悲鳴
「サヤ、弁当はもう出来上がっていますか?」
「あっ、今仕上げです。でももう直ぐに、できますから!」
「そうですか。では私は厩に行って参りますので、レイシール様は中でお待ち下さい」
弁当の完成を食堂で待つことにした。
調理場から、ふんわりと良い香りが漂っている。ハーブの香りだな。
サンドイッチを作るのに、ハーブの香りがするのは何故だろうかと考え、また新しい料理かもしれないなと思うと、楽しみが増えた気がして心が躍る。
異母様に威圧されずに済んだことが、俺の気持ちを随分と軽くしていた。
調理場から、サヤの作業する音が、かすかに聞こえる。
なんだかその静かで平和な時間を、ああ、こんなのが良いなぁと、漠然と感じた。
恋人の料理が出来上がるのを、こうやってのんびり待つなんて、凄く、普通の生活みたいだ。これが本当に、サヤが望んで行っていることであるならば、これほど嬉しいことはない。
だけど……やはりそうは思えないんだ。
そんな簡単に、切り替えられるはずがない。心に刻まれた傷というものは、本人の意思なんて関係なしに、勝手に開き、血を流す、あかぎれの様に塞がりにくい傷なのだと、俺はよく知っている。
何を思ってあんなことを言ったのか、いまだに分からないけれど、こんな無理は長続きしない。必ず近いうちに、サヤの心は疲れてしまう。
だから、どこかでちゃんと、やめさせなければ……。こんな望外な夢を、ひと時でも見せてもらえた。それで俺はもう、充分だ。
「レイシール様、ちょっとよろしいですか?」
そんな決意を固めていたら、食堂からひょこりとサヤが、顔をのぞかせた。
「ん? どうした?」
人手が必要な作業でもあるのだろうか。
席を立ってそちらに行くと、ちょいちょいと手招きされる。
少し腰を屈めると。
「はい、あーん」
ニコニコと笑顔で、何かを口元に突き出される。
なんの気負いもてらいもなく、そんな風に言うので、とっさに言われるまま、口を開いたら、それが口の中に突っ込まれた。
じゅわりと肉汁と、爽やかな風味。そして香りが鼻に抜ける。
鶏肉?少し濃い目の味付けだ。だけどとても美味。
「美味しいですか?」
「ん。凄く……」
そう言うと、とても魅力的な笑顔で微笑むものだから……心臓を、思い切り握り締められた様な心地になった。
や、やばい……。やばいやばい。駄目だ、なんかこれは……俺の身がもたない……。
「もう出来上がりますから。ハインさんも戻られたみたいですよ」
音を聞きつけたらしいサヤがそう言うので、じゃあと玄関に向かう。
顔の熱を、両手のひらで必死に吸い取って、なんとか表情を取り繕う。
「弁当はもう出来上がるみたいだぞ」
顔を伏せ気味にそう伝えて、連れてこられた三頭のうちの一頭を受け取った。
それを壁の馬繋ぎに括り付けて、暫く戯れる。やっとそれで、平常心を取り戻せた。
ハインもそれぞれを繋ぎ、自身の馬とサヤの馬に荷物を括り付けようとしたので、それをやんわりと遮る。
「ハイン、サヤはまだ慣れてないと思うから、荷物は俺の馬に載せよう」
荷物はそう多くない。主には敷物と、弁当。あとは茶器くらいか。
その作業を終える頃には、サヤが裏口より手提げ籠を持ってやって来た。
「裏口の戸締りは済んでます」
「そうですか。ではサヤはこの馬に。行きますよ」
ハインが玄関に鍵をかけ、三人で馬に跨り、ゆるい坂道を下って、橋を渡る。
川沿いの道は土嚢壁で潰れているから、そのまま村を南へ突っ切る。
村を通り抜ける間に、幾人かの村人に出会い、挨拶をされたり礼を言われたりした。
村を抜け、西に伸びる道に入り、そこからは馬の速度を上げる。
サヤは問題なくついて来た。
はじめのうちはまだ、少々緊張した表情であったものの、次第にそれも薄れ、風景を楽しむゆとりを持つまでに至る。
ハインが選んできた馬も、温厚な良い馬であった様子だ。
途中から、道も逸れた。北の方に草原を進む。
ハインが先頭に出て、サヤが後方に回った。目的地が彼にしか分からないからだ。
道ではない場所なので、石もゴロゴロしている。馬の速度も速歩程度に落とす。
一時間くらいを馬上で過ごしたら、目的地に到着したのだと思う。ハインが馬を止めた。
「ここです」
緩やかな坂の上だった。
そこから先を見下ろすと、さほど大きくはないが泉があり、草原が広がっていた。
不思議なくらい平坦な大地は、今まで何度も水に洗い流された証拠なのかもしれない。
「ここは、どのあたりなんですか?」
「サヤが初めて馬車に乗った時、休憩した場所を覚えていますか?
あそこからさほど離れていません。林に遮られていますが」
つまり、長老一派が潜伏していた付近……ということか?
内心でそう思ったけれど、口には出さない。何故ハインがここに来ようと思ったのか、それが分からなかったから、俺は多少彼の機微に集中していた。
ゆっくりと馬を進ませて、ほど近くにある大きな木に近寄っていく。あまり背は高くないのに、広く枝を広げて心地良さげな木陰を作っている。
「荷物はここに下ろしましょう。
馬は、泉の辺りへ放しておきますか。勝手に草を食べて、水を飲むでしょうし」
……あれ?
特に何か思惑がある風でもなく、そう言って、さっさと自身の馬から荷物を下ろす。
木陰に敷物が敷かれ、俺たちはそこに腰を下ろした。とても涼しくて心地よい木陰だなと、なんとなく思う。
「ハイン、ここへ何をしに来たんだ?」
「は? 遠出ですが」
「……いや、そうだけど。ここを選んだ理由は?」
「見るからに心地良い感じだからですよ」
……そ、それだけ?
ハインと二人で、一旦馬を水辺まで連れて行き、放す。
慣らされているから、そう遠くへ行きはしない。口笛の合図で戻ってくるだろうから、好きにさせる。
ほどほど距離を取ったし、サヤにも会話は聞こえないだろうと思ったから、ハインの思惑を確認することにした。
「……なあ、本当に、ただの遠出?」
「そうですよ。……まあ、拠点候補の一つにどうかとは思いましたが、それだけです。
あと、サヤが草原を見たことがないと言っていたので」
「草原を見たことがない⁉︎」
「らしいですよ。
そもそも山や森ばかりの島国らしく、更にひらけた場所には小さな隙間まで家や道が密集しているらしいです」
どれだけごっちゃりしてるんだろう……。
途方もない風景すぎて、曖昧にしか想像できない。王都みたいなのが、みっしり敷き詰まってる感じか?……いやいや、そんなに人が密集してたら、食料とかどうするんだ……畑とかが無ければ困るんだから、ある筈だし。
「ここは道もありませんし、視界も良好です。兇手に狙われる心配をする必要もないでしょうから、暫くここでくつろげば良いのでは?
サヤにとっては、この世界に来て初めての……何もしなくて良い時間でしょう。
レイシール様に任せますから、労ってやってはどうです。
荷物番がてら、私は馬の世話でもしておきますので」
水を飲む馬に視線を落としたまま、そんな風に言われた。
ああ……サヤを、休ませてやりに来たのか。そして多分、俺のことも……。
道もない場所だ、人はまず通らないし、通れば遠目からでも見えるだろう。
俺たちにとってはさして珍しくもない風景だけれど、サヤにとっては新鮮なものであるようだし、きっと楽しめると考えたんだな……。
人の目など気にせず、ただの一人になって、休めば良い。そう言ってくれているのだ。
「……ありがとう」
不器用だけど、ちゃんと優しい。
ハインはこんな奴だ。だから好きなんだよなと、実感する。
嫌味ばかりだし、目つきも口も悪い。だけど本当は、誰よりも優しいのだ。さんざん傷付けられたから、傷付くのが怖くて、硬い棘のついた殻を纏っているだけで……。
っと……⁉︎
絹を裂くような、悲鳴が聞こえた。
咄嗟に振り返る。大きく枝を伸ばす木の下、敷物の端の方で、サヤが何故か、小さくうずくまっているのが見え、血の気が引いた。
「サヤ⁉︎」
全力で走り、戻る。俺は腰帯の小刀を確認し、ハインは鞘を左手に握り締める。
視線を走らすが、不穏な気配も、人影も察知できない。こんな場所にまで、兇手か⁉︎ サヤ……っ。
たいした距離ではない筈なのに、酷く遠く感じた。焦りばかりが先走る。
結局、敵影は発見できず、サヤの元に到着し、抱き起こすが、サヤは、震えていた。恐怖に顔を歪めて。
「サヤ!」
「っ、やぁっ、とって、いやああああぁぁっ⁉︎」
恐慌にかられた様子で、俺にしがみついて叫ぶ。幻覚? 一体何をされた⁉︎
衣服に血の染みなどを探すが、見える範囲には無い。だがサヤは震えている……どうすれば良いんだ⁉︎ ただサヤを搔き抱くしかできず、焦燥にかられる。
外傷を探し、サヤの肌が晒された部分を手で撫で確認するが、何も見つからず、焦ってとにかく上着を脱がそうと手を掛け、
「レイシール様、これでは?」
何か気の抜けた声。
藁にもすがる思いでそちらに視線をやると、ハインが虚空を指差している。
……いや違う。木から垂れ下がる……虫?
そこら中に、垂れ下がっていた。
毛虫が。
…………。
改めてサヤを見下ろす。ああ、這っているな、毛虫。毒も何もない類のものであったから、全く意識していなかった。
そうだ。サヤは、虫が苦手だった。
「どうやら虫の巣窟であったようですね。
泉の側に、場所を移しますか」
「……そうだな」
そう言いつつ、木の下から逃げ、せっせとサヤの服や髪の中を這う毛虫を、二人で取って投げ捨てるを繰り返した。
それがひと段落してから、俺はサヤを泉まで連れて行き、濡らした手拭いで、身体や顔を拭いてやる。化粧は落ちてしまうが、この際仕方がない。
その間にハインは荷物や敷物を、何往復かして運んで来てくれた。
新たに敷き直した敷物の上で、サヤの髪の毛の中や上着の下を、もう一度丹念に確認し、紛れ込んでいた小さな二匹を泉に放り捨て、違和感が残る場所がないかを確認する。
「わ、わからへん。まだなんか、ついとらへん?ほんまにおらん?」
「うん、もういない」
「不安なら、服を泉で濯ぎますか?」
相当な恐怖であった様子で、ずっと俺にしがみついたまま離れない。
小さな子供みたいに怯えるサヤを、しょうがなくそのまま、抱きしめていた。
近衛の方々にまで、相当な腕前と認められるサヤが、毛虫でこうも取り乱す。
この姿をあの方々が見たら、なんて思うんだろう。
「流石に木陰ではないと、少々暑いですね……。泉に飛び込みたくなります」
「駄目に決まってるだろ。帰りどうする気だ」
「それもそうですね。虫のいない木陰でも探して来ます」
そう言ったハインが立ち上がり、泉を迂回していく。対岸の木立が乱立している辺りを見にいくつもりなのだろう。
俺は腕の中のサヤを確認する。
めそめそと半泣き状態だ。髪を括っていないからか、表情のせいか、いつもより随分と幼く見える……。
「……肝を冷やした……」
ついそんな小言を零してしまった。
「サヤを、失うのかと思った……。ほんと、怖かったんだぞ」
「か、かんにん……せやけどなっ、あんなん誰かて悲鳴あげるで⁉︎
木陰で涼しいし、変な音とかなんもせえへんし、気が緩むやん⁉︎
そしたら首の辺りが痒うなって、手をやったら何かブニュって……払ったらアレが落ちて来て……しかも、よう見たらそこら中に⁉︎」
話してて思い出したのか、見事な鳥肌を立てて、俺に必死で身を寄せてくる。
その姿が可愛すぎて、口元が緩んでくるのを気合いで我慢した。怖がってるのを笑っちゃ駄目だ……耐えろ俺。
「二人が毛虫、指で摘んで放り捨てとるの、唖然とした。
いや、助かったけど……平気で触るんやもん……」
「そりゃ、毒もない無害なやつだから、怖がる部分無いよ?」
「あるやろ⁉︎ ぶにゅって! しかも、わさぁってっ⁉︎」
「よく見れば可愛いと思うんだけど」
「よく見たないし! その感覚だけは、絶対に、理解できひん自信ある!」
そこが限界だった。吹き出してしまう。
腹筋が痛くなるくらい笑って、涙まで滲んでしまった。
だって、サヤが本気で怖がってる。剣や槍を構えた男たちを前にしても、全くひるまなかった娘が……って思ったら、もう、その落差がさ……っ。
ふと気付くと、サヤが何故か真っ赤になって固まっている。
「どうした?」
「……これかっ! って、思うて……」
これ?
なんとか笑いを引っ込めてサヤを見ると、今度は視線を逸らされてしまった。だけど腕の中だ。表情全部が筒抜けで、俺の腕の中におさまっているサヤが、瞳を潤ませて、口元を両手で隠し、耳まで赤くした姿を、じっくりと見ることになる。
「やっと、初めて、ちゃんと見た」
「何を?」
「レイが、顔作らんと笑うとこ」
「…………」
そう言われて我にかえる。
更にサヤの瞳から雫が頬を伝うものだから、慌てた。
「ごめんっ。笑って悪かった!」
「ううん、もっと笑うてくれた方がええ。大丈夫、嬉しいだけや……」
そう言って微笑むものだから……。
一層力を込めて、サヤを抱きしめて、その表情を視界から隠した。
見ていたら、決心が揺らぐ……そう思ったのだ。
サヤに演技の笑顔を向けられた時、俺は凄く傷付いた。
だけど当の俺は、ずっとサヤに、そんな作り物の顔を……仮面の顔を、見せていたのだ……。
凄く、申し訳ないことをしていた……。
「……悪かったよ……。別に、サヤに感情を偽ってるつもりは無かったんだ。
サヤが気持ち悪い思いをしたらいけないと思って……女性として見られるのが嫌だって、分かってるから、余計に気になって……」
俺はずっとサヤを、女性としてしか、見れていなかったから……。
「分かっとる。私に気を使うて、そうしてくれてはるんやろうなって、思うてた」
胸に寄りかかるサヤが、そう言ってクスリと笑った。
「レイは、気ぃ使いやもんね」
「……そんなつもりは無いんだけどな……」
「レイは、いつも周りの雰囲気を探っとる。
私の国ではそういうの、空気を読むって、表現する。
それが、レイの処世術やったんやろうなって、分かる」
サヤの指摘に、少々バツの悪い思いをした。
言うなれば……貴族社会全体が、まさしくそういう生き方をする場だ。
力のある者は気を使わせる側に回れるが、そんなのはほんの一握り。
上にはおもねり、下には傲慢になる。そんな社会だ。
俺は当然、その最下層に身を置いている。
だから、ひたすら……人の機微を探り続けなければ、生きてはいけない。
「せやけど、これからは、もうちょっとだけ……作らん顔を、見せてほしい。
恋人やもん。本音を言うたらええし、私も言う。
レイは、知られたくないことでも、私にならええって、言うたやろ?
それをしよう。
私も……これからはレイに、もっとそういうの、言うようにする」
これからは……。
その言葉が胸に痛い。
それが本心サヤの望むことであるならば嬉しかったろう。
だけど彼女は……多分、何か目的があって、こうしてる。
程なくするとハインが戻った。
「無理ですね。そこら中にいます。
人の踏み込まない場所となれば、致し方ないのでしょうね」
虫除け香を持って来ればよかったですねとハイン。
通常貴族は常に持ち歩いているのだろうが、俺は必要としていなかった為気にも止めていなかったのだ。
「仕方がありません、弁当がこの日差しで傷む前に、さっさと食べてしまいましょう。
もうそろそろ、昼の頃合いですし」
ハインの提案に、内心では暗く落ち込みつつ、にこやかに同意しておいた。
膝の上のサヤが離れることに、安堵と不安を同時に感じつつ、昼食となった。




