欲
眠ってしまったサヤの指に、髪を絡めたまま、俺は暫くじっとしていた。
規則正しい寝息だけが繰り返される、静かな時間……。
頭はずっと、同じことを繰り返し考え続けていた。
カナくんと、サヤに呼ばれる男のことだ。
怖い人から、助けてくれた、幼馴染……。
サヤは、初めて泣いた時、その名前を口にした。
昨日も聞いた……。そして、今日も……。
サヤがこの世界にやってきて、まだ三日目。その毎日に、カナくんはいた……。家族でもないのに……。
「だから……なんだっていうんだ?」
なんでそれが引っかかるんだ? 幼馴染だと言った。サヤの十六年を、一緒に過ごしてきた存在なら、サヤが大切にしててもおかしくない……。サヤの窮地を、救ってくれる存在なら……サヤが、頼れる存在なら……名前が出たって、おかしくないだろ……。
分かっているのに、何故か納得できない。
サヤの故郷にいる存在。それが、妙に胸をざわつかせるのだ。
何が、こんなに重いんだ? なんでこんな……胸が痛いんだ……?
「故郷……」
サヤは居なくなるのだな……と、その時強く、意識した。
その途端胸のざわつきが、心臓を握りつぶすような痛みを伴ってきて……っ。
「レイシール様?」
扉からの呼びかけに、我に帰ってみると、ハインが立っていた。
そういえば、扉は開けたままだったな……。不自然にならないように、ゆっくりと口元に笑みを貼り付ける。
「……おかえり。
サヤは眠ったよ。落ち着いたみたいだ……」
ハインに悟られたくなかった。この意味不明な感情を。
「どうされたのですか?」
「ん? いや、どうもしないよ。動けないだけ。サヤの指に、俺の髪が絡んでるんだ」
「? なんでこんなことになってるんですか……」
「うーん……サヤが眠るまで、話をしてたんだけど……いつの間にかこうなってた」
ツンツンと、後頭部を引っ張った、サヤが、俺の髪を弄んでいた感触……。
「外します」
「……サヤを、起こしたくないから……そっとね」
ハインの方を見ないでいいように、若干顔を俯ける。
自分の表情に自信が無かった。外すと言われて、嫌だと思ってしまった。それが顔に滲んでいそうで……。
だから顔を伏せた。けれどハインには、指に絡む髪を、見えやすくしただけに思えるように……。
「……たった三日なのに、サヤはレイシール様を、怖がらなくなりましたね」
髪を外しながら、ハインがそう言った。
「そうかな……」
「そうでしょう。この距離に座っていて、眠ったのでしょう? 指に髪を絡めて……」
「手持ち無沙汰だったんじゃない?」
「サヤの性質からして、手持ち無沙汰だったという理由で男性の髪には触れませんよ」
……カナくんみたいだったんじゃない?
心の中ではそう返事を返したけれど、口には出せなかった。
「顔色はマシになりましたね」という、ハインの呟きに「よかった」と、考えないで良い言葉を返す。
「サヤはこのまま休ませましょう。
サヤの着ていた服は、ルーシーの部屋にあるようでしたから、持ってくるよう伝えておきましたよ」
「ありがとう。それじゃあ、そっと出よう」
物音を立てないように扉に向かい、その途中で鏡を確認する。うん、笑えてる……大丈夫だ。
最後に眠るサヤをもう一度見てから、扉を閉めた。
「……ルーシーはどうしてた?」
「静かになってました」
「はは……サヤが、ルーシーは、励まそうとしてくれたんだと言っていたよ。
みんなに褒めて貰えば、衣装が似合わないなんて、思わなくなるって……」
「……サヤは衣装が似合うかどうかで悩んではいないと思いますが……」
「ルーシーなりの、気持ちの持ち上げ方みたいだったよ。悪い子じゃないんだよ」
「はた迷惑です」
そんな話をしながら、応接室に戻ると、ギルだけが待っていた。どうやらルーシーは、サヤの服を取りに、部屋へ向かった様子だ。
ギルが、戻った俺に申し訳なかったと平謝りを始めるので、サヤの言っていたことを伝える。
サヤがルーシーを心配していたから、ひどい叱責はしないでやってくれとお願いすると、ホッとした顔をした。厳しくしてたけど、ギルも姪が可愛くないはずないもんな。
それでこの問題は終了。そう、思ったのだけど……。
「ルーシーがな……サヤは、レイに迷惑をかけていることを、気にして落ち込んでいたと言っていた。
拾ってしまったばっかりに、手を煩わせてしまっていると。
自分のことで気を使わせてばかりだと、そう言ったそうだぞ」
「え? そんなこと全然ないのに……。
何か迷惑なんて、かけられたっけ? 思い浮かばないよ」
全く身に覚えがない。
そもそもサヤはやたら有能だ。ここはサヤの住む世界とは全然異なると思うのだが、それでも自分のことは自分でしてしまうし……教えたことはあっという間にこなしてしまう。
俺が本気で悩んでいると、ギルはその様子に小さく笑った。
「お前はそういうやつだよな……。
でもサヤには……まだお前の性格は、きちんと理解できてないんじゃないか?
お前の言動は……気を遣ってるように見えるからな……」
「そうなの⁉︎」
「 何でもかんでも良い方に受け取ってるだけだと解るのに、俺は数年使った」
「そうですね。レイシール様は、ご自分のことは後ろ向きなのに、人のことはやたら前向きに捉えますから」
二人にそう言われて愕然とする。気を遣ってないのに気を遣ってる風に見える……無駄に押し付けがましい感じの印象。最低だ……。
「ほらな。そうやって自分のことは後ろ向きなんだよ」
俺が落ち込んだのを瞬間的に察知してギルが溜息をつく。
そして俺の頭をワッシワッシとかき回して「優しすぎるんだよなぁ」と、しみじみ言った。
「お前はなんつーか……人に優しすぎ。んで自分の欲求には無欲すぎるんだよ。周りが笑ってりゃ自分も幸せみたいな感じだろ。
自分がどうしたいとか、その辺が蚊帳の外になっちまってんだよなぁ」
そう言って、もう一度俺の顔を覗き込み「サヤのことも、自分が気付くのが遅かったからだとか、思ってんだろ」と付け足した。
「あれはルーシーの暴走。責任を問うなら俺。俺の監督不行き届きってやつだ。お前の責任の部分は小指の先ほどもねぇだろ?」
「そうかな……でも俺が、サヤのことをきちんと説明しておけば……」
「お前、会う人間全員にサヤが無体されかけたって言いふらすのか? それの方が問題だろ。
ああ……すまん、流石に、ルーシーには教えた。口止めもした。もうサヤに、あんなことはしないと約束させたから……」
「うん、ありがとう……」
サヤの名前が出たことで、頭の隅に追いやっていた名前が、また暴走を始めた。
カナくんは……どんなふうにして、サヤを守ってたんだろうな……。俺みたいな役立たずじゃないことだけは確かだ。サヤが名を、口にするくらいだから……。
どんな男なんだろう。……ただの、幼馴染なんだろうか……。
「おい……どうした?」
「んっ? いや、どうもしないけど? なに?」
「いや……なんかお前今……疲れたのか?」
「ああ……若干精神的に疲れたかもね。サヤのこと、心配だし……」
一瞬嫌な考えが頭をよぎったのだ。
だけど、それは全然、俺が介入するようなことじゃなくて……なんで自分がそれに動揺しているのかも意味不明で……。だから取り繕って誤魔化した。
「マルが来るの、昼過ぎだっけ……。それまでサヤについていようかな……って、考えてたんだ。
あのまま一人にしておくのはちょっと心配だし……」
嘘は言ってない。
心配は本当だ。カナくんを思い出してしまったサヤは、涙を零していた。泣いていた彼女を、一人にしておきたくない……。
「……そうですね。今ここでサヤが一番慣れていて、怖くないのはレイシール様でしょうし。しばらくお願いします。何かあれば交代しますよ」
ハインがそう言ってくれたので、ほっと胸をなでおろす。
主人の手は煩わせませんとか言って、自分が行くか、ギルに使用人を借りるかする可能性があったのだ。そうなれば、言い訳が難しい。だから、何か言い出す前に、さっさと戻っておくことにする
「ああ。じゃあまた後で」
今通ったばかりの廊下をまた戻り、自室に向かった。
その間も、頭の中にずっと繰り返されるのは、サヤのこと。そしてカナくんのこと。
俺はカナくんに似てるのかな……だからサヤは、俺に慣れたのかな……。カナくんは強いんだろうな……サヤをあんな風に強くするんだから、きっと……サヤ以上の使い手なんだろう……。
カナくんはサヤの……恋人なのかな……。十六歳なら……夫であっても、おかしくないんだ……。
そんなふうに、考えたくもないことが頭の中を繰り返し埋めていく。
おばあちゃん、かなくん、もう、あえへんのやろか……。
すぐにかなくんが、きてくれたから……たいしたことは、されてません……。
馬鹿みたいにサヤのカナくんと呼ぶ声が、頭をぐるぐるとかき回す。
そのせいで、呼ばれていることにも気付かなかった。
そのまま階段を上り、部屋の扉が視界に入った時、急に目の前に何かが飛び出す。
「うおっ⁉︎」
ぶつかりそうになってあわてて一歩引いたら、それはルーシーだった。
真っ赤な目で、ボロボロと涙をこぼしているものだから、唖然としてしまった。何事⁉︎
「あっ、あの……私、知らなくって……サヤさんに、そんな経験あるとは、思わなくって……。
傷つけるつもりは、無かったんです。ただサヤさんが、レイシール様に嫌われたくないって、思ってるんだって、そう思ったから……ごめんなさい!」
「へっ? いや……ご、ごめん……。もしかして、話し掛けてた?」
「レイシール様が怒るのも当然ですから! だけどっ」
「いや、怒ってない、怒ってないよ⁉︎ ごめんっ、ちょっと考え事に集中してて、全然聞いてなかったんだ!」
しまった……。なにを聞き逃したんだ? ルーシーにすら気付かないなんて……末期だっ。俺の頭は相当鈍くなってる!
泣く彼女を必死でなだめる。もう、正直に言って謝るしかない。
「ごめんルーシー。ほんと、怒ってないんだ。ちょっと、自分のことで頭がいっぱいになってた……。
サヤは大丈夫だよ。ルーシーのことを心配してた。元気付けようとしてくれたって言ってたから、悪気がなかったのも分かってる。
だからそんなふうに泣かないで。大丈夫だから。
あ、サヤの服を持ってきてくれたんだね、ありがとう……。起きたら、渡しておくよ……」
俺が必死でなだめ、謝ると、ルーシーは顔をごしごしと擦りながら頷いた。
サヤの服を受け取る。だけど、立ち去ろうとはしなくて、まだ何か言いたそうな感じにしているものだから……話を聞くことにした。今は、頭が働く気がしないんだけど……仕方ない。
「さっきサヤが、私に迷惑かけてるって、落ち込んでたって話……ギルから聞いたよ」
「はい……。レイシール様が、優しくしてくれるのが心苦しいって、言ってました。
感謝してるけど、逆に迷惑かけてる気がして、申し訳ないって。気を遣わせないようにしたいのに、そんなこともできないって……」
「逆だよね。私が気を遣ってるんじゃなくて、サヤがそうしてるのに……。
さっきギルにも言われたんだ……、私は周りにすごく、気を遣わせてしまうみたい……。全然迷惑してないのに、サヤを不安にさせてしまうんだ……。駄目だよねほんと。もっとしっかりしてなきゃいけないのに……」
「……レイシール様は、サヤさんのこと、面倒だなんて、思ってないですよね?」
「思うわけないよ! 思うわけない……。
サヤは、慣れない場所で、一生懸命頑張ってると思うし……私の方がよっぽど面倒臭い奴だろうし……」
「そうなんですか?」
「そうだよ。自分ひとりではなにもできないんだ……。ギルやハインや、サヤに助けてもらってばっかりだよ……」
人の手を煩わせてばかりだ……。そう思って溜息を吐くと、ルーシーは「なんだか、私と一緒」と言った。そしてやっと笑う。
「でもサヤさんも……似たようなこと言ってました。
人の手を煩わせてばかり……、面倒がられて、最後には嫌われる……って。
誰かにそんなふうに、言われたみたいで……。でも、レイシール様じゃなかったみたい。
レイシール様に、嫌われたくないって、言ってるみたいだったから……。サヤさんはあんなに優しくて、綺麗なんだから……嫌う男の人なんているはずないって、そう思って……。
こんなことしてしまって、申し訳ありません……。でも、サヤさんの気持ちを、伝えたかったの!」
一生懸命話すルーシーに、ああ、サヤの言うとおり、優しい子なのだなと思った。
そして、次にルーシーの口から出た言葉に、慌てる。
「サヤさんは……捨てられたの?」
「ええっ⁉︎」
「だって、レイシール様に、拾われたって、言ってました。
女の子を一人で放り出す親なら、面倒がったり、嫌ったりするかなって……」
「ちっ、違うよっ、サヤはその……は、はぐれたんだよ! 異国の地で、迷子になっちゃったんだ!」
「そうなんですか?」
「そうそう。初めての土地だから、行き先も分からなくて……迷っていたから、保護したんだよ。捨てられたんじゃない……。サヤはあんなにいい子なんだから……嫌う人なんて、いないよ」
「そうですよね。でも……じゃあなんであんなこと、言ったんだろ……。誰に嫌われたのか……あ、女の人かな。美人だし、肢体も最高だし、妬まれちゃったりしたのかもしれませんね!」
勝手に考えてうんうんと頷くルーシー。俺もうんうんと頷いておく。余計なことは言わないでおこう……なんかまた、変な事になりそうだし……。
「サヤを、心配してくれてありがとう、ルーシー」
お礼を言うと、びっくりした顔をした。そして、えへへと、照れたように笑う。
とりあえずそれでなんとか収拾がついた。
ルーシーと別れ、部屋に戻る。
サヤはまだ眠っていた。よかった……耳が良いから、起こしてるかもしれないと不安だったのだ。
寝台を覗き込むと、サヤの長い睫毛が、頬に影を落としていた。心なしか、血の気も戻っている気がする。顔を近づけると、微かな呼吸音。自然と頬に触れそうになって、慌てて手を引っ込めた。
どうかしてる……。眠る女性に、触れようとするなんて……。
ましてサヤは、男に触れられるなんて、論外だろう。寝顔だって、見られたくないはずだ。
さっきと同じように、寝台に背をつける形で座り込む。
下手にサヤを見てると、変な気を起こしそうだと思ったのだ。触れたくなってしまう……。
「サヤ、俺は……ね。サヤの苦しいの、ちょっと分かる気がするんだ。
幼い時、死にかけたっていうか……殺されかけたっていうか……。自分の意思の外からかかる重圧には、身に覚えがある。それの後に、続くことにも…………。
だから……その、ね。苦しくなったら……。こうやって話を聞くくらいしか、してやれないと思うけど……。吐き出したい時は、言ってほしい。
ごめんね……。カナくんの代わりには、ならないと思うけど……」
それでも、ここにカナくんはいないから……。ここでくらい、守らせてほしい。
サヤを帰すまで、どれくらいの時間があるのかは分からないけど。
早く帰してあげなきゃ。サヤには家族がいる………幼馴染も……。
本来ここにいるべき子じゃないんだ。だから………帰したくないなんて、思っちゃいけない。ずっといて欲しいなんて、思っちゃいけないんだ……。
いつの間にか、俺のサヤを守りたいと言う気持ちは、義務ではなく、責任でもなく、俺のしたいことにすり替わってしまっていた。たった三日、一緒にいただけなのに……。なんでだ? 全然分からない……。
我儘になってしまってる自分に溜息を吐く。
駄目だ……何かを欲しいなんて思っちゃ駄目だ……。
俺にはその資格が無い。許されていない。
欲しがってしまえば、それをまた無くして、死にたくなるほど辛くなるって、分かっているのだから…………。