家畜小屋
ジェイドが来てくれたのは本当に有難かった。
屋敷の周りの不穏な気配は、彼と忍の仲間で発見してくれるし、犬笛でもって知らせてくれる。
そのお陰で、夜間も安心して眠れたし、サヤの夜番も復活させずに済んでいた。
遅れてこちらに戻ったマルにも、別館に何者かが侵入し、マルの部屋も漁られている可能性が高いと伝えたのだが、彼はあっさり「見られて困るものは置いてませんから、問題無いですよぅ」と流してしまった。
文献やら報告書やら、貴重品だらけに見える室内なのだが、一度見たものは頭に入るマルなので、危険であろうものは、その場ですぐに処分するらしい。
「重要書類などには手がつけられておらず、分かる程度に痕跡を残していたことからして、これはもう嫌がらせか、情報収集が一番可能性として高いかと。
問題としては大したことないのですけど、これからも続くと思われます。
色々秘め事の多い我々ですからね。ある意味一番厄介な嫌がらせです。とっとと、ここを離れるのが得策ですが、準備が整うまでは辛抱するしかありません」
そう言われ、ただ耐える時間を過ごしていたのだが、本日やっとディート殿とともに許可が届いた。
そのおかげで、俺たちはほんの少しだけ、心が軽くなっていた。
「へぇ、干し野菜は、サヤのお祖母様の趣味だったんだ」
「はい。二人暮らしだと、買った食材って大抵余らせてしまうんですよ。
祖母は戦時中に生まれた人ですから、食料不足の時代を朧げに記憶していて……震災も経験していますから、災害時でも食べ物だけは困らないようにって、あれを日常的に作っていました。だから私も手伝っていて。
常備食っていうか、作ったはしから古いのを使っていくんです。無い食材はまず無いですから、作りたいものを作りたいときに作れますし、便利で。
干し野菜、母も異国で利用したいって言っていたのですけど、あちらでは難しいって、断念したんですよね」
長旅でお疲れだったディート殿も早く休むと客間に引っ込んだため、本日は夜が早い。
眠りにつく前の時間に、なんとなく始まった雑談を、俺たちは楽しんでいた。
本来は、サヤと二人の時間を用意するべきなのだが、セイバーンに戻ってからそれは、行われていない。
正直、あれはもう、無理だと考えていた。
俺は、あの時の劣情を、次も抑えられる自信が持てない。
翌日のサヤはいつも通りで、俺が彼女に対し、欲情したということは、伝わっていない様子だった。
ホッとしたと同時に、あんなことはもう、絶対に駄目だと自分を律した。
俺は成人しておらず、庇護者との縁も薄い。
今、サヤに手を出し、関係を持ったとしても、責任が取れない……。彼女を穢すだけに、なってしまうのだ。
本来、成人前の身で恋仲になれば、親の配慮を乞う。
家同士の話し合いを済ませ、関係を結び、片側のみの耳飾を女性に贈る。
そうすれば、もう相手を妻に娶る以外の選択肢は無い。近いうちに婚儀を執り行うこととなるだろう。
そこまで進まないにしても、成人までに余計な話が介入しないように配慮してもらうという場合もある。
だが俺には、配慮を乞う相手がいない……。異母様にそのようなことは、絶対に願えない。
そうである以上、万が一がある。
俺が政略結婚で妻を娶ることになった場合、たとえ関係を持った後であったとしても、サヤは捨て置かれることになる。
そもそも、サヤの国の基準でも、彼女はそういったことを考える年齢に到達していない。
彼女の国の十六歳は、親の承諾無しに婚姻は結べず、その婚姻自体も、相当な理由がない限り、起こらない年齢であるらしい。
彼女のご両親は遠い異世界……。親の承諾を求められる状態ではない。そんな身の上である以上、成人していないうちに彼女との関係を進めるのは、不道徳だ。
彼女自身の問題……男性の欲望に恐怖を感じるということもある。
だから、俺は不用意に、サヤに近づいてはいけないという結論に至った。
セイバーンでのサヤは男装しかしないから、それで心底助かっているが、眠る時の彼女は、当然補整着を身に付けていない。
またあの時のように衝動に駆られ、間違いを起こしてしまっては駄目だ。サヤを守らなければならないと思った。だから、夜着の時に二人で過ごすのは、当分お預けだ。
まあそれはともかく、干し野菜はとても優秀な保存食だと思う。
なのに国が変われば利用が難しいらしい……。けど、製法はさして難しくないと思うのだ。
「……なんで? 天候?」
断念したというからには、理由があるのだろう。そう思い、天候が原因かと考えたのだが。
「うーん……その……失くなるんです」
困った表情で眉を寄せるサヤ。
それに対し答えをくれたのは、ハインだった。
「盗まれるのでしょう。
食べ物が転がっていればそうなります」
ああ、そうか……。
サヤの母は発展の遅れた地域にて、その生活の改善、向上を職務としているという。……ある意味、地方行政官という新たな俺の職が、サヤの母の職にとても近いのが、なんとも不思議なことだった。
聞くところによると、現在滞在している国の治安水準は、この世界の王都に近い感じだ。孤児が街を走り回り、落ちているものどころか、人から荷物を奪って逃げることすら日常茶飯事の地域であるらしい。
「王都でも、そうでしたよ。道にあるものは誰のものでもないといった感覚なので、早い者勝ちです。
杖だろうが靴だろうが、構う余裕などありませんし。得られるものならなんだって得ます。
食材が転がっていれば、孤児がたかるのは当然でしょう。
セイバーンは本当に平和で、人に緊張感がありません。
余った食材を分けて歩くなど、初めて見た時は馬鹿かと思いました」
ハインの辛辣な物言いに、眉が寄る。
セイバーンの場合、頻発する氾濫により、農民らは助け合って生きていくのを当たり前にしてきた。
常日頃から関係を密にし、いざという時が来たら、手を取り合って助け合う。そのため、作りすぎた食材や余った食材を近所に配るなど、交流の一環として当たり前だったのだ。
だが王都には、そんなことをする者はいない。
ハインが言う通り、道に落としたものはなんでも拾われる。孤児が、生活の糧として、奪っていくのだ。
ハイン自身も、かつてはそんな身の上だった。彼がそうやって苦しい生活を送って来たのを知っているから。人のものを盗るしかなかった理由を知っているから。その棘のある言葉に、彼の辛い経験を垣間見る。
王都で道端に転がっているものなど、孤児すら拾わない、馬の糞くらいのものだ。
「……神殿がきちんと機能していないってことでも、あるよな……」
神殿に保護されれば、少なくとも衣食住は困らない。
けれど、一生を神に捧げなければならない。
あそこに行けば食べられる。それが分かっていても、孤児は街の片隅で生きていこうとする。
俺のなんとなしに呟いたその言葉。
だがその呟きを聞いたハインが、急に纏う雰囲気を豹変させた。
「ふ……あんな所……まともな思考が働くなら、入りたくなどありませんよ」
何かハインの逆鱗に触れてしまったようだ。
ギラギラと目を光らせ、腕を組んだ彼が、嘲笑するような表情で、空間を睨みつける。
「神殿に、孤児を保護する場などはありません。
あるのは家畜小屋です。食べるものも、着るものも本当に最低限。下手をしたら、路上の孤児より粗末な食事だ。それを与えられるかわりに、飼い殺されるのです。
病になったとて、治療も受けられませんし、今までの行いが悪い。罰を甘んじて受け入れて、身を清めよ、と言われるだけです。
毎日の日課は、体調など関係なしに課せられ、たとえそれで孤児が天に召されたとしても……救われるため、来世へと旅立っただけだと、屍を処分して終わる。
あれは奴隷ですよ。合法的なね。孤児とはそこいらに落ちている、いくらでも取り替えのきく、消耗品です」
神殿に、いたことが、あるのか……。
急に語られたその壮絶な内容に、言葉を失う。
サヤも口元に手をやって、驚愕の表情で、瞳を見開いていた……。
無神の民である彼は、神を信じない。それこそ、蛇蝎の如く嫌っていたのだけれど……。
それは分かっていたけれど、神殿についてこんな風に話をするのを、初めて目にした。
神殿には、何度も赴いたことがある。
そこで奉仕活動をする孤児も見たことはあった。けれど、そんな風だなんて、知らない……。
俺の考えなどお見通しというように、ハインは言葉を続けた。
サヤには聞かせたくない酷い言葉も度々使われたが、それを諌める余裕など無かった。
「表に出される孤児は、どの神官かの稚児や湯女であったり、隠し子であったりする者です。
脚を開いて多少マシな環境を得る。まあそれも、生き方の一つではありましたからね、あそこでは。
奉仕だと言われ、拒否する権利もなく、そうなるしかない場合もあります。
あぁ、きっとレイシール様はご存知ないでしょう。
貴族の中には、狩りを楽しむ手合いもいるのですよ。
見目の良さげな孤児を攫って、神殿に放り込むのです。時には遊び尽くした後にね。
あれだって立派な慈善事業なのですよ。何故なら孤児は、前世の悪行故に、神にその苦難の宿命を与えられた身。そうされて当然なのですから!」
「ハインっ! もう、もういい……すまなかった」
今更、横腹の傷が疼く気がした。俺に短剣を突き立てた、そうしなければならなかった理由は、これなのか。
そんな体験を、今までずっと、口にしなかったことにも。少なからず衝撃を受けていた。
「レイシール様が謝る必要などございません。
今は、あれが貴族のごく一部の蛆虫どもだと知っています。
貴方とあの屑どもを同列に並べたくなどありませんから、貴方の非でもないことに、いちいち謝罪などしないでいただけますか」
怒りすら滲ませて、ハインが言う。
けれどその怒りは、その後すぐ動揺に変わった。
「さ…………」
何か言いかけ、口籠る。かと思ったら、何故か俺の手を取ってグイグイと引っ張り、サヤに押し付けた。
まあ、サヤが思い切り、泣いていたから……なのだけど……。
「……自分で慰めるとか……」
「無理です。適任者に任せます」
やる前から無理って……。
だけど、彼の慰めという技能の不具合ぶりは承知しているから、サヤの頭を胸に抱く。
さすがに、こんな話の最中に欲情なんてしない。
泣いて、震えて、白く血の気の引いてしまった手を握りしめて、目元を隠していたサヤ。歯を食いしばって、嗚咽を堪えている。
それは、嫌な記憶を刺激されて、苦しんでいるというより、憤りを押し殺しているように見えた。
ハインのいた境遇に、胸を痛めてくれているのだ。
「……なんで、もっと早く、言わなかった……」
サヤをあやしながらも、そう聞かずにはいられない。
「言う必要がありましたか?
私は、私のしたことに言い訳などしたくありません。
貴方を傷つけたのは事実で、それが全てではないですか。
実際貴方は、あの屑どもとは何ら関わりがない。なのにそのとばっちりを受けたせいで……」
利き手を、不自由にした……。
「……今話したのは……神殿の実態を、知っておいていただくべきかと、思ったのです……。
何を相手にするのか、分かっているべきだと……。
真っ当な聖職者だって、いるのでしょう。けれど……王都の神殿が、あの体たらくです。
まともさなど期待しないことです……」
しゃくりあげるサヤの頭を撫でながら、その言葉を噛み締めた。
まともさなど、期待するな……か。
この世界には、こんな風に腐敗した部分が、きっとたくさんある……。
腕の中のサヤが、くぐもった、震える声で、問うてきた。
「じゃあ、親を失った子は、どうすれば良いんですか……」
それに対する答えを、俺は、持っていない……。
だから仕方なしに、ハインが答えた。
「どうもしませんよ。生きられるまで生きるだけです。
神殿にいるか、路上にいるかの差です。そして生き残れたなら……だいたいはそれ相応の役割に、身を落とすのですよ」
うぅー! と、腕の中のサヤが、唸る。まるで抗議するように。悲鳴のように。
ハインは当たり前のこととして口にしたのだろうが、サヤには刺激が強すぎるだろうし、もう少し言葉の選び方はあったと思う。
けれど……飾らないからこそ、ありのままを述べるからこそ、伝わるものも、ある……。
「そんなの、あんまりです……」
じんわりとした熱が、胸の辺りにある。サヤの涙が染み込んでいるのだ。
俺もそう思う。あんまりだ。
だってそれでは……早く死ねと、言われているようなものじゃないか……。
幼いうちに、来世へと旅立てば、罪は重ねずにいられるということ?
生き残ったら残ったで、また来世もかと絶望しつつ、死を迎えるしかないということ?
なんて歪だ……。そして、俺もずっと、馬鹿だったってことだ。
孤児がどういったものかということを……ハインを傍に置いておきながら、今まで考えてこなかったのだから。
「はぁ……もうやめましょう、この話は。
サヤ、申し訳ありません。貴女の耳を汚しましたね。
さっさと忘れてしまうことです。貴女がそんな風に、気にすることではありませんから」
この世界にとって、孤児など当たり前の存在だ。
不幸は生まれた時から、定められたものだ。
頬を濡らすサヤを、部屋に帰す。とにかく今日はもう、ゆっくり休めと伝えた。これ以上の話を彼女に聞かせるのは酷であるように思えたのだ。
サヤを扉の外に送り出してから、部屋に帰るまでの時間を無言で待った。
そして、どうしても言わずにおられなかった一言を、絞り出す。
「…………お前が償う必要のある罪なんか、ないよ……」
「先程も言いました。言い訳などしないと。貴方を傷つけたのは私の手だ。私の罪です」
「ないよ! 俺は、俺はもっと早く、それを、知りたかった!
もっと早く知っていれば、お前を…………っ」
「言っておきますが! 私は救い上げられたのですよ? それだけのことをとしてもなお!
貴方は本当に、馬鹿なのではないかと、たまに思います。
何でそう、全部を自分のことにしてしまうのですか。社会の仕組みに貴方がいかほど関わっているというのです?
人ごとに、そんな風に心を寄せていたのでは、先が思いやられます。
さあ、貴方もこんなどうでも良いことに、いつまでも食いつかないでください。
さっさと寝て、忘れてください。さあ、早く」
寝台に押し込まれて、上掛けを丁寧に掛けられた。
冷めた口調で「おやすみなさいませ」と告げられ、さっさと灯も吹き消してしまう。
そして、部屋を後にした。
暗くなった部屋で、俺は自身の右手を抱きしめる。
動かしにくく、不便になってしまった薬指。これが俺とハインを、今まで繋いでくれていたものだ。
この傷に、愛おしさすら感じていた。
ハインは神に感謝などしない。だけど俺は、アミに祈った。感謝した。
人の世の腐敗は、神とは関係ないと思うから。
ハインを、俺に繋げてくれたことを、感謝した。




