうされたのかと、それをお聞きしに……」

「……髪?」


 あまりに見当違いの件で、声が裏返りそうになった。

 俺の髪の艶?……ああ、二日に一度は湯で流しているし、たまにサヤが手入れしてくれるからな……って……そんなことを確認しに来たのか?


「レイシール様、朝から……おや、来客でしたか」


 俺の声が聞こえたのか、タイミングを計っていたのか、ハインが食堂の扉を開けて出て来た。

 ビクリと、使用人が警戒する。怖がられてますよ、ハインさん……その凄い眼力で睨みつけるのやめてあげてください。


「なんの御用でしょう。

 レイシール様はまだ朝食も済まされておりませんので、出直して頂きたいのですが」

「も、申し訳ございませんっ。です、ですが……っ、奥方様が……」

「異母様の都合などこちらには関係ありませんよ。

 只今我々は収穫と氾濫対策で目の回る忙しさなんです。領地管理に拘らない要件なら、雨季が終わってからにして下さい」

「ハイン……そんな風に言うと、彼が可哀想だよ……」


 このまま帰したのでは、きっと叱責される。

 たかだか髪の艶についてなら、ここで伝えれば済む話だし。


「髪は、畑の作業でよく汚れるから、ここ最近頻繁に洗っているだけだよ。

 サヤが、櫛で髪を梳いてから、湯で流す方が汚れが落ちると教えてくれたから、そうしてるだけ。異母様には、その様にお伝えしたら良い」

「は、はいっ。有難うございます。で、では、失礼致します」

「朝早くからご苦労様」


 使用人があたふたと玄関から出ていく。

 それを見送ってからサヤが小さく「外にもう一人いました……。一緒に帰ったみたいです」と呟く。


「申し訳ございません。警戒してませんでした……。下での物音は、ハインさんだとばかり……」

「いえ、それは私も一緒です。それにしても、何故こんな時間に髪の艶……。迷惑な」

「まあまあ、髪の艶程度で済んで良かっただろ? 来客か……出かける予定でもあるのかもしれない。社交の時期には早いしね」


 異母様は、独身時代社交界の華と謳われた美貌の持ち主だ。

 今も四十路とは思えない若さを保ってらっしゃる。気怠げな兄上と並んでいると、異母様の方が若く見える程なのだ。だからか、見た目の美しさというものをとても重要視されている。別邸に赴く時はいつも身綺麗にされているしな。


「出掛けて頂けるなら願ってもないですね。

 では、早く朝食を済ませてしまいましょう。冷めてしまいます」


 もう済んだとばかりに、ハインがそう言って俺たちを急き立てる。

 俺も、この件はこれで済んだと思った。なのではいはいと軽く返事をして食堂に足を向ける。

 けれど……そう簡単では無かったのだ。


 夕方、一日の作業を終えて帰宅した俺たちを、また人が迎えた。

 泥まみれのサヤを背中に庇い、俺とハインは警戒を強める。髪の件は伝えたはずだ。なのに今度はなんだと言うのか。

 今度出向いて来ていたのは、異母様の執事長だった。明らかに異母様の意思で動く者だ。背後に朝の使用人と、もう一人、女中の姿もある。


「お帰りなさいませ。奥方様より……」

「髪の件は今朝お伝えしましたよ」

「はい、その件で。

 奥方様が、そちらのサヤに出向くようにと仰いましたので、お伝えしに参りました。

 奥方様がお待ちです。急いで……」

「サヤが出向く必要はありませんよ。サヤはセイバーンに仕える者ではない。レイシール様の従者見習いです」


 ハインが執事長の言葉を遮る。

 執事長は、そんなハインを冷たい目で見返した。

 俺は異母様の意図が読めず、どう探りを入れるべきか考えていた。変な不安が心の奥で疼くのを感じる……。よくない……異母様にはサヤを、近付かせたくない……。


「異母様は……何故サヤをお呼びなんだ?

 髪の件だと言ったな。手入れの方法は伝えたことが全てだ。サヤが呼ばれる意味が分からないが……」

 結局、上手い言い方は思いつかず、疑問をそのままぶつけるしかなかった。


「その子供、異国の者だと仰いましたね。

 櫛で梳いて湯で洗うだけで御髪に艶が出るとは……素晴らしいことを教えてくれたとお喜びなのですよ。それで、サヤに労いの言葉をとおっしゃっているのです」


 白々しい笑顔で執事長が言う。

 そうか……サヤが有益なら、そのまま手に入れようという考えか……。

 嫌がらせも兼ねてるのかな……。さて、どうやって断るか……。

 俺がそう考えていると、ツンツンと上着が背後から引っ張られた。サヤだ。

 そのまま振り返らずに小さく首を傾げると、サヤが口を開いた。


「私、大丈夫です。行きます」


 その言葉に俺が焦る。駄目だ。あの方は理屈なんて通じないんだ。ちょっとでも粗相があれば、すぐに手打ちにされてもおかしくない!

 俺がサヤを止めるより早く、サヤはハインの横からひょこりと顔を出す。ああもう!


「あの、申し訳ございません。私、今泥まみれなのです。

 この様な姿では無礼ではないかと……支度の時間を頂けましたら、こちらから伺います」


 顔にも泥を付けたサヤの姿に、執事長は眉間にしわを寄せた。

 このままではさすがになと思った様だ。「急ぐのですよ」と言い、背後の使用人二人にサヤを連れてくるよう言付ける。


「それでは、私は奥方様にお伝えして参りますので、失礼致します」


 執事長がそう言って暗がりに消える。使用人二人は、居心地悪そうにその場に留まった。


「レイシール様、急ぎ身支度して参ります」

「待てサヤ! 一人で行く気か⁉︎」

「ですが、呼ばれたのは私ですよね?」


 使用人二人を通り越して、サヤが風の様な早足で階段を駆け上がる。

 俺はそれを必死で追った。

 ハインは使用人二人を外に残し。パタンと別館の入り口を閉める。


「サヤ、湯を持って行きます。支度は十五分で済みますか?」

「頑張ります!」


 階段を挟んで大声でやり取りする。おいこら!


「駄目だ! 万が一粗相があれば、手打ちだってあるんだぞ⁉︎」

「もう返事をしてしまいましたから、行かなければ手打ち決定ですね」

「ハイン‼︎」

「ついて行きたいなら、ご自身の身支度を急がれた方が良いですよ。サヤより遅いなら置いて行かれます」


 ハインに指摘され、俺も慌てて自室に駆け込んだ。

 サヤ一人で行かせるなんて絶対駄目だ。何かあったら取り返しがつかない……!

 俺は残念ながら、肉体労働では戦力外なので泥にも塗れてない。服を変えるだけで充分身支度ができそうだった。今日ばかりは、この軟弱な身体に感謝だ。

 大慌てで衣装棚から服を出し、着替える。汚れた服は長椅子に放り出す。

 焦りからか、留め金を掛けることに手間取り、震える手にイライラが募った。

 上着を掴んで部屋を飛び出すと、ハインがサヤの部屋に(たらい)に入れた湯を持ってきたところだった。


「サヤ、開けて大丈夫ですか? 湯を持って来たのですが」

「大丈夫です。有難うございます」


 返事を待って扉を開く。俺はハインに続いてサヤの部屋に入った。


「サヤ! なんで勝手に返事をしたんだ‼︎」


 サヤは俺と同じく服を整えたところだった。髪をほどいて、櫛で汚れを落としている。

 多少の泥汚れではサヤの髪の艶は衰えたりしない。ハインに礼を言い、手拭いを濡らしてから髪の表面をそれで拭うと、一層艶やかになった。


「洗ってる余裕は無いので……これで大丈夫でしょうか……」

「充分じゃないですか? 汚れたままでも異母様より艶やかでしたよ」


 皮肉たっぷりにハインが言う。俺のことは無視か!

 もう一回何か言わなきゃと口を開きかけると、サヤが俺にすまなそうな顔を向ける。


「もうしわけありません。でも……きっと行かないと、終わらないと思ったんです。

 それと……異母様が気にしてらっしゃるのは、髪の艶だけじゃないんだろうなって」

「……っ……どういうこと?」

「これです。この結い方。これが気になってらっしゃるんじゃないかなって。

 メバックに行った時も、ギルさんが珍しそうにされてましたし……今まで髪を結っている人をみたことありません。だから……」

「行って説明しなくてはと思ったわけですね」

「はい」


 そういう間も、サヤの手は止まらない。綺麗にした髪を首の横で綺麗に結わえて行く。

 確かに……これは珍しい。そうか……最近当たり前で忘れてた……。


「だが……それが目的なら、サヤを引き抜こうとされるでしょうね」

「大丈夫です。そこは、断る方法を考えました」

「……本当に大丈夫ですか?」

「はい。きっと大丈夫です」


 ハインとサヤがそんな会話をしているうちに、サヤの身支度が整う。髪を結った後、濡らした手拭いで顔を丁寧に拭いて、化粧を直した。


「大丈夫でしょうか」


 両手を広げ、前後をハインに確認してもらう。

 ちゃんと少年らしく見える。


「大丈夫です。

 では、急いで……」

「俺も行くからな! サヤは未成年だ。子供だ! 一人でやって粗相をしたのでは申し訳ない。だから俺がついて行く。文句ないよな⁉︎」

「……分かりましたから……。では急いで行って来てください。私は夕食の準備でも進めておきます」


 半ば投げやりにハインに言われ、俺たちはサヤの部屋を出た。

 玄関の扉を開けると、今朝方の使用人がビクリと一歩跳びずさる。


「お待たせしました。

 えっと、レイシール様が、私のお目付役に、ついて来ます」

「俺の紹介はいいから、ほら、急ぐんだろ」


 若干不機嫌になってしまうのは仕方がないと思って頂きたい。

 だってそうだろ? サヤは守らせてくれない。勝手に動いてしまうのだ。

 髪の結い方が目的ではと思うなら、それを先に教えてくれればいいじゃないか。そうすれば、サヤが異母様の前に出ずとも、俺が伝えに行くなりできたんだ。

 サヤは異母様や、兄上がどれくらい危険かを分かっていない。サヤの為に、近づかない方が良いと言っているのに……。あの方は、黒い蛇を体内におさめているような方だ。サヤは近付けたくない……危険に晒したくないのに……っ!

 俺がそんな風に、内心イライラを募らせている間に、本館が見えてくる。本館が近付くにつれ、俺は握る拳にじっとりと汗をかいていた。

 ここには、嫌な記憶がたくさん刻まれている……だからどうしても、身が竦む……。


「近くで見ると、大きいんですね」

「そりゃね……。数代前のセイバーンは、結構栄えてたみたいだし。

 使用人の為の住居をあの規模で作るくらいだから」

「それにしても、無骨な作りですね。見た目は、別館の方が可愛いです」

「本来はここが領地管理の中枢だからね。実用を重視したんじゃない?」

「……怒ってるんですか?」

「怒るよ! そりゃ怒るだろ⁉︎」

「だって……今日のレイシール様は、朝から調子が良くなさそうでした。

 私が出向けば済む問題なら、休憩しておいて欲しかったです」


 サヤのポソリとこぼした一言に、俺の足が止まる。

 サヤが俺の体調を心配して、自分で動こうと思ったのだと、気付いたのだ。

 俺が異母様や兄上と上手くいってないのを分かっていて、俺を庇おうとしていたのだと。

 なんだよ……結局自分の不甲斐なさが招いた結果か……。


「……そんな気は回さなくていい。

 とにかく、今後は勝手に決めて勝手に行動しない! 分かった?」

「はい……申し訳ありませんでした……」


 再び足を動かし、本館に入る。

 そして、やっぱり申し訳なくなってしまって、サヤにだけ聞こえる小声で謝罪する。


「心配かけてごめん……。ありがとう」


 少ししゅんとしていたサヤが、ピクリと反応する。そして、にっこりと笑いかけて来て、俺は視線を逸らした。可愛い顔をされると困る……。俺の顔に血が上ってしまうのだ。

 そして、サヤとのそんなやりとりに、ささくれかけていた心が少し癒される。

 本館に来るたびに感じる押しつぶされそうな圧迫感も、幾分かマシになった気がした。

 駄目だ……冷静にならないと……。サヤを、守らなくてはいけないのだから。


 前を歩く使用人達について進むだけなので、俺はちらりと周りを確認した。

 相変わらず、屋敷の中は豪奢だ。異母様の趣味。俺にはわぁ高そう。くらいの感想しか無いのだが。

 セイバーンが実り豊かな地だから良いものの、男爵程度の地位の貴族には不相応な気がする高級調度品に、サヤは周りをキョロキョロと見渡している。無骨な外観の中がこんなだとは思わなかったことだろう。

 騎士や、使用人。こちらに意識が向いているのが分かる。久しぶりに本館の中を歩く俺と、サヤに興味があるのだろう。サヤの黒髪が珍しいことも、要因かな……。

 他の事を考えて、極力過去を思い出さないように努力した。異母様にお会いする前に、自分の過去に押しつぶされてしまったら意味が無いのだ。


「あの……レイシール様。いま、ちょっと困ったことに気が付いたんですが」


 二階に上がる階段に差し掛かった時、サヤが神妙な声でそう言って来た。俺にも緊張が走る。

 困ったこと? ここまで来て困ったことに気付かれても……困る!


「何……一体今更何に困るんだよ」


 この状況が一番困る状態だよ。けどまあこれ以上困るのも嫌なので、できるならば解決したい。


「私、使用人のきちんとした挨拶、知りません」


 その一言に、前を歩く二人の使用人すら足元を崩した。

 ええっ? だっていつも普通にやってたでしょ⁉︎


「私は、私の国の常識に則って行動してたのですけど。問題無かったですか? 何か長い挨拶とか、そういったものは必要無いのですか? お辞儀の仕方とか、手の位置とか、そんな決まりは? レイシール様は何もおっしゃらないから、普通にしてましたけど……異母様に失礼だったりはしないかなと、思って」

「サヤは、騎士じゃないから……。お辞儀は腰を垂直になるまで曲げる。視線を上げるのは許可があってから。使用人としての挨拶というなら、それくらいだよ。あと、相手が許可するまで勝手に喋らないとか?」


 溜息を吐きつつ、早口で教える。サヤは普段からきちんとしてたから、知ってるものとばかり思っていた……。そうか、文化が違うのだものな……あまりに普通だから思い至らなかった。


「何かあれば、教えるから」


 前の二人には聞こえないような小声で呟く。するとサヤは「レイシール様がついて来て下さって良かったです」と言って笑った。……俺も今つくづくそう思った。


「あの……そろそろなので」


 俺たちがあまりに緊張感が無いと思ったのか、前の使用人……女中の方がこそりとそう呟く。

 こっちを気にしてくれたのかな?「すまない」と謝罪をして居住まいを正した。

 応接室の扉が見えてくる。

 扉が開かれ、中に招かれると、そこには誰も居なかった。

 あれ? と、首をかしげるサヤ。

 今から来るんだよと小声で教える。

 椅子は一つしかなく、当然異母様用であるわけだから、そのまま待つ。

 暫く待っていると、サヤがピクリと反応した。

 異母様達がやって来たのが分かったのだと思う。俺は、先にすっと腰を折った。お辞儀をした状態で異母様を待つ。サヤも慌てて、俺より低くお辞儀をした。

 動悸が激しくなる……。異母様の前に出るときは、いつもそうだ。できるなら、ここに居たくない。息苦しい……早く来い。そして、早く終わってくれ……!

 時間にすれば、頭の中で五つ数える程度。それがひどく長く感じた。そしてやっと、俺たちが入って来たのとは別の扉が開いた。

 先程の執事長を連れた異母様だ。視界の端で、今から夜会にでも出席するのかと思うほど着飾った姿が横切るのが分かる。


「まあ……私はサヤを呼んだのですよ?」


 異母様の言葉に、一瞬身が竦んだ。

 止めた息を、意識してゆっくりと吐き、また吸う。焦っては駄目だ。今日はサヤがいる。俺一人じゃないのだから……失敗しては駄目なのだ。

 異母様が口を開いたので、俺は顔を上げた。一応家族に分類される身なので礼儀の部分は果たした。恐怖を押し殺し、異母様を見る。


「申し訳ありません。ですが、サヤは子供です。

 異母様に失礼があってはなりません。私の従者見習いですから、それは私の無作法でしょう?」


 そう答える俺の横で、サヤはまだ頭を下げている。

 異母様の指示が無いからだ。そのサヤをじっくりと見つめてから、異母様はやっと口を開いた。


「サヤ、面をお上げ」


 異母様の指示を受け、サヤが顔を上げる。俺は口を動かさないように注意つつ、まだ喋るなと注意する。

 暫く黙ったまま沈黙が続く。

 そして異母様がふむ。と、呟いた。


「美しい顔だこと。まるで少女のよう……。サヤ。この度は良き事を教えてくれましたね。礼を言います。それにしても……其方、何故このようなやり方を知っているのですか? 口を開くことを許します。教えておくれ」


 ちらりと俺の方を伺ってから、サヤは慎重に口を開く。


「勿体無いお言葉、有難うございます。

 私は島国の生まれです。私の国は、土埃が酷く、髪が砂まみれになりますので、このやり方が当たり前でした」

「ほぅ、島国……。それはどこにあるのです?」

「説明できかねます。目標の無い海の中で、季節や潮の流れによって船の行き先も定まりません。ゆえに、私も故郷に帰る術がござません。名前だけならお伝えできます。日本と言うのですが……」


 サヤの言動に俺は内心で感嘆していた。

 おっとりと優しい雰囲気のサヤばかり見て来たから、ハキハキと少年らしく喋るサヤは想像していなかった。しかもきちんと言うべき内容を選んである。追求しにくいよう……おかしな部分が無いよう、きちんと組み立ててあるのだ。


「ニホン……聞いたこもない名ね……その方、何故ここに?」

「家族と逸れ、一人旅をしているところをレイシール様に拾って頂きました。

 行く当てがあるわけでもございませんのでお世話になることに……」

「ほう……幼い子供のその方を、泥塗れになるほど働かせているというのに?」

「私が、世話になるだけは嫌だと言いました。

 自分の面倒は自分で見なければなりません。祖母にそう躾けられております。

 それに……子供はまともな仕事にありつけないのが常。レイシール様は、良心的な、良い仕事を世話して下さったと思ってます。とてもやり甲斐があります」

「私なら、もっと楽しく、優しい仕事を紹介してやることもできますよ。髪のことを教えてくれた礼に、よければ世話してあげましょうか?」


 本題が来たな。そう思った。そして、不安が一気に膨れ上がる。

 異母様を不快にしてはいけない……なんと言って断れば、そうならないか……まるで自分に詰問されているかのような緊張を強いられる。しかしサヤは、まるで緊張などしていないかのように、口を開く。


「有難いお言葉ですが、髪の洗い方程度で礼などは不要でございます。

 私にとっては当たり前のこと。礼を頂くほどのことではございません」


 口を笑みの形にして、そう答える。満点だと思った。少し、気持ちが軽くなる。しかし、次の言葉に、俺の心臓は鷲掴みにされた。


「それではこちらの気がおさまらぬのです。

 ……それとね、私は其方のその髪の結い方も気になっているのですよ。是非ともそれを知りたいのです。その謝礼に、私の小姓となるのはどう? 汗水流して働かずとも良いのですよ」


 優しい笑顔でおっとりと言う。しかし、俺には異母様が笑っていようには見えなかった。俺を値踏みしているときの顔だ……。失敗してしまえば、黒蛇に豹変する。

 過去の記憶に身を縛られる心地だった。それがサヤに向くのだと思うと、恐ろしくて仕方がない。

 いざとなったら身を呈してでもサヤを庇うつもりで来たけれど、刷り込まれた恐怖で、足を縛り上げられているような、指先から恐怖という名の痺れが侵食してくるような、そんな圧迫感に、俺は喘いでいた。

 異母様の言葉に、サヤは眼をまん丸に見開く。

 そして、びっくりしましたと言いたげに数拍間を空けてから……。


「そのような失礼なこと、私には出来ません」


 と、答えた。

 …………失礼?


「失礼とは?」


 奇しくも同じ事を疑問に思ったらしい異母様が、サヤにそう聞き返す。

 サヤは、言っても良いのかなと言うように、チラリと俺に視線をよこし……。


「あの……だってこれは、男の髪型ですよ?」


 と、言ったのだ。


「私の国では、高貴な女性は髪をおろしておくものです。女性では、罪人しか結い上げたり縛ったり致しません。異母様はとても高貴な方。罪人の髪型など、すべきではないです……」


 呆気にとられた顔をしたのは異母様だけではなかった。執事長もだ。

 まさか罪人の髪型などと言われるとは思っていなかったらしい。俺も初耳だ。


「そう……なのですか?」

「はい。レイシール様は男性ですから、髪が邪魔だとおっしゃるので結いましたが……女性は……とくに異母様の様な高貴な方は……やめておかれた方が……」

「……そう。そうね。やめておこう」

「はい。それに、せっかくの綺麗な御髪、勿体無うございます」


 波打つ赤毛を綺麗と言われれば満更でもないらしい。

 異母様は損ねかけた機嫌を直し、執事長も若干胸を撫で下ろした。


「手間を取らせました。下がっても良い」

「はい。では、失礼致します」


 深く頭を下げるサヤ。

 俺はサヤを伴って、応接室を退室した。

 先導しようとした使用人を必要無いと断って、サヤと二人で外に向かう。

 心臓が早鐘を打っていた。無事だった……何事も無く退室できた。それをまるで奇跡のように感じる。

 チラリとサヤを見ると、視線は前を向いたまま、しかし心ここに在らずといった様子で、何かに集中してるのだなと伺えたので、声を掛けることは控えておく。

 ふう……やっと……やっと考える余裕が出てきた気がする……。


 そのまま外に出て、別館に足を向ける。無言のまま歩き、別館が視界に入ると、サヤがさっと先に進み、扉を開いて俺を中に迎える。

 パタン。と、扉を閉めてから……。


「はあ! 緊張しましたね!」


 やっと、いつも通りのサヤに戻った。


「緊張したのはこっちだよ。……サヤ、使用人の挨拶がわからないなんて、嘘だろ。すごく上手に、やってたじゃないか」

「レイシール様が喋るなって言ってくれなかったら喋ってましたよ。

 あそこであんな風に沈黙するなんて思いません」


 あれは異母様の意地悪だったのだが……あれが通常の礼儀作法の一部だと考えているなら、確かに知らなかったんだろうな……。

 サヤの言葉に苦笑するしかない。


「外には誰もいません。良かった。こっそりついてきて見張られたりしたらどうしようと、ドキドキしたんです。

 嘘がバレたりしないかと、もうずっと怖くって」

「どの部分が嘘なんだよ……全然分からなかったけど」

「ほぼ全部じゃないですか。

 私の国は島国ですけど、この世界には無いですし、砂埃がひどかったのは数百年前だし、髪の手入れ方法だって今の時代は全然違いますから」

「……ええ?」

「罪人の髪型というのも嘘です。私の国では男の人はだいたい短髪だし。結ったりするのはもっぱら女性ですよ」

「ええっ⁉︎」


 唖然とするしか無い。まさか嘘をあんなに堂々と喋っていたとは……。


「そんな国は無いとか、突っ込まれたりしたらどうするつもりだったんだ……」

「それは絶対に無いでしょ?

 私は私の世界の全体像を知ってますけど、どこにどんな国があるかなんて、覚えきれません。

 きっとこの世界もそうか、もしくはこの世界の方が、より情報が少ないと思うんですけど。

 世界地図とか、地球儀とか、ギルさんのお宅にも無かったし……レイシール様も持ってないでしょう?」

「せ、セカイチズ? チキュウギ?」

「世界の形を図面にしたものですよ。やっぱり無いでしょう?」

「だってそんな……他国の地形なんて機密情報だぞ?」

「私の国では筒抜けです。知ってても知らないものですよ……。案外ね」


 ニコリと笑って意味深なことを言うサヤ。

 俺は唖然としてしまった。

 サヤは適当なでっち上げを思いつきのままやったのではないのだ。根拠があって、つききれると判断した嘘をついたのだ。

 こちらの世界で生活してたかだか十数日。しかも俺の狭い生活圏の中で、それだけの限られた情報で、これだけのことを判断したのだ。

 サヤの聡明さに唖然とするしかない……。そしてその豪胆さにもだ。


「おや、おかえりまさいませ。

 戻っていたなら教えてください。

 サヤ、問題なかったようで何よりです。夕食の準備を手伝ってください」

「あ、はいっ。ではレイシール様、部屋で休憩してくださいね。

 今日はもうお仕事は駄目ですよ」


 サヤがそう言って食堂に向かおうとし、扉に手を掛けてから動きを止めた。


「あ、それから……。

 ついてきてくれて、ありがとうございます。

 実はちょっと……不安だったから……」


 心なしか頬を染めて、ちらりとこっちを見てから呟くように零す。

 胸を弓で射抜かれたかと思うような衝撃だ。サヤがすぐ横にいたら、無意識に抱きしめてたかもしれない……そう思った。

 そのまま照れたように、サッと扉の向こうに消えてしまう。


 俺はヨロヨロと、おぼつかない足で二階に上がり、俺の部屋に戻る。そのまま寝室に行き、寝台に崩れた。

 精神を相当削られた……。過去の恐怖と、サヤを失うかもしれない恐怖……正直生きた心地がしなかったのだ。

 結局、サヤは自分でなんとかしてしまった……。俺の出る幕なんて無かったな……。

 それどころか、動けていたかどうかも怪しい。


 今まで緊張で忘れていた、朝の夢がまた頭をぐるぐる回っていた。先程のはにかんだサヤの顔が、夢でカナくんに向けていた顔と重なる……。

 追い出せ。その夢も、サヤへの気持ちもだ。

 サヤの幸せは、故郷にしか無い。

 サヤは優しいから、俺のことを心配してくれるし、村のことに親身になってくれる。

 それだけだよ……。特別な意味なんて無い。あるわけない。俺みたいな、何もない人間には、似合わない聡明な子。強くて、優しくて、賢いサヤ。


「…………何も、ない……」


 剣も振るえず、家督を継ぐでもない妾の子。勉強も途中止めで、ただ父上が病を癒す間の、繋ぎでしかない領主代行。

 過去の恐怖にすら打ち勝てない、惰弱な男……。

 そしてそもそも俺は、何も持ってはいけないのだ。欲しいと思ってはいけない。そのように生まれたのだから。

 そんな人間が、サヤを求めて良いはずがないのだ……。


 ……なんで、俺はこんななんだろろうな……。

 自分を卑下することしかできない卑屈な人間……。醜い……。


 そのまま仰向けになって目を瞑った。

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