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多難領主と椿の精  作者: 春紫苑
第七章
196/515

ロレッタ

「レイ!」


 抱き竦められた。

 視界が覆われて、風景が遮断される。すると急に声が消えた。

 サヤの温もりと、柔らかさと、香りに包まれて、頭上から、ゆっくりと落ち着いたサヤの声が、俺の名を呼んだ。


「レイ、大丈夫。一緒におる。レイがおるのは、ここやで。私のところ」


 サヤの、ところ……。

 過去じゃない……過去じゃないんだ……。

 過去じゃない、のに。あの人が……母が、いた。

 それを考えると、また俺を呼ぶ声がする気がして、怖くなった。


「話をしよう。そうすれば、少しずつ、意識が離れる。幻視は、消える」

「き、消える……?」

「うん、消える。せやから、話をしよう」

「……い、いつもと、ぎゃく、みたいに、なってる……」

「いつも?」

「ふるえるのは、サヤなのに……」

「せやね。いつもは私が怖がって、レイがこうしてくれる。こうされると、すごく落ち着く気がしいひん?」

「……うん。する……」

「うん。これがな、フラッシュバック。風景に重なって見える人もおるって、先生が言うてはったことがある。人それぞれやて。

 記憶を刺激するものが、蓋をしている思い出を揺さぶって起こす。そういう現象。

 何が原因か、分かる?」

「…………は、箱が……」

「あの箱? あれは、なんの箱?」

「お、おもちゃ箱……で……」

「そう。レイも、お母様も、よく触れてたものやし、たくさん思い出が、あったんやね」


 落ち着いた喋り口調で、淡々と話すサヤに、激しく暴れていた心臓が宥められていく。

 しばらくそうしてもらって、恐る恐る、サヤの後ろを覗き込むと、もう母はそこにいなかった。

 そのことにホッとして……脱力した。サヤの肩に頭を乗せて、長い息を吐く。


「びっくり、した……。

 まさか、いるなんて、思わなくて……」


 いるような気がする……とは、思っていたけれど、まさか本当に、いるだなんて……。


「幻覚みたいなもの。実際にはいいひんし、レイにしか見えてへん。

 レイは、記憶が鮮明なんかな。

 もの凄くきちんと覚えてるから、まるでいるみたいに、錯覚するくらい、はっきり見えたのかも」

「…………サヤも?」

「私は、思い出して、気持ちがつられるだけや。見えたりはしいひん」


 見えない……けれど、こんなに胸が痛くなるんだな……。

 サヤがいつも、震えていたのは、これだったのか……。


 頬をつたう汗を、サヤが拭ってくれ、そして背中をゆっくりとさすられた。

 汗をかいているのに、手足は痺れたように強張っていて、寒さすら感じる。ガクガクと震える身体を、温めてくれているのだろう。

 しばらくそうしてもらい、深呼吸を繰り返してから、身体を離した。もう、大丈夫……。

 おもちゃ箱を見ないようにしつつ、室内を確認して回ったけれど、これといった発見は無かったので、次の部屋に行くことにする。


「お母様が見えても、全部、それはレイの記憶。レイが経験したこと。

 せやから、その時の思い出が、目の前にあるだけや。なんも怖ぁない。怖いと思ったら、言うて。また、隠すから」


 さも当然のことのようにサヤが言うから……このようなことは、サヤの世界では、普通に起こることなのだろうかと考えた。

 慌てることは、ないのかもしれない……。サヤがいて対処してくれる。なら……俺はカークが納得するまで、ここを見て回る。それに専念しよう。


 気を取り直して、邸の中を歩いて回った。

 先を歩く俺たち二人に、ただ皆は黙って、ついてくる。

 時折母の残像や、無いはずの声が聞こえたけれど、次第にそれにも慣れていった。

 ただ、どんどん心は重くなる。一階を見終わる頃には、限界を迎えていた。


 辛い……。

 幻の母は、決まって俺を見ている……。

 視線が合うことが、怖い。色んな表情の母が、今本当に、俺を見ているようで……。

 立っていることも辛くて、階段に座り込んで、壁に寄りかかった。

 見るなと叫んで、暴れてしまいたい衝動にかられる……記憶を刺激するものに、憎悪すら感じてしまう。

 邸を壊してしまいたい……こんなものがなければ、こんな風に記憶を刺激されることもないのじゃないか……なんで俺は、こんな思いまでして、ここを見て回ってるんだ……カークは俺に何を見せたいんだよ……。


「大丈夫?」

「…………」


 サヤの問いに、答える気力もない。

 なんとか顔を上げてサヤを見ると、頭を肩に、抱き寄せられた。

 凄く苦しそうな顔をしていたから、心配になる。


「……サヤの方が、辛そうな顔、してる……」

「もう、外に行こう。もう充分やない? レイ、顔色も悪うなってる」

「……だけど……まだ、全部、見てない……」


 辛かった。

 もう充分……俺もほんと、そう思う。もうこれ以上はいい。気持ちが悪い。死んだ人を目にするだなんて、やはり常軌を逸しているとしか思えない。

 なのに、口は真逆の言葉を吐いた。

 母は俺を見てる。いつも、視線を合わせて俺を見る。それは決まって、俺が座り込んでいるときに起こる。多分……俺が記憶に、すり寄った時に……幼かった頃の、俺の視線に、合わせた時に、まるで歯車が噛み合ったみたいに、再現される……。


「見たく、ない、のに……」


 見たくないのに、見てしまう……確認せずにはいられなくて……。


「普通の、表情にしか、見えないんだ……」


 母の顔が、仮面に見えない……。


「沈んだ後、母が、作り笑いばかりなことに、気が付いた……。

 セイバーンに行くと、周り中が、そんな感じで……表面と内面は違うのだって、子供ながらに、理解したんだ……」


 仮面だらけ。

 偽りだらけ。

 肯定的なことを言っていても、内面では否定してる。笑顔でいても、心の方は怒ってる。

 そんなちぐはぐな人ばかりで、見誤ると、裏の顔が歪む。それが怖くて、必死で顔色を伺った。

 もう、要らないと、思われたくなかったから……。

 また沈めてしまおうと、そんな風に思われるのが、怖かったから。


「母は、普通にしていたと、思ってたのに……あの日、俺は死を望まれた……。

 いつから……どこから……ずっとそれが、気になって…………。原因は、失敗してしまったのは、どこからだって…………。

 普通に笑っていたと思ってたのに…………ずっと、殺したいって、思っていたのかなって……楽になりたかったのかなって…………」


 ギュッと、サヤの手に力がこもる。

 背中に回された手が、熱い。俺が、寒いだけなのかな……。


「今なら、分かると思ったのに…………見えないんだ……仮面が。

 きっかけが分かれば、納得できると、思ったのに……仕方がないって、俺が失敗したせいだって、納得できると……。

 なのに、どこからの母が、仮面だったのかが、見つけられない…………。記憶だから? 俺にはそうとしか、見えていなかったから? それともやっぱり……生まれた時から? 俺を授かってしまったことが……」

「それは、ない!」


 黙って聞いていたサヤが、不意に俺の言葉を遮った。


「レイ、レイは三歳でここを離れて、六歳でセイバーンを離れて、十年も戻らへんかった。

 なのに、なんでおもちゃ箱が、まだあそこにあった思う?」

「……出ていった時のままに、なっていたから?」

「違う思う。ここは、管理されてる。

 ずっと空き家やったて、カークさんが言うてはったのに、空き家やった空気が無かった。

 たまに使われたり、掃除に来る人がいたりする……管理されとる家やで、ここ。

 十五年あれば、家は、案外朽ちるんやから……」


 そういえば……空き家であるのに、庭が荒れていなかったなと、初めて思い至った。


「推測ですけど……領主様は、セイバーン中を回ってらっしゃったって、伺いました。

 ここは、その時の宿として利用されていましたか?

 畑があるのは農村……街中に宿を取っていたとは、考えにくいです」


 サヤが、ただ黙って見守るだけだったカークに、そう言うと、彼は是と、頷いた。


「左様でございます。

 レイシール様がセイバーンへ移られてからも、度々利用しておりました」

「レイ、お仕事で使うてはった家やのに、おもちゃ箱があるなんて、不自然やろ?」


 それは、そうだけど…………。

 片付け忘れていただけかもしれない。そう思ったけれど、サヤは違うと首を振った。


「もう一回、見に行こう」


 応接室に戻って、サヤはおもちゃ箱の蓋を開けた。

 中には整理整頓されたおもちゃ……主に積み木。何かの人形、ずいぶんボロボロの、畳まれた上掛けと、鞠が入っていた。


「ほら。大切に、ここに置いてはったんや。

 レイの使うてたものやから。レイの思い出やからや、思う」


 積み木……。


「疎んではったら……こんな風には、残してはらへん思わん?」

「っ、じゃあ……じゃあなんで⁉︎」


 瞬間で込み上げてきた怒りとも悲しみともつかないもので、俺はつい声を荒げた。

 サヤの言葉を否定するために、サヤの顔を覗き込んで「じゃあなんで、俺をあそこに連れて行った⁉︎ なんで俺をあそこに沈めたんだ!」と、叩きつけるように責めたてる。


「思い付きで殺そうなんて思ったのか⁉︎ それとも、後になって罪悪感に駆られた⁉︎」


 後ろに仰け反るサヤの肩を掴んで、無理やり俺の前に引き戻す。


「結局俺をどうしたかったんだよ!

 セイバーンに行ってからは、俺を避けてた。仕事だって、忙しいってそう言われてたけど、父上よりも俺に、寄り付かなかったんだ!

 会ったら会ったで、嘘笑いばかり……ヘラヘラ嘘の笑みで懐柔して、隙を伺っていたのか⁉︎ そうすれば、俺がまたのこのことついて行くとでも⁉︎」


 そこで、ぐいと背後から、肩を掴んで引き剥がされた。


「落ち着いてください。サヤを責めて、どうするんです」


 ハインがそう言って、冷めた目で俺を見るから…………お前に何が分かるんだと言いそうになって、言葉を飲み込んだ。

 分からない……。分かるはずがないんだ、ハインには。親がいないのだから。


 恵まれているからこその、苦しみなのかな、これは……。

 生きることに支障は無かった。食べさせてもらって、生かさせてもらって。その延長に、死に方まで含まれていただけで。

 なんか、もう、分からない…………。

 苦しくて悲しくて、頭を掻きむしって蹲ったら、その上からサヤに抱きしめられた。

 母には与えられなかった温もり……それを今サヤが、代わりのように、与えてくれる。


「レイシール様……二階へ、お越しください」


 俺たちのやりとりを見ていたカークが、不意にそう口を挟んだ。

 その背後でユストが、痛ましげな視線を俺に向けていて、アーシュは顔を伏せている。また不甲斐ない姿を見せてしまった。しかも、サヤに八つ当たりなんて……。


「行こう、レイ」


 サヤは、当り散らした俺を、責めなかった。当然のように優しく微笑んで、俺の手を取る。


 カークに案内されて、二階に上がった。

 そして、立ち入った記憶のない部屋の前に、案内される。


「どうぞ。鍵は、掛かっておりません」


 閉じた扉を前に促され、少し戸惑ってから、握り部分に手を伸ばした。

 押し開くと、そこは戸棚と、机。椅子が二脚。たったそれだけの部屋。


「……ここが、何?」

「将来の、貴方様のお部屋でした」


 将来?……そんなもの、なんのために用意していたんだろう……。


 俺に続いて中に入ってきたカークが、戸棚を開けて、中から紐で綴られた紙の束を取り出す。

 何やら線がのたくった紙だった。木炭なのか、太い掠れた線が、不規則に這い回った跡。

 二枚目……三枚目…………全て同じものはないが、同じ内容。そして端っこには、小さく日付らしいものがふってあった。


「貴方様の、お書きになったものです。報告書だそうですよ」

「報告書?」

「ロレッタ様の真似をされて、描いてらっしゃったそうです。

 ロレッタ様は、貴方様の毎日を、報告書に綴っておられたので。

 ここに移られた初日から、欠かさず毎日、一枚ずつです。この戸棚には、その報告書と、貴方様の報告書のみが、しまわれておりました」


 もう一つ、戸棚から取り出された紙束。

 それを差し出すカークだったが、俺は、受け取らなかった……。


 触れるのが、怖かったのだ…………。


「み、見たくない…………」

「レイ……」

「無理だ。嫌だ。もうこれ以上……」


 傷付きたくない……!

 見た覚えのあるような字面。きっと、執務室で何度も目にしているはずだ。


 父上の字も、母の字も、俺は知らない……。

 学舎に届けられていた書面も、誰が書いていたのかは知らなかった。

 母宛に出してはいたけれど、それは他に相手がいなかったからだ。父上には誓約上、送ることができなかったし、父と母以外、俺と関わりの深い者は、いなかったから……。

 けれど、多忙だった二人のこと……見ているかどうかも怪しいと思っていたし、まして返事など……。

 そもそも、それこそ報告書のような手紙に、返事があったことすら、稀だった。それだって、事務的な内容で、文官や執事らの手かもしれない……。そんな風に、考えていたのだ。


 セイバーンに戻って、手探りで政務について学んでいた時に、父の字も、母の字も、きっと何度も目にしている。それを知りたくなかった。特定したくない。知らないままがいい。

 母の痕跡に触れていたなんて、考えたくない!


「……レイ、お母様は、ちゃんとレイを、愛してはった思う」


 横からサヤにそう言われ、必死で首を振った。

 ならなんで。

 それをまた、繰り返すだけの言葉だ。


「こんなにみっちり、毎日書くんは、凄く大変や思う。

 それを欠かさず毎日書いてはったんは、きっとお父様に見てもらうためや。

 ここにいる間お母様は、レイと二人の生活を、ずっと続けるつもりでいはったんや思う。

 お父様とは、一緒におられへんから……レイの成長に、立ち会えへんから……レイのことを、伝えるために書いてはったんやない?

 それと、将来レイに、見せるためもあったと思う。

 もしかしたら……レイに子供ができた時に、何かしら、助けになるかもしれへんって、思うてはったんか……。

 ……こんなに小さな字で、たくさん……食べたものや、眠った時間まで書き込んである。

 愛情なしにできることやあらへん。

 レイの殴り書きやって、丁寧に取ってある。貴重な紙を、こんなに……これもきっと、お父様に……」

「ならなんで⁉︎」


 なんで死を望まれなきゃならなかったんだ‼︎

 どう足掻いたって、俺を殺そうとした事実は、覆らない。

 たとえはじめは愛情があったのだとしても、結局俺は、必要ないってことになったんだろ⁉︎


「……七の月十五日。この最後の頁。何故途中で書くのを止めてあるんでしょうね」


 不意に、ハインのそんな言葉が耳を打った。

 パラリと紙をめくる音……顔を上げるとハインが、報告書を手に取り、最後の頁を見ていた。


「レイシール様が泉へ沈められたのは、この日付なのですか」

「いいえ……二十二日後の、八の月に入ってからでございます」

「……毎日の習慣を、ひと月近く怠ったと?」

「…………」


 ハインの指摘に、カークは答えなかった。

 けれど、真水の中に墨を落としたような違和感が、ジワリと場に広がる。


「……私の存じ上げる限りで申しますと……、ロレッタ様は……レイシール様を身篭られた時、それは喜ばれたのですよ……。

 フェルナン様に、兄弟ができると……」


 予想外の言葉に、皆の視線がカークに集中した。

 それを一身に受け止めたカークは、苦しみを堪えるように、一瞬だけ口を噤んだ。


「あの頃は……まだ、歪みに気付いておりませんでした……。

 奥方様がロレッタ様を好ましく思っておられないのは承知しておりましたが、それでも……一度は受け入れられた……。そう、思っておりました。

 フェルナン様も、あのような方ではなく、無邪気で…………ロレッタ様を、姉のように慕っていたのです。

 妹なら、自分が守ってやるのだ。弟だったら、剣術は自分が教えてやるのだと、それまで怠けがちだった勉学にも熱が入って、まるで全てが良い方向に向かうようで……。

 貴方様がお生まれになり、さして経たぬうちに、アルドナン様よりロレッタ様とレイシール様をこちらに送ると連絡が来た時は、耳を疑いました。まさか、認知しないなど……そんなことになっていようとは……かけらも想像していなかったのです。

 できることなら、すぐにでも駆けつけ、お助けしたかった……。

 しかし、まだ私は職を辞して間もない身で、奥方様を刺激せぬためにも、おおっぴらに支援することは難しく、自ら出向くことはかないませんでした。

 この地区は、私の一族の管理する区に隣接しており、管理者が決まるまでということで、責任者不在のままに、一応我々が差配しておりましたから、なんとかここへお越し頂いたのです」


 そこまで話すと、カークはふう……と、大きく息を吐いた。

 何故か急に、ひとまわり小さくなったように感じた。酷く疲れているように見えて、とっさに椅子に座らせたら、弱々しい声で「ありがとうございます」と、微かに微笑む。


「はじめは……奥方様の悋気が収まるまでと、思っておりました……。

 ロレッタ様は一身にアルドナン様を慕っておられて、不義などあり得なかった。それは誰もが分かっておりました。

 けれども奥方様は……感情が荒れると、粗暴をされることが増えており……レイシール様が危険だからと、フェルナン様にも勧められたのだそうです。

 フェルナン様は、レイシール様をそれは可愛がっておられましたし、奥方様の無体があなた様に及ぶのを恐れ、二人でセイバーンを離れるようにと……。

 避難している間に、母は自分が説得するからと…………そう、仰ったと……」


 考えつきもしなかった話に、半ば呆然としていた。

 あの、兄上が? そんなまさかと、そんなことがあるわけないと、そう思う反面、記憶の端の方で、何かチリチリと刺激されるものがある。

 ありえないと思うのに、そう思い込めないのは、何故だろう……。


「一年、二年と時は経ったものの……貴方様は健やかに成長されておりました。

 アルドナン様も、こちらに足を伸ばされた際は、この邸で過ごされておりました。

 アルドナン様にとっても、ここは救いであったのです。政務の合間に、普通の家庭のように過ごせる、掛け替えのない時間でありました。

 多少の歪みはあれど、それでも恙無く、時を重ねていると、思っておりました…………あのような状況に至る まで、気付けませんでした。

 あの時は……近くで見守らせていた配下より、ロレッタ様の元へ謎の書簡が連日届けられていると連絡があり、不審に思いましたので、前日に出向いておりました。

 書簡は早朝に、人目をはばかるようにして届けられるとのこと。なので、使者を確認しようと……。

 私が赴いたのはたまたまのことでした。

 氾濫の起きた年で、人手を多く割いておりましたゆえの……ほんの偶然……」


 その後は、ただ沈黙だけ……。

 皆が、何を言えば良いのか、分からないのだろう。


「書かれてない期間に、届けられてた書簡……まあ、そこになンかあったって考えンのが、妥当か?」


 興味なさげにそう、ジェイドが呟いた。


「順当に考えれば、そうなるよなぁ」


 返事を返したのはユスト。

 アーシュは眉間にしわを寄せて考え込んでいる。

 その書簡は探されたものの、見つからなかったそうだ。焼くなりして、処分されていたのだろう。


「……セイバーンへは、すぐに、移ったのですか? それまでの間……レイシール様とお母様は……?」

「気の迷いであったとしても、あのようなことが起こりましたから……お二人のみ残すということは憚られましたので、護衛と、使用人を数人残しました。

 けれど、夏の終わりにはここを発たれ、そこからのことは、私には…………」

「お母様は……何も、仰らなかったのですか?」

「泉より、引き上げた際は、取り乱しておられました。死なせてくれと……そう、仰られて……。

 けれど、フェルナン様が駆けつけてこられてからは、一変致しました。

 その間も頑なに、何故そう考えるに至ったかは、口を噤んでしまわれており……」


 原因は、黙ったまま?

 また何か、記憶を刺激された。

 だけど、ぞわりとした感覚だけで、その先に結び付かない。妙な胸騒ぎだけが、胸を圧迫していた。


「知って頂きたかったのです。

 ロレッタ様は、貴方様を疎んじておられたのではないと。

 ただ貴方様を殺めたいと思っていたのではないのです。ご自身も、共に逝くつもりであられました。

 何かが、あったのです。彼の方をこの様なことに駆り立てた何かが……」


 けれど、口にできない何か……。


 息子を殺そうとまでしておいて、口にできないことって、なんなんだよ……。


 何ひとつ、救いなんて、無いじゃないか。

 ただ知って、苦しみが、増しただけだ……。

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