要
サヤは眠り続けていた。
昼を過ぎ、一度ギルが馬車で出かけて行ってから、言葉通り、マルを連行して帰ってきた。
猫のように摘ままれて、馬車からひょろひょろの男が放り出される。
そいつは寝癖なのか、もともとなのか……ツンツンとあらぬ方向に跳ねまくっている髪を気にするでもなく視線を巡らせ、俺を見るとヘラリと笑った。
「あ、レイ様。お久しぶりですねぇ。
もう一年経ちますか? 早いですねえ、僕の周りだけ時間経過が狂ってるんじゃないかな」
マルクスだ。赤茶の髪で、黄色の瞳。サヤと大差ないくらいの身長。なんかげっそりしているが……きっとここ何日かまともな食事をしてないな、これは……。
「マル……最後に食べた食事はなんだった?」
「えー? なんだったか……? あ、大丈夫ですよ、水と塩はちゃんと取ってましたから」
「水と塩」
「あれ忘れちゃうと、なんでか頭が痛くなっちゃうんで。考えてられなくなるんですよねぇ。
今いいとこなんですよぅ。ちょっと面白い話拾っちゃってねぇ。あ、教えませんよ。裏取れてないんで。それはそうとなんでしたっけ? そうそう、アギーでまた大火災が発生したって聞きました?」
「マル、ちょっと待って。水と塩を摂取してたのは分かった。で、最後の食事はいつ?」
「えぇと……忘れちゃいましたよ……あ、四日前かなぁ?」
「ギル……固形物は無理そうだ……」
「そうだな……汁物でも準備させる……」
馬車から降りてきたギルが、そのままマルを小脇に抱える。多分マルは、自分で歩くのもままならない状態なのだと思う。有無を言わさず……というか拒否権なし。任せているといつの間にか動けなくなっているに違いないので、了承は取らない。
手荷物よろしく片腕で運ばれていくマル。相変わらずだ。元気そうだけど元気な状態じゃない……というか、死にかけてる自覚はあるのだろうか?
「湯浴みもさせましょう。どうせ食事と同じ期間、着替えすらしてませんよあれは」
呆れ顔のハインが眉間にシワを刻む。
寮でも何度となく繰り返されたやりとりなのでもう飽きたという顔だ。何回反復学習させても自己管理を身に付けないマルに辟易しているのだ。
マルはなぁ……天才肌というか……一つのことに集中した時は物凄いのだが、そのためにそれ以外の事が全て犠牲になっている、残念な性質なんだよな。
「まともに話を聞けるまでまだ時間が掛かりそうです。
レイシール様は部屋に戻っていますか? 準備が整いましたらお呼びしますので」
「うーん……あまり、ひどく叱っちゃ駄目だよ? マルがああなのは、仕事の忙しさもあるんだし……こっちの頼み事にも、手間を取らせちゃってるんだし」
「関係ありませんよ。
頼み事してようがしていまいが、マルの忙しさはほぼ自分の せいでしょう。趣味の一環なんですから」
うう……取り付く島もない……。
それでも怒りすぎないようにと念を押してから、俺は部屋に戻った。マルの世話をするのに、俺がいたのでは邪魔になってしまう。
部屋では、やはりサヤが眠っていた。
血色も良くなって、状態は悪くないようだ。
よくよく考えてみれば、サヤの世界は、半日ほど時間が早かったみたいだし、初日から遅寝、早起きだったサヤ。睡眠不足だったのだと思う。気を張っていたろうし……よく眠れていなかったのかもしれない……。身体に無理をさせ続けていたから、精神的にも脆くなっていたのではないだろうか。
そんな部分にも、もっと気を回してやるべきだったよな……。
自分の不甲斐なさは分かっていたけれど、とばっちりを食らうのは俺の周りばかりだ。
溜息を吐くと、もぞりと動く気配。視線をやると、サヤが薄眼を開いていた。
ぼんやりとこちらを見る顔が妙に……艶っぽいというか……とっさに反応できずに見惚れてしまう。そのうち頭がはっきりして来たのか、サヤの目が見開かれ、起き上がろうとするから、慌てて止めた。
「起きなくていい。ハインが、今日はゆっくり休むようにと言っていた。
急に動いたら、また血が下がるかもしれないから……」
「いえ、大丈夫です。それにここはレイシール様の寝台だから……」
またやってしまった。そんなふうに考えている顔だ。羞恥と、申し訳なさとで若干混乱している様子。だから、少し強めの口調で静止した。
「寝てなさい。
落ち着かないなら、サヤの部屋に戻っても良いけど……そうすると、俺たちが様子を見に行ったり、しにくくなっちゃうんだよ。
気絶するほど体調を崩したんだよ? 一人にしておくのは不安なんだ。お願いだから、ここで休んでいてくれないか」
俺がそう言うと、サヤはまた眉を下げて、申し訳なさそうな顔をした。
ああ……そんなつもりじゃないんだ。責める気なんてないんだよ……ただ、一人にしたく、ないだけなんだ……。
「ごめん……言葉が悪かった。俺が勝手に、サヤを心配してるだけで、サヤは悪くない。
サヤが視界にいてくれる方が、安心なんだ。我儘言ってごめん……」
「我儘だなんて! 私の自己管理が悪いせいなのに……。
ほんと、煩わせてばかりで……申し訳ありませんっ」
ああ、また気を遣わせている……。そう思うと胸が苦しくなった。
俺の困った顔のせいで、またサヤが不安になる。分かってるのにギルみたいにできない。なんで俺は、こんなに何もできないんだろう……。
「ごめんねサヤ……気を遣わせてるのは俺の方だ。なんか俺、ほんと、駄目だよね……。
こんなふうに泣き言言うから余計周りに気を使わせる……それも分かってるのに……。
不甲斐なくて、本当……」
消えてしまいたくなる……。
うなだれる俺に、サヤが身を起こし、何か言おうとする。そのせいで上掛けが外れて、胸の谷間も露わな赤い衣装が見えてしまって、俺は慌てて後ろを向いた。
「うあ……ご、ごめん。そ、そうだ。ルーシーが、サヤの服を持って来てくれたんだよ!
俺、一旦出るから、着替えて。終わったら、扉を叩いてくれたらいい。
……あっ! 自分の部屋で着替えないと、落ち着かないか……ふ、服は机の上にあるから。それじゃ、また後で!」
気が利かないにもほどがある!
サヤの返事も待たず、俺は慌てて部屋を飛び出した。
バクバクと心臓が暴れている。
サヤが部屋に戻って着替えるなら、俺が外に出る必要もなかったか? ……いやいや、寝台から出たらあの 衣装姿が丸見えになる。俺が出ないとサヤが寝台から出れないでしょ。と、一人で勝手に混乱しながら扉を背にして座り込んだ。
赤が、頭から離れない……見てしまった……思いの外見事な双丘を。いや、サヤが結構な体型しているのはギルの反応で分かっていたけど……って、駄目だって! それ変態だから。サヤが一番駄目なやつだから‼︎ 別のことを考えよう。そう、マルが来てるんだ。サヤを紹介しなきゃいけない、会わせなきゃだけど、会わせたくない……あれ? マルにはどう説明しよう……男装のサヤを会わせることになるけど、ほっとくと男と思うのかな……? いや、マルには女性って言わない方が良いよな、サヤに変な興味を持たせないようにしなければ。でないと根掘り葉掘りどころか、骨までしゃぶる勢いで情報収集されるし……うわっ、よく考えたらサヤが紹介しにくい、何を言っても興味を持ちそうだっ。
大問題が発覚した。頭を抱えていると、コンコンと扉に振動が。サヤだ。着替え終わったんだ……。慌てて立ち上がって、呼吸を整え、そっと扉を開く。朝の、男装に戻ったサヤが、若干気まずそうに、上目遣いで俺を見ていた。うう……見てしまってごめんなさい……。でも、男装に戻ってくれたから、俺の心臓は落ち着きそうです……。
「サヤ、寝台に、戻ろう。もう少し、休んで。
横にならなくてもいいから……俺が安心できるまで、休んで欲しい」
懇願すると、サヤは頷いてくれた。
もう一度俺をちらりと見て、寝台に戻る。そして上掛けを肩から掛けて、包まるようにして座った。
俺も室内に戻る。赤い衣装が、畳まれて寝台の端に置いてあった。
乱れていた布団もある程度整えられている。
俺は長椅子に座り、その後しばらく……会話が無かった。
なんだろう……サヤが何か考えてる……。チラチラとこちらを伺っているのが分かるのだ。
だが話し掛けて来ない。なんだ……? 俺、なんかしたかな……?
まさかとは思うけど、触りそうになったのとか……若干不埒な事を考えたのが分かってしまってる……⁉︎
「あの……」
「は、はい?」
冷や汗をかきながら返事をすると、サヤは意を決したように言った。
「あの、私……何か変なこと言いませんでしたか?」
「は? へん……な、ことは……特に、言ってなかったと思うけど……?」
「すいません……レイシール様と、話しをしてたと思うんです……。でも最後の方が、曖昧で……。失礼なこと言ったり、してないかなって心配になってしまって……」
言われた言葉に胸をなでおろした。なんだ、そんなこと心配してたのか。そんなの全然気にしなくて良いのに。
「大丈夫だよ。変なことなんて何も言ってないから。
故郷の話を少ししてたくらいで……」
「故郷⁉︎」
「う? うん……」
「何を……何言ってました⁉︎」
「いや……カナくんの話を……」
名前を出した途端、サヤが顔を両手で覆った。「やっぱり……」とか「最低……」とか、くぐもった声が漏れ聞こえる。何が最低……聞いちゃマズイことだったの……?
なんだか、胸の奥の方が、またギシギシと、軋み出した気がした……。
「カナくんの事……私、なんて、言ってたんですか……」
「……俺が少し、カナくんに似てたって。
あと……怖い人から助けてくれた、武術を教えてくれた、怖がるな、逃げるから怖い……みたいな、話だよ」
「………そ、それだけ?」
「うん……」
「本当に?」
「嘘なんて、言わないよ……」
嘘は言ってない。サヤが泣いていたことを、隠しただけだ。
俺に聞かれたくない話……だったんだな……。
そう思うと、妙に落ち込んだ。
俺、自分で思ってたほど、サヤに信用されてないんだな……。
カナくんに似てるから、気を許したってだけで……俺だからじゃ、ないんだな……。
分かってた事だよな。ハインみたいに優秀でもなければ、ギルみたいに男前でもない、どっちかっていうと使えない……凡庸な……役に立たない人間だ。人に誇れるものを、何一つ持っていない……つまらない人間だ……。
心の中の黒いモヤモヤが溢れてきそうだ……。
女の子ひとり支えることも、守ることもできない……。本当に、カナくんとは、大違い……。
「カナくんとは……どんなとこが似てたの……」
つい、そんな疑問が口から零れた。
必要とされない俺と、必要とされるカナくん。何が似てたんだろうなと、思ったのだ。
だが、そう聞くとサヤは、ガバッと顔を上げた。
何故か真っ赤になった顔で、思いの外大きな声で「似てません!」と、叫ぶ。
「全然、似てません!
カナくんは、言葉遣いも、荒っぽいし、行儀も、態度も悪いし! 背も、レイシール様より低いし、無駄に筋肉鍛えてゴツゴツしてるし!
そもそも、優しくないですから!」
泣きそうな、潤んだ瞳で、表情に現れた感情とは裏腹なことを言う。
否定することばかり言っているのに、とても切なそうに……。
「そもそも、いじめっ子なんです。小さい頃なんて、私のことカラスって言って、揶揄ってたし、スカートめくったりとか、虫を持って追いかけてくるとか、散々泣かされたんです!
小学生になったら……学校では無視してきて……口を、きいてくれなくなって……。
そりゃ、誘拐犯から、助けてくれたけど……泣いて怖がる私を、無理やり引っ張って……来ないといじめるって脅して、道場に連れて行ったんですよ! 酷くないですか⁉︎」
話すうちに、涙が堪えられなくなっていた。サヤははらはらと涙を流しながら、それでも口を閉じない。
「道場に行き出してからは……無視しなく、なったけど……私が練習に行くと、嬉しそうにしてくれたし、技を覚えると、褒めてくれたけど……それも小さいうちだけで……っ。
最近は、また、私のこと、避けてたし……っ。
だから、全然、似てません。レイシール様とは、大違いです!」
なのに、そんな顔をするんだね。
会いたくて、仕方ないって顔を……。
「それでも、優しいんでしょ?」
「っ……」
「サヤは……そんなカナくんの、優しい部分も知ってるから……だから、そんなふうに……切なくなるんだと、思うよ」
分かってしまった。好きなんだと。
サヤはカナくんのことが好きなのだ。俺の予感は的中してた。
嫌な部分もたくさんあるけれど、それでもなお、好きなのだ。それがサヤの態度から、ありありと伝わってくる。
「さっき……背中に庇ってくらはった時……あの時のカナくんみたいで……誘拐犯から、私のこと庇ってくれた時の、カナくんみたいやったんです……。
せやからなんか、急に……思い出して…………」
「うん……」
「せやけど私……カナくんに嫌われてて……ずっと、煩わせて来たから、きっと、重かったんやなって……。それやのに長いこと、気付かんと……。
カナくんは、嫌やのに……私のこと、構ってくれてたんです……」
「そっか……」
サヤが気にしてたのは、すべてカナくん絡みだったのだ。俺がそのうち、カナくんみたいに、サヤを煩わしく思うようになる……そんな風に思って、恐れてたのか……。
全部、カナくんが中心なんだな……。それくらい、好きなんだな……。
そう思うと、苦しかった。
そして俺も、サヤが好きなのかと、気付いた。
ああそうか。俺はまた間違うところだったのか。
まったく……たった三日でなんでこんな風に思うようになったんだかな……。
だけどこれは、無かったことにしよう。
無理だ。だって彼女は、帰るのだから……。
今ならまだ、無かったことにできる、きっと……。
「俺は、サヤを煩わしいなんて、思わないよ……。
それは自信を持って言う。サヤがどれだけ頑張っているか、一生懸命か、ちゃんと見てる。
だから、気を遣わせてるとか、そんなこと思わなくて良い。
男性が怖いと感じるサヤだって、サヤだからね?
そういうのも全部含めて、君だ」
気持ちに蓋をすると決めて、そう決めればあやふやだった自分の立ち位置もはっきりした。
主従関係。それだけだ。余計なことは考えなくていい。
そもそも、お膳立ては整っていたじゃないか。
俺は何かを得て良い人間じゃなく、元からサヤは、ここの人間じゃない。帰るべき場所がある人だ。
「サヤがどんなであっても、雇うと決めたのは俺だよ。分かった?」
諭すようにそう言うと、サヤは俯いて、涙を拭ってから顔を上げた。
「はい……」
まだ若干、申し訳なさそうな顔してる。でも、それでも一応は、納得してくれた感じかな。
その表情に満足して、俺も笑って頷いた。
「やっぱり、レイシール様は……カナくんには似てません。
レイシール様の方が、男前だと思います」
「はへ⁉︎」
「懐の深さ? 全然違いますよ。舌打ちとかしないし、優しい。人を悪くも言わないもの」
「そ、そう? 俺、褒められてるの?
な、なんか滅多にないことだから……あ、ありがとう…」
それでもサヤは、カナくんの方が好きなんだよな……。そう思うとまだちょっと、苦しい気がしたけれど、それも無かったことにしようと思う。
褒めてくれるサヤに、少し戸惑いつつも、みんなにするのと同じように、笑っておいた。




